小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

日本民族国家の形成と天皇御存在の意義  3

2012年06月30日 15時50分06秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載のつづきです。

明治以来、現代まで、ものが中心の文化となり、時代が進むほど進歩するという進歩史観が、今の社会を歪めているという話のようです。

 

 

 

 
 
 
―時代は新しい程よく、世の中は先に行く程よくなるという素朴な盲
信が生んだ歪み!物だけが文化だという歪んだものの考え方は必
ずしも新しいことでなく、信長の頃からもあった―
 
戸田  今、村松さんから、今日の日本で憂えなければいけない四つの癌にあたるものをお指摘いただいたんですが、それらが全都相互に作用しあっていて、その結果、 それこそ病肓膏(やまいこうこう)に入るの感じになっているのが今の日本だと考えられます。そのまず第一が、「正しい文化概念の喪失」、「誤った文化概念 の流布」ということでありました。これは明治時代に伝統的な文化観が失われて、文化概念がヨオロッパ化したからであり、戦後はアメリカ化したからであると みられます。そういった一種の西欧化、近代化ですね、執拗に日本が西欧化、近代化を追いかけてきたところに誤った文化観が出てきている、そうみて来ると明 治以降の日本人の文化のとらえ方には、一貫しているものがあるんじゃな
いかと思うんですが。
 
村松  そう、近代信仰ですね。時代というのは新しいほどいいんだという信仰。これは福田さんの方が御専門だと思いますが、そんなに古いものじゃなくて十八世紀以 降の所産ですね。十七世紀にはまだ、古いのと新しいのとどっちがいいかといって、フランスじゃ大論争をやっています。十八世紀の末以後、進歩信仰、先へ行 くほど世の中はよくなるんだという信仰が一般化した。ちょうどその進歩信仰が盛んな時代に日本はヨオロッパに窓を開いたので、日本人ほそれにもろに飛びつ いてしまった。

飛びつく理由はまさにあったわけでして、当時あまりにも技術較差が大きすぎたからです。日本が鎖国していた二百四十年は、不幸なことにヨオ ロッパでは産業革命の時代です。十六世紀にポルトガル人が日本に来た時には、それほどむこうに劣ってはいなかったんですが、もう十九世紀になりますと、大 変な差が出てきた。日本としては何とかして技術の差を縮めないことには、植民地にされる。だから富国強兵政策をとったのですし、これは私、大変正しい政策 だったと思います。あの政策・をとらなきゃ、今の日本はないですからね、とうに列強に分割されています。

その意味で富国強兵は正しかったのですが、それが 文化観に対するゆがみをもたらした。船を自分で造ること、鉄道を敷くことが、欧米に追いつくことだった。成功するたびに日本人は非常に喜んできたのです ね。やっと欧米に追いついたといって。それを約一世紀繰り返してきている間に、物だけが文化だという歪んだものの考え方が定着してしまった。これはもう明 治以来今日に到るまで変らないわけで、明治時代にとり入れたものだって、別にヨオロツパの精神なんていうものじゃない。技術でしょ。第二次大戦後も、アメ リカの物量、豊かさに接して目をまわした。「物」中心の文化観が日本に、ほとんど癒し難いほどに強くなってしまったという順序じゃないかと思います。この頃は、「"物〃じゃない、"心〃だ」なんて言いだしてますけれども、現実にはそうじゃないんで、物質主義が日本人を支配している。
 
福田 それは、そのとおりですね。今の村松さんのお話のとおりで、つい数年前は"物じゃない、心だ"とか、或いはみんな"生きがい"を求めているとか、今の繁栄社会で空虚感を感じてきているとか、もっともらしいことがいわれましたね、そのとき僕はそんなことは、嘘っぱちだ、空虚感なんか感じていない、といったんですけど。それが証拠に、石油ショックで生きがい論というのが吹っ飛んじゃったですね。だから実際は生きがいは石油にあったんだということを証明したわけです。これは日本の"物〃の根元ですから。本当におっしゃる通り、"物〃或いは現実的な豊かさという以外に生きがいはなかったんですよ。今でも大部分はそうですね。私は一般論しかいいませんから、少数の例外者を相手にいってもしようがないから、一般的にそういう状態になっているということは、僕も同感です。

そ の前に明治以前にはそうじゃなかったかというと、それは日本の民族性にもあるんじゃないかと思うんですよ。私は断定はしませんが、これは手近の例でいう と、西洋の輸入ということは、もう、信長から始まってますよ。やっぱり必要なのは鉄砲で、群雄割拠の中での信長の寓国強丘策ですよ。
 
種 子ガ島は手に入れる、大事であると。キリシタンは、別に大したことはないと思ってたんですけれど、後で禁制になっちゃうでしょう。これは信長じゃないです けれど。別に私はキリシタンはいいという意味でいうんじゃないですが。それから密輸というものが商人の手によって行なわれるけれど、使っている品物は、便 利な物、豊かなもの、ものめずらしい物とか、とにかく、さっきの文化住宅と同じ概念でみんな入れてきた。文化何々というとき、その"文化"というのは西洋ふうで便利だということしか意味してない。


 
―この世のものの有効性を重くみる点が世俗化をうながした、。しか
し、昔は精神を入れる努力が強く立派にあった。例えば鎌倉時代に
は非常に新鮮な地上の道徳観念として「義」が生かされていた―
 
 
福田  日本では何でも世俗化するということですね。これは宗教でも道徳でもすべて世俗化するということが、日本民族の民族性としてあるのではないかと思う。もっ と古くさかのぼれば古代国家において、かなり精神的に仏教でも儒教でも入れてきた。ところがそれは長つづきはしないんで、平安朝になると世俗化してくる。 シナでその時代の日本に比べて進んでいるものを日本に入れてくると、例えば宗教の場合、宗教そのものは世俗化してくる。

だから鎌倉で、一つの宗教改革が起 るんだと思うのですが。それじゃ、それで落ち着くかというと、後でまた世俗化されてしまう。だから本当に心の救いという意味、魂の救いという意味の宗教は いつのまにか、御利益の為のものと、ただ形ばかりの神杜仏閣参りの為のものになって風俗化してくる、葬式に必要な仏教、結婚式に必要な神道というように世 俗化する。それというのは、どうも日本人の中にそうさせるものがある。

アメリカの文化的特徴としてプラグマテイズム(実用主義)と いうが、どうも日本人の方が非常にプラグマティズムではないのか。それは必ずしも悪い面とは申しませんけれども。そういう要素は深い民族性の中にあって、 それが明治のような時代になってくると、極端になって現われる。つまり先進国に追いつかなきゃならない危機感から。有用なものが鎖国時代と違って入ってく るということはあるけれども、しかし有用性という点では似てやしないかと、私は思うんですがね。
 
村松 大筋はそうでしようけれども、その福田さんの御意見に全部賛成しちゃうと、私の方が救われなくなっちゃう()ので、若干の異を唱えます。

シ ナ大陸からいろんなものが、朝鮮経由などで入ってくるわけですが、確かに仏教は日本に入ると、極端に世俗化して、日本化されて……日本化というのは要する に世俗化と似てますね。日本の仏教界の大部分は浄土宗、浄土真宗、それから日蓮宗と、日本でつくった宗派でして、各派の創始者はともかくとして、共通項は 極めて世俗的である。

南無阿弥陀仏だけを唱えていれば、南無妙法蓮華経だけを唱えていれば救われるという、おそろしく簡単な教えです。戒もだんだんなく なって、世俗的な宗教になっています。仏教の中の学問的形而上学的な都分は、日本に入るとどこかへ消えてしまう、わずかな都分が学問寺に残っている、とい う程度ですね。だから仏教は日本では完全に相貌を変えていると一般論的にはいってもいい位だろうと思います。若干の偉い人は別ですが。それはその通りです が、にもかかわらず、ともかく昔は、物だけじゃなく、思想を入れようと努力をしています。
 
例 えば、朱子学が鎌倉に入ってくる。そして、「太平記」で初めて「義」ということばが、無数にでてくる。『平家物語』ではまだ非常に少ないですね。重盛のと ころで、若干「義」が出てきますが、全般には少ないです。それが『太平記」で「義」だらけになっちゃう。あれは日本人にとって、非常に新鮮な地上の道徳 だったと思うのです。仏教は少なくとも日本ではあまり、地上の強力な道徳を与えてはくれなかったのですが、儒教がそのかわり地上の道徳体系として、急速に 拡まります。これは一例でして、精神的なものを取り入れようとする努力は、やはり私はあったと思うんです。

それから、確かに信長から江戸にかけては宗教そ のものの力が衰えてきた時代です。キリシタンの受容も、世俗的な、流行を追うような形で入っておりますが、あれだって入った当初は道徳的要求があったので しょう。さきほど申しました、儒教の「義」だけでは、天国とのつながりがわるい。死後のこ
とが儒教では論じられませんし、かといつて浄土信仰では、死後のことは世話してくれるけれど現世の道徳の方に基準がはっきりしていません。
 
キ リシタンの教えは、来世とか後生を助かるとか、仏教語をそのままとり入れている。そして現世の生き方は、イェズス会は儒教に似てきびしく規定しています。 ひとことでいえばキリシタンは、浄土信仰と儒教をワンセツトにしたような、貫徹した道徳体系としての新鮮さをもっていたのですね。
 
それがキリシタンがあんなに流行した大きな原因だつた、と思うのです。もちろんキリスト教徒を利用して鉄砲を買おうとしたり、一向一挨に対抗させようとしたとか、そういう世俗的な理由もあったにしても。あれほど拡がった背景には、精神的欲求も無視はできないのではないか。
 
それから江戸は、まさに世俗化の時代ですが、その世俗化の中でそれなりの美的な様式をつくり出しています。時 代が安定していたからできたんでしようけれど、とにかく美的な様式を作り上げるだけの力をもっていた。それから特に末期になると、武士道―昔は武士道とい うことばはなかったらしくて、士道といったらしいのですがー士道の傑作とでもいうべき人物を生んでいますね。「武士は食わねど高楊枝」というストィシズム(禁欲主義)は油がなくなったからといって大あわてするのとは、正反対の精神です。
 
例 えば、乃木大将という人は、一つの顕著な例だと思います。乃木さんは、戦争はあまり上手じゃなかったように思いますが、言葉もどれだけできたんだか。しか し彼は接触した外国の新聞記者達を非常に感動させているでしょう。武士道の生んだある種の型を自分に強制し、そのことによって、全く違ったものの考え方を する外国人達にも感動をあたえた。そういう人間像の原型を、江戸はつくり出していたのですね、世俗化の過程の中で。現代に、それがあるか、ということで す。
 
福田 それはそうですね、私のはあまりに巨視的にいったんで……。
 
 


極東国際軍事裁判(東京裁判)と日本国憲法

2012年06月28日 14時36分48秒 | 日本人と憲法

西村眞悟氏のホームページからの転載です。

前回の記事で少しマッカーサーの復讐心に満ちた性格について触れましたが、これに関して、西村眞悟氏が詳しく述べておられますので、転載しました。

占領軍の政策がどのような意図でなされたかということを知る上で、マッカーサーがどんな人間であり、どのような気持ちを日本に持っていたかを知るということは、現在の占領政策の影響下にある日本の歪みを知る上で大切なことだと思います。特に日本国憲法を過大に理想化して考える人々に、この憲法の正体をはっきりさせることが出来ると思います。

 

極東国際軍事裁判(東京裁判)と日本国憲法

 本時事通信が間遠になっているので、本年に入り、空いた時間に何に取り組んでいるかをお伝えする意味で、去る、二月二十一日、難波神社で行われた「大和心のつどひ」で話したことがらのなかから、以下、東京裁判と日本国憲法の関連について述べておきたい。

 我が国の戦後を考える場合、まず第一に念頭に置いておくべきことは、我が国を軍事占領した占領軍のトップである連合国最高司令官マッカーサーというやつが、非常に嫌な、歪な性格の人物だったということである。
 もともとマッカーサーは、卑劣な復讐心と自己正当化の衝動が非常に強いのだが、こういう性格の男が、我が国の第十四軍によってフィリピンのバターン半島に追い詰められ、昭和十七年四月、コレヒドール島から部下を見捨てて自分だけ命からがらオーストラリアに逃げた。
 これで、さらにどれだけ、性格が歪になるか。
 日本軍によって、軍人として世界に恥を晒すことになった
このマッカーサーが、こともあろうに、我が国を占領する連合国最高司令官になって昭和二十年九月、コレヒドール島から乗って逃げたB17、その名も「バターン号」に乗ってきて厚木に降り立ったのだ。

 このマッカーサーが、日本に来て為そうとしたことは、
「復讐を実行しつつアメリカは正義で日本は不義だと世界と日本人に刷り込むこと」である。
 その為に、彼が実施したのが東京裁判と他の多くの戦犯裁判だ。
 そこで、これらの裁判では、起訴状は連合国側つまりマッカーサー側が提出するのであるが、
日本側からもその起訴状を補強し裏付ける文書が必要だと彼とその幕僚(コミンテルンのフロント達)は考えた。
 そして、その為の文書として日本国憲法がつくられた。

 彼は自分が屈辱を受けたフィリピンの二人の将軍に対して、襲いかかるように復讐する
  かつて緒戦でシンガポールを陥落させたマレーの虎といわれた猛将の山下奉文大将は、フィリピンで投降したが、この山下大将に対して、マッカーサーは、日本 に来た翌月の昭和二十年十月二十九日に裁判を開始し、同十二月七日判決で翌昭和二十一年二月二十三日に軍服も着せずに絞首して殺している。

 次は、マッカーサーをコレヒドール島から追い出した昭和十七年の第十四軍司令官本間雅晴中将に対して、
昭和二十年十二月十九日に裁判を開始し、
翌二十一年二月十一日判決、
同四月三日午前0時五十三分死刑執行。
 この本間中将に対する判決日は紀元節二月十一日である。
 そして、死刑執行の日と時間は何か。
 四年前のその日、その時間、即ち、本間雅晴第十四軍司令官は、バターン半島に立て籠もって頑強に抵抗するマッカーサーを司令官とするアメリカ軍にたいし、昭和十七年四月三日午前0時五十三分、総攻撃を下命した。
 マッカーサーは、その日のその時刻に、本間雅晴中将を殺害したのだ。つまり、私怨を晴らした。
 私が、冒頭に、マッカーサーは実に嫌な奴だと書いた理由がお分かりいただけたと思う。
 それともう一つ、マッカーサーの癖が既に顕れている。
それは、日付けにこだわる、ということだ。本間裁判の判決日、死刑執行日がそれだ。

 この山下、本間両将軍が死刑になるなら、日本軍と戦ったアメリカ軍の全ての将軍も死刑でなければならない。アメリカ軍は日本の民間人を殺す目的で軍事行動をしていたからである(サイパン、沖縄はおろか東京、大阪、広島、長崎を見られよ)。
更に、ベトナム戦争におけるウェストモーランド統合幕僚長も間違いなく絞首刑だ。
  にもかかわらず、マッカーサーが後に書いた「回顧録」には、自分が行った裁判は完全に正義に基づくものだったと強弁している。特に、本間中将の妻が、東京 でマッカーサーに、「夫の助命嘆願をしているのではない、裁判記録に自ら目を通してほしい、そうすれば何を為すべきかお分かりいただけると信じている」と 願い出たことに関しても、よくもまあぬけぬけと嘘がつけるなあ、と思うほど誤魔化している。

 以上の通り、マッカーサーの、恨みのフィリピンにおける二人の日本軍の将軍に対する措置とその時の癖を述べた。
 このことを念頭に置いて、次の日付けを見ていただきたい。

 東京裁判に関して
 起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日)
 審理開始、同五月三日
 判決、同二十三年十一月十二日
 死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日)
 日本国憲法に関して
 公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日)
 施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日)

 フィリピンの本間中将裁判であれ、東京裁判であれ、精根尽きた敗戦後に日本国民が初めて迎える紀元節と天長節(天皇誕生日)にそれぞれ判決をなし審理を開始している。
 そして、連合国最高司令官司令部(SCAP)において、東京裁判と日本国憲法制定が、ばらばらに進行していたのではなく、両者は不可分のものとして同時並行させていたことは、日付けから見ても明らかである。
 東京裁判の審理開始の日から一周年の同じ日が、日本国憲法施行日とされている。
 さらに、その内容は、先に述べたように、東京裁判の起訴状を日本国憲法が補強し裏付ける関係に立つ。
日本国憲法の特に「前文」を読まれたし。
前文は、日本を戦前と戦後に分断し、戦前は「人類普遍の原理に反する」と宣言している。

 このことを更に裏付ける文書がある。
 それは、GHQの30項目にわたる検閲指針である。
 この検閲の根拠は、GHQの発した放送遵則と新聞遵則であるが、驚くべきはその遵則の内容だ。
 それは、冒頭、「連合国最高司令官(マッカーサー)は、日本に言論の自由を確立せんが為に・・・」とその目的を掲げ、第一として「報道は厳に真実に即する旨とすべし」と定めていることである。
 連合国最高司令官は、日本に言論の自由を確立するためと厳かに宣言しながら、日本の言論の自由を根絶やしにする完璧な検閲を密かに実施していたのだ。
 何度でも言うが、マッカーサーほど嫌な奴はいない。そして、彼に率いられた幕僚達、彼等の本国に帰ってからの「生き方」を知る必要がある。
 如何なる人間であったのかが分かるからである。鼻持ちならん奴であったことは推測できる。

 次に、この検閲指針を三十項目全て掲げておく。
 その理由は、未だに我が国の言論は、この検閲指針通りに自己規制しているからである。
 従って、今こそ、この検閲指針を熟読吟味する必要がある!
 
 そもそも、現在に至るまで、学校で、日本人が日本国憲法を書いたと教えているのは、この検閲指針が今も生きて機能しているからである。
安倍元総理が、菅直人のアホに質問されて、「宣戦の詔書」に祖父の岸信介国務大臣が副署したことは過ちであったと答弁してしまったのは、この検閲指針が未だに生きているからだ。
 以前私がテレビで、日本を何時までも朝から晩まで非難し続け、時に日の丸を焼いて気勢をあげる朝鮮人や韓国人を日本人は到底好きになれない、と当然のことを言っただけで、スタジオの皆から「レッドカード!」と非難されたのも、この検閲指針が生きているからだ。
 本稿の主題である東京裁判と日本国憲法の関連については、検閲指針の①、②、③、④を見られたし。
 語るに落ちるとはこのことである。
 まことに、無念ではないか。

 検閲指針
①連合国最高司令官司令部(SCAP)に対する批判、
②極東軍事裁判批判、
③SCAPが日本国憲法を起草したことに対する批判、
④検閲制度への言及、
⑤ 合衆国に対する批判、⑥ロシアに対する批判、⑦英国に対する批判、⑧朝鮮人に対する批判、⑨中国人に対する批判、⑩他の連合国に対する批判、⑪連合国一般 に対する批判、⑫満州における日本人の取り扱いに付いての批判、⑬連合国の戦前の政策に対する批判、⑭第三次世界大戦への言及、⑮ソ連対西側諸国の冷戦に 関する言及、⑯戦争擁護の宣伝、⑰神国日本の宣伝、⑱軍国主義の宣伝、⑲ナショナリズムの宣伝、⑳大東亜共栄圏の宣伝、21その他の宣伝、22戦争犯罪人 の正当性及び擁護、23占領軍兵士と日本女性の交際、24闇市の状況、25占領軍軍隊に対する批判、26飢餓の誇張、27暴力と不穏の行動の扇動、28虚 偽の報道、29SCAPまたは地方軍政部に対する不適切な言及、30解禁されていない報道の公表

 

 


自虐史観と占領政策

2012年06月28日 14時08分07秒 | 歴史

敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発信からの転載です。

故敬天愛人様のブログには、良い記事が多いですから、時々発掘して転載したいと思います。この記事は占領政策についてのものですが、占領軍の総司令官で会ったマッカーサーという人間がどういう人間であったかについては、彼が後に、日本の戦争は自衛戦争であったとか日本を弁護するような発言もしていることから、親日的な人間として、好意を持つ人もいますが、それは、彼が事実を知り、また昭和天皇の人柄に感化されたこともあって、多少そう言わざるをえない気持ちになったからでしょう。

しかし、厚木に降り立ったマッカーサーという人間が、本来復讐心をみなぎらせたいびつな人格の持ち主であったのは確かです。彼が日本に対して行った、復讐裁判及び占領憲法の押し付けの日程を見ると、彼が周到に日本国民への復讐のために選んだ日時で行われていることがわかります。

 東京裁判に関して
 起訴、昭和二十一年四月二十九日(天皇誕生日)
 審理開始、同五月三日
 判決、同二十三年十一月十二日
 死刑執行、同十二月二十三日(皇太子誕生日)


 日本国憲法に関して
 公布、昭和二十一年十一月三日(明治節、明治天皇誕生日)
 施行、同二十二年五月三日(東京裁判審理開始日)

 

東京裁判の死刑執行が当時皇太子であった今上陛下の誕生日であることは、マッカーサーがまさに、日本の未来を呪っているというほどの、復讐心を感じさせます。この死刑執行の翌日だったか、昭和天皇は、朝、真っ赤に泣きはらしたような眼をされていたといいます。西村眞悟氏は、さらに、この東京裁判と日本国憲法に関する日程も同時並行で不可分のものとして設定されたいると言われています。

また敬天愛人様が書きで書いておられるGHQの検閲基準の3にも

3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判

と書いてあるとおり、この憲法が現在の教育では民定憲法などと教えられていることが真っ赤なウソで、はっきり、占領軍が起草して押し付けた事実を、検閲で国民に隠していたことがわかります。この憲法もまた、復讐の一環であり、いわゆる平和憲法として人類の世界遺産だとか言っている人は、寝言もいい加減にして欲しいところです。



 今回は、今、日本人を蝕んでいる「自虐史観」の成り立ちのおさらいを日本青年会議所「近現代史検証報告書」を資料に記事にしたいと思います。

 

 まず、GHQの占領政策究極目標について米国国務省文書から
 
国務省文書には「対日占領の究極的目標は、非軍事化にある」と記録されている。しかし、一時的に武装解除しても、日本人の精神、日本人の哲学を排除しない限り、やがてアメリカの脅威になると考え、この武装解除を長期的に保証するため、民主化という美名の下、教育により日本人の精神の解体、日本人の哲学を粉砕する。これがGHQの目指した民主化であった。 
 その政策の根底となる計画が『ウオー・ギルド・インフォメーション・プログラム』(日本人洗脳計画)です。 
 この計画は「東京裁判が倫理的に正当であり、侵略戦争を遂行した日本国民の責任を明確にし、原爆を正当化すること。そして強靭な日本国民の精神を徹底的 に破壊し、戦争についての罪悪感、戦争贖罪(ウオー・ギルド)意識を日本人の心に植え付けるための洗脳目的の情報宣伝計画だったのです。
 具体的には、検閲、学校教育、映画上映、音楽、新聞報道・書籍・ラジオ放送などあらゆるメディアも独占し巧みに利用することを行なったのです。

 

 GHQは検閲方法として、法的には「新聞と言論の自由に関する新措置」を発令し、マスメディアを厳しく取り締まったのですが、国民には検閲を受けていることは知らされませんでした。
 
<占領軍の検閲基準>  1.占領軍総司令部(連合国軍最高司令官)の批判  2.東京裁判(極東国際軍事裁判)の批判  3.占領軍総司令部が日本国憲法を起草した事実への批判  4.検閲への言及  5.米国の批判  6.ソ連の批判  7.英国の批判  8.朝鮮人の批判  9.中国の批判  10.その他の連合国の批判  11.連合国の全般的批判  12.満州での日本人処遇への批判  13.連合国の戦前の政策への批判  14.第三次世界大戦への論評  15.ソ連と西側諸国との対立への論評  16.戦争弁護への宣伝  17.神国日本の宣伝  18.軍国主義の宣伝  19.民族主義(国家主義)の宣伝  20.大東亜に関する宣伝  21.その他の宣伝  22.戦争犯罪人の正当化または弁護  23.占領軍将兵の占領地女性との懇交  24.ヤミ市場の取引  25.占領軍の批判  26.飢餓状態の誇張  27.暴力行為と不穏状態の誘導  28.虚偽の陳述  29.占領軍総司令部(またはその地方支部)への言及  30.時期尚早の発表
 具体的には、GHQ統治期間中には「大東亜戦争」は「太平洋戦争」へ言い換えさせられ、「神国」・「国家」・「我が国」・「国民的」・「愛国心」・国旗 日の丸・国歌君が代・「八紘一宇」・「大君」・「吉田松陰」・「乃木希典将軍」等々、日本人の精神の高揚につながると目されるものは悉く排除されたのであ ります。

 

 「起立」・「礼」という号令も禁止されたことをみても、『日本人が団結した時の凄まじさを、アメリカは如何に恐れ ていたか』を表わす事例であり、また、日本人の誇りを持たせないようにして、再びアメリカに刃向かうことのない弱い国にしようという遠大な計画でもあった ようです。

 

 そして日本の「3大国体破壊政策」として「神道指令」天皇陛下の「人間宣言」「教育勅語の廃止」を行なったのであります。

 

 「天皇陛下の人間宣言」は今までは、日本側が自主的に採った政策であるとされていましたが、明星大学高橋史朗教授 がアメリカで発見した公文書により、「神道指令」の破壊と「人間宣言」がセットで出さなければ目的の効果は得られないとしてアメリカの強要であったことも 判明しています。

 

 上記の「検閲基準事項」を見ても、如何にがんじがらめの検閲を受け、真実は全く知らされず、捏造・歪曲の温床としてその後のマスコミの自主規制とやらにまで結びついていったのかもと想像できると思います。

 

 今現在でも、マスコミは上記項目の相当な部分に自主規制を入れております。
 今の規制事項で上記に含まれていないのは、「創価学会・公明党への批判」位です。

 

 ここで大きなポイントになるのは、表面的には「民主化」を装いながら裏では国民には「検閲」の事実を知らせずに言論統制を行い、国民の洗脳化を行なっていたことなのです。
 また、これにマスコミも加担してきた事実も含めて、 次回は、この「洗脳化」の仕上げとも言うべき、新聞に強制的に掲載させ「自虐史観」を植え付けさせるためのバイブルとなったGHQ捏造・歪曲の自作自演編纂史である『太平洋戦争史』について記事にさせていただきます。

 

      

転載元 転載元: 敬天愛人(東北の片田舎から憂国の発


オスプレイは本当に危険なのか。支那に呼応するように左翼の基地反対派が活動しています。

2012年06月27日 13時23分43秒 | 防衛問題

 さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。

オスプレイはアメリカ軍に配備されて以来、今年までに6回事故が起きているようです。しかし最初の頃の二回は訓練中の事故であり、この機の操作はかなり難しいようです。ヘリコプターのように垂直に離陸して、その後にプロペラ部分を水平に倒して前進するシステムなので、かなり操作に熟練するのが大変らしいです。

しかし、軍事的には、非常に優れた性能であり、決して欠陥機とは言えないのだそうです。現にアメリカ軍はこの機の安全性には自信をもっており、オバマ大統領が就任した直後に、この機に乗っているといいます。これはアメリカ軍のこの機の性能への信頼の現れだそうです。

沖縄と台湾との間はやく700Kmですが、この機の行動半径は700KMであり、もし台湾有事の際は、台湾に駆けつけてミッションを終えて、沖縄に帰るくらいの余裕があるそうです。さらに、近年尖閣諸島の周りには中国海軍の出没が激しいですが、もしも中国が尖閣諸島を取りに来るとすれば、福建省の空軍基地から発して、ヘリコプターで来なくてはいけませんが、それには一時間以上かかりますが、これを察知してすぐに米軍がオスプレイで駆けつければ、中国軍よりも早くいけるのです。米軍が上陸すれば、中国軍は多分あきらめざるを得ません。尖閣諸島にとっては、オスプレイは力強い守り手となります。

さらに辺境の島の与那国に住む人々も、中国海軍や偽装漁船の出没には、戦々恐々とした気持ちで、漁業者も安心して漁にいけない状態になっていますが、この島には警官二人がいるだけです。そんな島民にも、有事の際にすぐ駆けつけてくれるオスプレイの配備は、ほんとに心強く感じられるはずです。基地反対と唱える人々、さらに本土から動員されて集会に集まる人々、そんな人々と国境最前線に暮らす漁民の気持ちには大きな温度差があることを知って頂きたいと思います。

 

 

 
 
 
・・・・・・
オスプレイの配備反対がニュースになっていますが、危険ばかりを報道していてよくわからない国民が多いのではないでしょうか。危険や不安ばかりを煽る、というのは最近もどこかでありましたが、脱原発と同じ構図ではないでしょうか。
まずは下の動画ですが、国民が知るオスプレイの報道はこれです。
 
 
  
 
この集会はどうみても左翼集会であります。しかも学生を利用して言わせる手口などは反核、反戦、脱原発に同じ手法であります。危険ばかりを訴えて肝心のことが全く隠されています。
そこで、オスプレイについて隠されている核心の部分が理解できるよい動画があります。
 
 
 
この動画の主な内容は以下に書いておきます。
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「オスプレイは機体の性能が悪いから落ちているのだ。そんなのを配備して、また事故が起きたら普天間周辺で犠牲者が出る」、ということばかり強調されています。「オスプレイは欠陥機だ」といいますが、そんなに性能が悪いのでしょうか。
 
基地反対派は基本的に基地があること自体に反対なのですから、当然オスプレイの配備も反対します。いくらオスプレイが安全でも反対します。
 
オスプレイはヘリのように垂直に上昇し、その後プロペラが水平になり、飛行機のように進む、非常に画期的な飛行機ですが、その構造上、どうしても操作が難しいということで、開発当時から事故は多かったのは事実です。
アメリカでは2008年から実戦配備され、今までに4回ほど事故があり、そのうち2回は操作に慣れていない訓練中に起きています。今年になって2回立て続けに事故が起きたため、基地反対派が勢いがついたわけです。
 
しかし、防衛という観点からみると今の日本にはオスプレイは絶対に必要です。沖縄にオスプレイが配備されるとどうなるのか。
オスプレイの行動半径は700キロです。沖縄本島の基地から台湾まで約700キロあります。行動半径とはオスプレイが往復でき、しかもその場で作戦行動も出来ることをいいます。ですから台湾で何かあるとオスプレイで対応が出来るわけです。
それ以上に日本にとっては尖閣問題に関わるものなのです。沖縄本島の基地から尖閣までは約440キロですから、オスプレイで充分に尖閣を救いに行けるのです。ちなみに現在、支那は福建省に水門空軍基地を建設しています。この空軍基地から尖閣まで約370キロです。
オ スプレイの優れた面はヘリコプターのように使えるけれど、プロペラ機と同じ時速550キロのスピードが出せる。これはかつてのゼロ戦と同じスピードで飛べ るのです。尖閣には飛行場がありませんから、尖閣に上陸するにはヘリコプターで行くしかありません。支那にはもちろんオスプレイはありませんから支那側の ヘリで尖閣までは1時間以上はかかりますが、オスプレイは沖縄基地から1時間あれば充分行けるのです。尖閣が支那との取り合いになった場合には米軍が先に 尖閣を取りに行ける確率が高いので、オスプレイはまさに尖閣問題には救いの神であるのです。
今回、アメリカはオスプレイの配備を早めましたが、それは明らかに尖閣問題があるからです。
これに対して支那が神経をとがらせるのは当然であり、その支那に呼応するように左翼の基地反対派が活動しているのです。・・・
 
 
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石原都知事により尖閣買い取りに心ある国民から莫大な募金がなされております。
募金は支那への強いメッセージになっています。しかし募金だけでは尖閣を守ることは出来ません。
支那が先に尖閣を占領してしまうと、取り戻すのはかなりの困難が伴うでしょうし、今の日本ではほとんど不可能でありましょう。マスコミも原発と同じように、オスプレイ配備の意味を知らせず危険ばかりを国民に植え付けています。気をつけたいものです。
 
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日本民族国家の形成と天皇御存在の意義  2

2012年06月26日 09時56分46秒 | 現代日本

サイタニのブログからの転載のつづきです。

現在の日本社会の崩壊の原因が語られています。村松剛氏の分析を聞いていると、現代社会の混乱が当たり前のように思えてきます。この頃から、もっとひどくなった現在も、流れの中で当然のごとくに出てきた現象のように思えますね。そして、これらが、明治の文明開化の頃から既に根ざしていた問題だったことも、かいま見えます。

 

 
―人間の生き方の総体が文化であるという、あたりまえの認識が足り
なくて技術の所産のみが文化だと……。それに元首も自衛権もない
憲法下の国家なんて世界には例がないということ
 
 
村松  どんなことが憂うべきかとおっしゃられましたが、うんざりすることが多くて…テレビや週刊誌ひとつをとっても異常でしょう。日本のいまの杜会は、いちいち 腹を立てていたらきりがない状態で、これが大衆杜会だと我漫するほかない。不愉快な部分が多くて、どうお答えしたらいいかわからないんですが、いま福田さ んがおっしゃったことの一つは、いわば文化論的な視野からの御発言ですね。文化の混乱、もっと極端にいってしまえば文化概念の喪失、これはもう明治の文明 開化以来始まっていますね。「文化の日」なんてふざけた日をつくる。じゃあ残りの三百六十四日は野蛮の日なのか……。()

そ れから文化鍋とか、文化住宅とか、文化釜とかね、人間の生き方の総体が文化だという極(ご)くあたりまえの認識が不足していて、技術の所産が、それだけが 文化だという偏った文化観が明治以来出てきた。それが敗戦によって一層拡大された、ということでしょう。

ただし、文化概念の喪失は、日本だけの現象じゃな いと私は思います。ヨオロッパをみても、アメリカをみても、ヨオロッパなんかずいぶんがんばって来ましたが、この頃はやはり崩壊してきた。アメリカはひど いですね、アメリカのひどさは歴史の浅さやピューリタニズムの崩壊と関係があって、こういうことは世界的な現象ではあるけれど、日本の場合にも明治以来揺 れが大きいですね。それがいまいろんなところに、増幅されて現われてきている。
 
文化概念の他にもう一つの間題は、これは敗戦によって生じたことで、国家理念の喪失でしょう。

国 家理念の喪失の危機は、文明開化の時代にすでにあったと思うのです。徳川幕府にかわる民族国家をつくろうとしたんだけれども、さあどうやってつくったらいいか分らない。一時は神道をもってきましたが、うまくゆかないということが分ったのが、明治五、六年ですね。そのあと混乱期がつづき、結局教育勅語をつ くった。あの啓蒙家の禰沢諭吉が歎くほど、明治のはじめは道徳が混乱していたのですね。

福沢諭吉という人は、本質的には十八世紀的な啓.蒙家です。その彼が精神の衰えを歎くというのはちょちと異様な事態だったと思うんです。そこになんとかかっこうをつけて、国家理念を形成してきたのですけれど、それが敗戦によって完膚なきまでにたたき壊されたわけです。大体、いまの憲法は国家としての体をなしていませんでしょう、元首がいない、自衛権もない憲法なんて、世界中にありゃしない。

 

 
―大衆に媚びるをよしとし、凡傭は偶像化される。情報は野放しで氾
濫する―
 
 
村松  もう一つ、三番目はイデオロギー戦争ですね。それが始まったのは大体昭和二十三年頃、米ソの冷戦がはげしくなってからです。日本人自体は自信を失って、腰 を抜かしている時期ですから、イデオロギー戦争はその空白に根をひろげました。教育を蝕み、マスコミを蝕み、裁判の世界にまで大幅に入りこんできました。
 
四 番目の問題は、民主主義の本質的に持っている弱点です。いくつもありますが、その一つは大衆に媚びるということですね、凡傭の偶像化。民主主義は平等を謳 (うた)うし多数決原理ですから、多数決になればさっき福田さんが御指摘になったように、一番低い層に焦点を合わせざるをえない。それを否定すれば、差別 がいけないということになる。それから例えば情報の過多ですね。

独裁国は、民衆は愚かであるという前提に立っている。ヒトラーはそれを公言していました し、毛沢東だってスターリンだって公言はしないまでもそうでしょう。民衆は愚かである、従っていつ、「反動」に利用されるかわからない。だから情報は管理 し、国外のことは知らせない。秘密警察で監視する、という極めて明快な立場です。
 
と ころが、民主主義杜会は「民衆は賢い」という仮説の上に立っているんですね。だからほったらかしといっても、唄歌いのテレビ・タレントをまさか参議院議員 にはしないだろう、それほど愚かやないだろうというのが前提です。だから情報にも管理がなく無限に入ってくる。刺激は刺激を呼んでセンセイショナリズムは つよくなり片方ではイデオロギー操作もある。情報公害です。はじめから民主主義はそういう弱点を持っているのですが、これも大衆杜会化技術杜会化でますま す増幅されてゆく。

「ア メリカの民主主義』を書いたトツクヴィルが、民主主義の世の中になると責任感を持った貴族がなくなって、本当に愛国心のあるやつは民主主義を敵視し、卑し い欲望が正義の名においてむき出しになるだろう、といっています。ゴネドクの世の中に。彼は民主主義の支持者なんですが、予言しています。百四十年前の本 に書かれていることが今日、驚くほど極端な形をとって現われている。要するに民主主義の弱点を、大衆杜会が拡大した。
 
これも世界中どこにでもあるけれど、日本の場合、特に極端のように見えます。そういう、文化概念の喪失、国家理念の喪失、イデオロギー戦争、そして民主主義の厭な部分が大衆杜会化に伴ってあらわれてくる。
 
とにかくどの面からみても絶望する要因が多すぎて、まあ絶望し切っていたらこの席へも出てはこないんですけど。()
 
                                                                  「昭和史の天皇・日本」より
(つづく)