私の尊敬するブログの先輩『チエンマイの原風景』のmanaさんが論文を書かれてブログで発表されています。長年タイに住まわれており、日本人としての愛国心と歴史への豊富な知識を持って常に記事を発信しておられました。最近は体調不良とのことでブログを長く休まれていたので、心配していましたが、この力強い論文を見てほんとに嬉しく思いました。少し長いですが、日本人として、同じ同胞国民に、言いたいことが尽くされている気がします。以下三部になる論文をすべて転載します。
日本人がどれだけ戦争中であっても、武士道を発揮して、敵に対してさえも、礼儀と思いやりを持って戦ったか、日本人が生き方に美学を持っていたことは、その生死の境に立つときにこそはっきりとそれが示されます。戦後の残虐非道の日本軍と教えられる歴史教育では隠されている真実やさまざまな美談を、日本人はもっと知らなくてはなりません。戦争賛美につながるという口実で、日本軍の良い話はすべて隠し、連合国側の悪い話をすべて隠したGHQの情報統制、『War Guilt Information Program(日本罪悪宣伝計画)』によって歴史は戦勝国の手で、作り変えられたことを知らねばなりません。
転載開始
本 年の初め、某ボランティア・グループより「外国から見た日本」と言う題での寄稿文を依頼されました。悩んだ末、期限前の数日間に一気に書き上げましたが、 次第に心の叫び、怒りが噴出し、ボランティア・グループとは全く関係のないものとなりました。当然怒りの返送とともに掲載不可の連絡を予想していました が、予想に反して受け入れられ、全文を機関誌に掲載され、配布先からも大変好評である、と言うお褒めの言葉まで頂き赤面しています。
以下の文章は、その投稿文に加筆した文章です。
ブログ世界から離れて久しいにも拘らず、今もご訪問頂いている皆様に、無事をお伝えする為にもと、甘い認識、生半可・浅薄な知識とのご批判を覚悟でここに掲載します。
異国にいて想う日本(1)
-日本人の心-
外 国に住んでいると、嫌でも「自分」が周りと異なっていることに気付かされます。その違いこそが「文化の違い」であり、「自分が日本人である」ことの証なの ですが、同時に「日本」について余りにも知らな過ぎる自分に気付き、愕然としたものです。
父母に育てられ、兄弟姉妹・親類縁者に支えられた自分がいて、家 族・親戚ができ、その家族・親戚は助け合いの地域社会の中で共通の文化・伝統・祭礼を受け継ぎ、育みながら悠久の歴史を形成してきました。
こうして形成さ れた、日本語という共通言語を有する無数の地域社会が自然発生的に各地に現れました。そうした自然発生的社会の集合体としての「国」となる為の「求心力」 「価値観」「権威」の源として皇室がある社会。
只管臣民の安寧を皇祖皇宗に祈り続けられる天皇陛下と、支える皇族、補佐する行政府・官吏、そして、日々の 平安に何の疑いも抱かず自然を怖れ、且つ敬い、八百万の神々を祀りながら、自らに与えられた勤めに全身全霊を持って懸命に取り組み、黙々と責務に励み、家 族の幸せの為に汗を流しながらも「一旦緩急あれば義勇公に奉じ」る責任感ある民、これが日本国であり、日本人である。今、私はそう思っています。
日 本人を父母として日本で生まれ、育ち、誰もがそうするようにごく自然に幼稚園、小学校、中学校、高校と、何の疑念をも抱くこともなく、日本の教育機関で学 んできた日本人は、方言という違いはあっても、どこの地方に行こうとも同じ日本語で話し、同じ食文化、同じ生活様式に出会います。
「同質」「同一民族」と いうことすら意識することなく、わずかな「表面上の違い」を「文化の違い」と感じ、旅行を楽しみます。しかし、その「違い」とは、風景であり、方言であ り、地元の特産品を使った食材、味付けと言う料理の細部の微妙な違いに過ぎないのかもしれません。
同じ日本人でありながらも顔形が違い、性格も異なり、趣 味も味の好みも一致しない場合が多々あるのと同じ様に、それは全て「日本」という大きな器の中の小さな「差異」であって、「文化の違い=価値観の違い」で はない筈です。
「大同小異」であり、その違いの中に地方の独自性を見出すとしても、「『みんな同じ』の中での微かな違い」であるが故に、地域を超えても 「阿吽の呼吸」が生まれ、「腹芸」が発達し、互いに無言の内に相手の気持ちを慮る「配慮」が生まれ、時にその「配慮」は他者に対する心からの「思い遣り」 「労わり」「気遣い」として現れます。
同質社会故の相手に対する警戒心の欠落は、その社会に於いてのみ無害であることにすら気付きません。同質社会、同一 言語・文化故の「以心伝心」から来る安心感、「相身互い」の共助意識、こうした「日本人の心」は、単に日本人に対してのみ発揮されるものでもないようで す。
今は使われなくなった言葉で表せば『八紘一宇』となるのでしょうか。日露戦争を避けられない状況が生まれた時、明治大帝は、
四方の海 みな同朋と思う世に など波風の立ち騒ぐらん
と その御心の苦しみを御製に託されました。同じく先帝陛下も又、対米開戦の是非を決する御前会議において、明治大帝のこの御製を詠んで御心をお示しになられ たといわれます。
日本人と他国人を区別しない「世界の人々はみな同朋」である、と言う考えから出てくる日本人の「思い遣り」に外国人は時には奇異と映りな がらも「日本人の心からの親切」に「安らぎ」を感じるのでしょう。初めて日本を訪れた外国人の多くが日本の虜になるのは、この「日本人の心」故ではないで しょうか。
一昨年の東北大震災時、生死の境を彷徨う被災者が、わずかな支援の物資を受け取る為に「整然」と「列」をなして受け取り、棚から落下したスー パーの商品を盗む人より、そんな中でもレジで支払いをする日本人を目に、どれほど多くの外国人が「日本人の心」に驚愕しながらも心打たれたでしょうか。
そ して、迫りくる自らの死を自覚しながらもなお、自らの「職務」を果たそうと、マイクを握りしめ、人々に避難勧告を繰り返した若い女性の姿は、日本人の心を すら揺さ振りました。
外国人は、自分たちの社会では考えられないそうした「日本人の心」に驚嘆します。しかしながら、日本人にとっては、そうした外国人の 「驚愕」こそが「奇異」に感じられました。
自らの命よりも大切なものの為に敢然と死に立ち向かう「勇気」は彼女一人ではなく、多くの人が同じような「日本 の心」で尊い命を捧げました。10数年前にも、空自の熟練パイロットは、降下し続ける操縦不能になった練習機の操縦桿を握りしめ、自らの生存を諦め、民家 への墜落を避けることだけを考え、緊急脱出したのは、生存不可能な100mにもたない高度においてでした。その結果、民間人の死傷者はなく、犠牲者は二名 のパイロットだけでした。
「人の命は地球よりも重い」が故に、「公」の為に自らの命を惜しまない「義勇」は、特攻烈士のみならず、戦後のあさま山荘人質事 件における機動隊員の雄姿にも見られます。義勇は、困っている人を助け、自分の物でない物をわが物としない日本人の「道徳心」共々、社会全体に染み渡る 「文化」として日本人の「血肉」となって民族を形成してきました。
あ の終戦直後の混乱期においても日本人は決して暴動を起こしてまで自己の欲求を満たすことがありませんでした。こうした日本人の「道徳心」は、時には「武士 道」とも呼ばれることがあります。
日清戦争より前、親善使節として来日したトルコ海軍艦艇がその帰途和歌山県沖で大時化にあって沈没しました。多数の死 者、行方不明者を出しましたが、遭難事故を知った地元串本の漁民は、総力を挙げて救出作業に励み、豊かではない自らの食料を分け、濡れた衣服に代わって着 替えの衣服を提供し、田中虎次郎は遭難者遺族の為の義捐金を集めてトルコに寄付しました。
明治大帝は、海軍艦艇の出動を命じ、遭難救助者70名近くが無事 トルコに帰りました。何らの見返りも求めない「親身」の救出・救援と明治大帝の「大御心」に対し、トルコは、はるか後年イラン・イラク戦争でイランに取り 残された日本人救出を断ったJALに代わり、救援機を飛ばし、自国民を陸路帰国させてまで、日本人200名余を空路救出しました。
当時の駐日大使は「エル トゥールル号の借りを返しただけ」として決して恩を売ることはありませんでした。百年前の「日本の心」が遥かな後年日本国にも見捨てられた海外同胞を救っ たのです。
第一次世界大戦時には、ドイツ人捕虜収容所となった徳島の坂東収容所における住民の捕虜に対する温かい対応と交流が今も語り伝えられています。 そして、そこでドイツ軍兵士より送られた「第九」合唱は、今ではクリスマスを表す代名詞のように日本全国に広がっています。
第一次大戦後の戦後世界秩序構 築の為の国際連盟創設準備会議において「人種平等」を世界に先駆けて人類史上初めて訴えたのは日本代表牧野伸顕であり、それを潰したのは米国であり、英国 でした。
大東亜戦争においては、ジャワ沖で撃沈された英国軍艦乗組員を戦闘中にも拘らず全力で救出作業に当たり、乗組員の倍もの敵兵を収容した駆逐艦「い かずち」艦長工藤俊作少佐は、その「義挙」を誰に誇ることもなく世を去りました。
また、ナチス・ドイツの魔手からユダヤ民族殲滅の危機を打破する為、任地 を離れる車上でも査証を発給し続け、6、000余名の命を救い、ユダヤ人社会から「恩人」として今も語り継がれる当時のリトアニア駐在領事杉原知畝は、今 では日本人でも知る人が多いでしょう。
そうした彼の行動を支える方針作成に尽力し、「ユダヤ民族施策要綱」「ユダヤ人対策要綱」作成に奔走し、ユダヤ人を 保護し、ユダヤ民族に安住の地を与えるべきだと奔走した大日本帝国軍人がいます。
陸軍少将樋口季一郎、陸軍大佐安江仙弘は、満州国外交部に対して極寒のソ 連から満州に流れてくるユダヤ人に対して門戸を開放させ、ユダヤ人の満州流入に対するドイツの強硬な抗議を跳ね返したのは、時の関東軍参謀長東条英機中将 と言われています。
「五族協和」の理想郷を目指して建国された満州国は、それまでの匪賊の横暴もなく、治安が維持された平安な日々の中で多数の支那人、朝 鮮人が流入して来ました。
また、米軍との死闘を前にパラオ島民の安全を守る為、心を鬼にして島民代表を「罵倒」して島から追い出したのは日本軍司令官中川 州男大佐でした。為に住民に犠牲者が出ることがなく、戦後、島に帰ってきた島民は、大佐の「思い遣り」を知りました。
パラオ共和国は、こうした日本軍人の 「武士道」「思い遣り」「労わり」に対する感謝の気持ちを込めて、国旗作成に際して日の丸に似せてデザインしました。
それよりはるか前、風土病蔓延り、文 明から遠く離れていた台湾の衛生状態を改善した日本は、更に不可能と思われていた農業開発を可能ならしめる為に巨大ダムを建設しました。そのダム建設に心 血を注いだ日本人技師八田與一は今も台湾で語り継がれ、像が残っています。
また、反日と言われる朝鮮半島にあっても、教育制度を整えた日本は、民族教育と してハングルでの教育を初め、社会インフラを整備し、巨大ダムは電力を供給して近代産業の勃興を可能にしました。張り巡らされた鉄道網は物資の移動を盛ん にし、戦後は、そうした膨大な資産の全てを朝鮮に残してきました。
戦後ソ連軍によって抑留された日本軍兵士のうち、ウズベキスタンに連れて行かれた永田行 夫陸軍大尉率いる450人が建設した「ナヴォイ劇場」は、煉瓦造りのビザンチン様式ですが、地震にも耐え、今もそれは同国一美しいとされています。
また、 西岡京治はその生涯をブータン王国の農業開発に捧げました。今も残る台湾、朝鮮半島、満州における日本統治を示す近代的建物・・・
我々 日本人は、自らの「日本の心」「思い遣り」「労わり」を決して「吹聴」することなく、「当然」のこととして粛々と「務め」を果たしてきました。
先人が残し た「日本の心」「日本の誇り」は、戦後日本社会の中で忘れ去られ、教育現場から消し去られ、「命」は紙ほどの重さもなくなり、全身に流れる血の中の「日本 人としての誇り」は、誰にも顧みられず、近代のアジア解放の歴史はなかったかのように時間の中に埋もれ、近代日本の歴史を否定する風潮の中で見捨てられた ままでいいのでしょうか。
天かけり 昇り行くらん 魂は 君が代千代に 護るなるべし
土居原賢二陸軍大将
天地も 人もうらみず ひとすじに 無畏を念じて 安らけく逝く
松井石根陸軍大将
次回に続く