小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

家庭を見れば国家が見える

2011年02月28日 15時43分48秒 | 現代日本
yahooブログ「一隅を照らす寺子屋」よりの記事をご紹介します。
今の日本の家庭教育がどのような状況にあるか。そして家庭こそが、国家を発展させる基礎であり、国家の人材は、家庭から生まれてくるのだということが、実によくわかるお話です。私自身反省することの多い記事です。


転載開始

「修身・斉家・治国・平天下」という言葉をご存知でしょうか?

これは古代中国の四書五経のひとつ「大学」という教えのなかに出てくる、

「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、(平天下)
 先ずその国を治む。                      (治国)
 その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。(斉家)
 その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。    (修身)
 その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。    (正心)    」

という内容を簡潔にまとめたものです。


現代風に言うならば、

良い国(地域)をつくるためには、先ずは、各家庭をよくしなければならない。

各家庭をよくするためには、先ずは、大人がりっぱな人間にならなければならない。

りっぱな人間になるためには、先ずは、その心を正しくしなければならない。

ということです。


結局、良い国をつくるには、

一人一人が心を正しくして、りっぱな人間になるより他に道はない、

その重要なバロメーターが「家庭」ということだと思います。



しかし、安岡正篤先生が、こんなことを書いて憂えておられました。


春早々あまり好い話ではないが、

狂歌好きの中学先生が

生徒に狂歌を教えて各自に作らせてみたものを

一冊の単行本にして世に出したことがある。


題して曰く、
「親を見りゃボクの将来知れたもの。」

その中にこんなのがある。


人なみに 叱(しか)られてみたい時もある
 俺の親爺(おやじ)は 俺がこわいか(中二男)

家庭とは 父きびしくて母やさし
 それで好いのだ うちは違うが(中二男)

心から すがりつこうとする時に
 いつも父さん逃げてしまうよ(中一女)

あんな人選んじゃだめよ あなたはネ
 体験がにじむ 母の口癖   (中一女)

哀しさは 勤めに出てのたまにする
 母の話題の そのくだらなさ (中三男)

みんなだめ 顔とげとげで いらいらで
 他人みたいな わが家一族  (中三女)


どれも痛いほど現実をつかんでおる。
道は近きに在りの痛切な一例ではないか。
              (安岡正篤 一日一言より)


我々大人にとっては、

職場と違って、家庭こそが自分の本性が出てしまう「人間性を映す真実の場」なのだと思います。


だから、本当は、家庭こそが「人間修行の場」とも言えるのですが、

そのような理解をしている日本人がどれほどいるでしょうか。


日本の教育改革を叫ぶ人は多いですが、実は、子供よりも大人の再教育こそが重要なのかもしれません。

自分の現状を省みても、大いに反省したいと思います。

転載終わり

 どうでしたでしょうか。それにしても、これは一部であるとは言え、これらの中学生の狂歌から垣間見える家庭の、なんだかちょっと寂しい親子の関係が、これが日本の国家を支えている家庭なのだと思うと、心配になりますね。そういう私の家でも、子供たちはこんなふうに感じているのかも知れません。自分を顧みて、まずは自分の再教育が必要だと感じた次第です。
 この家庭教育について、国際派日本人養成講座の記事に、『国家の品格』の著者藤原正彦氏が話しておられる記事がありますので、こちらも転載いたします。


転載開始

 平成18年の年間ベストセラー『国家の品格』を書いたお茶の水女子大学教授・藤原正彦氏が、自ら受けた家庭教育について語っているインタビュー記事がある。


藤原正彦氏

「そもそも先生が受けられた教育はどのようなものだったのでしょうか」という問いに藤原氏はこう答えている。

 私の父と母は全く意見が違うんですね。父は父の祖父、則ち私の曾祖父に育てられました。曾祖父は江戸の末期に生まれた武士、といっても足軽ですが、その曽租父から父は武士道の教育を受けた。その自分の受けた教育を父は私に教えてくれたんですね。例えば、弱いものがいじめられていたら身を挺してでも助けろ、見て見ぬ振りをしたらそれは卑怯だと。それで私は、弱いものいじめの現場に遭遇したとき、身を躍らせていじめている奴と殴り合いの喧嘩をしました。そしてそれを家に帰って父に報告すると激賞してくれました。

 一方、母は、なに正義ぶってるの。そのうちに暴力少年の札付けられて、ろくな内申書もらえなくなるよと。女性として地に足のついた現実的な考えですよね。このように、私は父からは正義や理想、母からは現実主義という二つの価値観によって育てられました。したがって複眼的思考ができるようになったことは幸せでした。

 父の故郷の実家の二階には、切腹の間というのがあって、不名誉なことをしたらそこで切腹しなければならない。そういう環境でしたから私は父に徹底して卑怯とか名誉とか恥ということについて叩き込まれました。父から卑怯者といわれたら、それはもう生きる価値がないということですからね。武士道というのは定義がありませんから、日常的に教えてもらった中で身についていくものなんですね。

 父がよく聞かせてくれた話ですが、父の家は上諏訪から三キロ半くらい山に入ったところにありましたが、あるときその上諏訪で火事があった。当時七歳だった父は山を降りてそれを見に行って、焼けぽっくいを拾って帰ってきたら、曾祖父が激怒して、「直ちに返して来い」と。それで夜中に三キロ半歩いて返しにいった。そのとき曾祖父が父に言ったことは「焼け跡から何かを持ってくるというのは、最も恥ずべき行為だ。これを火事場泥棒というんだ。あらゆる泥棒の中でも最も恥ずかしいんだ」と。地震などの震災地で略奪行為があるでしょう。人が困り果てているときに、その弱みに付け込むというのは卑怯中の卑怯ですね。

 最後の火事場泥棒の部分からは、阪神大震災のときに暴動一つ起こらず、人々が助け合う姿が、海外の人々に感銘を与えた事を思い出す。「武士道」の文化的遺伝子は我々の心中にまだ息づいているという事だろうか。

 最近のいじめや汚職の問題も、その文化的遺伝子を目覚めさせて、「卑怯とか名誉とか恥」を感ずる心を育てる所から始めなければならないのだろう。

「先生は大学で学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませてらっしやるとか。反響はいかがですか」との質問にはこう答えられている。


新渡戸稲造

 劇的に変わりますよ、学生の意識が。それまでの教育で、日本は侵略をした恥ずかしい国だとばかり教わって、日本人としての自信も誇りもない状態で入学してきた学生たちですが、「武士道を読んで随分と変わっていくんですね。あるいは、戦没学徒の遺書を読ませたりすると、これまた劇的に変わります。それまでは、特攻隊員なんて天皇陛下万歳とわけもわからず叫んでいった気の毒な人たちだとある意味で馬鹿にしていたわけですよ。ところが、彼らは出撃前夜まで、ニーチェを読んだり、万葉集を読んだり、母親や兄弟姉妹、恋人にすばらしい手紙を遺書として残している。語彙も実に深く選択されて書かれている。それを現代の学生たちは知って馬鹿者は自分たちだったと気付くわけです。圧倒的教養の落差、思いやりの深さの違いに愕然とするんです。ですから私は若い世代の教育ということには希望を持ちたいと思っているのです。

「国家の品格」を備えた「美しい国」を作る道は、わが先人がすでに切り開いてくれているのである。

転載終わり



ニ・ニ六事件で逆賊の汚名をきて

2011年02月27日 17時01分02秒 | 歴史
 yahooブログの「かつて日本は美しかった」で226事件についての記事を書かれています。この事件を起こした将校たちは、死刑になり、下士官以下の兵士も特に厳しい前線に派遣されて、みな戦死したと言われます。
 この兵士たちの心は純粋で、国を思う心情で立ち上がったのですが、それがいいことなのかどうかはまた別でのことで、昭和天皇のご英断で、事件は鎮圧されました。それはそのようにせざるを得ず、この判断は正しいと評価されていますが、だからといって、この若い兵士たちの思いは、さぞ無念だったろうと思われます。
 そうした無念の思いを、今上陛下は、時を経ながらも、汲みとって、226事件ゆかりの女性歌人を歌会始めにお召になりました。その今上陛下の御心に、私はふかく感動しました。亡くなった人々も、魂は生きてその御心を喜んで受け取られたことと思います。なぜならこの女性歌人は、226の兵士たちと一緒に来たと言っています。たぶんそうだったのでしょう。
 このような天皇陛下の時を超えた大御心の御配慮は、日本が万世一系の天皇を戴いているからこそ、可能なことであり、天皇の御代は代替わりしても、天皇の御心が発せられれば、亡き人々の魂も報われるのだなあとつくづく思います。
一日遅れましたが、転載したいと思います。

転載開始


歴史は再評価される。


昭和11年(1936年)2月26日、帝都を震撼させたニ・ニ六事件が起こりました。この頃、陸軍内部では皇道派と呼ばれるグループと統制派と呼ばれるグループがあり、両グループは対立関係にありました。皇道派グループは腐敗した財界や政界を正し、急進的な改革を目指すグループでり、このグループが武力蜂起したのです。

この蜂起の総参加者は1500名あまり。指揮するのは若手将校で、野中四郎大尉、河野寿大尉、香田清貞大尉、安藤輝三大尉、栗原安秀中尉、竹島継夫中尉、対馬勝雄中尉・・・等で、下士官らのほとんどは命令に従って動いただけでした。首相官邸、内大臣私邸、蔵相私邸、侍従官邸、教育総監私邸、内相官邸等を襲撃し、岡田総理は奇跡的に無事だったものの斉藤内大臣は即死、高橋蔵相も即死、鈴木侍従長は重症、渡辺総監は即死などの大変な事件となりました。

これらの決起将校らの行為はニ・ニ六事件、クーデター、と呼ばれ、決起将校らは反乱軍と呼ばれています。当然ながら決起将校らはそのようなつもりはなく、事件の中心人物だった磯辺浅一元一等主計は「然らば余等は如何なる名称を称するか、と云えば義軍事件と云う名称を欲する。否(いな)欲するのではない。事件そのものが義軍の義挙なる故に義軍事件の名称が最もフサワシイのだ」と述べています。

決起趣意書より一部抜粋
「ここに同憂同志機を一にして決起し奸賊を誅滅して大義を正し国体の擁護開顕に肝脳をつくし以て神州赤子の微衷(びちゅう)を献ぜんとす」

決起後、優柔不断な陸相はあたふたしますが、かけつけた斉藤瀏(りゅう)予備少将「大臣は若いものの決死の事あげを、はっきり認めてやりなさい」と発言し、真崎甚三郎大将は決起将校の磯辺元一等主計に対して「とうとうやったか、お前たちの心はヨウわかっとる。ヨウわかっとる。よろしきように取り計らうから」と述べます。そして一旦、戒厳令司令部の下に組み込まれるような形となります。しかし、昭和天皇は許しませんでした。

「速やかに暴徒を鎮圧せよ」

一転、決起将校は反乱軍、逆賊となったわけです。下士官らは原隊に戻るよう通達が出て、反乱軍は包囲され、決起は失敗に終わりました。

決起将校の安藤大尉
「私は今、逆賊、反乱軍といわれ、やがては殺されるでありましょう。しかし、(楠)正成と同じように何十年、あるいは何百年か経った後に、国民が、また後世の歴史家が、必ず正しく評価してくれるものと信じています」

この事件には国民からも同情の声があり、実際に東京市民から「勤皇軍」と歓迎する光景が見られたといいます。しかし、主要な将校らは異常とも思える裁判で死刑となり、下士官らも取り調べをうけ、有罪になったものも出て、満州へ行き「白骨となって満州から帰還せよ」と厳しい目で見られました。英国のある外務省の幹部は「反乱軍の動機が純粋だったと描写された場合、日本の一般大衆は、この恥ずべき事件をただちに忘却するだろう」と皮肉のコメントを書き残しました。

陸相に「若い者の気持ち」を説いた斉藤瀏予備少将は決起将校らの軍師のような役割をしており、事件に連座させられ禁固5年の刑となりました。この人は旭川に赴任していた頃、決起将校の栗原安秀中尉、坂井直中尉はまだ子供で、少将の娘、史(ふみ)と幼馴染でした。史は栗原を「クリコ」と呼び坂井直を「ナオシ」と呼んで、父が転勤するまで三人は仲良し仲間でした。

時は流れて平成六年。は歌人となっており、日本芸術院新会員として宮中の御餐会に招かれたときのことです。食事が終わったとき、今上天皇が史のほうへ歩み寄られ、お声をかけられました。
「いつから歌を作られたのですか」とご下問があり、「父が一生書いておりましたもので、わりに小さい頃から書き出しました」と答えました。すると陛下は「お父上は、斉藤瀏さんでしたね。軍人で・・・」と述べられました。

そして平成八年。正月十四日、(八十八歳)は宮中歌会始の召人として歌を詠むことになりました。召し人とは天皇からただ一人召されて御題を歌うものです。女性では明治以来三人目でした。史は宮中の大階段を昇るとき、「私はもう一人の人と、今日はこの階段を昇っているのよ」と声を発しました。父のことか?史は以下の歌を詠みました。

野の中にすがたゆたけき一樹あり風も月日も枝にあきて

歌会が終わり史は「どうやら転ばずにすんでよかったわ」と述べ、宮中の大階段を降り、そして誰へともなくこうつぶやきました。
「実はね、さっきこの階段昇るとき向こうの庭に軍服の連中が並んでいるのが見えたのよ。おかしいでしょ。きっと私にしか見えないんだからどなたにもお話しなかったけど、ご迷惑だと思ってね」・・・おそらく栗原、坂井ら、ニ・ニ六の決起将校らでしょう。彼らはこの日、事件から61年経って逆賊の汚名から解放されたのでした。


参考文献
ちくま文庫「昭和維新の朝」工藤美代子(著)
河出書房新社「図説 2・26事件」太平洋戦争研究会(編) 平塚柾緒(著)
講談社学術文庫「昭和天皇語録」黒田勝弘・畑好秀(編)
新潮文庫「英国機密ファイルの昭和天皇」徳本栄一郎(著)

添付画像
陸相近くの決起軍。左立ち姿は丹生中尉。(PD)


【昭和天皇】 二・二六事件 1936年 昭和11年 2月


転載終わり

かえり船  敗戦で戻ってくる多くの兵士を迎える歌

2011年02月26日 12時33分31秒 | 現代日本
 yahooブログ「チェンマイの原風景」からの転載です。終戦を迎えて、外地にいた多くの兵士が復員船によって、帰ってきました。毎日の暮らしも苦しい中、それでも迎える人も、帰ってきた人も、生きて帰れた喜びと、敗戦の悲しみと、いのちを捧げた多くの同胞への思いと、様々な気持ちを抱きながらも、苦しさに耐えて、ふるさとの地を踏みしめる喜びを感じました。そんな情景が、ありありと浮かぶような記事です。


かえり船


大阪商戦(現商船三井)の病院船高砂丸
画像参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%A0%82%E4%B8%B8
どれほど想像を逞しくしても終戦直後の日本は、灰色に包まれ、真っ青な空とは対照的に,大地は黒く霞み,住むに家なく、空腹を癒す食料もなく、人々の顔は疲れ果てて無表情に沈み、魂さえ抜けたかのような感がありました。
そんな希望を失った人々の心の中に『リンゴの唄』が流れました。昭和20年10月GHQの検閲を通過した最初の邦画『そよかぜ』の挿入歌でした。それを歌った並木路子は、松竹少女歌劇団の一員でこの映画の主役に抜擢されました。劇場の証明係が歌手として脚光を浴びるまでのサクセス・ストーリー的映画でしたが、国民の心を掴んだのはそんな幸運な少女の物語よりも、その映画の中で歌われたハトウハチロー作詞、は万城目正作曲、並木路子歌の『りんごの唄』でした。レコーディングに際し、作曲の万城目は並木に明るく歌い、沈んだ国民の心に希望の灯を点したかったのでしょうが、その同じ年の3月10日、東京大空襲で母を亡くし、その前には戦場で父と次兄を亡くした並木に明るい声を望むのは酷でした。それでも『君一人が不幸じゃないんだよ』と諭し、吹き込みを終えました。そんな彼女の胸のうちを知る由もなく、国民は彼女の歌に一縷の希望を光を見出し、歌は全国に流れ、空前のヒット曲となりました。並木路子の母が亡くなった東京大空襲のあった3月10日は、明治38年に日露戦争最後の会戦となった奉天の会戦で勝利した日で、これを記念して陸軍記念日とされていました。そして、その記念日を狙っての焼夷弾投下による無差別絨毯爆撃でした。

東京大空襲 廃墟の跡
画像参照:http://www.kmine.sakura.ne.jp/kusyu/kuusyu.html

町に明るい並木路子の歌声が流れるよりも前、昭和20年9月26日、はるか南現在ウォレアイ環礁、当時のレイヨン島から病院船高砂丸が復員船第1号として別府港に入ってきました。ただ、この高砂丸の発地レイヨン島は、終戦の前年に日本軍の基地となりましたが、珊瑚礁の島は作物を育てることも出来ず、そこを守る日本軍兵士が漁業の道具を持っている筈もなく、食糧の輸送は米軍に阻まれ、上陸軍は殆ど飢餓の状態に陥りました。
ここに派遣されていた陸海軍将兵6、526名のうち、第1大隊500名を独立混成第50旅団に編入され歩兵第333大隊として送った松山の歩兵第22連隊は、日清戦争にも参加し、日露戦争では第11師団として乃木希典大将指揮下で旅順攻撃に参加し、シベリア出兵にも加わり、第一次上海事変では第一番に投入されています。第二次上海事変、満州と転戦しますが、昭和19年には沖縄防衛戦に参加し、那覇北部の戦闘では県民の盾となって20倍を越える敵を前に一歩も引かず50日間に亘って対峙し、米軍に『歩兵戦闘の極み』とまで言わしめた誉れの連隊でした。
しかし、レイヨン島に向かった仲間は、滑走路を建設しながらも米軍の爆撃を受け続け、しかも食糧補給の道を絶たれ、かてて加えて伝染病に襲われた部隊の惨状形容し難く、不時着した二式大艇の乗組員は、島内での銃声を聞いたそうですが、それは兵たちの自殺の銃声であったと報告しています。約7割の4、493名が、戦闘もなく餓死病死で倒れたのです。
まさに『戦わずして玉砕した悲劇の島』でした。
最初の引き揚げ船、復員船が、このレイヨン島からの高砂丸でした。その後、陸続として外地から引き揚げてくる復員船から降り立ち、祖国の土を踏む同胞の誰の顔も疲労困憊と虚脱感に襲われ、うつろな瞳の中にも祖国に帰って来た喜びも含まれていたでしょう。また、遠く外地で別れた仲間を想い涙した人もいたでしょう。
翌昭和21年になると、そんな復員兵たちの姿が町に溢れ、港港に連日見かけるようになりました。そんな時流れてきたのが清水みのる作詞、倉若晴生作曲、田端義夫歌の『かえり船』でした。
エレキ・ギターを抱え、大きな声で『オーッス』と元気よく一声掛けて聴衆に呼びかけ歌い出すバタヤンこと、田端義夫は、そんな彼らを歌で温かく迎え入れたのでした。

復員輸送艦となった駆逐艦「夏月」
画像参照:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A9%E5%93%A1%E8%BC%B8%E9%80%81%E8%89%A6
田端義夫「島育ち」

歌唱 田端義夫(1946)
作詞 清水みのる 作曲 倉若 晴生

波の背の背に ゆられてゆれて
月の潮路の かえり船
かすむ故国よ 小島の沖じゃ
夢もわびしく よみがえる

捨てた未練が 未練となって
今も昔の 切なさよ
まぶた合わせりゃ まぶたににじむ
霧の波止場の ドラの音

熱い涙も 故国につけば
うれし涙と 変るだろ
かもめ行くなら 男の心
せめてあの娘に 伝えてよ

四方を海に囲まれた日本の歌手が船の出入りを歌にする、極普通のようにも思います。しかし、この曲が発売された時期、日本は焦土の中から這い上がろうとしながらも、食べる物にも苦労していました。闇市も出ました。当時の生活を今の人たちに想像・理解しろというのは無理でしょう。その日一日、どのようにしてか口にする物を探す、自分一人生きていくのが精一杯の中で家族を養いながら、当時の日本人は、それでも660万人を超える海外にいる同胞の中にいるだろう縁者知人、親族の帰還を日の丸の旗を振り、一人も残すまいと温かく迎え入れたのです。
まだ舞鶴港では遠くシベリアに送られ過酷な状況で酷使される息子の、夫の、父の帰還を待つ人の姿はありませんでした。しかし、海外にいる660万を越える軍人軍属、同胞を日本国内に受け入れる作業は総力を上げて終戦直後から始まりました。


田端義夫
画像参照:http://music.geocities.jp/aaaw55/JP/01_tabatayosio_9.jpg
そうです、『かえり船』は、外地にいる同胞が祖国に向かって還る船を歌っているのです。思えば、田端義夫は、昭和15年に『別れ船』を出して出征する兵士を送り出しています。かつて見送った船を今、彼は温かく迎えようとしたのでしょうか。これは単なるマドロス調の歌ではなく、そこに込められた日本人の心を感じます。どれほど苦しくとも、日本人は決して同胞を見捨て、蹴落とすことなく、苦しみも悲しみも分け合った時代があったことを知ります。
帰還といっても、当時日本にどれほどの民間商船があったと言うのでしょうか、戦火を逃れた軍艦が砲を外し、甲板に臨時居住区を作り、臨時トイレを作りながら、輸送していたのです。白い布で包まれた小さな箱を首から提げて降りる兵士、港に溢れる軍服姿、疲れ果てた同胞、町は忽ちにして人で溢れます。廃墟の祖国に帰ってきた同胞たち、全てを亡くしたかに見えた日本でしたが、世界一の財産がこのとき國に満ちたのです。人材という財産が。世界一の軍は又世界一の人材の宝庫だったのです。
銃を鋤、鍬に代え、釣竿に代え、戦場をマーケットに代え、飯盒炊飯の場を調理場に代え、廃墟の跡を工場に変え、誰もが新生日本の再興に邁進しました。廃虚の中、懸命に食を求め、國の復興を目指し、一心不乱に祖国再興の夢を追いました。
『宣シク 擧國一家子孫相傳ヘ 確ク神州ノ不滅ヲ信シ 任重クシテ道遠キヲ念ヒ 總力ヲ将来ノ建設ニ傾ケ 道義ヲ篤クシ 志操ヲ鞏クシ 誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ 世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ』
先帝陛下の詔勅の一語一語が人々の心の中に染み込み、廃墟から立ち上がる力となりましたが、日々の生活の楽しみの中にこうした歌謡曲が大きな役割を果たしたこともまた事実でしょう。

歌っている田端義夫は、生涯現役を心がけているそうですが、既に90歳を越えた今も歌っているのでしょうか。
エレキ・ギターを抱え、舞台中央のマイクの前では右手を大きく上げて『オーッス』と一言声を上げるのが彼のスタイルでした。しかし、その右目は幼い頃に患ったトラコ-マにより視力を失っていますが、それも赤貧故だとも云われます。歌が好きで音の出ない手製のギタ-を抱えては川原で歌っていたそうです。姉に進められるまま歌謡コンクールに出て見事優勝すると、そのままポリドール専属となりました。時に昭和13年でした。翌年には『島の船唄』でデビューし、その後も『大利根月夜』『別れ舟』など次々とヒット曲を出し、ポリドールのドル箱スターとなりました。
戦後、所属していたポリドールが活動を中止するに及んで、テイチクに移り、そこで出した最初の唄がこの『かえり船』だったのです。

はるか遠く離れた異国の地から故郷に向かって還ってくる人々の気持ちはどうだったのでしょうか。誰もが故郷で待つ家族、妻、子供、両親、兄弟の顔を思い浮かべながら、互いに無事でいてくれ、そんな気持ちでいたのではないでしょうか。波の彼方にあるはずの祖国の島影を追う日々が続いたと思います。戦場を離れて祖国を目指す 同胞にとっては、船足は遅々として進まず歯痒い思いをしていたのでしょうか。
熱い涙も 故国につけば
うれし涙と 変るだろ
かもめ行くなら 男の心
せめてあの娘に 伝えてよ
と故郷に残した恋人への熱い思いすら歌いこんでいます。

まだ南の島々、国々に『かえり船』を待つ英霊が眠っていることを忘れないで下さい。
田端義夫 かえり船 (本人解説)

田端義夫 かえり船 (本人解説)


北にいる同胞の『かえり舟』
異郷に眠る英霊の『かえり舟』

日本の戦後はまだ終わっていません



参考:
http://www13.big.or.jp/~sparrow/MIDI-kaeribune.html
http://homepage1.nifty.com/muneuchi/enka/ch2.htm

人道無私の社会主義独裁政権を倒すために・・・・

2011年02月25日 10時26分25秒 | 現代日本
 yahooブログの新”敬天愛人”のブログに大紀元のいまの米オバマ政権への忠告記事が掲載されています。今の日本は、経済優先の雰囲気で、中国へ企業が進出し、中国からの観光客をいかに来日させるかに苦心して、尖閣事件のあとさえ、マスコミには日中友好を煽る風潮ばかりが見られます。そこには、国家の誇りは微塵もなく、政府も尖閣事件で失われた日中友好をより緊密に取り戻すため、ODAを増額すると言っている状況です。

 中国という国の本質を日本の経済界や政府はどう見ているのでしょう。世界ではチベットやウイグルが弾圧され、実は今も弾圧されていますが、そのときに多くの人々が抗議の声を揚げました。ウイグルでは、住民を無視した核実験で、多くのウイグル人が死亡し、しかもシルクロードブームで日本人の観光客が多数訪れ、知らずに被爆したと言われます。

 国益のためと思えば、自国民すら非常に切り捨て、反抗する少数民族は、民族浄化で滅亡に追い込み、外国はできるだけ利用し、搾り取り、外国の領土は隙を狙って自国に編入し、或は植民地化属国化する、まさに人権無視国家であり、世界にできた癌のような国家です。日本では一部の富裕層だけがマスコミで取り上げられ、まるで普通の国家のごとく見せていますが、それ以外の多くの人々はその中で苦しんでいることを少しも伝えようとしません。たくさんの少数民族が、あえいでいることを伝えようとせず、のどかな風景ばかりを映します。

 経済的利益を優先して、このような独裁国家、このような人道無私の独裁政権の存続に手を貸すような政策をしていていいのでしょうか。世界は中東の国の独裁国家が揺らぎ始め、世界が変わりつつあります。そんな中で、日本は、自国の立場をもっと真剣に考え、本当に誰の見方をするのか、独裁政権の見方をするのか、人道に基づいて、自由を求める人々の見方をするのか、改めて考える必要があると思います。単純な外交はできないにしても、経済的利益につられた、卑しい外交ではなく、もっと志の高い外交をして欲しいものです。

 この大紀元の記事は、米オバマ政権に向けた記事ですが、いまの日本にも、大いに当てはまるし、参考になります。


転載開始



 御来訪感謝申し上げます。
 リビアをはじめ中東の独裁政権は危機的状況となっていますが、アジアの権国家シナと北朝鮮にはまだ大きな火の粉が飛んできていないようです。
 シナの「ジャスミン革命」も、反政府派を炙り出すために、中共が仕組んだワナと伝えている事情通もいます。
 大紀元日本に先月載っていた記事を転載いたします。

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  対中戦略 レーガン元大統領からの「忠告」
                  文・周暁輝

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 【大紀元日本1月29日】胡錦濤主席の訪米は、約450億ドルの米国製品の購入契約をもって終了した。主賓双方とも、得ようとするものは得たようだ。片方は巨額の注文、もう片方は一時的なメンツ。しかし、かつて米国外交の核心だった人権問題は、うわべだけにとどまった。

 オバマ政権にとって、国内経済問題の解決は確かに目前に迫っている。人権問題も提起する必要はあるが、中国と多方面にわたって協力したいオバマ政権は、結局のところ、他の議題の優先を選んだようだ。しかし忘れてならないのは、相手は国内で自国民を弾圧し、さらに国内外で利益のみを追求しルール破りを繰り返している政権だということだ。米国にとってこの選択は果たして国益となるのか。

 幸いにも歴史は繰り返されている。米国史上最も偉大なる大統領の1人、故・レーガン元大統領の選択は、今のオバマ政権にとって参考になるのではなかろうか。

 1970年代の初期から中期にわたり、米国は同様に深刻な経済危機に陥った。その時、米国の工業生産は13.8%下がっており、GDPも7.8%下がった。全国の失業人口は850万人に達し、失業率は8.9%。消費者物価指数は15.3%上昇した。危機のピークが過ぎた1975年以降も、米国経済は依然として発展が緩慢で、インフレが深刻だった。1980年には再び経済危機に陥り、失業率は10.8%、失業者は1200万人以上に上り、インフレ率は2桁になった。

 まさにこの1980年に、レーガン氏は米大統領選に勝利し、翌年ホワイトハウスに入った。当時、米国は国内の経済危機以外に、二つの重大な外交の挑戦に直面していた。その一つは自由世界を率いて、ソ連をはじめとする共産陣営と対抗すること。もう一つは中東の武装活動からの脅威に対処すること。特に前者は重要だった。

 当時西側では、「ソ連の時代が間もなく到来し、自由世界は彼らと協力する必要がある」との見方が主流だった。しかし、揺るぎない反共産主義の信念を持つレーガン氏は、ソ連のもっとも険悪なところは「人類の歴史の潮流に逆行し、人民の自由と尊厳を剥奪している」ことだと認識し、反共に全力を尽くした。彼は共産主義は必ず崩壊すると信じる最初の世界級指導者でもあった。

 この目標を達成するため、レーガン氏はソ連が深刻な経済危機にあることを利用し、ソ連と西側の科学技術交流を断ち切らせることによって、経済危機を増大させ、ひいては崩壊させることを主張した。彼はさらに国防予算の数倍の経費で軍備を拡充し、核兵器の牽制力を増加させ、スターウォーズ計画に着手した。そこでソ連も米国との軍備競争に大量の資金を投じざるをえなくなった。対中関係では、レーガンは「台湾関係法」を讃え、強引なまでに台湾に武器を輸出しつづけた。

 反共産主義団体(武装集団を含む)への支持も、レーガンの対外政策の中の一つであり、彼の支持者らはそれを「「レーガン主義」と呼んだ。この政策の下で、米国は自由戦士と称される人たち、例えばアフガニスタン及びニカラグアの反政府抵抗勢力を支持し、ソ連あるいはキューバの支持した政府に対抗した。レーガン政権はさらに、ポーランド独立労組「連帯」などのヨーロッパの反共産主義団体に出資し援助した。カンボジア共産政権にも強硬な路線で対抗した。

 レーガン氏は自由の価値と力に信念を持ち、共産主義の「巨大な嘘の空虚」をはっきり認識していた。2度の選挙などの講演で、彼は幾度も「自由と民主へ邁進してはじめて、マルクス・レーニン主義を歴史の埃として葬ることができる」と語ったのも、「共産主義は人類史上哀れで可笑しな1ページであり、今なお進行中の最後の1ページである」と信じていたからだ。彼は真っ先にソ連を「邪悪な帝国」「現代世界の邪悪な中心」と呼んだ。

 こうしたレーガン氏の固い反共信念の下で、共産主義はかつてない制約を受けた。民主世界と共産陣営を隔てるシンボルのベルリンの壁も、彼が8年間の大統領任期を終える直前に取り壊され、冷戦も終結した。米学者の冷戦終結に対する正統な見方はこうである。「自由と民主の西側諸国が軍事、イデオロギー、そして経済システムで持続的に優勢を保ったため、最終的にソ連の投降と冷戦の終焉を引き起こした」

 レーガン氏の功績について、西ドイツ元首相のコール氏はこう語ったことがある。「彼の出現はこの世界にとって幸運だ。レーガン氏がゴルバチョフ氏に呼びかけた2年後、ベルリンの壁が本当に倒された。その11カ月後にドイツは統一された」

 また、1989年にチェコスロバキアの大統領になったハベル氏は、「彼は固い信念を持つ人で、間違いなく彼が共産主義の崩壊を促した」とレーガン氏を称えた。

 レーガン氏と共に共産主義に対抗したイギリスのサッチャー元首相はこう語った。「レーガン大統領は強靭な信念を軸に、自由が後退していた世界で、自由の拡大を目指し成功した」「米国を心から愛する力に駆り立てられ、彼は世界全体を高めることができた」

 レーガン氏の勇気は、自由を渇望する共産国家の人々にも大いなる励ましとなった。ワシントン・ポストのコラムニスト、デビット・イグナシアス(David Ignatius)氏がモスクワのある教授を取材した時に、教授が口にした一言は、彼にとって一生忘れられないという。「米国大統領にはソ連の真実を世界に明かす勇気があった。そして、あなた達には私達の本当の名前を伝える勇気がある」

 一方、レーガン政権がソ連の共産主義を抑制し、軍備予算を大幅に増加させる時、米国経済は意外にも蘇り始め、そして持続的な発展を遂げた。1983年、米国は危機を脱出し、経済は急速に回復した。翌1984年の経済成長率は6.9%まで上り、1951年以来の最高成長率となった。それ以後、成長率は落ち着いたものの、1990年まで8年連続して増加し、インフレ率と失業率はいずれも下がった。1988年には、GDPは4兆8806億ドルに達し、日本とヨーロッパ諸国をはるかに超えていた。米国経済の迅速な発展は、その世界での地位を再度強化させることとなった。

 レーガン氏は米国大統領の中でも最も敬虔なキリスト教徒だったという。着任69日目に暗殺者の襲撃を受けたが、彼は自分には神から授かった使命があり、それを遂行しなければならないと固く信じていた。また、ローマ法王・パウロ2世とマザー・テレサ氏からも、彼には神が望んでいる使命があると教えられた。その使命とはすなわち、ソ連共産帝国に打ち勝ち、冷戦を終結させることだった。この意味で、レーガン氏は神がアメリカ人、そして自由にあこがれる世界の人々に与えた「贈り物」だったと言えよう。

 現在、オバマ政権が直面する立場は、レーガン政権時と異なるところもあるが、似通ったところも確実にある。レーガン氏が直面したのは強大なソ連と共産グループであったのに対し、オバマ氏が直面しているのはますます野心を強めている中国共産党。2人とも国際規則を破壊する共産独裁政権に直面し、国内の経済危機にも直面している。また、2人とも神を信奉している。しかし異なるのは、レーガン氏はわずかの妥協もない反共の道を選んだのに対し、オバマ氏は中共との協力の中で変化を促すことを期待している。

 オバマ氏がこのような選択をしたのは、今の世界のグローバル化はレーガン時代に比べてはるかに進んでおり、米国は多方面で中共の協力を必要としているからだ、という見方をする人もいるかもしれない。しかし、中共には協力する意思があるのだろうか。結果なしのコペンハーゲン気候変動大会、他を憚らない経済拡張、ならず者政権の北朝鮮との結託、日増しに悪化する中国の人権。どこに中共の協力願望が表れているだろうか。米国政府はまだ中共の本当の姿が見えていないのではないか。

 もしレーガン氏が生きていたなら、きっとオバマ氏にこう忠告するだろう。「自由が後退している今、神があなたに与えた使命を完成させなさい。米国のあらゆる力を駆使して、中国民衆による中共の解体を助けなさい。自由と民主へ邁進してはじめて、マルクス・レーニン主義を歴史の埃として葬ることができるのです」

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 >「自由が後退している今、神があなたに与えた使命を完成させなさい。米国のあらゆる力を駆使して、中国民衆による中共の解体を助けなさい。自由と民主へ邁進してはじめて、マルクス・レーニン主義を歴史の埃として葬ることができるのです」

 この言葉は、日本の政財界人にもそっくり当てはまる言葉です。
 せめて、日本だけでも“脱中国”を図り、資金・技術を引き上げれば、中共は致命的な痛手を受けることになるのですが・・・・。そして傘下のチンピラ北の金王朝も。


         打倒! シナ中共・金独裁政権!!

転載終わり

日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が組み込まれている。

2011年02月24日 01時54分57秒 | 歴史
 江戸時代の市場経済システムに付いて書かれた国際派日本人養成講座の記事がありましたので、読んでみて非常に驚きました。江戸の経済がかなり発達していたという話は聞いていましたが、実際に詳しい話を読むと、現代のシステムとほとんどかわりなく、世界的にものすごく先を行っていたことがわかります。経済先進国だったんですね。

 江戸幕府の統治能力の高さには、以前から舌を巻くような思いがありましたが、いろんな面でもっと江戸時代を研究して、現代に生かせるものを見習ったらよいのではと思います。自然との共生や循環型社会であるところなど、実は未来を先取りしているのではという気すらします。NHKがやっているブラタモリという番組なんか、たまにしか見ませんけど、それでも見たときには、江戸の水道システムとか、近代都市経営がほんとに優れています。

 日本流の経済システムをもっと発達させる方法を考えるべきだと思います。いつの間にかアメリカ式のグローバルスタンダードに全て移行させられてきていますが、それによって、本当に改善したのかどうかは疑問の部分がかなりあります。
 たしかに悪い面もあったでしょう。しかしそれは一長一短であり、悪い面ばかりではなく、長所もあったのです。たとえば談合など、全く悪いものという風に言われて、絶滅させる政策が取られましたが、その結果が手抜き工事の横行をもたらしました。

 これらは巧みにアメリカの誘導によるもので、アメリカの企業が日本市場に入るために邪魔なシステムを取り払わせるべくマスコミを通じて宣伝工作が行われて、法改正がされるというパターンが多く、アメリカの日本への戦略を、少しづつ年次改革要望書によって日本へ押し付けて、日本を改造して行ったものです。

 そして最近のTPPは、これまでの戦略のまだ未処理部分のである金融やサービス、投資といった分野の経済開放をめざし、日本市場へのアメリカ企業の参入をもたらそうというものです。戦後日本は、アメリカの言う事に逆らえない立場で、色んなものを押し付けられました。それでもルール改正のたびに、さらに工夫努力して勤勉に経済発展してきましたが、それも限度があります。

 TPPで一挙にアメリカ企業の参入を許しては、国内産業はアメリカ資本に全て組み込まれて、日本企業として独立した企業はなくなってしまう可能性があります。国家として国防の面で大きな支障が出てきます。


 
転載開始
■1.日本人のDNAに組み込まれた市場経済システム■

 アメリカがまだ植民地であった時代から、わが国には固有の先進的な市場経済システムが存在し、世界に類を見ない百万都市江戸を成立させていた・・・

 日本人のDNAには過去400年以上にわたる市場経済システムの経験が、しっかりと組み込まれている・・・

 鈴木浩三氏の「資本主義は江戸で生まれた」は、我々の祖先が、江戸時代にいかに高度な市場経済システムを作り上げ、その上でたくましい経済活動を展開していたかを、活写している。今回は、この本を頼りに、我々自身に潜むDNAを思い出してみよう。そこに日本経済の再生のための重要なヒントが見つかるだろう。

■2.天下普請のケインズ政策■

 天正18(1590)年、三河や駿河を本拠地としていた徳川家康は、秀吉の命令で関東に移り、江戸に居を構えた。当時の江戸は、海岸沿いは葦原ばかり、東は荒涼とした武蔵野に続くさびしい土地だった。

 家康は関ヶ原の戦いで天下をとると、全国の大名に命じて、江戸城の城郭築造工事、江戸市街地や水路網建設に当たらせた。このように天下人が諸大名に命じて土木・建設工事をさせるのを「天下普請」と言う。これは戦時の軍役と同じ扱いで、必要な資金・人員のいっさいを大名の石高に応じて供出させ、工事・役務を行わせるものだった。

 数年に一度命ぜられる天下普請は、大名達に巨額の財政支出を強いた。それは幕府から見れば、敵対する可能性のある諸大名の経済力をあらかじめ削いでおくという防衛的な目的があったが、同時に、軍備にあてられるかもしれない経済力を、平和な「公共工事」に向けるという意味もあった。

 また天下普請の間は大名は多くの家臣ととも江戸に滞在した。そのための大名屋敷、武家屋敷群が建設されていった。これらの建設工事が資材や労働力への巨大な需要を生みだし、さらに膨大な工事関係者の生活を支えるための食品、日用品、娯楽などの消費需要が生まれる。江戸時代初期の70年間、このような公共工事が集中的に江戸で行われた結果、需要が需要を生み出す形で、江戸は高度成長を続けた。これは戦後の高度成長と同様に、公共投資を呼び水にして、需要が需要を生み出すケインズ政策であった。



■3.参勤交代で盛り上がる消費需要■

 寛永12(1635)年に、参勤交代制度が始まった。大名達は一年を江戸、一年を国もとで過ごす。これも軍役と同様に、禄高と格式に応じた供揃いを義務づけられた。供揃いとは、そのまま戦闘に移れる武装した行軍行列のことで、飲料水と薪以外は、武器・弾薬・食糧をすべて持ち歩かねばならなかった。

江戸時代の宿

 参勤交代を含めた江戸在府に必要な経費は、大名の実収入の5,6割を占め、大きな負担となった。大名達は国もとの米を売り払って、貨幣を得て、それで江戸屋敷の生活費や諸経費を支払った。殿様に随行して地方からやってくる大勢の家臣団も、江戸での消費需要を盛り上げ、町人層を潤わせた

 江戸屋敷での最大の支出は、幕府や他の大名との交際費だった。江戸屋敷に常駐した「留守居役」は、天下普請の計画をなるべく早く掴み、思わぬ案件が自藩に廻ってこないように幕府の役人に根回ししたり、あるいは他藩と「談合」したりした。そのために吉原や高級料亭での接待や、書画・骨董などの贈答がさかんに行われた。こうした接待・贈答需要が、料理・服飾・工芸などの産業を発展させた

 江戸時代後半には、葛飾北斎や安藤広重などの浮世絵師が活躍し、「名所江戸百景」「東海道五十三次」などが盛んに出版された。これらは参勤交代で江戸に集まった武士たちが国元に持ち帰る土産であり、また道中のガイドブックでもあった。さらに江戸に全国から武士が集まることで、諸国の情報が集まり、また江戸の最新流行ファッションや、長唄などの新曲が地方に伝わった。

■4.民間による商業航路の発達■

 天下普請のための石材など資材の運搬、さらに動員した家来や土木作業員の食糧供給のために水運が発達した。江戸城の石垣築造では、西国大名31家が3千艘の運搬船建造と、それによる伊豆半島からの石材輸送を命ぜられた。

 また東北の大名は、太平洋岸を南下する東回り廻船航路で、江戸まで米や資材を持船で運んだ。家康は東北大名達に命じて、慶長14(1609)年、その中継地点である銚子に港を築かせた。このルートによる流通が盛んになるにつれ、民間による海上輸送の方が有利となり、東回り廻船航路での定期便が確立していった。

千石船

 また江戸の消費需要が盛り上がるにつれ、日本全国から多種多様な物産が水運で運び込まれるようになった。清酒は摂津国鴻ノ池(現在の兵庫県伊丹市あたり)の酒屋が慶長十五(1610)年に、最初に江戸に持ち込んだ。当時、江戸では濁酒しかなかったため、清酒は飛ぶように売れ、はじめは人が背負って運んでいたのが、駄馬による輸送となり、寛永(1624~43)になると、船で運ばれるようになった。醤油も正徳年間(1711~15)に、大阪から持ち込まれて、高級調味料としてもてはやされた。

 上方の物産を江戸に運ぶために、大阪と江戸の間の民営の定期航路が発達した。二つの組織がそれぞれの定期便を運航して、明治に入るまで、競争を続けた。また江戸時代以前に確立していた北前船(大阪と日本海経由で北海道を結ぶ)、西廻り廻船(大阪と瀬戸内、九州を結ぶ)と合わせて、日本列島全体を結ぶ民間による定期商業航路が完成した。

■5.変動相場制による取引■

 江戸時代の通貨制度は、「東の金遣い・西の銀遣い」と言われ江戸の金貨と上方の銀貨が対等な本位貨幣として両立していた。また銅貨も少額の補助貨幣として使われていた。しかも、これらの間の交換比率は変動相場制であった。このような3貨制は世界的にみても非常に珍しいと言われる。

 変動相場制だから、江戸の商人が上方に注文を出すには、銀相場が安い時、すなわち金高銀安の時に行うと有利だった。たとえば、現代日本の企業が国際市場で石油を調達しようとすると、石油の価格の動きと、円-ドルの交換比率の両方の変動を考えなければならない。江戸の商人たちは、すでにそういう世界にいた。

 江戸、大坂、京都には、多くの両替商が繁盛していた。貨幣の鋳造は幕府が行っており、たびたび金銀の交換比率を公定したが、ダイナミックな市場経済には幕府権力も及ばない。両替商たちは、日々の相場を見ながら、金銀の両替・売買を行った。

 相場は「立会場」で決まった。大阪・北浜にあった金相場会所では正月三が日と五節句を除いて毎日、午前10時から1~2時間、「立会い」が開かれた。両替商達が少しでも利益を上げようと、血眼になって、取引に熱中する。立会い時間が過ぎると拍子木を打って知らせるが、取引が過熱していて終わらない時には水をかけた。これを「水入り」という。「立合い」「水入り」という相撲用語は、当時の商業用語でもあった。

 コンピュータこそないものの、取引の内容自体は、現代の通貨市場と本質的には変わらない。

■6.両替商の銀行業務■

 両替商は、為替取引や預金・貸付け、手形取扱いなど、現代の銀行とほぼ同じ事業を行っていた。江戸-大阪-京都の三都間では本格的な為替取引が行われていた。たとえば、幕府の大阪御金蔵から江戸への公金輸送と、江戸商人から大阪商人に支払われる商品代金を相殺する形で、決済していた。

 商人は両替商に預金口座を開いて、稼いだ貨幣を預けた。現代の当座預金にあたるもので無利子だったが、信用のある両替商と取引がある事は、その商人自身の信用を高めた。両替商は取引を希望する商人がいれば、身元や財産状況を徹底的に調べてから、口座を開いた。

 両替商の中には大名に貸付けを行うものもいた。諸大名は天下普請や参勤交代で出費がかさむ一方、年貢収入は頭打ちだったため、その財政状態は窮迫していた。そこで家老や留守居役が藩主の代理人として、両替商一同を料理屋などで接待し、借金を頼む。両替商達は、その大名の信用状態によって、貸出し総額を値切ったり、時には断ったりした。また貸出しが焦げついた時の危険分散として、何人かの両替商がシンジケートを組み、貸付けを分担したりした。現代の銀行に大企業に融資するのとまったく同じである。

 大名側は地位を利用して、借金の踏み倒しを行う例も少なくなかった。肥後熊本の細川家などはその常習犯で、「細川家は前々から不埒なるお家柄にて、度々町人の借金断りこれあり」などと記録にも残っている。こういうブラックリスト情報は両替商仲間にすぐ伝わって、組織的な貸し付けボイコットや年貢を担保に求められるようになった。大名の権威も、市場経済システムの前ではかたなしだった。

■7.通貨政策による物価安定■

 諸大名は領地でとれた米を大阪で売って銀を得ていた。大阪の米市場では需給関係から米価が決まり、その変動を見越した投機や、先物取引(将来の一定期日にあらかじめ約束した価格で商品を売買する取引)が行われていた。

 近代的な商品先物取引が本格的に成立したのは1865年のシカゴ商品取引所だと言われているが、同所の発行する「商品取引便覧」には、「1730年代に、日本の大阪において先物取引を含む商品取引所が存在していたことは驚くべき事である」と、大阪堂島の米市場を紹介している。

 大名側が増収方策として米の増産に励んでも、米の供給が増えるほど米価が下がって収入は伸びない。その反面、その他の商品の物価は上がり続けた。幕府は米価の維持のために、米の買い付けを大阪の豪商に命じたり、大阪御金蔵の資金によって自ら買い付けたが、それを売りに出すとすぐにまた米価は下がってしまう。

 幕府は困って大阪の両替商たちに米価維持策を相談した。両替商達は、米が安いのは通貨の質が良すぎるのと通貨供給量が少ないためだから、貨幣供給量を増やすように、と答えている。この策を直接聞き入れたためかどうかは定かではないが、幕府は実際に貨幣の金や銀の含有量を下げる貨幣改鋳を行って、米価の上昇と、諸物価の安定にある程度成功した。

 現代でも円高を避けるために、政府が円売りドル買いをしたりするが、幕府の米買いによる価格維持策はそれと同じである。また両替商たちはすでに通貨の質や供給量が物価にどのような影響を及ぼすのか、すでに理解していた。通貨政策で物価の安定を図るという現代マネタリズム流の手法は、20世紀の社会主義経済での公定価格制などよりもはるかに先進的である。

■8.問屋株仲間は業界団体■

 商品経済の発達につれて幕府も年貢米を財政基盤とする体制から、商品流通に財源を求めた。江戸中期の老中、田沼意次は現在の同業者団体にあたる「問屋株仲間」を公認して独占を許すとともに、その対価として冥加金、運上といった「間接税」の徴収を始めた。

 問屋株仲間はもともと米、酒、塩、味噌、炭など、生活必需品12品目の高騰を規制するために、同業組合として幕府が結成を命じたもので、株とはその会員権をさした。田沼時代末期の大阪では130にものぼる問屋仲間が公認されていた。

 問屋株仲間に入っていない業者が勝手に商売を行った場合は、幕府に訴えれば処罰してくれた。また株仲間の一部が幕府の規制に触れる行為を行うと、株仲間全体が連座して処罰の対象となったので、そのような事態を防ぐための自治活動が行われた。新入りの仲間に対する厳しい選別過程はもとより、仲間の跡取りの品行をチェックして、道楽者、怠け者を排除したり、嫁取り、婿取りに対しても、全員の承認が必要だった。

 問屋株仲間は幕府の指導・統制を個々の業者に伝える「上意下達」だけでなく、業界としてのコンセンサスをとりまとめて、幕府に伝えるという「下意上達」の機関でもでもあった。これは現在の経済産業省が、業界団体を通じて間接的に各事業者を統制するという現在のやり方と同じである。ただ間接税も業界団体を通じて徴収するという点は異なる。

■9.4百年にわたる市場経済システムの進化■

 公共投資政策としての天下普請、需要喚起策としての参勤交代、通貨政策や需給調整を通じた物価安定策、高度な物流や金融のシステム、間接税、そして業界団体による間接的な事業者統制、、、こう見てくると江戸時代に発展した市場経済システムは、現代にそっくりである。

 明治維新後の「文明開化」が急速に進んだのも、こうした近代的な市場経済システムが実態としてすでに江戸時代から存在してからである。経済史的に見れば、明治維新や大東亜戦争敗戦という転機にもかかわらず、江戸時代から現代まで、わが国の市場経済システムは環境変化に適応しながら、400年間に渡って連続的に進化してきたものである。このあたりはロシアや中国とは根本的に異なる。

 こう見れば、たとえば政府(官)と個々の事業者(民)の間に業界団体(公)を設けて業界としての自治を求めるなどという日本流のやり方が、アメリカ流「グローバル・スタンダード」に欠落しているからと言って、一概に時代遅れの産物であるかのように見なすのはおかしい事が分かる。歴史の浅いアメリカの市場経済システムが、まだそこまで到達していないだけの事かもしれない。

 わずかここ10年ほどの経済の不振で、我らの父祖が400年にわたって成長させてきた市場経済システムを弊履にように投げ捨てて、「グローバル・スタンダード」に走るのは、歴史に学ばない愚か者のすることだ。市場経済システムを、どう新しい時代と環境に適応させ、その長所を強みとして発揮させていくべきか、と考えていくべきだろう。

(文責:伊勢雅臣)

国際派日本人養成講座転載終わり