yahooブログ「一隅を照らす寺子屋」よりの記事をご紹介します。
今の日本の家庭教育がどのような状況にあるか。そして家庭こそが、国家を発展させる基礎であり、国家の人材は、家庭から生まれてくるのだということが、実によくわかるお話です。私自身反省することの多い記事です。
転載開始
「修身・斉家・治国・平天下」という言葉をご存知でしょうか?
これは古代中国の四書五経のひとつ「大学」という教えのなかに出てくる、
「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、(平天下)
先ずその国を治む。 (治国)
その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。(斉家)
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。 (修身)
その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。 (正心) 」
という内容を簡潔にまとめたものです。
現代風に言うならば、
良い国(地域)をつくるためには、先ずは、各家庭をよくしなければならない。
各家庭をよくするためには、先ずは、大人がりっぱな人間にならなければならない。
りっぱな人間になるためには、先ずは、その心を正しくしなければならない。
ということです。
結局、良い国をつくるには、
一人一人が心を正しくして、りっぱな人間になるより他に道はない、
その重要なバロメーターが「家庭」ということだと思います。
しかし、安岡正篤先生が、こんなことを書いて憂えておられました。
春早々あまり好い話ではないが、
狂歌好きの中学先生が
生徒に狂歌を教えて各自に作らせてみたものを
一冊の単行本にして世に出したことがある。
題して曰く、
「親を見りゃボクの将来知れたもの。」
その中にこんなのがある。
人なみに 叱(しか)られてみたい時もある
俺の親爺(おやじ)は 俺がこわいか(中二男)
家庭とは 父きびしくて母やさし
それで好いのだ うちは違うが(中二男)
心から すがりつこうとする時に
いつも父さん逃げてしまうよ(中一女)
あんな人選んじゃだめよ あなたはネ
体験がにじむ 母の口癖 (中一女)
哀しさは 勤めに出てのたまにする
母の話題の そのくだらなさ (中三男)
みんなだめ 顔とげとげで いらいらで
他人みたいな わが家一族 (中三女)
どれも痛いほど現実をつかんでおる。
道は近きに在りの痛切な一例ではないか。
(安岡正篤 一日一言より)
我々大人にとっては、
職場と違って、家庭こそが自分の本性が出てしまう「人間性を映す真実の場」なのだと思います。
だから、本当は、家庭こそが「人間修行の場」とも言えるのですが、
そのような理解をしている日本人がどれほどいるでしょうか。
日本の教育改革を叫ぶ人は多いですが、実は、子供よりも大人の再教育こそが重要なのかもしれません。
自分の現状を省みても、大いに反省したいと思います。
転載終わり
どうでしたでしょうか。それにしても、これは一部であるとは言え、これらの中学生の狂歌から垣間見える家庭の、なんだかちょっと寂しい親子の関係が、これが日本の国家を支えている家庭なのだと思うと、心配になりますね。そういう私の家でも、子供たちはこんなふうに感じているのかも知れません。自分を顧みて、まずは自分の再教育が必要だと感じた次第です。
この家庭教育について、国際派日本人養成講座の記事に、『国家の品格』の著者藤原正彦氏が話しておられる記事がありますので、こちらも転載いたします。
転載開始
平成18年の年間ベストセラー『国家の品格』を書いたお茶の水女子大学教授・藤原正彦氏が、自ら受けた家庭教育について語っているインタビュー記事がある。
藤原正彦氏
「そもそも先生が受けられた教育はどのようなものだったのでしょうか」という問いに藤原氏はこう答えている。
私の父と母は全く意見が違うんですね。父は父の祖父、則ち私の曾祖父に育てられました。曾祖父は江戸の末期に生まれた武士、といっても足軽ですが、その曽租父から父は武士道の教育を受けた。その自分の受けた教育を父は私に教えてくれたんですね。例えば、弱いものがいじめられていたら身を挺してでも助けろ、見て見ぬ振りをしたらそれは卑怯だと。それで私は、弱いものいじめの現場に遭遇したとき、身を躍らせていじめている奴と殴り合いの喧嘩をしました。そしてそれを家に帰って父に報告すると激賞してくれました。
一方、母は、なに正義ぶってるの。そのうちに暴力少年の札付けられて、ろくな内申書もらえなくなるよと。女性として地に足のついた現実的な考えですよね。このように、私は父からは正義や理想、母からは現実主義という二つの価値観によって育てられました。したがって複眼的思考ができるようになったことは幸せでした。
父の故郷の実家の二階には、切腹の間というのがあって、不名誉なことをしたらそこで切腹しなければならない。そういう環境でしたから私は父に徹底して卑怯とか名誉とか恥ということについて叩き込まれました。父から卑怯者といわれたら、それはもう生きる価値がないということですからね。武士道というのは定義がありませんから、日常的に教えてもらった中で身についていくものなんですね。
父がよく聞かせてくれた話ですが、父の家は上諏訪から三キロ半くらい山に入ったところにありましたが、あるときその上諏訪で火事があった。当時七歳だった父は山を降りてそれを見に行って、焼けぽっくいを拾って帰ってきたら、曾祖父が激怒して、「直ちに返して来い」と。それで夜中に三キロ半歩いて返しにいった。そのとき曾祖父が父に言ったことは「焼け跡から何かを持ってくるというのは、最も恥ずべき行為だ。これを火事場泥棒というんだ。あらゆる泥棒の中でも最も恥ずかしいんだ」と。地震などの震災地で略奪行為があるでしょう。人が困り果てているときに、その弱みに付け込むというのは卑怯中の卑怯ですね。
最後の火事場泥棒の部分からは、阪神大震災のときに暴動一つ起こらず、人々が助け合う姿が、海外の人々に感銘を与えた事を思い出す。「武士道」の文化的遺伝子は我々の心中にまだ息づいているという事だろうか。
最近のいじめや汚職の問題も、その文化的遺伝子を目覚めさせて、「卑怯とか名誉とか恥」を感ずる心を育てる所から始めなければならないのだろう。
「先生は大学で学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませてらっしやるとか。反響はいかがですか」との質問にはこう答えられている。
新渡戸稲造
劇的に変わりますよ、学生の意識が。それまでの教育で、日本は侵略をした恥ずかしい国だとばかり教わって、日本人としての自信も誇りもない状態で入学してきた学生たちですが、「武士道を読んで随分と変わっていくんですね。あるいは、戦没学徒の遺書を読ませたりすると、これまた劇的に変わります。それまでは、特攻隊員なんて天皇陛下万歳とわけもわからず叫んでいった気の毒な人たちだとある意味で馬鹿にしていたわけですよ。ところが、彼らは出撃前夜まで、ニーチェを読んだり、万葉集を読んだり、母親や兄弟姉妹、恋人にすばらしい手紙を遺書として残している。語彙も実に深く選択されて書かれている。それを現代の学生たちは知って馬鹿者は自分たちだったと気付くわけです。圧倒的教養の落差、思いやりの深さの違いに愕然とするんです。ですから私は若い世代の教育ということには希望を持ちたいと思っているのです。
「国家の品格」を備えた「美しい国」を作る道は、わが先人がすでに切り開いてくれているのである。
転載終わり
今の日本の家庭教育がどのような状況にあるか。そして家庭こそが、国家を発展させる基礎であり、国家の人材は、家庭から生まれてくるのだということが、実によくわかるお話です。私自身反省することの多い記事です。
転載開始
「修身・斉家・治国・平天下」という言葉をご存知でしょうか?
これは古代中国の四書五経のひとつ「大学」という教えのなかに出てくる、
「古(いにしえ)の明徳を天下に明らかにせんと欲する者は、(平天下)
先ずその国を治む。 (治国)
その国を治めんと欲する者は、先ずその家を斉(ととの)う。(斉家)
その家を斉えんと欲する者は、先ずその身を修む。 (修身)
その身を修めんと欲する者は、先ずその心を正す。 (正心) 」
という内容を簡潔にまとめたものです。
現代風に言うならば、
良い国(地域)をつくるためには、先ずは、各家庭をよくしなければならない。
各家庭をよくするためには、先ずは、大人がりっぱな人間にならなければならない。
りっぱな人間になるためには、先ずは、その心を正しくしなければならない。
ということです。
結局、良い国をつくるには、
一人一人が心を正しくして、りっぱな人間になるより他に道はない、
その重要なバロメーターが「家庭」ということだと思います。
しかし、安岡正篤先生が、こんなことを書いて憂えておられました。
春早々あまり好い話ではないが、
狂歌好きの中学先生が
生徒に狂歌を教えて各自に作らせてみたものを
一冊の単行本にして世に出したことがある。
題して曰く、
「親を見りゃボクの将来知れたもの。」
その中にこんなのがある。
人なみに 叱(しか)られてみたい時もある
俺の親爺(おやじ)は 俺がこわいか(中二男)
家庭とは 父きびしくて母やさし
それで好いのだ うちは違うが(中二男)
心から すがりつこうとする時に
いつも父さん逃げてしまうよ(中一女)
あんな人選んじゃだめよ あなたはネ
体験がにじむ 母の口癖 (中一女)
哀しさは 勤めに出てのたまにする
母の話題の そのくだらなさ (中三男)
みんなだめ 顔とげとげで いらいらで
他人みたいな わが家一族 (中三女)
どれも痛いほど現実をつかんでおる。
道は近きに在りの痛切な一例ではないか。
(安岡正篤 一日一言より)
我々大人にとっては、
職場と違って、家庭こそが自分の本性が出てしまう「人間性を映す真実の場」なのだと思います。
だから、本当は、家庭こそが「人間修行の場」とも言えるのですが、
そのような理解をしている日本人がどれほどいるでしょうか。
日本の教育改革を叫ぶ人は多いですが、実は、子供よりも大人の再教育こそが重要なのかもしれません。
自分の現状を省みても、大いに反省したいと思います。
転載終わり
どうでしたでしょうか。それにしても、これは一部であるとは言え、これらの中学生の狂歌から垣間見える家庭の、なんだかちょっと寂しい親子の関係が、これが日本の国家を支えている家庭なのだと思うと、心配になりますね。そういう私の家でも、子供たちはこんなふうに感じているのかも知れません。自分を顧みて、まずは自分の再教育が必要だと感じた次第です。
この家庭教育について、国際派日本人養成講座の記事に、『国家の品格』の著者藤原正彦氏が話しておられる記事がありますので、こちらも転載いたします。
転載開始
平成18年の年間ベストセラー『国家の品格』を書いたお茶の水女子大学教授・藤原正彦氏が、自ら受けた家庭教育について語っているインタビュー記事がある。
藤原正彦氏
「そもそも先生が受けられた教育はどのようなものだったのでしょうか」という問いに藤原氏はこう答えている。
私の父と母は全く意見が違うんですね。父は父の祖父、則ち私の曾祖父に育てられました。曾祖父は江戸の末期に生まれた武士、といっても足軽ですが、その曽租父から父は武士道の教育を受けた。その自分の受けた教育を父は私に教えてくれたんですね。例えば、弱いものがいじめられていたら身を挺してでも助けろ、見て見ぬ振りをしたらそれは卑怯だと。それで私は、弱いものいじめの現場に遭遇したとき、身を躍らせていじめている奴と殴り合いの喧嘩をしました。そしてそれを家に帰って父に報告すると激賞してくれました。
一方、母は、なに正義ぶってるの。そのうちに暴力少年の札付けられて、ろくな内申書もらえなくなるよと。女性として地に足のついた現実的な考えですよね。このように、私は父からは正義や理想、母からは現実主義という二つの価値観によって育てられました。したがって複眼的思考ができるようになったことは幸せでした。
父の故郷の実家の二階には、切腹の間というのがあって、不名誉なことをしたらそこで切腹しなければならない。そういう環境でしたから私は父に徹底して卑怯とか名誉とか恥ということについて叩き込まれました。父から卑怯者といわれたら、それはもう生きる価値がないということですからね。武士道というのは定義がありませんから、日常的に教えてもらった中で身についていくものなんですね。
父がよく聞かせてくれた話ですが、父の家は上諏訪から三キロ半くらい山に入ったところにありましたが、あるときその上諏訪で火事があった。当時七歳だった父は山を降りてそれを見に行って、焼けぽっくいを拾って帰ってきたら、曾祖父が激怒して、「直ちに返して来い」と。それで夜中に三キロ半歩いて返しにいった。そのとき曾祖父が父に言ったことは「焼け跡から何かを持ってくるというのは、最も恥ずべき行為だ。これを火事場泥棒というんだ。あらゆる泥棒の中でも最も恥ずかしいんだ」と。地震などの震災地で略奪行為があるでしょう。人が困り果てているときに、その弱みに付け込むというのは卑怯中の卑怯ですね。
最後の火事場泥棒の部分からは、阪神大震災のときに暴動一つ起こらず、人々が助け合う姿が、海外の人々に感銘を与えた事を思い出す。「武士道」の文化的遺伝子は我々の心中にまだ息づいているという事だろうか。
最近のいじめや汚職の問題も、その文化的遺伝子を目覚めさせて、「卑怯とか名誉とか恥」を感ずる心を育てる所から始めなければならないのだろう。
「先生は大学で学生に新渡戸稲造の「武士道」を読ませてらっしやるとか。反響はいかがですか」との質問にはこう答えられている。
新渡戸稲造
劇的に変わりますよ、学生の意識が。それまでの教育で、日本は侵略をした恥ずかしい国だとばかり教わって、日本人としての自信も誇りもない状態で入学してきた学生たちですが、「武士道を読んで随分と変わっていくんですね。あるいは、戦没学徒の遺書を読ませたりすると、これまた劇的に変わります。それまでは、特攻隊員なんて天皇陛下万歳とわけもわからず叫んでいった気の毒な人たちだとある意味で馬鹿にしていたわけですよ。ところが、彼らは出撃前夜まで、ニーチェを読んだり、万葉集を読んだり、母親や兄弟姉妹、恋人にすばらしい手紙を遺書として残している。語彙も実に深く選択されて書かれている。それを現代の学生たちは知って馬鹿者は自分たちだったと気付くわけです。圧倒的教養の落差、思いやりの深さの違いに愕然とするんです。ですから私は若い世代の教育ということには希望を持ちたいと思っているのです。
「国家の品格」を備えた「美しい国」を作る道は、わが先人がすでに切り開いてくれているのである。
転載終わり