赤ちゃんを中絶しないで。[いのちを守る親の会]
結婚して今はまだ夫婦だけの生活を楽しんで、とか、今は共稼ぎでお金を貯めることに専念してお金がたまったら子供をつくろう、とか、そういう考えで、せっかく授かった子供を安易に堕胎して、そして何人目かで子どもを生んだとすると、その母親には、子供は授かりものという意識よりも自分が作った子供という自己所有の意識が勝るのではないかと思います。
子供を自分の物と考える意識は、子供を時には過保護に、時には苛立つと虐待に近いこともしたり、子どもを自分の考えのとおりに支配したいという気が起こるのではないでしょうか。
渡部昇一氏が書かれていたことがありますが、最近の子供は鬼のように角の生えた母親の絵を書く子がいる。そういう子の母親は、勉強しない子を叱るときに、意識の底に、「なんで勉強しないの。そのために私は二人も堕したのに」という気持ちがあって、それが雰囲気に出て来て子供はそれを敏感に感じるのでは、と。あるいは霊魂の存在を認めるとすれば、背後に堕胎された兄弟の霊を感じ取るのでは、とおっしゃっていました。
そうした子供は、自分より前に本当は兄弟がいたということを表面の意識は知らなくても、無意識下に自分ももしかしたら殺されていたかも知れない。あるいは、兄弟は死んでいるのに、自分だけ生きているという後ろめたさ、そんなものを感じているのかも知れません。人間は表面の心は何も知らなくても、意識の底では多くの人間の意識と繋がっていて、ほとんどすべてのことを知っているという説もあります。
表面の意識が目指すものと、そうした潜在意識の目指すものが違っている場合も多く、表面の意識が幸せを求めているのに、潜在意識は贖罪のための不幸を求めているという場合も多いという精神分析の話もあります。
よく戦争中の残虐行為や、残虐な事件の話を聞きますが、そんな話は、聞くだに耳を塞ぎたくなるような身震いする話です。ところが、胎児の堕胎というのは、時にはそれ以上の悲惨な虐殺です。昔は、掻爬と言って子宮内に器具を入れて、胎児の柔らかい体をズタズタにして掻き出す方法が取られていました。最近では吸引という方法が取られるようです。これも似たようなものです。
胎児は狭い子宮を逃げるように動き、心拍数は1.5倍の200にもなります。時には声をあげる場合もあるといいます。そうやって出された胎児のずたずたにされた身体は、月数の少ないものはトイレに流されるという話を聞きました。
これが人間の生命に対する行為と言えるでしょうか。そこにはまったく胎児の生命への畏敬の念はありません。
そして自分たちの生活が乱されなかったという満足、つまり経済的安定やあるいは世間体が保たれたという安心感で、平気な何食わぬ顔で明日からの生活をつづけていく、これでは、よくあるニュースの殺人犯が、殺人を犯した後もまったく普通に生活して気付かれなかったと報道しているのとそっくりではないですか。
これがほんとに民主主義で、幸福を追求する権利というものなのでしょうか。胎児は母親の胎内に出来たただの物質的な肉塊だと言えるのでしょうか。私たちはみな胎児の時期があったのです。もしその時堕胎されていたら、いない人間です。胎児も同じ人間ではないでしょうか。
「日本オレンジ計画」は日の丸は赤だが、色あせるとオレンジ色になる。つまり日本を色あせさせ、骨抜きにする計画です。また、「日本人獣化対策」という怖ろしい計画があったそうです。
ある意味で「誇りを消失させて一つの
日本国内で合法的に「堕胎」が可能になったのは、昭和23年(1948)に「優生保護法」が制定された時点からです。
一説には戦後、年間300万人400万人堕胎された時期もあり、戦後、通産、1億5千万人の胎児が惨い姿で殺されたとも言われます。
日本人を不道徳な獣に陥れてる「日本人獣化対策」は確実に結実しているわけです。
日本人から誇りを無くし、子孫を先細りにする「アメリカが戦後押しつけた法律や制度を再確認すること」が重要であると、わたしは思うのです。
木村氏は医療の「インフォームド・コンセント(十分な説明と同意)」を日本に初めて紹介、故坂本九さんが歌った「幸せなら手をたたこう」の作詞家としても知られる。
刑法は戦前、戦後を通じて堕胎を厳しく禁じているが、婦人参政権が認められた昭和21年の総選挙で39人の女性代議士が誕生し、第一号の加藤シヅエさんらの議員立法で昭和23年、人工中絶の違法性を阻却する優生保護法(現・母体保護法)が施行された。
米連邦最高裁判決が「中絶は女性のプライバシー権」と認めたのはその25年後のことだから、戦後、日本の男女平等は米国を一気に追い抜いてしまったのだ。
富国強兵に突き進む日本は昭和16年、一夫婦平均5人出産という「産めよ、殖やせよ」政策を閣議決定し、「東亜共栄圏建設と発展のため内地で昭和35年に1億人」の目標を掲げていた。
しかし、その一方で米国の人口学者は昭和初期に、「世界人口の危険地域」の一つに、明治5年の約3300万人から昭和5年の約6370万人へ約60年間で人口がほぼ倍に増えた日本を挙げて、日本は東南アジアに国内過剰人口のはけ口を求める恐れが大きいと戦争の勃発を予言していた。
木村氏は衆院憲法調査会で「優生保護法は、米占領治下に可能になった法律だ。米国の戦後の統治の文献などを読むと、日本にやらせてはいけないことの一つとして、人口の増加ということがあった」と指摘した。
つまり、女性の権利を守るという触れ込みだった優生保護法には、日本の人口増加を抑制するという隠された狙いがあったというわけだ。
しかし、米側から思わぬ反発が起きる。バージニア州のカトリック信者からGHQのマッカーサー最高司令官あてに「このような法律をつくったら、日本人を大量虐殺した将軍、ジェノサイド・ジェネラルと呼ばれるでしょう」と抗議の手紙が届いた。
マッカーサーが自分でサインした手紙には「私は、日本人をジェノサイドするつもりはない」と記され、優生保護法の成立には関係していないことを強調している。
強姦が多発、経済的に困窮していた戦後の混乱期、優生保護法は女性の味方とされた。戦前、「人口1億人」の達成目標年とされた昭和35年は同42年にずれ込んだ。
木村氏は「米国というのは、いろいろな人体実験を含めて、極めて人権侵害を意図的に、大胆にやってきた国の一つだ。広島、長崎という、人間が、人類が絶対起こしてはならない犯罪的戦略によって日本の人口に対するアタックをした。米国がしたもう一つの実験の一つは、日本に優生保護法をつくったということだ」と証言した。
日本は先進国の中でも最も少子高齢化が進んでいる。これは米国の実験が成功したことを意味しているのだろうか。
ベアテさんの「男女平等」が戦後日本の光明として語られることはあっても、世界に先駆けて導入された優生保護法の成立過程や、優生保護法と少子高齢化の関連性に光が当てられることはない。
ローマ人は、食事を健康維持のためでなく、快楽をむさぼるために行ない、食べては吐き、さらに食べるということを繰り返して楽しんだと言われます。そこには、自然からの恵みを感謝する心はなく、食事に供せられる動物植物の生命への冒涜だという気がします。
日 本人は、食事を前にして、「いただきます」という挨拶の言葉をのべますが、それは命をいただくという意味だそうです。命をいただくということの有り難さを あらわす言葉であり、それはいかにも日本人の自然観を感じさせる素晴らしい言葉ですが、そんな日本人が、性に関しては、このローマ人以上の冒涜を犯してい るのではないでしょうか。
食欲というものは、その個体の生命維持のために必ず食事を摂るようにと、自然が個々の生命に与えたものですが、 性欲というのは、自然が、子孫繁栄のために個人に与えたものです。その快楽の部分のみを摘み取って、その結果宿った命を人工妊娠中絶して殺してしまうの は、ローマ人の食事の快楽追求のやり方と同じく、それはまさに神をも恐れぬ所業というべきものではないでしょうか。
昭和45年に、政府が人工妊娠中絶に関して経済的に割と豊かな世帯の女性に対して調査したところ、その40%が賛成だと答えたそうです。その理由は、家族の数を少なくして、より快適な生活を送りたいとする願いからだそうです。
こ れは明らかに、大人が自分の欲望をむさぼることはしても、出産や育児の苦痛や苦労を負うのはゴメンだという利己主義の精神です。子供は一人か二人でよい。 それ以上の面倒は見たくないから、殺してしまえばいいということです。そして快楽の部分のみは享受するのであり、これが女性の権利であると言うのです。
産 む産まないは女性の権利であり、快楽追求は基本的人権だというのです。それでは胎児の権利というものはないのでしょうか。胎児の権利を代弁するものは本来 母親です。しかしその母親が、胎児を殺しても構わないというのなら、胎児は誰も守ってくれるものなく、殺されるだけです。
早期の段階の妊娠中絶は、全く人間として扱われずに、切り刻まれて、以前は汚物と一緒に流されてしまうのみでした。今は医療廃棄物というゴミとして処理されると聞きましたが、そこには供養という概念も全く出て来ません。
胎 児は受精の段階で既に霊魂が宿っていると言われます。切り刻まれて殺されるというだけでも余りにもむごたらしい惨殺ですが、さらに汚物やゴミのように扱わ れて処分されるのです。そこには生命への尊厳は全く感じられません。これでその霊魂が親や社会を恨まないと言えるでしょうか。もちろん高級な霊魂もいて、 全く恨まないという胎児の霊もいるようですが、そうでないものはこのような非業の死を恨まずにはおれないでしょう。
母体保護法という名の胎児虐殺を認める法律を改めるべきです。これほど胎児を殺すことをほとんど無制限に許している国は、世界でも日本ぐらいだという話です。
生命尊重と言いながら、物言わぬ胎児を殺し、その犠牲の上に、快適さを貪ろうとする戦後の日本は、一体自然への敬虔さを忘れたのでしょうか。
戦 後の自虐史観から、日本文化の中心だった神道的な自然観は顧みられることなく、科学的であることが重んじられ、霊的な考え方は排斥されて、精神的なものを 鼻で笑うような、唯物論的な風潮がすべてを支配していきました。そして多い時は年間三百万もの胎児が殺されていたのです。
人という日本語 (大和言葉)は、日止(ひと)と書くと正しい意味と成る言葉であり、お日さまから分かれた生命がそこにとどまって人間となったのであり、男は日子(ひ こ)、女は日女(ひめ)と呼びました。それは、人を単なる物質的肉体的存在ではなく天から天降ったもの、すなわち霊的存在であり、天から命を頂いた存在と 認識していたのです。大人だけが人ではありません。どんな小さな胎児も、天から天降った尊い存在だという思いがあって、子宝としてほんとに慈しんだので す。
そんな日本人が、人を霊的存在だと思わなくなったのは、日本国憲法という国の基本法が、人間を肉体的なものとして扱い、肉体的権利のみを基本的人権として、自由に快楽追求の権利として、最大限に認めるべきだという思想で制定されてからだという気がします。
国家が個人の基本的人権に奉仕するように定められた憲法は、そこに求心力がなく、バラバラの個人ばかりを重んじる遠心力の大きい憲法です。戦勝国が、敗戦国に与えた占領憲法であり、日本の国家解体を目指すような日本弱体化憲法ですから、当然といえば当然なのです。
日本国憲法は、いずれ破棄されるべきものだと思いますが、とりあえずは、母体保護法という胎児虐殺を許す法律を早急に改正すべきです。そして胎児保護法を制定するべきです。このような非道を許していて、道義国家も何もあったものではありません。
今 現在移民受け入れの議論がでていますが、日本人の胎児を年間100万人(現在の推定数)殺しておいて、外国から移民を受け入れるというのは、まるで日本民 族の減少を推進する民族浄化策のようではないですか。
人工妊娠中絶によって日本人の人口を年々減少させ、代わりに毎年20万人づつ移民を入れていけば、最終的には、日本人は日 本列島での少数民族になってしまい、もはや日本という名の別の国になってしまうことでしょう。
しかも、移民のうちで、その大半を占めるの はおそらく中国人です。中国系移民が日本民族を超える人口になったとき、ウクライナで起こっているような、例えば、クリミア半島が住民投票でロシア編入を 決めたように日本列島が中国系移民の圧倒的多数の投票によって中国編入が決まるということもあり得ないことではないと言えます。
そんなことが起る前に、日本人の胎児を殺すことをやめて、きちんと産むよ うにすべきです。
むやみに産んでも育てられないという意見もありますが、だから殺していいということにつながるはずはありません。
この世界は因果応報の世界です。自然科学でも動反動の法則があるように、精神の世界も、霊的世界も、皆因果応報の法則があるのです。殺すものは殺される、 奪うものは奪われるのです。一時的に完全犯罪が成立したように見えても、長い目で見れば必ずその報いは現れます。それは人間の潜在意識は、必ず罪の意識を 持つのであり、そしてそれを贖罪するように自分の運命を作り上げるものなのですから。
一般社団法人「いのちを守る親の会」◆京都本部 ◆<公式ブログ>
から転載しました。
中絶児がどれほど残酷な殺され方をされているのか、多くの人は考えません。戦争で、子供たちや赤ちゃんが、残虐な殺され方をした話を聞くと、私たちは非常 な憤りを感じますが、お腹の中の胎児を人工妊娠中絶するということに関しては、まるで病気治療の手術を受けたのと同じような感覚で、それを妊婦さんに勧め たり、本人も仕方のない事だという思いで、それを受けたりします。
しかし、もし戦争における残虐行為と同じくらいひどいことだと思ったら、本当に仕方がないで済まされるでしょうか。手も足も臓器も、6週間で胎児は出来上 がっています。たとえ小さくても、手術後の掻き出された胎児の遺体は、完全な赤ん坊の姿をしていて、しかもそれが切り刻まれた姿で出て来ます。そのあまり の残虐さには、目を覆いたくなります。
胎児は、中絶という言葉を聞くと、心音が上がるという話もあります。まだ言葉もわからないはずなのに、何故か分かるらしいのです。胎内記憶を研究している 池川医師によると、生まれる前の赤ちゃんは、すべて言葉も理解しているそうです。それどころか受胎前からの記憶があるというのですから、人間は目に見える 肉体以前に霊的な存在だということかもしれません。
中絶される胎児は、非常に心音が上がって、中絶器具から、必死に逃げようとあがきます。その悲惨さを、仕方がないなどと容認してもいいのでしょうか。子宮 というのは、子の宮と書きますが、本来神から授かったいのちが宿る神聖な場所であるから、神の命を宿す神の宮という意味だとおっしゃった方もいました。
その神聖な場所で、親から守られるはずの胎児が、親によって殺されるのです。これは胎児にとっても、親、特に母親にとっても、非常な悲しいことであるの は、確かなことです。中絶をした母親の多くは、その悔恨の気持に苦しめられる人が多いのです。それは、自然に反する行為、本来やるべきでない行為であると 心の底ではわかっているからです。
経済的理由で、中絶が行われる日本、一人いるから二人目はいらない、二人いれば、三人目はいらない、そんな理由で親が子を殺す、あるいは外聞が悪いという 事情から殺す、このような中絶で、年間100万人以上の胎児が殺される国は、異例だそうです。平和に見える日本がこのような中絶を繰り返していることを、 マザー・テレサは悲しまれ、日本は貧しい国だと言われました。そして勇気をもって、中絶をやめ、育てられなければ、里親に頼むことで、胎児を殺すことは絶 対にしないようにと、訴えられました。
胎児の悲惨の上に築かれた豊かさなど、本当の豊かさではありません。多くの青少年問題を見てきた人が、非行、いじめ、引きこもり、金遣いの荒さなどの問題児をもつ親は、たいてい中絶経験があるとおっしゃっていました。
霊的な話には、拒否反応のある人もいるでしょうが、そんな話は別としても、下記の記事の悲惨な画像は、文明国を自認する日本において、この胎児殺しが、道義的に決して許されないということを、明確に示しているのではないでしょうか。
妊娠して困っている人は
昨日も1日、2人の方から
赤ちゃん(胎児)は、
一般社団法人「いのちを守る親の会」◆京都本部 ◆<公式ブログ>から転載です。
最近の性教育は、ほんとに驚きます。日教組による過激な性教育の話は聞いたことがありますが、そうでない学校でも、教科書会社が同じならば、その教科書での取り上げ方は、露骨な部分が多い気がします。
小学校低学年に、あまりにリアルすぎる描写で現実の性を教えるのは、子供にとって心理的ショックを与えるのではないかと思います。男女の性交渉の話を初めて聞く場合はかなりショックのようで、私の知人のある女性は、子供の時に性の話をきいてから、自分のお母さんに対して一時的に、汚いような感じの、嫌悪感が起こったと言っていました。
淡々と教えればいいという人もいるでしょうが、あまりに早い段階で教えるのは子供から父母に対する尊厳、人間に対する尊厳、大人に対する尊厳を奪ってしまいます。真実を教えればいいという問題ではありません。物事には、すべて時期というものがあり、タイミングを外した教育は子供の人格形成の害になると思います。

小学1年生の授業に
いきすぎの声も・・ジェンダー教育・・







