小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

[転載]  在日に乗っとられた劇団四季が京都から撤退

2012年10月30日 01時33分00秒 | 現代日本

くにしおもほゆからの転載です。更に元記事はまお様のブログ『日々あれこれ』ということなので、転載の転載です。

劇団四季といえば、厳しい練習で訓練された役者による見事なミュージカルをみせるというのが売りだったはずですが、これがカタコトの日本語では、興ざめですね。せっかく期待して見に行った人も、まるで誇大広告に引っかかったような、残念な気持ちで、二度と行かなくなるのでしょう。これではもう終わりですね。

どうしてこんなことになったのでしょう。韓国への認識が間違っていたということかもしれませんね。日本人は、日本人同士の住みやすさ、常識的な行動を、外国でも通用すると思い込みすぎていると、庇を貸して母屋を取られるということが往往あるようです。特に韓国、中国では甘い気持ちで、進出しようとすると、元も子もなくしてしまいかねないですね。

 

 

 

まお様のブログ『日々あれこれ』より10月10日の記事を転載させて頂きました。

 
JRの車内で「ライオンキング」大阪公演のCMを何度も流しています。
イメージ 1
何も知らない人がほとんどでしょう。
見に行く・行かないは、この事実を知ってから決めて下さい。
 
(以下、転載記事)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 
在日に乗っとられた劇団四季が京都から撤退

http://t.co/m89wJZvR

http://mainichi.jp/sponichi/news/20121009spn00m200009000c.html



劇団四季:京都から“撤退” 常時公演が終了…

2012年10月09日


劇団四季がJR京都駅内にある劇場「京都劇場」で行う常時公演が8日、終了した。京都からの事実上の撤退でこの日、ミュージカル「桃次郎の冒険」が千秋楽。10年間続いた常時公演は“閉幕”となり、今後は単発公演を実施していく。

同劇場は02年1月にオープン。こけら落とし公演は「オペラ座の怪人」で、07年12月に退団した俳優の石丸幹二(47)が出演した。これまでに「マン マ・ミーア!」など39作品、計3133回上演。総来場者数は約230万人を数えた。劇団四季では99年9月、札幌市のJRシアターが札幌駅の再開発に伴 い閉館。10年5月には、福岡市の福岡シティ劇場が経営不振を理由に常時公演を休止し、撤退している。(スポニチ)


【原因】

51:名無しさん@恐縮です:2012/10/09(火) 14:35:28.91 ID:WoRQhLi50

●在日に乗っとられた劇団四季●

「ライオンキング」
主催:劇団四季/フジサンケイグループ 特別後援:JR東日本

ラフィキ=金原 美喜、鄭 雅美、茜 りな、光川 愛(韓国)
ムファサ=平山 信二(韓国)
ザズ=布施 陽由(韓国)
スカー=金森 勝(在日)
シェンジ=孫田 智恵(韓国)
バンザイ=本城 裕二(韓国)
エド=韓 盛治(在日)
ティモン=黒川 輝(韓国)
プンバァ=福島 武臣(韓国)
シンバ=三雲 肇(韓国)
ナラ=江畑 晶慧、谷原志音、愛沢 えりや(韓国)


ソウル公演の条件として韓国人の入団を認めさせられる

当然日本語がカタコトだから韓国人が出演する回は人気が無くなる

韓国人と分からないように全員に日本風の芸名を与える(その後キャストの発表自体を取りやめる)

どれがハズレ回か分からないので常連が来なくなる

新規の客もカタコト韓国人の演技に失望して二度と来なくなる

劇団四季終了

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【拡散希望】
酷いことになってるのは日本のミュージカル界。

劇団四季がわざわざソウルでオーディションして日本に連れてきた韓国人に日本語を特訓し、
日本人の名前をつけて何十人も舞台に立たせている。

ライオンキング、ウィキッド、アイーダ、サウンド・オブ・ミュージックは主役をやらせている。
ちなみに、今後始まるアイーダの主役は在日の朴慶弥こと雅原慶。

劇団四季だけじゃない。
100周年を迎えたばかりの日本で最も由緒ある帝国劇場でも主役は韓国人になる。

来年上演する「レ・ミゼラブル」の主役ジャン・バルジャン役はキム・ジュンヒョンという韓国人。
山口祐一郎とのダブルキャストとはいえ、なぜわざわざ韓国人が日本語で帝劇の舞台に立つ?
侵食されている日本のミュージカル界。

劇団四季 韓国人俳優 データベース
http://koreanactorshiki.syanari.com

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劇団四季の韓国人団員、通行人に殴る蹴るの暴行
1:08/31(火) 10:56 +C+nrD1e

神奈川県警青葉署は29日までに、駅で男性を殴ってけがをさせたとして傷害の疑いで、
「劇団四季」団員で韓国籍の金東奎容疑者(30)=横浜市青葉区あざみ野=を現行犯逮捕した。

同署によると、金容疑者は
「舞台に上がる仕事なので、顔を殴られないように先に殴った」と供述している。

逮捕容疑は28日午後10時35分ごろ、同区の東急あざみ野駅改札内で、
予備校生の男性(20)の顔を数回殴ったり、倒れたところをけったりしてけがを負わせた疑い。

降車する際、金容疑者が「歩くのが遅い」と男性の背中を押し、口論になった。
駅員が110番通報し、署員が駆け付けた。

劇団四季によると、金容疑者はミュージカル「ライオンキング」などに出演している。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/crime/100829/crm1008291441007-n1.htm

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元記事スレより一部引用しました。
関東に住んでるし一度くらいは見てみようかな?と思ってたけど
これでは、行く意味無いなあ。

劇団を乗っ取るんじゃなくて、韓国で劇団を作って活動という風には考えないんだ?
舞台装置・衣装、入り込むとその費用も備品もそのまま使えるという考え?

 

 

 

 


東條英機の慟哭

2012年10月28日 10時55分56秒 | 歴史

ある方から、岩間弘氏の著書『東條英機の慟哭』というのをメールで教えてもらいました。その著書の一節が書いてあって、読むと、日本が大東亜戦争の開戦を決意した時の東条英機首相の様子やその心の苦しみなどが伝わってきて、この戦争が決っして侵略戦争ではなく、防衛戦争だったことをはっきりと示していました。そのときの、東条首相のお気持ちなどを考えると、切ないようなしかし感動するような、そんな感慨を持たずにはおれませんでした。その一節をここに転載させて頂きます。




東條英機の慟哭


今、東條英機の供述書を終って思うことは米軍の逮捕の使者が自宅に来た時、東條英 機はピストル自殺を図ったが、どうしたことか手元が狂い自殺を為損ったのであった。首相で陸軍大臣という最高責任者だった者がと世間から冷笑を受けたが、 あれは神様が日本の為に死なせない様に、手許を狂わせたものであったと私には思えてきた。

東條英機程の人が普通だったら手元が狂う筈はな いからである。多くの人達はそんな馬鹿な、とお思いになるかも知れないが神様は全知全能であるから、神様なら不可能を可能にすることが出来ると思う。之は 信じるか信じないかの問題だから、判ってくれる人は判ってくれると私は思う。


さて余談になったが神様は東條英機にこの供述書を書 く意思と時間を与えて下さったのだと私は思う。大東亜戦争について述べるのに、どんな人が書こうがこの東條英機の供述書に勝るものはないと私は思った。 “神様は日本を護って下さっている”これを読むとその感が深い。多くの人がこの供述書を読むことによって、日本が戦った大東亜戦争の実相を知ることが出来 て、日本は侵略国ではなかったのだという事を正しく知ることが出来るのではないかと思うのであります。


その言葉に、行間に、天皇への忠誠と、憂国と愛国の裂帛(れっぱく)の気合が感じられる。そこには死を覚悟した、いや、生死を超越した勇者のことばがあるのみである。


さ て、東條英機のお孫さんに岩浪由布子(いわなみゆうこ)さん(本名岩浪淑枝=英機の長男英隆氏の長女)が居られるが、その方が書かれた『祖父東條英機「一 切語るなかれ」』があるが、その中に「祖父が巣鴨拘置所にあった時に三浦先生は東條の主任弁護人、清瀬一郎先生と弁護の仕方で激論を交わしたことがある。

清 瀬さんは東條の罪を軽くすることに奔走されていた。しかし、三浦先生の考え方は違っていた。たとえ死刑になったとしても、法廷では東條は堂々と自分の考え を述べるべきだと。そうでなければ、何故戦争を始めたかの一番大切なところが曖昧になるという立場をとられた。祖父もまったく三浦先生と同じ考えだったか らこそ、あれほど堂々と法廷で自論を述べることが出来たのであろう。」と書かれている。供述書の終りの摘要に堂々と述べている。再び述べると


「私は茲に重ねて申上げます。日本帝国の国策乃至は当年合法に其の地位に在った官吏の採った方針は、侵略でもなく、搾取でもありませんでした。

一歩は一歩より進み又、適法に選ばれた各内閣はそれぞれ相承けて、憲法及び法律に定められた手続きに従い之を処理して行きましたが、遂に我が国は彼の冷厳なる現実に逢着したのであります。

当年国家の運命を商量較計(注・左右する)するの責任を負荷した我々としては、国家自衛のために起ったという事が唯一つ残された途でありました。

我々は国家の運命を賭しました。而して敗れました。而して眼前に見るが如き事態を惹起したのであります。

戦争が国際法上より見て正しき戦争であったか否かの問題と、敗戦の責任如何との問題とは、明白に分別の出来る二つの異なった問題であります。

第一の問題は外国との問題であり、且つ法律的性質の問題であります。

私は最後まで此の戦争は自衛戦であり、現時承認せられたる国際法には違反せぬ戦争なりと主張します。

私は未だ嘗て我国が本戦争を為したことを以て、国際犯罪なりとして勝者より訴追せられ、又敗戦国の適法なる官吏たりし者が、個人的の国際法上の犯人なり、又条約の違反者なりとして糾弾せられるとは考えた事とてはありませぬ。

第二の問題、即ち敗戦の責任については当時の総理大臣たりし私の責任であります。この意味に於ける責任は、私は、之を受諾するのみならず真心より進んで之を負荷せんことを希望するものであります。」と結んでおります。


大 東亜戦争は自衛戦であったというのは、その日本と戦った米国の連合国最高司令官マッカーサーは昭和二十五年五月二十五日、北朝鮮が突如三十八度戦を突破し て韓国に攻め入った朝鮮戦争によって、共産主義国の脅威にはじめて目覚めて、朝鮮戦争に原爆を使うかどうかについて、トルーマン大統領と意見が合わず解任 された後、アメリカ上院で証言し、「日本が太平洋戦争を戦ったのはSecurity(セキュリティー・防衛安全保障)の為即ち自衛の為だったと証言したの である。


日本とフィリッピンで死闘を戦った最高司令官が証言した意義は重大である。東京裁判を指揮して七名を絞首刑、残り十八名は全員有罪としたその人が、防衛・安全保障のためだった即ち侵略戦争ではなかったと証言したことは、東京裁判は間違っていたと証言した事と同じである。


これを念頭に置いて、再び岩浪由布子さんの書物から次の文を読むと東條英機の心情に心が打たれるのである。


即 ち「・・・開戦を避けるために日夜必死に続けられていた日米交渉は遂に決裂し、昭和十六年十二月八日、日本は米・英に対して宣戦を布告した。十二月六日深 夜から七日にかけて、祖母たちは祖父の寝室から忍び泣きの声が洩れてくるのに気がついた。その声は次第に慟哭(どうこく)に変わっていった。祖母がそっと 寝室を覗くと、祖父は蒲団に正座して泣いていた。和平を希求される陛下の御心に心ならずも反する結果になり、宣戦布告をするに至った申しわけなさで身も心 も、ちぎれる思いだったに違いない。慟哭の涙はとめどなく流れた。祖母は寒い廊下にしばし茫然と立ち尽くしていた。」とあります。


これを読むと、東條英機はこの戦争に、日本が勝利することは、きわめて難しいと覚悟をしていた様に思われる。それが判って居ても日本は戦わざるを得なかったのである。そして死中に活をもとめたのだろう。

日本は戦争はしたくはなかったのだ。しかし戦争をしないでハルノートを受諾したらどうだったか。

日 本は一戦も交えずに敗けたと同じに、支那、満州、仏印から、陸、海、空軍及警察の撤退、満州政府の否認、汪兆銘政府の否認ということになれば日本の面子は 丸つぶれとなり、日本国内に反対の声が湧き起こり、三国干渉で旅順、大連を返還した時と比べものにならない騒乱の発生が予想されるのである。

そうなれば戦はず敗戦国となり、収拾がつかなくなる恐れがあったのである。

イ ンドのパール判事はハルノートについて次の様に語っている。「現在の歴史家でさえも、つぎのように考えることができる。すなわち、今次戦争についていえ ば、真珠湾攻撃の直前に、アメリカ政府が日本に送ったものと同じ通牒を受けとった場合、モナコ王国、ルクセンブルグ大公国のような国でさえも、アメリカに たいして武器をとって起ちあがったであろう」(田中正明「パール博士の日本無罪論」)と言っているのである。


再び云う。日本は自ら好き好んで戦ったのではなく、自存自衛の為の戦いで侵略戦争ではなかったのである。





江戸時代の歴史の嘘 武士が搾取したという嘘

2012年10月28日 10時44分36秒 | 歴史

かつて日本は美しかったから2件の記事の転載です。

 

江 戸時代について、わたしたちが学校で習ったことは、かなり違っていることが多いようです。戦後マルクスの階級闘争史観によって、歴史が解釈されるようにな り、支配者に苦しめられる被支配層である農民みたいな構図が日本の歴史にも当てはめて考えられるようになりました。小林秀雄氏は、こういうイデオロギー史 観で歴史を見る時、真実の歴史はけっして見えないということをおっしゃっていました。


我々 日本人が日本の歴史を振り返る時、そこには同じ日本人としての生命の流れ、自分の中に流れている祖先からの生命の流れを見るように、歴史を見るのが本来の 見方だと思うのです。自分の父親の生涯をたどって、そこに自分の親の生き方をみて、自分の中にも流れているものを感じ取るのと同じように、日本人として日 本の歴史を見るときに、そこに祖国といういとおしさの感情が湧くのが自然ではないでしょうか。

 

現 代という過去の結末を知っている立場で、歴史の中に生きた人々を断罪していても、その人々の苦悩も熱情も理解する事は出来ないでしょう。今の学校で習う教 科書は、まさに歴史が断罪されている教科書といえるかもしれません。そこからは、日本を愛する気持ちなど湧いてくるはずはありません。

 

 

武士が搾取したというウソ

武士が農民から搾取した?マルクス階級闘争史観。

S


 教育学博士の若狭和朋氏は高校時代、日本史の教師が江戸時代に武士が農民や町民から搾取したと教えられたそうです。

先生 
「搾取により百姓は米は満足に食べれなかった・・・」
若狭氏
「誰が食べたのですか?」
先生 
「支配階級の武士や大名だ」
若狭氏
「何パーセントぐらいいたのですか・・・武士たちは」
先生 
「6%くらいかな・・・」
若狭氏
「? 武士や大名の胃袋は大丈夫でしたか」
先生 
「なにを?」
若狭氏
「米は食べ物だから、酒や酢になる分を引いても、結局は食べるしかないでしょう」
先生 
「理屈を言うな・・・」

 私も子供のころ武士や大名などの支配階級によって農民は苦しめられたというようなことを教えられました。「武士は農民を生かさず殺さず」という話も聞いたことがあります。年貢など五公五民、六公四民というように重税だったとも教わりました。
  しかし、実際は江戸時代の初期に検地が終了しており、ここで村高が確定しています。この頃の幕府領400万石のうち年貢米は150万石前後ですので、年貢 率は30~40%となります。そして江戸時代にも農業は発展しているわけで、生産性の向上、収益性の高い商品作物の導入、農産加工業の進展、農民の賃金収 入などがあり、村高は固定されているわけですので、実質年貢率は十数パーセントから二十パーセントぐらいになっています。現代の一般サラリーマンの税金と ほとんど変わりません。

 結局、われわれは西洋の貴族が農民を搾取したというような西洋型封建制度をマルクス主義史観を通して、武士も同じだと教えられたということなのでしょう。この「ウソ」は戦後に作られたものだと思います。

 以前「武士の家計簿」という映画がありましたが、その原作を見ますと、歴史学者の磯田道史氏が加賀百万石の会計係という大藩のエリートの猪山家の36年間の家計簿を分析しています。猪山家当主の直之の一年間のお小遣いがわずか19匁。現在の価値に換算すると7万2千円で す。草履取りの家来は衣食住保障され、年に給銀83匁プラスお使い代などもろもろもらっており、ご主人より懐具合がいい。武士の家の使用人である下男下女 のほうがかえって豊かな商業や農家だったりしています。正月には武家の女性たちが下男下女を逆にもてなしたりしています。
 この武士の姿は外国人も指摘して、財力も権力もひけらかすことのない日本の武士が農民や町人に敬意を払われていることに驚きを覚えています。

  ちなみに江戸時代は「士農工商」という身分制度があったといわれていますが、これは支那の古い書物の呼び方で「武士」「町人」「百姓」の3つが正解のよう です。職業による身分の区別であっても血統ではなく、きびしいものではありませんでした。武士から百姓になるものもいれば、百姓から武士になるものもいま した。また、漁業や林業も百姓であり、百姓=農民ではない。町の鍛冶屋は町人ですが、村の鍛冶屋は百姓です。百姓とはそもそもはたくさんの姓という意味で あり天皇から姓を与えられた公民の総称です。

 なんだか随分ウソ教えられてきました。江戸時代に農民一揆などありましたが、体制破壊が 目 的ではありません。江戸時代は権力分散型社会であり、武士は特権階級でしたが財力はなく、町人に財力があり、百姓は天皇の権威の下に多数派として存在して いたのです。そのため日本では西洋のような「革命」は起こりませんでした。



参考文献
 朱鳥社「続・日本人が知ってはならない歴史」若狭和朋(著)
 海竜社「国家への目覚め」櫻井よし子・田久保忠衛(共著)
 小学館新書「明治人の姿」櫻井よし子(著)
 自由社「日本人の歴史教科書」
 小学館「天皇論」小林よしのり(著)
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)

添付画像
 日下部金兵衛の「稲刈り」(PD)

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武士の時代と聞いて

武士が搾取したなどというのはウソ。

S

 江戸時代の武士の時代と聞きますと、子供の頃から士農工商として差別があった、武士は切捨て御免の特権があり威張っていた、とか教えられたと記憶しています。なにやら武士は裕福で特権階級で庶民から搾取していたような印象を持ちます。
 ところが実際の武士は質素な生活をしており、権力をひけらかすようなことはせず、家来や下僕下女を大切にし、町人を大切にし、非常に尊敬されていたのです。

  最近、「武士の家計簿」という映画があったでしょう。原作は磯田道史著の「武士の家計簿」です。これは加賀百万石の会計係の猪山家の36年にわたる家計簿 が発見され、その分析を行った本です。これによると猪山家の年収は銀換算で4356匁(もんめ)あまりで一匁4000円換算だと1742万円ですから高給 取りといえます。しかし、武士は武士身分として格式を保つための支出が多く、召使を雇う費用、親類や同僚と交際する費用、武家らしい儀礼行事を行う費用が 多くあり、これをや支出しないと武家社会から確実にはじきだされ、生きていけなくなります。そしてなんと借金が年収の2倍ありました。これは当時では珍し くないものだそうです。

 当主の直之の一年間の小遣いがわずか19匁=72,000円です。彼よりも草履取りのほうが懐具合が良いこと が わかっています。草履取りは衣食住が保障されていますから、年に給銀83匁(約332,000円)もらえ、月々に小遣いが50文(約2,300円)プラ ス、年3回のご祝儀、お使いに出るたびに15文(約750円)をもらっていたのです。

 この武士の時代は「圧倒的な勝ち組」を作らないような構造となり、武士は身分は高いけれども貧乏。商人は金持ちだけれども卑しい身分とうい感じです。西洋の価値観では貴族たちがうなるような財力や権力で平民を従えさせたのとは全くことなります。

 「切捨て御免」というのは俗説であり、幕府の農民統制令では「百姓をむさと殺候事ご停止たり」と農民を理由も無く斬り殺すことを禁じています。「農民は生かさぬよう、殺さぬよう」についても同様です。
  また、士農工商といわれていますが、実際には商と工の間には身分さは無く「町人」というくくりでした。血統による身分ではなく、職業による身分でしたの で、町人は金を積んで武士になったり、武士が農民になることも可能でした。教科書の中にはこのことを指摘し始めた教科書もあります。

 山川高校教科書 日本史
「このような身分さを設けたのは、農工商の人々に、武士の支配への不満をまぎらわせようとしたものと考えられる。身分差別が動かせないものであるように人々に思い込ませていった」

「・・・統制の厳しい農民の生活はまずしく、衣服は麻や木綿にかぎられ、食事も麦・粟などの雑穀が多く、家屋はかや葺きやわら葺きが普通で、居間にむしろをしくぐらいであった。人々はそのような生活のなかで、古くからの風習に根強く支配されていた」


 まるで教科書は金持ちの特権階級の支配者が被支配者を搾取しているかのようにイメージさせて書いているでしょう。これはマルクス階級闘争史観とうフィルターを通して語っているのです。我々はこうしてマルクス思想を刷り込まされていたのです。



参考文献
 新潮新書「武士の家計簿」磯田道史(著)
 講談社現代新書「貧農史観を見直す」佐藤常雄・大石慎三郎(共著)
 自由者「日本人の歴史教科書」
 山川出版社「もういちど読む 山川日本史」五味文彦・鳥海靖(編)

添付画像
 江戸図屏風(PD)
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動画『武士の家計簿』 予告
http://www.youtube.com/watch?v=2W_K0z-IHAI

 

 

 

 


二、グルリ一遍(いっぺん) 「二宮金次郎」

2012年10月20日 02時04分37秒 | 歴史
サイタニのブログから、二宮金次郎の二回目を転載します。

ここ最近、gooブログにアクセスしようとしても、接続がリセットする状態がずっと続いていましたが、やっと投稿できそうです。

二 宮金次郎の伝記は子供の頃読んだ記憶はありますが、こうして読むと、ほとんど忘れていて、改めて金次郎さんという人が、日本人の努力型の偉人の原型のよう な人だと言う気がします。奉仕精神と、不屈のポジティブ思考、楽天的な考え方と創意工夫の達人、こうした考え方を子供の頃から身に着けていたというところ が驚きです。


こ こまで読んだだけでも、金次郎さんは心の持ち方の天才のような人で、このようなやり方をすれば私たちも金次郎さんという人に近づけるような気がします。幸せという のは、サイタニさんの仰るように、自分の中に幸福感をいかに抱けるかという問題ですから、金次郎さんの生き方というのは、幸福になるにはどうすればいいかという 見本なのかも知れません。幸福とは、なにも楽をすることではなく、自分が物事や、自分自身にいかに満足できたかということですからね。







金次郎のわらじ 
 
つづき
 
利右門(りえもん)は酒のつぼを押しいただきました。ちびりちびりと、久しぶりの酒を大事に味わって飲みました。
ぽっと赤味がさして生気(せいき)がでてきた父をかこんで、母も金次郎も友吉(ともきち)もにこにこと嬉しくなりました。
でも、貧しい生活はそれからも続き、身も心もすりへらして働いた利右衛門は、病気がちになり寝てすごす日が多くなりました。
 
村では、酒匂川の大水を防ぐための堤防づくりが始まりました。一軒から一人ずつ男がでて、土をもりあげたり石を積んだりするのです。洪水の恐ろしさは骨身にしみているので皆真剣です。父が病気なので、二宮家では十二歳の金次郎がでることになりました。
 
もっこで砂利を運んだり、石を持ちあげたり、大人たちに混じって金次郎はせいいっぱい働きました。
「金坊、よくやるね」
「とうさんの具合はどうだい」
と、村の人たちはあたたかい声をかけてくれます。
 
しかし金次郎は、自分が大人たちのように仕事ができないのを、申しわけなく思いました。
『何かおれにできることで皆さんの役に立つことはないだろうか』
そう思いをめぐらせながら働いていると、村人たちのわらじの鼻緒がはげしい重労働のためよく切れることに気づきました。
「そうだ」
にっこりとした金次郎は、村の人たちが帰ったあと、あちこちに捨ててある鼻緒の切れたわらじを拾い集めました。
そしてそれを家にもって帰ると、夜おそくまでせっせと鼻緒をすげかえます。あたらしいわらじも何足かつくりました。
 
翌朝、村人たちは、仕事場にていねいに繕(つくろ)ってあるわらじと新しいわらじが木の枝にかけてあったり、そこここに置いてあるのに気づきました。
はげしい土運びに鼻緒が切れた村人たちは、「ほう、これは助かるな。使わせてもらおう」
「うん。繕ったわらじが落ちてるなんて不思議だなあ」
と言いながら、わらじをはきかえて働くのでした。
 
次の日も、その次の日も繕ったわらじや新品のわらじは置いていてありました。
誰いうともなく、それは金次郎少年のしたことと知れて、村の人たちは深く心を打たれたということです。
 
 
 
※ 「働く」とは、はたを、楽(らく)にすることです。
   幸福になる法則があります。「与えよさらば与えられん」
   洗面器の水を両手で押すと水は手前に戻ってきますが、水を手前に
   両手で戻すと、水は逃げていきます。これと同じで、多くの人に
   親切を与えると多くの人から親切がかえってきますが、奪うと
   奪われます。
 
 
 
二 金次郎のニックネーム
 
金次郎は幼いときから良いと思ったことは進んでやりましたし、百姓の子供ながら学問がすきで、学ぶための時問をうみだす工夫もこらしました。他の子供たちと違ってみえたことも多々あったでしょう。ユニークなニックネームがつけられました。
 
 
一、ドテ坊主
ド テとは土手のことです。堤、または堤防ともいいます。酒匂川(さかわがわ)は、たびたび洪水をおこしては堤防を破りました。父利右衛門が田畑を全部流され たのも、洪水で堤防が切れたためです。村の人たちはいつも、どうやって堤防を守るかという話をしていました。金次郎も実際にひどい目にあいましたし、堤防 に行っては、
「うーん、どうしたら洪水がふせげるだろ」と考えるのでした。幼いころから堤防を遊場のようにしていましたので、小さなくずれはなおしたりします。堤防にはいつも金次郎の姿がみられ、人々は彼のことを「土手坊主」と呼ぶようになりました。
 
堤防を調べに役人がきますと、金次郎はその役人にぴったりついてまわります。
「そこをそうしては水あたりがつよいよ」
「ここをもっとなおしたほうがいいよ」
と口だししてまわりの人々をはらはらさせました。
 
また、こんなこともありました。十三歳の頃のことです。
金次郎はとなり村の農家で十日間ほど子守をして働いて、袷(あわせ)一枚と銭二百文をもらってわが家に帰るところでした。前方の枯れ草の上に一人の老人がうずくまっています。
 
「誰かこの松の苗を買ってくれる人はおらんかのう。せがれが病気なんだが薬も買えないんだよ」
「いくらなの。おじいさん」
「二百文でいいよ。二百本あるよ」
困ったようなおじいさんと二百本の松の苗をみていて、金次郎はあることを思いつきました。
 
「酒匂川の土手にこの松の苗を植えたらどうだろう。きっと村を洪水から守るのに役にたつぞ」
「おじいさん、おれに売って下さい」
 
金次郎はもらったばかりの二百文で二百本の松の苗を買って、一番洪水に弱いと思われるあたりに一本一本ていねいに植えていきました。
 
この松の苗は大きく育って村を洪水から守ったということです。
 
 

 

二、グルリ一遍(いっぺん)  
 
 
今日は雨です。雨の日の仕事に米搗(こめつ)きがあります。臼(うす)に入った玄米を杵(きね)で搗(つ)いて糠(ぬか)をとりのぞいて白米にするのです。
 
金次郎は米搗きをしながら本を読むにはどうしたらよいか考えました。臼のそばに箱を高く積み重ねて置き、その上に『大学(だいがく)』や『論語(ろんご)』の本をのせます。
まず一節読みます。それを味わったり唱(とな)えたりしながら杵で米を搗き、臼の周囲をぐるりとまわります。そしてもとの場所へもどってきたとき次の一節を読む、というふうにして読書しました。それで金次郎のことを「グルリ一遍」と呼ぶようになりました。
 
 
三、キじるしの金さん
 
 
金次郎は、こうして日々を明るくいそしんでおりましたが、寛政十二年 (一八○○年)、父は病の床についたまま、ついに帰らぬ人となってしまったのです。母よしは、三人の子どもを育てながら家を支えていかねばなりませんでした。
 
「みんなで力を合わせてやっていこうよ」
母 を励ましながら金次郎は田畑へでて働きました。朝はうす暗いうちに起きて山に行きます。木をきって薪(まき)をつくり、それを町へ持っていって売るので す。夜は縄(なわ)を綯(な)い、わらじをこしらえます。それらを売ったお金で日用品を買うのです。わずかなお金ではありましたが、金次郎の家にとっては 有り難い、なくてはならないお金でした。
 
そして金次郎は、暇(ひま)をみつけては以前父に手ほどきしてもらった『大学』や『論語』などの本を読みました。本を読み、考えます。
 
生活しながら考え、自然を見つめては考え、また読みます。働いて一家を支えている金次郎に、学問は生きる道すじや物事の理(ことわり)を示してくれ、未来に明るい光を感じさせてくれるものでした。
 
ですから金次郎は風呂を焚(た)きながらも本を読みます。薪(たきぎ)を背負(せお)って町に売りに行くときも手放しません。
「おいみろよ。キじるしの金さんだよ」
「百姓に学問なんかいらないのになあ」
「本を読みすぎて頭がおかしくなったんじゃないのか」
と村人たちがうわさします。
 
突然、金次郎の声がします。それも大声です。
「大学の道は、明徳(めいとく)を明(あきら)かにするにあり。民(たみ)に親(した)しむにあり。至善(しぜん)にとどまるにあり」
 
声高らかに『大学』の中のことばを口ずさむのです。いつでも、どこででも、本を読み高らかに唱えるのですから、
「やっぱりキじるしの金さんだなあ」
と村人は語りあうのでした。
 
つづく
 

財団法人新教育者連盟 「二宮金次郎」より 





二宮金次郎

2012年10月07日 14時49分55秒 | 歴史

サイタニのブログからの転載です。

サイタニさんが、二宮金次郎の連載を始められました。昔の小学校には、必ずこの二宮金次郎さんの銅像がありましたが、今はない所も多いようです。戦後日教組によって、小学生に人間が人として行うべき道徳を教えることは、思想の押しつけになるといって、道徳的なことを教えることは悪いことだという考えで、人間の生きるべきあり方を教えることをしなくなりました。

金次郎さんは、昔の日本人には、代表的な偉人であり、模範となるべき人として、多くの小学校でその生き方を学びました。子供はそうした偉人の生き方をけっこう喜んで聞き、みな憧れてそのように生きたいと思う子も多くいました。偉人の言動は、人々を元気にし、勇気づけ、励ます力があります。彼らは歴史の中の生きたお手本であり、成功例であるから、同じ人間として、自分にも出来るという気持ちをもたらします。

道徳というのは、確かにともすれば、押しつけになることもありますが、こうしたある意味体験談とも言える偉人のお話は、生きて子どもの心に届くのではないでしょうか。また日本の歴史に現れてくるこのような偉人のお話を教えずにいて、本当に日本の国を受け継いでいけるのでしょうか。先人の心を知らずに国としての誇りをもつことができるのでしょうか。

 

 

 

二宮金次郎
 
はじめに
 
谷口雅春先生は『生命の實相』第十四巻教育篇において、「人は成ろうと思う者には必ずなれるのだ。知ろうと思って知れないことはありえないのだ」と 彼らを鞭撻(べんたつ)し、勇気づけ、世界の偉大な学者、発明家、英雄、豪傑、聖賢(せいけん)の立志伝などをやさしい言葉で説いて聞かすようにせよ、子 供は偉人の立志伝を喜んで聞くものだ。それらの偉人と同じくなんじの内にも磨けば磨くほど、どれだけでも生長する潜在能力の蔵(かく)されていることを彼 に知らしめよ。何事でもできると思って突き進めば必ず成し遂げうるだけの力を人間は授かっているものだという真理を、子供に理解力がつき始めた時、その初 期から教え込むようにするがよいのである。とご指導くださいました。
中略
かつて多くの小学校などには、二宮金次郎の銅像や石像がありました。先生や親から聞いた金次郎の話―伯父(おじ)の家に預けられ、農作業に励みながら、夜なべ仕事をしたり、学問をしたという話―に感動し、志を抱き、身を励まし、名を立てていった先輩たちが数多くいました。
 
また二宮金次郎は「人は天地のあらゆるものとご先祖の恩を受けてこの世に生きている。これに報いることこそが報徳であり、人の道である。報いるということは、いっさいのものの長所や美点を引き出し伸ばしていくことだ」と 言っています。まさに「生命の教育」と同根の精神です。学校や地域などの教育現場から、多くの偉人たちの立志伝が姿を消し、「倹約」や「勤勉」の美徳が語 られることの少なくなった現代の世にあって、本書が美しい「日本の心」を呼び覚ます一灯となればと念願してやみません。
 
 
金次郎少年のわらじ


 
二宮金次郎は、江戸時代も後期の天明七年(一七八七年)、相模(さがみ)の国栢山(くにかやま)村(今の小田原市栢山)に、二宮利右衛門・よし夫婦を父母として生まれました。
父の利右衛門は、「栢山の善人」とあだ名されるほどなさけぶかい人で、困った人がいるとすぐにお金を貸してあげるのでした。証文もとらず「返せ」と催促もしません。貧しくて困っている人はいくらでもいて、二宮家のたくわえはどんどんなくなっていきました。
すると、利右衛門は父の銀右衛門が汗水流して築いた田畑を手放してまで、村人にお金を用立ててあげるのでした。
 
利右衛門は、もともと田畑を耕すより本を読むほうが好きなおっとりとした人で、先祖伝来の土地を何がなんでも守りぬこうという気持ちは薄かったようです。
寛政三年(一七九一年)、関東地方を大暴風雨が襲いました。いつもはゆるやかに流れている酒匂川は水量が増え、ゴオーツと音をたてて今にも栢山村に流れてきそうです。村人たちは必死で土嚢(どのう)を積んで防ごうとしましたが、堤も切れ村は濁流に呑みこまれてしまいました。
 
利右衛門とよしは、畳を高く積みあげた上に五歳(以下数え年)の金次郎と二歳の友吉をのせて、なんとか一家四人の命は助かりましたが、実るばかりだった稲は、跡形もなく流されてしまったのです。
 
利 右衡門はがっかりしました。水田は砂や石でおおわれ河原のようです。親子四人、この冬をどう過ごしたらよいのでしょう。生活は苦しくなり、借金をしなくて はやっていけないようになりました。そんな生活が何年も続いて、利右衛門はもう身も心も疲れてしまいました。夜も好きな本を読むでもなくぼんやりしていま す。
 
金次郎は十二歳になっていました。利右衛門より祖父の銀右衛門に似たのでしょうか、身体も大きく筋骨たくましい少年でした。そして何ごとにもくじけない強い心と、思いやり深い心の持ち主でした。
『とうさんは、ひどく疲れている』
と金次郎は思いました。優しい大すきな父、人が良くて財産をなくしてしまった父、洪水で田畑を流されて、それでも一所懸命働いてくれる父、その父のさびしそうな横顔……
『とうさんの喜んでくださることはないだろうか。とうさんの好きなお酒を飲ませてあげたいなあ』
と金次郎は思いました。
 
もとより、そんなお金はありません。金次郎は母にわらじの編み方を習い、ていねいに一足一足、何日もかかって編みました。何足かたまると、それを売りに行き、少しのお金がもらえました。
金次郎ははじめて働いて得たお金で、わずかばかりでしたが酒を買って家に帰りました。
「とうさん、どうぞ飲んでください」
「おお、これは」
息子がはじめて働いて得たお金で買ってくれた酒です。
 
 
つづく
 
 
注:とうさんを喜ばせたい、ここが繁栄の鍵です。幸福になりたい人は親に感謝し、親を喜ばせない限り本当の幸せはきません。法則です。