yahooブログ「近野滋之・民族主義者の警鐘」からの転載です。
良識ある日本国民の皆様には、5回目となる昭和の日を迎えたのはご存知だと考えます。
昭和の時代(昭和24年から63年まで)の4月29日は、先帝陛下であられる「昭和天皇陛下」の御誕生日(正式には天長節)を御祝いする「天皇誕生日」という国民の祝日で、「文化の日」にあたる11月3日は、明治天皇の御誕生日であり、戦前には「明治節」(明治時代の天長節)という国民の祝日でした。
昭和64年1月7日、昭和天皇の崩御により「4月29日」は天皇誕生日としては存続できないので、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を「改正」する必要が生じ、「昭和記念日」など昭和に因んだ新しい祝日として存続させようという意見が出ましたが、「反日勢力」の反対から祝日法改正は国会で2度も廃案となり、4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改められていました。
多くの国民の要望を受け「昭和の日」は2005年の第162回国会で成立し、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」の改正法は2007年から施行され、4月29日は「昭和の日」となり、それまでの「みどりの日」は5月4日とし、同法における「昭和の日」の定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となっています。
良識ある日本国民は「昭和とは激動の時代」と考え、「戦前」・「戦後」と表現するように「大東亜戦争」を語らずには終らない時代ですが、東日本大震災との未曾有の国難も深刻なる現状ならば、大東亜戦争終結により、日本全土が焦土となり「裸一貫」で復興を遂げるまでの悲惨さを思えば、東日本大震災でも日本は必ず復興します。
大東亜戦争終結後、米国など連合国に主権剥奪され占領という「日本民族最大の国難」において、昭和天皇は「日本国民を守る為」に、「自分はいかになろうとも万人の生命を助けたい」とのお言葉、「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」との御製によって「自ら全ての責任」を負われたのです。
敵将「マッカーサー」に対して、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります」と、「私の一身はどうなろうと構わない」とまで述べられたのです。
■ マッカーサーは感動した~昭和天皇(7)
敗戦の約1ヵ月後。昭和20年9月27日、昭和天皇はGHQのマッカーサー元帥を訪問しました。場所は東京都港区にある現在のアメリカ大使館。その時、天皇は45歳でした。
「マッカーサー回想録」によると、昭和天皇は「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と述べたといいます。
マッカーサーとの会見は、昭和天皇自らの意思によるものでした。当初、天皇が自分を訪問希望だと聞いたとき、マッカーサーは非常に厳しい顔をしたといいます。どうせ命乞いか亡命の嘆願に来るのだろう、と。それが敗戦国の元首の常だからです。
それゆえマッカーサーは最初、昭和天皇をぞんざいに迎えました。しかし、30分後には、自ら天皇を丁重に送っているマッカーサーがいました。その姿は、周りにもわかるほど感動していたといいます。通訳をしたファウビオン・バワーズは、次のような手記を、読売新聞に寄せています。
「我々が玄関ホールに戻った時、元帥ははた目で見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。……ついこの間まで『日本人の罪をどんなに処罰してやろうか』とばかり話していた人物なのに。
天皇陛下が戦争犯罪人たちの身代わりになると申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。『戦争は私の名前で行われた。私には責任がある』と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ」
昭和天皇はこの会見の内容について、一言も語りませんでした。それが元帥との約束だったのです。ところが、天皇の態度に感動したマッカーサーが、会見の様子を、来訪する日本人に語ったことにより、わが国に知られるようになりました。そして、マッカーサーは、昭和天皇との会見のことを自ら『回想録』に記しています。
「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」
会見後、マッカーサーが「はた目で見てもわかるほど感動していた」とバワーズが、伝えているとおり、彼は「大きい感動に揺すぶられた」のです。
昭和天皇は、食糧不足のため餓えに苦しむ国民を思い、自分の身を投げ出して、国民を餓死から救いたいと願ったのです。その姿勢が、マッカーサーを感動させたのです。
■ 天皇が国民の飢えを救った~昭和天皇(8)
敗戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民の塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。食糧難は深刻でした。
この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミで補うという状況でした。人々は、金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。
加えて、この年は、明治43年(1910)以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少したのです。
しかも、敗戦により国家機能が低下していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。
その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はUP通信社に対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖におののいていました。
このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが、昭和天皇でした。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。昭和20年12月、宮中からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。
さっそく幣原喜重郎首相が、マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。
昭和天皇は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。
当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う天皇の存在があったのです。
(日本の心)より抜粋
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind10.htm
昭和天皇御真影
日本が焼け野原から立ち直り、奇跡と呼ばれる復興を成し得た最大の要因は「全国をご巡幸」され、国民を励まされ続けられた「昭和天皇」の下に「日本国民が結束」したからで、昭和の時代を知らない「平成生まれ」の世代も社会人となっている現状ですが、激動の時代を国民と共に歩まれた「昭和天皇」・「祖国日本のために殉じられた英霊の方々」へ、感謝の心を捧げるのが「昭和の日」です。
昭和の日に、日本国民として心より慶祝を申し上げ、大東亜戦争終結後の国難を乗り越え復興した日本は、東日本大震災との未曾有の国難でも、天皇陛下の下に国民が一体となり復興が出きるのです。
良識ある日本国民の皆様、昭和の日についてご考慮下さい。
転載終わり
良識ある日本国民の皆様には、5回目となる昭和の日を迎えたのはご存知だと考えます。
昭和の時代(昭和24年から63年まで)の4月29日は、先帝陛下であられる「昭和天皇陛下」の御誕生日(正式には天長節)を御祝いする「天皇誕生日」という国民の祝日で、「文化の日」にあたる11月3日は、明治天皇の御誕生日であり、戦前には「明治節」(明治時代の天長節)という国民の祝日でした。
昭和64年1月7日、昭和天皇の崩御により「4月29日」は天皇誕生日としては存続できないので、「祝日法」の天皇誕生日に係る項を「改正」する必要が生じ、「昭和記念日」など昭和に因んだ新しい祝日として存続させようという意見が出ましたが、「反日勢力」の反対から祝日法改正は国会で2度も廃案となり、4月29日は「みどりの日」という名称の祝日に改められていました。
多くの国民の要望を受け「昭和の日」は2005年の第162回国会で成立し、「国民の祝日に関する法律(祝日法)」の改正法は2007年から施行され、4月29日は「昭和の日」となり、それまでの「みどりの日」は5月4日とし、同法における「昭和の日」の定義・趣旨は「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、国の将来に思いをいたす」となっています。
良識ある日本国民は「昭和とは激動の時代」と考え、「戦前」・「戦後」と表現するように「大東亜戦争」を語らずには終らない時代ですが、東日本大震災との未曾有の国難も深刻なる現状ならば、大東亜戦争終結により、日本全土が焦土となり「裸一貫」で復興を遂げるまでの悲惨さを思えば、東日本大震災でも日本は必ず復興します。
大東亜戦争終結後、米国など連合国に主権剥奪され占領という「日本民族最大の国難」において、昭和天皇は「日本国民を守る為」に、「自分はいかになろうとも万人の生命を助けたい」とのお言葉、「身はいかになるともいくさとどめけり ただたふれゆく民をおもひて」との御製によって「自ら全ての責任」を負われたのです。
敵将「マッカーサー」に対して、「日本国天皇はこの私であります。戦争に関する一切の責任はこの私にあります。私の命においてすべてが行なわれました限り、日本にはただ一人の戦犯もおりません。絞首刑はもちろんのこと、いかなる極刑に処されても、いつでも応ずるだけの覚悟はあります」と、「私の一身はどうなろうと構わない」とまで述べられたのです。
■ マッカーサーは感動した~昭和天皇(7)
敗戦の約1ヵ月後。昭和20年9月27日、昭和天皇はGHQのマッカーサー元帥を訪問しました。場所は東京都港区にある現在のアメリカ大使館。その時、天皇は45歳でした。
「マッカーサー回想録」によると、昭和天皇は「国民が戦争遂行にあたって政治、軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負う者として、私自身をあなたの代表する諸国の裁決にゆだねるためにおたずねした」と述べたといいます。
マッカーサーとの会見は、昭和天皇自らの意思によるものでした。当初、天皇が自分を訪問希望だと聞いたとき、マッカーサーは非常に厳しい顔をしたといいます。どうせ命乞いか亡命の嘆願に来るのだろう、と。それが敗戦国の元首の常だからです。
それゆえマッカーサーは最初、昭和天皇をぞんざいに迎えました。しかし、30分後には、自ら天皇を丁重に送っているマッカーサーがいました。その姿は、周りにもわかるほど感動していたといいます。通訳をしたファウビオン・バワーズは、次のような手記を、読売新聞に寄せています。
「我々が玄関ホールに戻った時、元帥ははた目で見てもわかるほど感動していた。私は、彼が怒り以外の感情を外に出したのを見たことがなかった。その彼が、今ほとんど劇的ともいえる様子で感動していた。……ついこの間まで『日本人の罪をどんなに処罰してやろうか』とばかり話していた人物なのに。
天皇陛下が戦争犯罪人たちの身代わりになると申し出られたことに驚いたと、元帥は後に私に語った。『戦争は私の名前で行われた。私には責任がある』と陛下は説明されたというのだ。元帥はそのような考えを受け入れようとは思わなかったろう。天皇の存在なしでは占領は失敗するのだ」
昭和天皇はこの会見の内容について、一言も語りませんでした。それが元帥との約束だったのです。ところが、天皇の態度に感動したマッカーサーが、会見の様子を、来訪する日本人に語ったことにより、わが国に知られるようになりました。そして、マッカーサーは、昭和天皇との会見のことを自ら『回想録』に記しています。
「私は大きい感動に揺すぶられた。死を伴うほどの責任、しかも私の知り尽くしている諸事実に照らして、明らかに天皇に帰すべきでない戦争責任を引き受けようとするこの勇気に満ちた態度は、私の骨の髄までも揺り動かした。私はその瞬間、私の前にいる天皇が個人の資格においても日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである」
会見後、マッカーサーが「はた目で見てもわかるほど感動していた」とバワーズが、伝えているとおり、彼は「大きい感動に揺すぶられた」のです。
昭和天皇は、食糧不足のため餓えに苦しむ国民を思い、自分の身を投げ出して、国民を餓死から救いたいと願ったのです。その姿勢が、マッカーサーを感動させたのです。
■ 天皇が国民の飢えを救った~昭和天皇(8)
敗戦の年、昭和20年、戦後の混乱のなかで、国民の塗炭(とたん)の苦しみを味わっていました。食糧難は深刻でした。
この年、成人に必要なカロリーは、配給ではわずか半分しか摂取できず、残りはヤミで補うという状況でした。人々は、金になるものは何でも売って食いつなぐ、いわゆる「たけのこ生活」を強いられていました。
加えて、この年は、明治43年(1910)以来最悪の不作の年となりました。天候不順、戦争による労働力不足、粗末な農機具、そして肥料や農薬生産の減少により、米の収穫が例年より40パーセント近くも減少したのです。
しかも、敗戦により国家機能が低下していたため、農民は収穫した穀物を政府に供出せずに、闇のルートに横流ししました。
その結果、ついに政府からの配給米が底をつく事態となりました。大蔵大臣はUP通信社に対して「食糧がすぐに輸入されなければ、1千万人の日本人が餓死するであろう」と述べました。国民は迫りくる飢餓の恐怖におののいていました。
このようななか、国民の食糧事情に最も胸を痛めていたのが、昭和天皇でした。戦後、農地改革や日中友好に活躍した政治家・松村謙三は、当時を次のように回想しています。昭和20年12月、宮中からお召しがあり、天皇からお言葉がありました。
「戦争で苦しんだ国民に、さらに餓死者を出すことは堪(た)え難い。皇室の御物(ぎょぶつ)の中には国際的価値のあるものもあると聞く。その目録を作製させたから、米国と話してこれを食糧に替えたい」とのお言葉でした。
さっそく幣原喜重郎首相が、マッカーサーに面会してこれを伝えると、感動したマッカーサーは「自分としても、米国としても、その面目にかけても御物を取り上げることはできない。断じて国民に餓死者を出すことはさせないから、ご安心されるよう申し上げて下さい」と答えたといいます。
昭和天皇は、餓えに苦しむ国民を思い、皇室財産を差し出して食糧に替え、国民を餓死から救いたいと申し出ました。その無私仁愛の心が、マッカーサーの心を揺り動かし、GHQによる食糧放出が行われたのです。
当時の国民はこのことを知る由もありませんでした。今日も多くの国民は、ただ米軍が食糧を供給してくれたと思っているようです。実はその陰には、国民の身の上を思う天皇の存在があったのです。
(日本の心)より抜粋
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/j-mind10.htm
昭和天皇御真影
日本が焼け野原から立ち直り、奇跡と呼ばれる復興を成し得た最大の要因は「全国をご巡幸」され、国民を励まされ続けられた「昭和天皇」の下に「日本国民が結束」したからで、昭和の時代を知らない「平成生まれ」の世代も社会人となっている現状ですが、激動の時代を国民と共に歩まれた「昭和天皇」・「祖国日本のために殉じられた英霊の方々」へ、感謝の心を捧げるのが「昭和の日」です。
昭和の日に、日本国民として心より慶祝を申し上げ、大東亜戦争終結後の国難を乗り越え復興した日本は、東日本大震災との未曾有の国難でも、天皇陛下の下に国民が一体となり復興が出きるのです。
良識ある日本国民の皆様、昭和の日についてご考慮下さい。
転載終わり