小さな自然、その他いろいろ

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日本がアジアで唯一欧米に対抗できた本当の理由

2011年08月26日 01時31分57秒 | 歴史

新“敬天愛人”のブログからの転載です。日本語の凄さが判ります。

 

転載開始

 

        

 御来訪感謝申し上げます。

 今日は肩の力を抜いた記事を上梓させていただきます。
 不肖敬天愛人の年下の友人に、大の韓国嫌いなのになぜか韓国のトップ女優チェ・ジウにハマっている男がいます。
 彼に言わせると、韓国語も嫌いでテレビで韓国語が聞こえるとスイッチを切ってしまうほどなのに、チェ・ジウの話す韓国語は可愛くてたまらないそうです。
 「恋はどんな障害も乗り越える」と言いますが、やっとその意味が分かった気がします(苦笑)
 その友人は勿論、K-POPや韓流ドラマには一切興味がないはずなのですが、チェ・ジウの出るドラマだけは別格で、これだけはインターネット動画などで よく観ているらしく、彼が最近、字幕スーパーのチェ・ジウのドラマを観ていて気づいたことがあります。それは韓国語の中に日本語と全く同じ発音の言葉を3 つ見つけたというのです。

 
 「敬天さん、チェ・ジウの恋愛ドラマを観ていて会話の中に日本語そのままの発音の言葉が3つあったんです。『約束』 『準備』『責任』の言葉で、たまたまこの3つを気づいただけなのですが、チェ・ジウ以外は韓国キライの自分としては、このことに考えることがあったんで す。日本語の発音をそのまま採用しているということは、元々韓国語にはなかった言葉だと思うんです。そうすると、この3つの言葉を見るとなるほどと思うの です。僕の持論も入りますが、韓国人にとって「約束」とはきちんと守るためではなく、たとえば約束の期限が来たときにそこから(約束を反故にするための) 話し合いを始められるという意味での約束なんだそうです。つまり、日本人のようにキチンと約束を守るという概念はないのです。約束もマトモに守ろうとはし ないのですから、責任意識などもあるわけがないです。だからすぐに『○○のせいニダ!』って責任転嫁するんです。会議や交渉事でも日本人なら前もって関係 資料やプレゼン用資料を用意するなど準備万端整えて臨みますが、韓国人はあまり準備をせず、それこそぶっつけ本番です。会議などでは都合が悪くなるとデカ イ声を出したり感情を露わにすれば何とかなると考えているフシがあります。それを思い出したんです。ああ、韓国人にこの3つを求めるのは間違いだな。なぜ なら、韓国人の概念には本来なかったものですから。同時に日本語って凄いなあと改めて思いますね。あちらには無い概念が日本語にはあるのですから」
 
言葉はその国の文化や習慣を体現しているものでもありますから、確かに彼の話は説得性があります。
 敬天もそこで、以前にも似たような記事はUPしたことがあるのですが、改めて、じゃあ自称小中華韓国の宗主国だった大中華支那はどうなんだ?と調べて見たら、非常に面白い解説記事を見つけたので転載させていただきます。


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中国語になった日本語
明治期に発明された漢語の新用法

2011年07月24日(日)
萬晩報主宰 伴 武澄

 
いつのことか忘れたが、人民日報から日本で生まれた単語を外したら文章にならないということを聞いたことがある。昨年8月、東京で開催された第6回東京-北京フォーラムで全国政治協商会議外事委員会主任の趙啓正氏がお爺さんから聞いた日本語に関する興味深い話を開陳した。要約すると次のような話である。

 中国で生まれた漢字は日中韓で共有している文化だが、明治時代に日本で急速に発展した。日本人は次々とヨーロッパの知識や概念を漢字で表現するようになった。現在の中国語の単語の多くは明治の日本から導入されたものなのである。

 明治期の日本について「西洋に追いつけ」精神で富国強兵にのみ走ったと勘違いしている人が多い。明治初期の実は日本での学問はすべて外国語によってなさ れていた。お雇い外国人が英語やフランス語の教科書で日本人に西洋の新しい学問を教えていた。日本人の弟子たちが教壇に立つことになってもそもそも教科書 が外国語だったから大学での授業はほとんどが外国語だった。

 初代の帝国大学法学部長になった穂積陳重が後に『法窓夜話』に書いているエピソードは面白い。「帝大法学部で日本語で授業ができるようになったのは明治 18年のことである」と紹介している。英語のConstitutionに当たる憲法という日本語は、明治6年に蓑作麟祥が「憲法」と訳したものだが、当初 は「国法」「国制」「国体」「朝綱」などさまさまな訳語が使われていたというのだ。明治という国家は西洋の新しい概念を次々と漢字に表現するという血のにじむ知的努力の集大成の上に成り立っていたことを忘れてはならない。

 「共産主義」も日本生まれ

 その成果を一気に取り入れたのが明治後半に中国から日本にやってきた中国人だったのである。趙氏の話に戻る。1910年に中国語に導入された日本生まれ の単語を数えた中国の学者がいた。なんと980にも及ぶということだった。「懇談会」「雰囲気」「営業中」などという概念は当時の中国語にはなかった。

「社会主義、共産党、物理学、幹部、改革、革命、経済などももともとは日本語」。趙氏は「共産主義を日本人は嫌わない方がいい。そもそも日本人がつくった言葉なのだから」と会場を笑わした。

 さらに新鮮だったのは「明治期の日本語の漢語の作り方も重要である」との指摘だった。「広範性」「安定性」の「性」は英語の用法を漢語化したものだった。「緑化」「都市化」「自動化」などの「化」もまた日本人が発明したというのだ。当時、「こんな言葉を中国人が使えるのか」という不安もあったが、「近代化のために使わざるを得なかった」。中国の知識人たちは日本で生まれた「漢語」を通じて貪欲に西洋の知識を吸収していったのだ。

 江戸時代まで漢字は中国の文明を理解するツールだったのが、明治以降には日本で独自の発展をし、その知識が本家に逆流したというのだから面白い。

 先駆けとなった梁啓超の『清議報』

 ネットを検索中に探し当てたのが、2006年、新潟大学大学院に留学中の盧守助氏が執筆した「梁啓超の日本観-新語彙と新文体を中心に」(現代社会文化 研究No.35(2006年3月))という論文である。盧氏の博士論文のエッセンスともされるもので、その中で梁啓超こそが日本で生まれた「漢語」を多く中国に紹介した先駆けだと指摘している。

 梁啓超は康有為のもとで戊戌変法に参画し、西太后一派に敗れて日本に亡命する。日本滞在中に日本の知識人と交流を深める一方、日本語訳された西洋の政 治・経済、哲学に接した。これらを中国に紹介するため横浜で「清議報」を創刊し、日中が協力したアジア主義を打ち立てる必要性を強調した。梁啓超はもとも とは漢末や魏、晋の文章を学んで技巧を好んだとされるが、「日本語」との出会いによって文体が180度変わり、平易を旨とするようになった。「清議報」に 次々と日本人がつくった新たな西洋の概念が登場するのである。

 『和文漢読法』は中国でも多くの読者を得た一般に梁啓超の著作とされる日本語マスター本である。日本語を習得するにはそう難しいことではない。日本人が 返り点を補って漢文を読んだ逆の手法で日本語を読めば数ヶ月で日本語を理解できる。明治期の日本語は漢字が多かったため、テニオハをある程度理解すれば用 意に日本語が読めると紹介している。
『和文漢読法』を手にしたわけではないが、蘆氏によると、この本はたった105ページで文法に関しては22ページしかなく、日本語と中国語の相違点と日本語の特徴を簡単に説明しているだけで、そう簡単に日本語が読めたはずはないとしている。

 明治期における文化について、梁啓超は「日本は維新から30年来、広く世界に知識を求めており、訳された有用な書籍は少なくとも数千種類になる。とりわけ政治学、哲学、社会学などに関する書籍が豊富で、いずれも大衆を啓蒙し、国の基礎を強化する当面の急務に関するものである」「将来我が国の学界は、必ず日本の学界と密接な関係を持つ。それゆえに、むしろできるだけ日本の語彙を多く取り入れ、将来日中両国の訳本にすれが生じることを避ける」と述べているそうだ。

 中国の知識人は近代化のために西洋の知識を必要と感じていて、西洋の書籍から新しい言葉を取り入れていったが、多くは日本語の訳語を借りたもので あった。日本語から取り入れた新しい漢語を用法は、旧来の中国語の構造を一変させた。文語文から口語体へ、つまり白話文の普及である。梁啓超が「清議報」 などに書いた文章は白話文の前触れになるものだとされ、後に胡適は「20年来の読書人でほとんど彼の文章の影響を受けなかなかったものはない」と梁啓超の 役割を高く評価している。

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「言葉とは文化である」という名言があります。
 さすれば、如何に日本が文化の高い国であることが判ります。
 そして引用にあるように言葉とは概念を表すものでもあります。
 明治期、日本人は西洋語を漢語に訳して西洋の概念を漢語で表現する言葉を発明したとありますが、元来、日本人に西洋の概念を理解できる素地=日本の概念がなければ翻訳など出来ようがありません。
 表現する言葉の違いはあれど、西洋の概念を理解できる同じような概念が日本にもあったということだと思います。しかし、支那大陸にはありませんでした。だから、同じ漢字使用国である日本語を借用するしかなかったのです。韓国も然りと思います。

 日本人は罪です。毛沢東はじめ支那人に共産主義思想を吹き込んだのですから。
 カール・マルクスが書いた「共産党宣言」も幸徳秋水がドイツ語から英語訳されたものを翻訳し、さらに支那人が日本語訳を支那語に訳したものを毛沢東が読んだそうです。
 日本人がいなければ、支那人は共産主義理論も理解できなかったかもしれません。
 
 前回の記事同様、「おそるべし、日本の左翼」です。


 日本語がなかったら、現代の中国語も朝鮮語も成り立たなかったんだぞ!!

  
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1 コメント

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理由なき優越感 (ゴキ)
2011-08-26 13:32:44
皇居には韓神 まつってある
日本の戦後復興は 1950年朝鮮戦争特需でもうけたからだ 無恥無知のアジア蔑視 日本の劣化没落衰退見えた
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