鈴木重成は鈴木正三の弟であるが、島原・天草の乱の時に、鎮圧の総大将松平信綱の部下として戦い、乱は寛永十五年春に鎮圧された。そして天草はその後幕府の直轄地となり、初代天草の代官に、鈴木重成が任命された。重成はすぐに「島の復興」計画を立てた。この時に、「農民の心の復興も大切だ」と、兄の鈴木正三に精神的指導を頼んだ。
鈴木重成
激戦の続いた天草は、住む人も少なく荒廃の極みにあった。そこで正三と重成は、農村組織を再興し、他地域からの移民を受け入れ、またキリシタンによって破壊された寺社の復興に努めた。正三の属する曹洞宗の寺院だけで32寺が建立された。またそれ以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、伝教の自由を保障したので、広く仏教が行き渡ることとなった。
いかにも正三らしいのは、キリスト教の教義を批判した「破吉利支丹(は・キリシタン)」を著し、自ら筆写して各寺院に納めた事である。
その中には、こんな一節もある。
破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の国々を捨ておいて、出世したまわざるや。
本当に全知全能というなら、なぜ今頃、のこのこと日本に現れて来たのか。キリストの教えに帰依せずに死んだ人は地獄に堕ちると言うが、キリシタンが日本に伝わる前に亡くなった日本人はどんな善人でも地獄に堕ちるというのも、全能の神らしからぬ手落ちではないか。
日本の神仏の教えのように、生きとし行けるものは、すべて「神の分け命」であるとか、仏様から億分の一の「仏性」を与えられている、という方が、現代の遺伝子理論にも親近性があり、よほど合理的だろう。
また正三は、キリシタンは奇特(奇跡)を尊び、これで民衆をたぶらかすとして、
破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべし。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。さらに奇特を用うることなし。
奇跡を尊ぶというなら、魔王や狐狸も奇跡を行う。仏道修行は、一心に道を求める人を供養する道を学ぶ。万人が自らの職業に打ち込むことで、自身に内在する仏性を開発するのが、仏行である。別に奇跡など持ち出す必要もない。中世的なキリスト教信仰に対する正三の近代的合理性に基づく批判である。
正三が天草を去った後、法兄として尊敬していた名僧・中華珪法が後を継いで、17年も仏法復興の仕事を続けた。その赴任の直後、代官重成の配慮によって反乱者を含む犠牲者の供養碑が建てられることになり、その碑文を中華珪法が撰んだ。その碑文の最後には、次のような一節がある。
仏様の前では、敵だ味方だ、賊軍だ官軍だなどと、そういったものはいっさいない。死んでから先まで何の罪があるか。そんなものは何もない。
異教徒を殺害し、その寺社や墓を破壊することが神に奉仕する道であるとしたキリシタンの教えよりもはるかに近代的な考え方である。(もっとも、現代でも、靖国神社に「A級戦犯」を祀ることを怒る前近代的感情を持つ近隣諸国もあるようだが。)
鈴木重成は、また天草が元は唐津藩主寺沢家の飛地で幕府はこの土地に四万石の査定を行なっていたのだが、この石高が高く査定されすぎているのではと思い始め、過去にさかのぼって天草等の年貢関係の書類を調べた。どう調べても、とても四万石の査定は高すぎる。重成は村役人たちと相談した結果、
「たとえ天領となっても四万石の年貢は島民には納めきれない。半減したもらうように陳情しよう」
と思い立った。重成はしばしば江戸に行き幕府に願い出た。しかし幕府の対応は冷ややかだった。幕府にしても、「天草島の年貢の査定は過重であった」と認める訳にはいかない。そんなことをすれば、同じような状況にあるほかの天領からドッと陳情が押し寄せてくるにちがいない。その処理も面倒だがそれ以上に、
「幕府の査定は間違っていた」ということは口が裂けても言えない。いきおい重成へのあしらいは冷ややかで、あからさまに迷惑がった。しかし島民の困窮を思えば引き下がる訳にはいかない。何年も陳情活動をつづけた。かつての主人松平信綱にも頼んだ。信綱は今は老中筆頭である。重成にすれば主人がそこまでえらくなっているのだから何とか口をきいてくれると思ったが、逆だった。老中筆頭の立場で、幕府の年貢額は間違いであった、とは絶対に言えない。やがて重成は幕府の首脳部を見限り心を決する。それは、
「自分の死をもって、この嘆願の目的を貫こう」ということである。承応二年(1653年)十月十五日、鈴木重成はその嘆きを遺書に残して自刃した。
重成の思いに心動かされた幕閣の重臣がいたのであろう。本来ならば、お上の意向に逆らったものとして、お家断絶にされても仕方がない所であるが、重成の死は病死として扱われ、その子の重祐(しげすけ)が家督を相続することを許された。
しかし、重祐はまだ23歳で、問題の多い天草の代官を継ぐのは荷が重すぎるので、無難な大和の代官に任ぜられた。かわりに選ばれたのが、正三の実子ながら、その出家の後、重成の養子となっていた47歳の重辰である。
ところが重辰は2百石の家禄で天草の代官にするには格が低すぎる。そこで重辰はしばらく京都の御所造営などを任され、5百石に加増された上で、天草の第2代代官に任ぜられた。この間、2年間、天草の代官は空席とされていたという。なんとも周到かつ温情あふれる措置ではないか。
重辰は養父・重成の悲願を受け継いで、幕府に年貢半減の上申を繰り返し、ついに万治2(1659)年にその許可を得た。養父・重成と実父・正三が天草に赴いた年から数えて、実に17年後である。
天草の人々は、「自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のお陰」として、島内の各地に鈴木大明神とか、鈴木塚を設けて祀った。さらに正三・重成・重辰を祭神として、天草地方最大の境域を持つ鈴木神社を造営したのである。一時期は、この神社の分社ガ島内に三十いくつもあったという。それほど重成の、「島民を思う誠実さ」が人々の心を打ったのである。お坊さんである鈴木正三が、神様として神社に祀られているのも、いかにも日本らしくて面白い。
転載及び引用元
国際派日本人養成講座
童門冬二 「年貢半減を願って自刃―――鈴木重成」
鈴木重成
激戦の続いた天草は、住む人も少なく荒廃の極みにあった。そこで正三と重成は、農村組織を再興し、他地域からの移民を受け入れ、またキリシタンによって破壊された寺社の復興に努めた。正三の属する曹洞宗の寺院だけで32寺が建立された。またそれ以外の宗派にも「布教勝手たるべし」と、伝教の自由を保障したので、広く仏教が行き渡ることとなった。
いかにも正三らしいのは、キリスト教の教義を批判した「破吉利支丹(は・キリシタン)」を著し、自ら筆写して各寺院に納めた事である。
その中には、こんな一節もある。
破して言う、デウス、天地の主にして、国土、万物を作り出したまうならば、何としてそのデウス、今まで無量の国々を捨ておいて、出世したまわざるや。
本当に全知全能というなら、なぜ今頃、のこのこと日本に現れて来たのか。キリストの教えに帰依せずに死んだ人は地獄に堕ちると言うが、キリシタンが日本に伝わる前に亡くなった日本人はどんな善人でも地獄に堕ちるというのも、全能の神らしからぬ手落ちではないか。
日本の神仏の教えのように、生きとし行けるものは、すべて「神の分け命」であるとか、仏様から億分の一の「仏性」を与えられている、という方が、現代の遺伝子理論にも親近性があり、よほど合理的だろう。
また正三は、キリシタンは奇特(奇跡)を尊び、これで民衆をたぶらかすとして、
破して言う、奇特なること尊きならば、魔王を尊敬すべし。この国の狐狸も奇特をなす。・・・経にいわく。三世の諸仏を供養せんより、一箇無心の道人を供養せんにはしかじと説きたまえり。仏道修行の人は、この道を学ぶなり。さらに奇特を用うることなし。
奇跡を尊ぶというなら、魔王や狐狸も奇跡を行う。仏道修行は、一心に道を求める人を供養する道を学ぶ。万人が自らの職業に打ち込むことで、自身に内在する仏性を開発するのが、仏行である。別に奇跡など持ち出す必要もない。中世的なキリスト教信仰に対する正三の近代的合理性に基づく批判である。
正三が天草を去った後、法兄として尊敬していた名僧・中華珪法が後を継いで、17年も仏法復興の仕事を続けた。その赴任の直後、代官重成の配慮によって反乱者を含む犠牲者の供養碑が建てられることになり、その碑文を中華珪法が撰んだ。その碑文の最後には、次のような一節がある。
仏様の前では、敵だ味方だ、賊軍だ官軍だなどと、そういったものはいっさいない。死んでから先まで何の罪があるか。そんなものは何もない。
異教徒を殺害し、その寺社や墓を破壊することが神に奉仕する道であるとしたキリシタンの教えよりもはるかに近代的な考え方である。(もっとも、現代でも、靖国神社に「A級戦犯」を祀ることを怒る前近代的感情を持つ近隣諸国もあるようだが。)
鈴木重成は、また天草が元は唐津藩主寺沢家の飛地で幕府はこの土地に四万石の査定を行なっていたのだが、この石高が高く査定されすぎているのではと思い始め、過去にさかのぼって天草等の年貢関係の書類を調べた。どう調べても、とても四万石の査定は高すぎる。重成は村役人たちと相談した結果、
「たとえ天領となっても四万石の年貢は島民には納めきれない。半減したもらうように陳情しよう」
と思い立った。重成はしばしば江戸に行き幕府に願い出た。しかし幕府の対応は冷ややかだった。幕府にしても、「天草島の年貢の査定は過重であった」と認める訳にはいかない。そんなことをすれば、同じような状況にあるほかの天領からドッと陳情が押し寄せてくるにちがいない。その処理も面倒だがそれ以上に、
「幕府の査定は間違っていた」ということは口が裂けても言えない。いきおい重成へのあしらいは冷ややかで、あからさまに迷惑がった。しかし島民の困窮を思えば引き下がる訳にはいかない。何年も陳情活動をつづけた。かつての主人松平信綱にも頼んだ。信綱は今は老中筆頭である。重成にすれば主人がそこまでえらくなっているのだから何とか口をきいてくれると思ったが、逆だった。老中筆頭の立場で、幕府の年貢額は間違いであった、とは絶対に言えない。やがて重成は幕府の首脳部を見限り心を決する。それは、
「自分の死をもって、この嘆願の目的を貫こう」ということである。承応二年(1653年)十月十五日、鈴木重成はその嘆きを遺書に残して自刃した。
重成の思いに心動かされた幕閣の重臣がいたのであろう。本来ならば、お上の意向に逆らったものとして、お家断絶にされても仕方がない所であるが、重成の死は病死として扱われ、その子の重祐(しげすけ)が家督を相続することを許された。
しかし、重祐はまだ23歳で、問題の多い天草の代官を継ぐのは荷が重すぎるので、無難な大和の代官に任ぜられた。かわりに選ばれたのが、正三の実子ながら、その出家の後、重成の養子となっていた47歳の重辰である。
ところが重辰は2百石の家禄で天草の代官にするには格が低すぎる。そこで重辰はしばらく京都の御所造営などを任され、5百石に加増された上で、天草の第2代代官に任ぜられた。この間、2年間、天草の代官は空席とされていたという。なんとも周到かつ温情あふれる措置ではないか。
重辰は養父・重成の悲願を受け継いで、幕府に年貢半減の上申を繰り返し、ついに万治2(1659)年にその許可を得た。養父・重成と実父・正三が天草に赴いた年から数えて、実に17年後である。
天草の人々は、「自分たちの暮らしがあるのは、鈴木様のお陰」として、島内の各地に鈴木大明神とか、鈴木塚を設けて祀った。さらに正三・重成・重辰を祭神として、天草地方最大の境域を持つ鈴木神社を造営したのである。一時期は、この神社の分社ガ島内に三十いくつもあったという。それほど重成の、「島民を思う誠実さ」が人々の心を打ったのである。お坊さんである鈴木正三が、神様として神社に祀られているのも、いかにも日本らしくて面白い。
転載及び引用元
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