-日本人と象徴天皇-」は本当に酷い番組だった。
昨夜午後6時10分の情報番組で、よく韓国人が色々な場面で使う日本が極端に小さく描かれたアジアの地図を、NHKが平気で使用して話題になっている。つまり、その番組の制作スタッフが韓国人に乗っ取られていることが露わになった訣だが、それよりもっと悪辣な番組がNHKスペシャルだったのである。
特に昨夜の「第2回 平和を願い続けて」で、解説に登場した保坂正康氏と御厨東大名誉教授が滅茶苦茶で嘘ばかり言って視聴者を騙す。敗戦直後にGHQに占領されて検閲下で放送を開始したNHKが、まさにそのアイデンティティを確認した瞬間だった。
昨夜のNHKスペシャルで、昭和天皇が靖国親拝をおやめになったのは、いわゆるA級戦犯、つまりA類の戦犯が靖国に合祀されたからという嘘を振り撒いた。保坂と御厨という戦後体制にしがみつくく反動的な御用知識人の醜い本質が、昨日また改めて露わになったのである。
日本にはもうすでに東京裁判によるA類戦犯は存在しない。なぜなら、以下のリンク(「インドのモディ首相が来日する、大きな意味」)で説明したように、日本はSF講和条約に調印したのは東京裁判の判決を受け入れただけで、裁判そのものを受け入れた訣ではないからです。
しかも、もっと重要なことは、サンフランシスコ講和条約の第11条で「戦犯」の赦免や減刑についは、「判決に加わった国の過半数が決定する」とあり、全国で戦犯釈放運動が広がり、当時の有権者のほとんどである4000万人(当時の日本人口8454万人)の署名が集り、昭和28年に戦犯の赦免決議が国会に於いて社会党や共産党を含めて一人の反対もなく全会一致で採択されたという事実があります。
そして、国際的にも、サンフランシスコ講和条約第11条にもとづく11カ国の同意を得て、いわゆるA級戦犯は昭和31年に、BC級戦犯は昭和33年までに赦免し釈放されました。
その結果、すでに処刑されていた【戦犯】は「法務死」とされ、靖国神社にも合祀された訣です。
●1952年(昭和27年)6月9日参議院本会議にて「戦犯在所者の釈放等に関する決議」
●1952年(昭和27年)12月9日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の釈放等に関する決議」
●1953年(昭和28年8月3日衆議院本会議にて「戦争犯罪による受刑者の赦免に関する決議」
●1955年(昭和30年)7月19日衆議院本会議にて「戦争受刑者の即時釈放要請に関する決議」
以上の決議は、全て全会一致、社会党・共産党も賛成しています。当時の日本人の民度の高さが偲ばれます。その高い民度は、占領軍である米国と連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって、日本が解体される前の、つまり戦前の教育を受けていたから保たれていたものです。
インドのモディ首相が来日する、大きな意味
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=10201665439598004&set=a.1426340718754.52270.1839870176&type=1
赤ちゃんを中絶しないで。[いのちを守る親の会]
結婚して今はまだ夫婦だけの生活を楽しんで、とか、今は共稼ぎでお金を貯めることに専念してお金がたまったら子供をつくろう、とか、そういう考えで、せっかく授かった子供を安易に堕胎して、そして何人目かで子どもを生んだとすると、その母親には、子供は授かりものという意識よりも自分が作った子供という自己所有の意識が勝るのではないかと思います。
子供を自分の物と考える意識は、子供を時には過保護に、時には苛立つと虐待に近いこともしたり、子どもを自分の考えのとおりに支配したいという気が起こるのではないでしょうか。
渡部昇一氏が書かれていたことがありますが、最近の子供は鬼のように角の生えた母親の絵を書く子がいる。そういう子の母親は、勉強しない子を叱るときに、意識の底に、「なんで勉強しないの。そのために私は二人も堕したのに」という気持ちがあって、それが雰囲気に出て来て子供はそれを敏感に感じるのでは、と。あるいは霊魂の存在を認めるとすれば、背後に堕胎された兄弟の霊を感じ取るのでは、とおっしゃっていました。
そうした子供は、自分より前に本当は兄弟がいたということを表面の意識は知らなくても、無意識下に自分ももしかしたら殺されていたかも知れない。あるいは、兄弟は死んでいるのに、自分だけ生きているという後ろめたさ、そんなものを感じているのかも知れません。人間は表面の心は何も知らなくても、意識の底では多くの人間の意識と繋がっていて、ほとんどすべてのことを知っているという説もあります。
表面の意識が目指すものと、そうした潜在意識の目指すものが違っている場合も多く、表面の意識が幸せを求めているのに、潜在意識は贖罪のための不幸を求めているという場合も多いという精神分析の話もあります。
よく戦争中の残虐行為や、残虐な事件の話を聞きますが、そんな話は、聞くだに耳を塞ぎたくなるような身震いする話です。ところが、胎児の堕胎というのは、時にはそれ以上の悲惨な虐殺です。昔は、掻爬と言って子宮内に器具を入れて、胎児の柔らかい体をズタズタにして掻き出す方法が取られていました。最近では吸引という方法が取られるようです。これも似たようなものです。
胎児は狭い子宮を逃げるように動き、心拍数は1.5倍の200にもなります。時には声をあげる場合もあるといいます。そうやって出された胎児のずたずたにされた身体は、月数の少ないものはトイレに流されるという話を聞きました。
これが人間の生命に対する行為と言えるでしょうか。そこにはまったく胎児の生命への畏敬の念はありません。
そして自分たちの生活が乱されなかったという満足、つまり経済的安定やあるいは世間体が保たれたという安心感で、平気な何食わぬ顔で明日からの生活をつづけていく、これでは、よくあるニュースの殺人犯が、殺人を犯した後もまったく普通に生活して気付かれなかったと報道しているのとそっくりではないですか。
これがほんとに民主主義で、幸福を追求する権利というものなのでしょうか。胎児は母親の胎内に出来たただの物質的な肉塊だと言えるのでしょうか。私たちはみな胎児の時期があったのです。もしその時堕胎されていたら、いない人間です。胎児も同じ人間ではないでしょうか。
■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記 から転載しました。
天皇皇后両陛下の心をこめた慰霊のお姿に、感動を抑えられません。この記事にあるように、ペリリュー島の戦いで生き残られた杉村武雄さんが、天皇皇后両陛下の慰霊に思わずありがとうございますという思いで手を合わせられたのは、英霊となった戦友たちがどれだけそのことを喜んだかがわかるからだろうと思います。
天皇陛下の慰霊は、まさに日本の国の魂が英霊たちに語りかけ慰めたことになるのでしょう。
杉村さんにとっても、戦友たちの英霊にとっても、気持ちが報われた瞬間であったことでしょう。
転載元: ■いのちを守る社会教育家■ 大熊良樹理事長の「實相円満完全」日記
ペリリュー島の戦いのことは、以前さくらの花びらさんのブログで読んだことがある程度の知識しかなかったのですが、日本政策研究センターの記事を読んで、このペリリュー島の戦いが、後の硫黄島の戦いにつながる本土防衛のための決死の戦いであり、さらには沖縄戦につながっていくことがわかりました。
このペリリュー島、硫黄島陥落後に、米軍が日本本土を無差別爆撃し、東京大空襲では、一夜で10万人の市民が亡くなったと言われています。米軍は住民が逃げられないように、爆撃範囲の外枠を焼夷弾で燃え上がらせて、全滅させるように爆撃したと言われます。東京だけではなく大都市圏は皆そうした空襲を受けました。犠牲の多くは老人や女性や幼い子供だと言われます。それでも、学童疎開など、地方の田舎へ避難した人々も多かったはずです。もしも、ペリリュー島や硫黄島の戦いが米軍の予定のごとくあっという間に終わって、米軍がその時点で日本本土に攻めてきていたら、亡くなった人の数はその数倍になっていたはずです。
本土に残った人々が米軍の本土攻撃に備えることができるようにと、少しでも時間を稼ぐために自分たちの命のかぎり、まさに死によって動けなくなるまで苦痛に耐えて戦った人々がいたということを、私たちは忘れてはならないでしょう。
本土に残る日本人を守るために、自分たちの命を捧げたのですから、それはまさに、「人その友のために命を捨つる、それより大なる愛はなし」とイエスが言いそして実行したように、彼らの行為はイエスに例えられるべきものだと思います。そんな方々に侵略戦争という汚名を着せ、間違った戦争で心ならずも亡くなったなどという同情の言葉を、まるで自分たちとは異世界の話のように語り、現代という高みの見物席から過去を見て憐れむのは、もういい加減やめにしてほしいと思います。
戦争はたしかに悲惨です。やらないに越したことはありません。しかし避けられない戦争もあるし、生き延びるためには戦わねばならないこともあります。それをイデオロギー的な教条主義で裁いたり、戦勝国のプロパガンダに乗せられて自分たちの先人を愚かな犯罪者のように言うのは、実はこれほど恥ずかしいことはないのだと気付くべきです。
天皇皇后両陛下には、戦没者の慰霊などのため、今日明日の2日間パラオ共和国を公式に御訪問になる。先の大戦の激戦地だったペリリュー島では「西太平洋戦没者の碑」で御慰霊になる見込みだという。ここでは、ペリリュー島の戦いについて、振り返っておきたい。
南太平洋に浮かぶパラオは日本から真南に3200㎞、グアム島の西南、パプアニューギニアとフィリピンの中間に位置し、大小200の島からなる島嶼国家。ペリリュー島はその一つで、南北9㎞、東西3㎞、面積13平方㎞のサンゴ礁の島である。
大東亜戦争では昭和18年末から19年秋にかけて、日本の絶対国防圏とされた地域が米軍に次々と攻略された。特にサイパン、テニアン、グアムのマリアナ諸島を失ったことは大きな痛手で、米軍はここから日本本土の空襲が可能となった。
米軍が次の目標としたのが、フィリピン諸島の外廓たるパラオ諸島だった。本土防衛のためにはフィリピン死守が不可欠だが、そのためにはパラオ諸島を敵に渡してはならなかった。なかでも重要視されたのが、最適の飛行場があるペリリュー島だった。
日本軍はここを死守すべく、歩兵第二連隊長中川州男(なかがわ・くにお)大佐率いる1万余人を布陣。一方、米軍は4倍の4万2千人、小銃8倍、戦車10倍と圧倒的な戦力差で迫り「3日、たぶん2日」で陥落させると豪語していたという。
ところが、日本軍は昭和19年9月から11月まで、3日どころか70余日間戦い抜き、米軍に死者1684人、戦傷者7160人という甚大な被害を与え、そして玉砕した(日本軍の生還はわずか34人)。この勇戦敢闘が、敵軍を心底から畏怖させたことは次の通りである。
「ペリリュー島日本守備隊は祖国のために全員忠実に戦死せり」(米軍公刊戦史)
「敵は抵抗力の最後の一オンスまでしぼり出し、征服者(米軍)に最大の損害を強要した。ペリリュー戦はそれまでのいかなる戦いとも質を異にし、その後の硫黄島、沖縄戦の類型を示した」(米海兵隊戦記)
「ペリリューの複雑きわまる防備に打ち克つには、米国の歴史における他のどんな上陸作戦にも見られなかった最高の損害比率(約40%)を甘受しなければならなかった」(米太平洋艦隊司令長官C・W・ニミッツ)
さらに、元海兵隊員コードリン・ワグナー氏は平成6年にこう回想している。
「私は海兵隊の一員としてペリリュー戦に参加した。こんな島なら二日間で落すつもりだった。しかし、一ケ月たっても落ちなかった。日本軍人はよく戦い全員が戦死した。当時戦った勇者に会いたくてもそれができない。皆さんは郷里に帰ったら、アメリカの老軍人が日本軍の勇戦を讃えていたと伝えて欲しい」(『大東亜戦争の秘話』展転社)
今日ではペリリュー島の戦いは完全に忘れられているが、両陛下の御訪問に合わせ、追悼の機会としたい。
ブログ「よい国のニュース」から、『正論』記事「ペリリュー英霊が問う戦後精神/新保祐司」を読んで、深く共感を覚えました。特に、
>明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。
追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。>
の部分で、思わず涙がこみあげました。
敗戦後、それまで国のために戦いなくなられた方々を英霊、勇士と崇めてきた国民が、一斉に手のひらを返したように、軍国主義者とか、侵略戦争の手先のように貶めたり、多少かばったつもりでも、軍国主義の犠牲者でした。
しかし、この犠牲者とか、被害者という言葉は、もしかしたら、軍国主義者という以上に、英霊を貶めているのではないかと、よく思ったものです。
犠牲者とか被害者というと、その人には、何ら罪がない、むしろ本来なら賠償される権利があるだとか、あるいは、なんとかわいそうな、気の毒な人だという同情に値するということだと思います。
これは、祖国を守ろうという意志を持って戦ったことを、何の価値もない行為というふうに、否定し貶めることです。しかも、自分の人生をたとえ時代の影響のもとで生きなければいけなかったとはいえ、そこには、やはり主体的にものごとを受け止め、行動した人々が多くいたはずなのに、それをすべて強制された人生であったかのようにとらえるのは、そうした人々の人生をただ流されて生きた木偶の坊的な人生と捉えることではないでしょうか。
たとえば、硫黄島でなくなった人々は、最後まで自決せずに、肉体的苦痛を耐えて戦い、米軍の本土への空襲を遅らせ、時間を稼いだというはなしです。飲まず食わずの中、玉砕せずに生き延びて戦うことの苦痛に打ち克って、なお戦い続け、戦死された英霊に対して、かわいそうな犠牲者などという傲りは、どこから来るのでしょうか。
それらは、戦後GHQに刷り込まれた自虐史観による日本悪玉論を単純に信じているからであり、その洗脳をなお脱しきれない故であり、それこそ戦後教育に流され続けた犠牲者といわねばならないでしょう。
ペリリュー英霊が問う戦後精神/新保祐司
8日から天皇、皇后両陛下がパラオ共和国を訪問され、大東亜戦争の激戦地ペリリュー島で戦没者を慰霊される。これは、戦後70年の今年における最深の行事といえるであろう。最深というのは、忙しさの中に埋没している日常的な時間を切り裂いて、歴史の魂に思いを致らし、日本人の精神を粛然たらしめるものだからである。
《「海ゆかば」を知らない日本人》
戦後60年の年には、サイパン島に慰霊の訪問をされた。そのときも、先の戦争を深く回想する契機を与えられたが、サイパン島は、バンザイクリフなどによって玉砕の島として日本人に知られているであろう。戦争の記録映像などでも、よく出て来るからである。
しかし、そのサイパン島や硫黄島などに比べてペリリュー島の方は、慚愧(ざんき)の至りであるが、戦後生まれの私も、この島の名前を知ったのは、そんなに古いことではない。日本人の多くが、知らなかったのではないか。
そのような島に天皇、皇后両陛下が訪問され、戦没者を慰霊されるということは、戦後70年間、大東亜戦争を深く記憶することを怠りがちであった日本人の精神の姿勢を厳しく問うものである。戦後の日本人が、いかに民族の悲劇を忘れて生きてきたかを叱責されるようにさえ感じる。
今年1月3日付本紙の「天皇の島から」の連載で、ハッとさせられる話が載っていた。パラオ共和国の94歳になる老女が取り上げられていたが、明快な日本語で「君が代」を歌い上げ、続けて「海ゆかば」を口ずさみ始めたという。歌詞の内容も理解していた。
この記事を目にしたとき、戦後60年の年に両陛下がサイパン島を訪問されたときのエピソードを思い出した。敬老センター訪問の際、入所者の一部の島民が「海ゆかば」を歌ったという話である。玉砕の悲劇を回想するとき、島民の心からおのずから「海ゆかば」が湧き出てきたのであろう。それに対して、日本人の方が「海ゆかば」を知らないのである。
《日本が失ったものの大きさ》
このように「海ゆかば」を通して先の戦争を記憶しているサイパン島の島民やパラオ共和国の老女に比べて、日本列島の島民はどうであるか。私もそうであったが、ペリリュー島を忘れていたではないか。サイパンやパラオの島民はずいぶん貧しいかもしれない。しかし、歴史の悲劇と戦没者を忘れないという精神においてどちらが品格が上であろうか。それを思うと、戦後70年間、日本が経済的発展の代償として失ったものの大きさに改めて気づかされる。
ペリリュー島については、40年ほども前に産経新聞社の前社長の住田良能氏が、支局時代にとりあげていたことを最近知って感銘を受けた。1978年、本紙の茨城県版に掲載された「ペリリュー島’78」には、「犠牲の大きい戦いであっただけに、米軍にとって、勝利はひときわ印象深かった。戦後、太平洋方面最高司令官だったニミッツ提督は『制空、制海権を手中にしていた米軍が、一万余の死傷者を出してペリリューを占領したことは、いまもって大きなナゾである』と述べ、また米軍公刊戦史は『旅人よ、日本の国を過ぐることあれば伝えよかし、ペリリュー島日本守備隊は、祖国のために全員忠実に戦死せりと』と讃(たた)えた」と書かれていた。
この「旅人よ、日本の国を」は名訳といっていいが、この文章の原型は、紀元前480年のギリシャでのテルモピレーの戦いを讃えた碑文につながっている。テルモピレーの戦いといえば、吉田満の『戦艦大和ノ最期』初版の跋文(ばつぶん)に、三島由紀夫が「感動した。日本人のテルモピレーの戦を目のあたりに見るやうである」と絶賛したことを思い出す。
戦艦大和の激闘が、テルモピレーの戦いの如くであったように、ペリリュー島の激戦も、テルモピレーの戦いであったのである。
《両陛下の慰霊に合わせ黙祷を》
この玉砕を悲惨な戦争とか戦没者を戦争の犠牲者とか決して言ってはならない。テルモピレーの戦いのように「祖国」のために戦った勇者に他ならないからである。
天皇、皇后両陛下が慰霊される時刻には、終戦記念日の正午に国民が黙祷(もくとう)をささげるように、ペリリュー島の戦没者に国民が黙祷するようにしてはどうであろうか。これまでほとんど忘れていたことに対するおわびも兼ねてである。
そして、今年の8月15日の全国戦没者追悼式には、「海ゆかば」を流してはどうか。明治から大正にかけて諜報活動に従事した石光真清は有名な手記を書き遺(のこ)したが、その中で明治天皇の崩御に触れて「遠く満洲の涯(はて)に仆(たお)れた人々も、一斉に大地から黒く浮び上って、この偉大なる明治の終焉(しゅうえん)を遙(はる)かに地平線の彼方(かなた)から眺めているかに思われた」と書いた。
追悼式で「海ゆかば」が流れたならば、遙かに水平線の彼方のペリリュー島から英霊は黒く浮び上って今日の日本人を眺めるであろう。そして、われわれはその視線に戦後の精神の在り方を厳しく問われることになるのではないか。(しんぽ ゆうじ)