小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

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駆逐艦『雷』工藤俊作艦長「敵兵を救助せよ」、サー・フォール卿の恩返し

2010年10月29日 21時45分09秒 | 歴史
 1998年5月天皇皇后両陛下は、イギリスを訪問されました。この時、第二次世界大戦で、日本軍の捕虜となった元イギリス兵たちが、戦争中の捕虜虐待(泰緬鉄道での強制労働等)の賠償を日本政府に求め、天皇へ謝罪を求めて、反日運動を活発にしていました。
 当時は日本の財界がイギリスに積極投資をしている時期で経済的に親密度が増しており、イギリス世論も、新しい関係を重視するものや、あくまで日本政府を非難し謝罪を要求するものなど様々で、新聞も大きく取り上げました。
 この元捕虜たちは、日本軍を恨んで激烈な反日活動をしていましたが、細川首相の時に、すでに講和条約で終わった問題にもかかわらず、この元捕虜に謝罪し、「慰謝料は在英の日本企業から払わせる」と発言したものですから、大変な混乱を生じてしまい、在英日本人会は大騒ぎになったこともありました。そしてこれによって問題が泥沼化したのでした。
 天皇皇后両陛下が到着後、エリザベス女王と馬車に乗ってバッキンガム宮殿に向われるパレードで、イギリス国民が歓迎する中、元捕虜の何人かが背中を向けて抗議したほどでした。この元捕虜たちの事前に天皇訪英を阻止しようとする反日運動がもりあがるなかで、1998年4月29日英タイムズ紙に、ある投稿が掲載されました。
 サー・サミュエル・フォール卿による、「戦時中、日本帝国海軍に捕虜になったが、友軍以上の処遇を受けた」とする一文でした。この投書は読者に感動を与え、以降この反日活動は急速にトーンダウンしていきました。

 サー・サミュエル・フォール卿

 工藤俊作・駆逐艦「雷」艦長


 工藤俊作 武士道精神の人
「英国兵四二二名を救助した駆逐艦「雷」艦長」
恵 隆之介  より

昭和十七年三月一日午後二時過ぎ、英重巡洋艦「エクゼター」(一万三〇〇〇トン)、「エンカウンター(一三五〇トン)は、ジャワ海脱出を試みて帝国海軍艦隊と交戦し、相次いで撃沈された。その後両艦艦長を含む約四五〇人の英海軍将兵は漂流を開始した。
翌三月二日午前十時ごろ、この一団は生存と忍耐の限界に達していた。結果一部の将兵は自決のための劇薬を服用しようとしていたのである。まさにその時「雷(いかずち)」に発見されたのだ。
一方駆逐艦「雷」は直属の第三艦隊司令部より哨戒を命じられ単艦でこの海面を行動中であった。
「雷」乗員は全部で二二〇名、ところが敵将兵は四五〇人以上が浮游していたのである。さらにこの海面は敵潜水艦の跳梁も甚だしく艦を停止させること自体、自殺行為に等しかった。
救助を決断した「雷」艦長工藤俊作少佐(当時)は四十一歳、山形県出身、当初は敵将兵の蜂起に備え、軽機関銃を準備し警戒要員を艦内主要箇所に配置していた。
ところが艦長は間もなく彼らの体力が限界に達している事に気づく。そこで警戒要員も救助活動に投入した。
一部英海軍将兵は、艦から降ろした縄はしごを自力で登れないばかりか、竹ざおをおろして一たんこれにしがみ付かせ、内火艇(艦載ボート)で救助しようとしたが、力尽きて海底に次々と沈んで行ったのだ。
ここで下士官数名が艦長の意を呈し、救助のためついに海に飛び込んだ。そしてこの気絶寸前の英海軍将兵をロープで固縛し艦上に引き上げたのである。
一方サー・フォールは、当時の状況をこう回顧している。
「雷」が眼前で停止した時、「日本人は残虐」と言う潜入感があったため「機銃掃射を受けていよいよ最期を迎える」と頭上をかばうかのように両手を置いてうつむこうとした。その瞬間、「雷」メインマストに「救助活動中」の国際信号旗が掲揚されボートが下ろされたのだ。
サー・フォールはこの瞬間から夢ではないかと思い、何度も自分の腕をつねったと言う。
一方「雷」艦上ではサー・フォールを一層感動させる光景があった。
日本海軍水兵達が汚物と重油にまみれた英海軍将兵を嫌悪しようともせず、服を脱がせてその身体を丁寧に洗浄し、また艦載の食料被服全てを提供し労る光景であった。
当時「石油の一滴は血の一滴」と言われていたが、艦長は艦載のガソリンと真水をおしげもなく使用させた。
戦闘海域における救助活動は下手をすれば敵の攻撃を受け、自艦乗員もろとも遭難するケースが多々ある。この観点から温情ある艦長でさえごく僅かの間 だけ艦を停止し、自力で艦上に上がれる者だけを救助するのが戦場の常識であった。ところが工藤艦長は違った、しかも相手は敵将兵である。
さらに工藤艦長は潮流で四散した敵兵を探し求めて終日行動し、例え一人の漂流者を発見しても必ず艦を止め救助したのである。救命活動が一段落したとき艦長は前甲板に英海軍士官全員を集め、英語でこう訓辞した。 「貴官らはよく戦った。貴官は本日、日本帝国海軍のゲストであ る」と、そして艦載の食料の殆どを供出して歓待したのである。 今年(2008年)七月、サー・フォールは来日し、日本人有志と共に工藤艦長墓前で顕彰祭を挙行する。 サー・フォールが戦後六十三年抱き続けた工藤艦長への思いはここに達成されるのである。
 (この記事での日付は2008年のものであり、来日はその年12月8日となり、89歳(2008年)になるフォール卿は、義理の息子に車椅子を押してもらいながら12月8日の「工藤中佐顕彰式典」に臨み、亡き工藤艦長はじめ帝国海軍に感謝を述べた。)


 (「教科書が教えない歴史」自由主義史観研究会より)

 驚くべきことに、本会理事の岩田義泰先生(終戦時、陸軍少佐)は、そのとき近くのジャワ島のバタビヤにおられ、この海軍の敵兵救助劇についても噂で聞いていた、と先日伺った!  しかしながら、工藤艦長も、それを知った陸海軍の将兵も「美談」や「手柄話」として語る者はなく、フォール卿が語り始めるまで、日本国民に知られることはなかったのである。
  この奇跡の実話が多くの人々に知られるようになったのは、偶然、恵隆之介氏がフォール卿に関するリポートをラジオで聞いたことに端を発する。

  《2003年6月13日、私はNHKラジオの朝の番組「ワールドレポート」を聞いて、強い感動と驚きにとらわれていた。それはロンドン発のリポートで、ラ ジオのリポーターは「なんでこんな美談が戦後、日本で報道されなかったか、不思議でならない」と興奮を抑えながら発言していた》(恵著『海の武士道』)  
 
 そして、実行委員長の平沼赳夫衆議院議員が挨拶で述べたのは、こうした美談は「雷」だけに限らないということだ。  

おそらく、開戦劈頭のマレー沖開戦のことなどを念頭においての発言であろう。
 恵隆之介氏が、実際にイギリスの元海軍士官から伝えられた衝撃の逸話をぜひ紹介しておきたい。

「戦艦『プリ ンス・オブ・ウェールズ』に乗務していたグレム・アレン元大尉が『偉大なる帝国海軍』と前置きして私にこう発言した。『旗艦および随伴戦艦レパルスが戦闘 能力を失ったと見ると、日本海軍航空隊は一斉に攻撃を止めた。そして護衛駆逐艦が両艦乗員の救助活動を開始したが一切妨害しなかった。さらに我々を救助し た駆逐艦が母港のシンガポールに帰港する際も日本海軍は一切攻撃を行わなかった。我々は帝国海軍のこれらの行為に瞠目し、敬意を払うようになった』  

アレン大尉は、その後重巡洋艦エクゼターに転属、ジャワ沖開戦で撃沈され、帝国海軍に救助された。なおジャワ沖海戦時、沈没直後の英海軍艦艇から乗員が帝 国海軍艦艇に向かって懸命に泳ぐ姿が見られた。尋問の結果、『日頃から上官が、万一の時は日本海軍艦艇に向かって泳げ、きっと救助してくれる』と発言して いたという」
(恵隆之介「『敵兵を救助せよ』のそれから」『正論』平成20年10月号)
元陸軍少佐の岩田義泰先生にも一切語ることのなかった「美談」があるという(いうまでもないが、先生はご自分で「美談」などという言葉を口にされることはない)。「どんなことがあったんですか? 聞かせて下さい」と食い下がる私に、先生は「そんな大げさに話すようなことでもないし…」と謙遜された。  

これが、日本人の武士道なのか。
 他にも歴史の奥底に埋もれている多くの「工藤艦長」がいるにちがいない。  

日本人が忘れさせられた記憶を取り戻してくれたフォール卿と、式典挙行にご尽力された恵隆之介氏に感謝したい。


工藤艦長の敵兵救出の話は、フジテレビのアンビリーバボーでも放映され、ご存じの方も多いと思いますが、私はこの回を見ておらず後にインターネットの動画よりこれを見て、非常に感動しました。もっと多くの方に知っていただきたい話だと思いました。さらに開戦時、20歳の若き士官だったフォール卿は、戦後、ことあるごとに、この救出劇と日本の武士道を語り、イギリス国内における反日感情を緩和する役割を果たしてきたということです。それは日本を快く思わない戦友に厳しい目を向けられることでもあり、簡単なことではありませんでした。さらに以下のような活動もされており、日本人は、フォール卿の親日活動に深く感謝すべきであろうと思います。このことも日本人にもっと多く知られるべきでしょう。

アメリカ海軍機関紙『プロシーデングス』1987年新年号にも、フォール卿は「騎士道(Chivalry)として工藤艦長の行動を執筆した論文を7ページにわたって掲載し、アメリカ海軍軍人をも驚嘆させている。

さらに、1992年、スラバヤ沖海戦50周年記念式典がジャカルタで行われ、その式典にてフォール卿は記念講演を行った。ここでも工藤中佐の功績を称え、 『日本武士道の実践』と強調した。会場からは、万雷の拍手とスタンディングオベーションが起こったという》(恵隆之介『敵兵を救助せよ』公式サイトより)  

フォール卿は工藤艦長と「雷」乗組員に救助された人生を『マイラッキーライフ』と称し、1996年に自伝を上梓した。


http://www.youtube.com/watch?v=jLdX2ngSepY&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=vbHIC_CLDhk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=qhxMP9RrLwk&feature=related


 関係ないけど、うちの庭に来たホシミスジ蝶です

川鵜のカップル

2010年10月27日 09時18分09秒 | 自然観察日記
 

 3週間くらい前、川鵜が電柱の上にいるのを見ましたが、その後も何回か電柱の上にいるのを見ました。そして、先日、なんとこの川鵜がカップルになっているのを見ました。電柱にはあの時の川鵜(たぶん)が座っていて、そのそばの電線に、きっと雌だと思うのですが、寄り添うような雰囲気で、立っているのです。



 電柱の上の川鵜を見た時も驚きましたが、カップルになって電柱の上にいるのを見た時も、びっくりしました。



 しばらく見ていると、最初見た鵜が、多分オスだと思いますが、遠くを見たりくちばしを上に向けたりすると、メスがまるで頼もしい夫を見る妻のような感じで見つめるのです。ああこのひとたちは新婚さんなんだなあとか、つい思ってしまいました。



 その後この2羽の鵜は、どちらも眠そうにして、メスの方はとうとう眠ってしまいました。なんでこんなトコで寝るのだろうと思わずにはおれません。電線に足で掴まったまま翼に首を突っ込んで寝ています。なんという器用さなのでしょう。落ることはないのでしょうか。



 鵜たちが寝てしまったので、そこら辺の小川を覗いてみましたが、いつか見たゴイサギの幼鳥ホシゴイはいませんでした。

 昨日またこのあたりに来てみましたが、鵜もホシゴイもいませんでした。その代わりケリが数羽稲刈りの終わった田んぼにいて、歩いて餌を取っているようでした。遠くの方にもやはり数羽のケリがいて、ときどき田んぼの地面すれすれにくるくる低空で回っていたりしました。

   ケリです

   ハクセキレイです



 と思うと、近くにチッチという声がしてハクセキレイが田んぼに虫をとりにきたようです。このあたりは、いろんな鳥を見ます。川と田んぼがあれば、けっこう野生の鳥が来るものです。このへんでは見慣れた鳥ですが、それでも野生の鳥を見るのはうれしいものです。しばらくすると、アオサギが二羽上空を南に飛んでゆきました。アオサギが川のそばにある大きな木の枝に止まるのを見て、その日の野鳥観察に一応の満足を感じて帰りました。

   アオサギです

   アオサギです

 野鳥観察などというと大げさですが、ただの散歩がてらのデジカメ撮影です。田んぼが広がり、ところどころに植木畑があり、小川が流れていれば、それだけで自然の空気を満喫できます。手付かずの自然と違って、人間に管理された自然ではありますが、それでも十分にありがたいと思います。農業を決して衰退させてはいけないと強く感じます。こうした農地がもたらす自然の風景が、どれほど人間に安らぎを与え、野鳥や昆虫や、いろんな生物を育んでいるかを考えれば、ほんとに大切な宝もののように思います。一度、農地が転用されてしまえば、もう元に戻ることはほぼないでしょうから、いまは休耕田で何も作物は植えられてなくても、安易に転用されないことをほんとに願っています。

大和心とポーランド孤児

2010年10月23日 14時10分44秒 | 歴史
 この話を聞いたとき、ほんとうに感動で涙が出ました。
1995年に起こった阪神大震災で、死者は6433人という大惨事でした。そしてこのとき、親を亡くした子供30人がポーランドに招かれ、3週間にわたって、各地で歓待を受けたそうです。なぜポーランドが、このような催しを開いたくれたのかという理由が、20世紀初めの、日本によるシベリアでのポーランド孤児救出という出来事にあります。その時の恩義を、ポーランドは決して忘れず、日本に感謝の心を抱き続けていてくれたからだったというのです。
 


シベリアは長い間、祖国独立を夢見て反乱を企てては捕らえ
られたポーランド愛国者の流刑の地だった。1919年、ポーラン
ドがロシアからようやく独立した頃、ロシア国内は革命、反革
命勢力が争う内戦状態にあり、極東地域には政治犯の家族や、
混乱を逃れて東に逃避した難民を含めて、十数万人のポーラン
ド人がいたといわれる。

 その人々は飢餓と疫病の中で、苦しい生活を送っていた。と
くに親を失った子供たちは極めて悲惨な状態に置かれていた。
せめてこの子供達だけでも生かして祖国に送り届けたいとの願
いから、1919年9月ウラジオストク在住のポーランド人によっ
て、「ポーランド救済委員会」が組織された。

 しかし翌20年春にはポーランドとソビエト・ロシアとの間に
戦争が始まり、孤児たちをシベリア鉄道で送り返すことは不可
能となった。救済委員会は欧米諸国に援助を求めたが、ことご
とく拒否され、窮余の一策として日本政府に援助を要請するこ
とを決定した。


 救済委員会会長のビエルキエヴィッチ女史は20年6月に来日
し、外務省を訪れてシベリア孤児の惨状を訴えて、援助を懇請
した。

 女史の嘆願は外務省を通じて日本赤十字社にもたらされ、わ
ずか17日後には、シベリア孤児救済が決定された。独立間も
ないポーランドとは、まだ外交官の交換もしていない事を考え
れば、驚くべき即断であった。

 日赤の救済活動は、シベリア出兵中の帝国陸軍の支援も得て、
決定のわずか2週間後には、56名の孤児第一陣がウラジオス
トクを発って、敦賀経由で東京に到着した。それから、翌21年
7月まで5回にわたり、孤児375名が来日。さらに22年夏に
は第2次救済事業として、3回にわけて、390名の児童が来
日した。

 合計765名に及ぶポーランド孤児たちは、日本で病気治療
や休養した後、第一次はアメリカ経由で、第2次は日本船によ
り直接祖国ポーランドに送り返された。習慣や言葉が違う孤児
たちを世話するには、ポーランド人の付添人をつけのがよいと
考え、日赤は孤児10名に1人の割合で合計65人のポーラン
ド人の大人を一緒に招くという手厚い配慮までしている。



 日本に到着したポーランド孤児たちは、日赤の手厚い保護を
受けた。孤児たちの回想では、特に印象に残っていることとし
て以下を挙げている。

 ウラジオストックから敦賀に到着すると、衣服はすべて熱湯
消毒されたこと、支給された浴衣の袖に飴や菓子類をたっぷ入
れて貰って感激したこと、特別に痩せていた女の子は、日本人
の医者が心配して、毎日一錠飲むようにと特別に栄養剤をくれ
たが、大変おいしかったので一晩で仲間に全部食べられてしま
って悔しかったこと、、、

 到着したポーランド孤児たちは、日本国民の多大な関心と同
情を集めた。無料で歯科治療や理髪を申し出る人たち、学生音
楽会は慰問に訪れ、仏教婦人会や慈善協会は子供達を慰安会に
招待。慰問品を持ち寄る人々、寄贈金を申し出る人々は、後を
絶たなかった。

 腸チフスにかかっていた子供を必死に看病していた日本の若
い看護婦は、病の伝染から殉職している。

 1921(大正10)年4月6日には、赤十字活動を熱心に後援さ
れてきた貞明皇后(大正天皇のお后)も日赤本社病院で孤児た
ちを親しく接見され、その中で最も可憐な3歳の女の子、ギエ
ノヴェファ・ボグダノヴィッチをお傍に召されて、その頭を幾
度も撫でながら、健やかに育つように、と話された。

 このような手厚い保護により、到着時には顔面蒼白で見るも
哀れに痩せこけていたシベリア孤児たちは、急速に元気を取り
戻した。

 日本出発前には各自に洋服が新調され、さらに航海中の寒さ
も考慮されて毛糸のチョッキが支給された。この時も多くの人
々が、衣類やおもちゃの贈り物をした。

 横浜港から、祖国へ向けて出発する際、幼い孤児たちは、親
身になって世話をした日本人の保母さんとの別れを悲しみ、乗
船することを泣いて嫌がった。埠頭の孤児たちは、「アリガト
ウ」を繰り返し、「君が代」を斉唱して、幼い感謝の気持ちを
表した。

 神戸港からの出発も同様で、児童一人ひとりにバナナと記念
の菓子が配られ、大勢の見送りの人たちは子供たちの幸せを祈
りながら、涙ながらに船が見えなくなるまで手を振っていた。

 子どもたちを故国に送り届けた日本船の船長は、毎晩、ベッ
ドを見て回り、1人ひとり毛布を首まで掛けては、子供たちの
頭を撫でて、熱が出ていないかどうかを確かめていたという。
その手の温かさを忘れない、と一人の孤児は回想している。

 こうして祖国に戻った孤児たちの中に、イエジ・ストシャウ
コフスキ少年がいた。イエジが17歳の青年となった1928年、
シベリア孤児の組織「極東青年会」を組織し、自ら会長となっ
た。極東青年会は順調に拡大発展し、国内9都市に支部が設け
られ、30年代後半の最盛期には会員数640余名を数えたと
いう。

 極東青年会結成直後にイエジ会長が、日本公使館を表敬訪問
した時、思いがけない人に会った。イエジ少年がシベリアの荒
野で救い出され、ウラジオストックから敦賀港に送り出された
時、在ウラジオストック日本領事として大変世話になった渡辺
理恵氏であった。その渡辺氏が、ちょうどその時ポーランド駐
在代理公使となっていたのである。

 これが契機となって、日本公使館と、極東宣言会との親密な
交流が始まった。極東青年会の催しものには努めて大使以下全
館員が出席して応援し、また資金援助もした。

 1939年、ナチス・ドイツのポーランド侵攻の報に接するや、
イエジ青年は、極東青年会幹部を緊急招集し、レジスタンス運
動参加を決定した。イエジ会長の名から、この部隊はイエジキ
部隊と愛称された。

 そして本来のシベリア孤児のほか、彼らが面倒を見てきた孤
児たち、さらには今回の戦禍で親を失った戦災孤児たちも参加
し、やがて1万数千名を数える大きな組織に膨れあがった。

 ワルシャワでの地下レジスタンス運動が激しくなるにつれ、
イエジキ部隊にもナチス当局の監視の目が光り始めた。イエジ
キ部隊が、隠れみのとして使っていた孤児院に、ある時、多数
のドイツ兵が押し入り強制捜査を始めた。

 急報を受けて駆けつけた日本大使館の書記官は、この孤児院
は日本帝国大使館が保護していることを強調し、孤児院院長を
兼ねていたイエジ部隊長に向かって、「君たちこのドイツ人た
ちに、日本の歌を聞かせてやってくれないか」と頼んだ。

 イエジたちが、日本語で「君が代」や「愛国行進曲」などを
大合唱すると、ドイツ兵たちは呆気にとられ、「大変失礼しま
した」といって直ちに引き上げた。

 当時日本とドイツは三国同盟下にあり、ナチスといえども日
本大使館には一目も二目も置かざるを得ない。日本大使館は、
この三国同盟を最大限に活用して、イエジキ部隊を幾度となく
庇護したのである。


 95年10月、兵藤長雄ポーランド大使は、8名の孤児を公邸に
招待した。皆80歳以上の高齢で、一人のご婦人は体の衰弱が激
しく、お孫さんに付き添われてやっとのことで公邸にたどりつ
いた。

 私は生きている間にもう一度日本に行くことが生涯の夢
でした。そして日本の方々に直接お礼を言いたかった。し
かしもうそれは叶えられません。

 しかし、大使から公邸にお招きいただいたと聞いたとき、
這ってでも、伺いたいと思いました。何故って、ここは小
さな日本の領土だって聞きましたもの。今日、日本の方に
私の長年の感謝の気持ちをお伝えできれば、もう思い残す
ことはありません。

と、その老婦人は感涙に咽んだ。孤児たちは70年前以上の日
本での出来事をよく覚えていて、別の一人は、日本の絵はがき
を貼ったアルバムと、見知らぬ日本人から送られた扇を、今ま
で肌身離さずに持っていた、と大使に見せた。

 同様に離日時に送られた布地の帽子、聖母マリア像の描かれ
たお守り札など、それぞれが大切な宝物としているものを見せ
あった。

  ■われわれは何時までも恩を忘れない国民である■

 シベリア孤児救済の話は、ポーランド国内ではかなり広く紹
介され、政府や関係者からたくさんの感謝状が届けられている。
そのひとつ、極東委員会の当時の副会長ヤクブケヴィッチ氏は、
「ポーランド国民の感激、われらは日本の恩を忘れない」と題
した礼状の中で次のように述べている。

 日本人はわがポーランドとは全く縁故の遠い異人種であ
る。日本はわがポーランドとは全く異なる地球の反対側に
存在する国である。しかも、わが不運なるポーランドの児
童にかくも深く同情を寄せ、心より憐憫の情を表わしてく
れた以上、われわれポーランド人は肝に銘じてその恩を忘
れることはない。・・・

 われわれの児童たちをしばしば見舞いに来てくれた裕福
な日本人の子供が、孤児たちの服装の惨めなのを見て、自
分の着ていた最もきれいな衣服を脱いで与えようとしたり、
髪に結ったリボン、櫛、飾り帯、さては指輪までもとって
ポーランドの子供たちに与えようとした。こんなことは一
度や二度ではない。しばしばあった。・・・

 ポーランド国民もまた高尚な国民であるが故に、われわ
れは何時までも恩を忘れない国民であることを日本人に告
げたい。日本人がポーランドの児童のために尽くしてくれ
たことは、ポーランドはもとより米国でも広く知られてい
る。・・・

 ここに、ポーランド国民は日本に対し、最も深い尊敬、
最も深い感銘、最も深い感恩、最も温かき友情、愛情を持
っていることを伝えしたい。


   ■大和心とポーランド魂■
  
「何時までも恩を忘れない国民である」との言葉は、阪神大震
災の後に、実証された。96年夏に被災児30名がポーランドに
招かれ、3週間、各地で歓待を受けた。

 世話をした一人のポーランド夫人が語った所では、一人の男
の子が片時もリュックを背から離さないのを見て、理由を聞く
と、震災で一瞬のうちに親も兄弟も亡くし、家も丸焼けになっ
てしまったという。焼け跡から見つかった家族の遺品をリュッ
クにつめ、片時も手放さないのだと知った時には、この婦人は
不憫で涙が止まらなかった、という。

 震災孤児が帰国するお別れパーティには、4名のシベリア孤
児が出席した。歩行もままならない高齢者ばかりであるが、
「75年前の自分たちを思い出させる可哀想な日本の子どもた
ちがポーランドに来たからには、是非、彼らにシベリア孤児救
済の話を聞かせたい」と無理をおして、やってこられた。

 4名のシベリア孤児が涙ながらに薔薇の花を、震災孤児一人
一人に手渡した時には、会場は万雷の拍手に包まれた。75年
前の我々の父祖が「地球の反対側」から来たシベリア孤児たち
を慈しんだ大和心に、恩を決して忘れないポーランド魂がお返
しをしたのである。


 以上の話は、-Japan On the Globe(142) 国際派日本人養成講座より引用しました。


わが庭の虫たち

2010年10月21日 23時37分35秒 | 自然観察日記
夏の終わりから、虫の声がとても響くようになりました。うちの庭は、雑草が生い茂っているので、虫もたくさんいます。洗濯物を干しに庭に出ると、バッタがさっと足元から飛んで逃げます。カエルもピョンピョン飛んで逃げていきます。


ピンクの花がイヌタデです

 あまり草が茂りすぎると、時々カマでざっと刈るのですが、すぐに生えてきます。こんな雑草だらけの庭では、少しみっともないかもと思う時もありますが、しかし秋になって細い葉の雑草にも穂が出て、その間にピンク色のイヌタデの花がまじっているのをみたり、少し前には、ヌスビトハギが小さな花をたくさん付けて、初秋の風情を出していたりすると、いいなあと思ってしまいます。このヌスビトハギは花が終わったら、すぐに刈りました。くっつき虫はやっかいですからね。


                ヌスビトハギです

 田舎で育って、子供の頃は山や川で遊んだものですから、こういう野の草に郷愁を感じてしまいます。とは言っても、ここも田舎なので、この町内の周りは田畑がほとんどですが、それでも窓から見えるわが庭に野の草が茂って小さな花など付けていると、ほっとします。そしてその草の間から、虫の音が聞こえるとほんとに癒される気がします。たいていはコオロギの声のように思います。



 ところで、虫といえば、うちの庭には、いろんなカズラもはびこっていて、その中の藪枯らしの葉に夏の間大きな幼虫が数匹いたのですが、これがいつの間にか姿を消しました。小さい可愛い幼虫がいるとおもったら、あっというまに巨大幼虫に育ち、いつ蛹になるかと待っていたら、その前にどこに行ったか行方不明になってしまいます。蛹は別の場所に移動して作るものなのでしょうか。がっかりしていると、また小さい幼虫が付いていて、またあっという間に大きく育って、そしてまた蛹を見る前にいなくなります。その繰り返しでした。この幼虫が、いったい何の幼虫なのかがずっと気になって、蝶の幼虫を検索しては調べても、見つからず、あるとき蛾の幼虫を調べたら、すぐに見つかりました。セスジスズメという蛾でした。そんなにきれいでもない、大きい蛾です。ちょっと戦闘機のような形にもみえます。幼虫の模様と全然似ていないので、これまたがっかりです。この幼虫は巨大になってくると少し気持ち悪さが出ますが、それでも可愛かったのです。というのは、しっぽのような角がお尻についていて、歩くたびにパタパタと前後に揺らして、それがなんとも愛嬌があって、毎日見ては、早く蛹にならないかと待っていました。結局蛹は一度も見ませんでした。今でも時々いないか探したりしますが、もう季節が過ぎたのか、何もいません。


 5センチから10センチ近くあります

 しかし先日、そのかわりにミカンの木にアゲハチョウの幼虫を見つけました。そのミカンの木は、狭い日の当たらないところで、他の木に押されるように、やっと生えている少しかわいそうな境遇の木で、毎年2、3個しか実がなりません。今年なんて、たった一個です。その木に数匹アゲハの幼虫が付いていました。出口の直ぐ側なので、毎朝新聞を取りにゆくたびに、いるなと確認したりしていましたが、これがまた、姿が見えないので、蛹を探していると、こんどはひとつ見つかりました。もっといるのかも知れませんが、こんな狭い入り組んだ枝の奥までは探せないので、とにかく一匹でも蛹を見ることができて、今回は大満足です。本当は羽化も見たいものですが、張り付いているわけにもいかないし、朝に見られたら幸運だと思っています。




 かなり大きくなった幼虫  右端にも


                 サナギです

 ところで、セスジスズメの幼虫ですが、その後ある人に教えていただき、このセスジスズメというのは、土の中で蛹になるのだそうです。どうりで一匹もいなくなったわけですね。ときどき、大きくなった幼虫が、駐車場のコンクリートの上を這っているのを見つけて、こんなところにいたら、踏んづけられてしまうと、わざわざもとの枝に戻してやったりしたのも、この幼虫にはいい迷惑だったに違いないです。でも一度は、ちょうどその横にある日々草のプランターの上まで伸びた枝に乗せたら、プランターの土の上に落ちたことがあって、そのままにしておきましたが、これはちょうど幼虫には天の助けになったに違いありません。もしかして、このプランターの土の中には、セスジスズメのサナギがいっぱいとかいうことになっているのかも知れません。

 

神嘗祭(かんなめさい)

2010年10月20日 13時11分34秒 | 歴史
 日本にとって、稲作は文化です。何しろ日本のことを、昔から瑞穂(みずほ)の国と言っていたくらいですから、昔の人が、水田に実る黄金色の稲の穂を見て、豊かな実りをどれほど願い、祈り、その収穫を神に感謝したかがわかる気がします。
 いまはかなり減反政策で、水田が減ってしまいましたが、日本人は、どんな山奥にも、棚田を作ったり、出来る限り土地を利用して水田をつくっていました。水田は、苗を植えたばかりの頃も、青々と茂ったときも、穂が出て黄色に色づいた頃も、情緒のある日本の風景を作り出します。

 この前の10月17日は伊勢神宮と宮中で神嘗祭がおこなわれたそうです。あるブログでそのことを知りました。ちょっと記事を紹介したいと思います。日本の文化というか、お祭りというもののもつ清々しさ、日本人の自然への敬虔な気持ちというものにちょっと感動しました。そのような文化を古事記の時代からずっと継承されていまもお祭りされている天皇陛下という存在もすごいと思いました。日本人としてもう少し知ってもいいような気がしました。

ここから引用です。

      天皇陛下は祭祀王です。
      

10月17日は神嘗祭(かんなめさい・かんなめのまつり・かんにえのまつり)です。神宮(伊勢神宮)と宮中の祭礼です。最も清浄な召し上がりものを意味す る「由貴大御饌(ゆきのおほみけ)」と称する新穀を供えます。神宮へは皇室から幣帛(へいはく 供え物)と、勅使が遣わされ、宮中では陛下御自ら御栽培さ れた稲を根つきのままお供えになられます。

天皇陛下の稲作はTVニュースなどで報じられることが多いのでご存知の方も多いでしょう。秋には皇居内での稲刈りのご様子が報道陣に公開されます。宮内庁 記者だった山本雅人氏によると都心なのに武蔵野の田園風景の中にいるように錯覚してしまうのだそうです。「サクッ、サクッ」という陛下が稲を刈り取る音だ けが終始響き渡ると述べています。

昭和天皇の御製(ぎょせい)

わが庭の初穂ささげて来む年の田の実いのりつ五十鈴の宮に

「わが庭」は皇居のことで「五十鈴の宮」は伊勢神宮のことです。初穂をささげて祈り、神宮を遥拝(ようはい)する様を詠んでおられます。
神宮への遥拝がすみますと、陛下は初穂を供された賢所(かしこどころ/けんしょ)に出御され、御拝礼なされます。ついで皇后陛下、皇太子殿下、皇太子妃殿下が御拝礼なされます。

来月の23日には新嘗祭が行われます。ここでも陛下がお育てになった「米」を捧げ、神前で「米」を召し上がり、神と食を共にします。そして「国平らかに、民安かれ」と祈られます。

天孫降臨の際、天照大神はニニギノミコトに三種の神器と共に「稲穂」を授けました。稲は神から授かったものであり、日本人は食事の度に手を合わせて「いた だきます」「ごちそうださま」と神に感謝するのです。日本人の食に対する感謝の原点が「神嘗祭」「新嘗祭」にあります。現代は飽食の時代と言われています が、天皇陛下の祭祀を通じて今一度、目の前にある糧のありがたさ、人間は食によって生かされているという日本人らしい認識を持とうではありませんか。
        
         偏った歴史観を見直す「かつて日本は美しかった」より