前回の記事で、秀吉の大陸出兵についても触れていましたが、16世紀にカトリック教会が、イエズス会などの組織を作って世界中に布教活動を開始し、それと同時にその布教とともに、その地を征服して、植民地化することを目的にしていたというのは聞いたことがありました。そして、日本の戦国時代にも来てやはり同じように、征服し植民地にしようと、布教にやってきたのも聞いたことがありました。そして日本がたまたま戦国時代で、軍事訓練を常に実施して勇敢でつよいというので諦めたのも聞いたことがありました。
しかし秀吉の大陸出兵の理由が、イエズス会の明の国を征服しようとしているのを阻止するためだったというのは初めて知りました。
イエズス会は明を征服する話を秀吉にも持ちかけて誘ったらしいのですが、秀吉はイエズス会が明を征服したあと、元寇の時のように、今度は明を使って日本に攻めてくる可能性を心配し、先手を取るために明へ出兵しようと決意し、大型戦艦を持たない日本は半島経由で、明に出兵しようとしたのだそうです。
いままで、秀吉の朝鮮出兵の理由もよくわからず、単に権力を得て、傲慢になり、しかも少し耄碌して無茶ばかりやるようになったのだろうくらいにしか考えていませんでした。全く理由がわからなかったからです。今はじめて理由を知り、秀吉の洞察力に感心しました。
私は秀吉という人間はそんなに好きでもないですが、だからといって人間誰でも様々な面を持っていて、それを正当に評価されるべきだと思っています。秀吉のプラスの面、マイナスの面どちらもあるでしょうが、秀吉が、キリシタンを禁制にして、日本の国益を守った面、また大陸出兵も、国益を守ろうとしたのだという面は、正当に評価されるべきだと思います。
キリシタン弾圧はひどいといえばひどいですが、そうしなくてはならない事情を無視して、秀吉や江戸幕府を責めるのは、間違っています。そうしなかったなら、日本は現在、国として残っていたかどうか分からないからです。その間の事情を書いてある、やはり国際派日本人養成講座の「キリシタン宣教師の野望」を転載します。
■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■
イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。
私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。
尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。
しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。[1,p83]
「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。
■2.シナ征服の6つの利益■
スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。
宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利益があると説いている。
第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主への大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができよう、と。
このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。
■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■
さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオに渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事件をあげている。
私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。[1,p95]
日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本人を傭兵の如くに見ていたのである。
■4.人類の救済者■
宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守るよう説いた。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。[2,p117]
中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明される。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。
数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描かれている。
家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していたが、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるように命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]
さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を述べている。
この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。
■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■
キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。
天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったのである。
秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。
■6.コエリョの画策とバテレン追放令■
翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。
その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。
コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。
コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵があれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。[1,p109-114]
■7.秀吉のキリシタンとの対決■
秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。
そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。
文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。[3,p372]
慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざわざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手段をとった。丁々発止の外交戦である。
■8.天草をスペイン艦隊の基地に■
全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。要点のみを記すと、
日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・
このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・
(日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・
スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。[1,p147-150]
キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。
また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。
■9.国家の独立を守る戦い■
家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放している。
1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確にはキリシタン勢力との絶縁と言うべきである。[4]
キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立てることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだった。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピンのように、スペインの植民地とならずに済んだのである。
■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「キリシタン時代の研究」★、高瀬弘一郎、岩波書店、S52.9
2. 「中学社会 歴史分野」、日本書籍、H9.1
3. 「国民の歴史」★★★、西尾幹二、産経新聞社、H11.11
4. 「歴史に学ぶ」★★★、村松剛、「日本への回帰 第17集」
国民文化研究会編、S57.3
_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
坂井君(福岡県、高校生)より
今回の『キリシタン宣教師の野望』とても興味深い内容でした。今までキリシタン宣教師がこのような考えを持って、日本に来ていたなんて知りませんでした。
私は高校2年で、受験には関係ないのですが、こういった話にはとても興味を持っています。しかし、私の周りを見る限りこういった話を共に語り合うことができる友人は1人か2人しかいません。私がこういった話をするとみんな引いてしまいます。みんなびっくりするほど無関心で戦争のことについてなどまったく知らないのです。私は戦争についての知識が多少あるので、クラスでは戦争マニアで通っています。
それほどまでにみんな知らないんです。どうしてみんなはこれほど無関心なのでしょうか?それとも私がおかしいんでしょうか?時々疑問に思います。正しいか正しくないかは別にしてこういったことをみんなで討論し合うことは、とてもすばらしいことだと思います。そして、多くの人がこういう知識をもつべきです。
■ 編集長・伊勢雅臣より
平和を守るためにこそ、戦争のことを良く研究しておかねばなりません。君と語り合える人を、一人でも二人でも捜して語り合ってください。日本人の1%が変われば、日本は変わります。
Japan On the Globe(154) 国際派日本人養成講座より転載