小さな自然、その他いろいろ

身近で見つけた野鳥や虫などを紹介します。
ほかにもいろいろ発見したこと、気づいたことなど。

川鵜の婚姻色

2010年11月29日 22時40分15秒 | 自然観察日記


 
 川鵜がいつも止まっている電柱を見て、きょうはいるかなと確かめることが多いですが、割とひんぱんに止まっています。11月の半ばごろに、やはりとまっているのを見て、久しぶりに撮影しようと歩いて行くと、近づくにつれ、いつもの川鵜ではない気がしました。黒いし川鵜のように見えますが、頭になにか白っぽい冠むり状のものが付いている気がします。近づいてよく見ても、やはりいつもの川鵜ではなく、白っぽい冠毛のようなものがあるし、足の辺にも白い斑点があります。こういう種類の川鵜もいるのだろうか、と思いながら写真を撮りました。



 その後帰ってから、鵜を検索してみたら、どうやら、川鵜のオスに春と秋くらいにあらわれる婚姻色というものらしいことがわかりました。繁殖期が11月から12月のようです。これは珍しいものを見たと、得した気分です。いつも電柱に止まっていたあの川鵜が、変身したのだろうと思いました。
 それから数日たって、また電柱に止まっているのを見て、見に行こうと思ったら、川沿いの別の電柱に別の川鵜が止まっているのが見えました。川鵜というのは、よほど電柱が好きなんだなと思い、こっちも撮影したいと、とにかく行ってみました。





 着いてみると、川沿いの方の電柱からは、飛んでいってしまったようで、いなくなっていました。いつもの電柱の方には、いましたが、この前の婚姻色はありませんでした。婚姻色がそんなに早く消えるものなのだろうかと、ちょっと疑問がわきました。もしかしたら、いつも同じ川鵜が止まっていると思っていましたが、違っていたのかも知れません。ヒヨドリと同じで、こちらの思い込みで同じ鳥だと思っていただけで、みな別人、いや別鳥だったのかも知れません。そういえばなんとなくみな違うような気がしてきます。

 普通の姿の川鵜を一応撮影して、さて帰ろうとしたら、グワッという鳴き声がして、アオサギが飛んできました。そばの田んぼにおりて来ました。そこにはケリもいます。ついでに撮りたくなって、撮影しました。











 ケリの声は少し甲高くて、キェッ、キェッ、という感じで、かもめのような音色ですが、よく夜中に聞くと怪鳥のように聞こえたものです。その後夜中に鳴くのはたいていゴイサギだと書いてあるのを読んでゴイサギかと思いましたが、キェッというのはやはりどう聞いてもケリで、グワッという声が、きっとゴイサギか、又はアオサギのようで、夜中でもいろんな鳥が鳴いているのだと気付きました。夜行性以外の鳥はみな寝ていると思っていましたが、起きて鳴くこともあるのでしょう。ということは、ケリが夜中に何かに襲われているのではと、また心配になるのでした。



 帰る途中で、セキレイと電線のスズメを撮りました。セキレイは何かを拾って取っていました。セキレイはなんとなくひょうきんな鳥で、いつも歩いています。歩くのが好きなのでしょうか。それにとても早く歩きます。その走るように歩く姿がなんとなく面白くて、つい見惚れてしまいます。





 スズメは意外と撮影しにくいです。ものすごく遠くからしか撮れません。とても敏感で、カメラを向けるとさっと飛び立ちます。今日はそのスズメが、割と近くでカメラを向けても逃げずに撮影できました。珍しくもない鳥ですが、それでもすずめはとても愛らしく感じます。元気いっぱいで、たくさん群れているのを見るとうれしくなります。そんなスズメがはっきりと撮れたので、なんとなく満足です。








和歌の前の平等

2010年11月26日 14時00分16秒 | 歴史
 今回は和歌という我国伝統の真心の表現法を、記事のテーマにしてみました。今回も、国際派日本人養成講座よりの転載です。




■1.夏休みの宿題の短歌が選ばれた ■

 夏空に音は広がりかげろふの揺れる道の辺(べ)パレード終る

 大阪の女子高生・佐藤美穂さん(17歳)が夏休みの宿題で作った短歌だ。この1月14日、皇族、各界代表者約80人が参列した新春恒例の「歌会始(うたかいはじめ)の儀」で、10首の入選歌の一つとして、朗詠された。お題「道」に寄せて、日本全国、海外から詠進された2万16百余首の中から選ばれたものだ。高校生の入選は、実に39年ぶりである。

 この歌に関して、ニフティサーブの吹奏楽の会議室では、次のような感想が寄せられた。

夏の青く暑い空に自分たちの音が広がっていったこと、ふと見た道の辺に陽炎がたっていたこと、そういう中でパレードが無事に終えられたこと、このような小さな自分の感動をよく見つめて歌を詠んでいるなぁ、と思いました。

パレードに一生懸命取組んだ佐藤さんの生き生きとした姿がよく伝わってきます。普段雑事に奔走しているワタシも、なんかこう、ふうっとなつかしくなり、ほっとさせてくれる歌でした。不思議ですね。(岡山英一)

 歌を始めたばかりの女子高生が自分の経験を詠んでみた。その歌を通じて、その時の気持ちが手にとるように伝わる。まさに短歌とは「詠む人の想いを言葉で真空パックした贈り物」であると言える。儀式の終了後、天皇、皇后両陛下にお会いした佐藤さんは「“おめでとうございました”と両陛下はやさしくほほ笑んでおられました」と語った。

■2.いじめに負けず ■

 次に朗詠されたのは、北九州市の放送作家、吉永幸子さん(二七)。20代での入選も、33年ぶりだ。小学生のときからいじめにあい、高校時代にはついに登校拒否に。成人式にも出られず、母親が作ってくれた振りそでを着られなかった。歌会始には、その振り袖を初めて着て、参列した。「今回初めて応募したが、入選できて、失われた青春時代も報われた気がする」と手放しで喜ぶ。

 いちにちがきらきらとして生まれ来ぬ海の道ゆく父の背あかるし

 西に向かって博多湾を出ていく小さな漁船。その上にすっくと立つ父親のたくましい背中に東から朝日があたっている。一面のさざ波が朝日にきらめいて、一日が生まれ出た所である。そんな情景が浮かんでくる。吉永さんは父親の頼もしい背中に励まされ、その体験を歌に詠むことで、いじめによる心の傷を癒したのであろう。両陛下から「ご両親もさぞかしお喜びのことでしょう」とお声をかけられたという。

■3.移民の労苦を偲ぶお歌 ■

 皇后陛下は若い二人の入選を特にお喜びになった、と伝えられている。その皇后様は、次のお歌を詠まれた。

 移民きみら辿(たど)りきたりし遠き道にイペーの花はいくたび咲きし

 昨年のブラジルご訪問の時に詠まれたものである。ブラジルの農園に至る道に咲くイペーの花をご覧になられて、三代に渡る移民達が、いくたびこの花を見上げながら開墾作業に向かったかを、思われてのお歌である。きびしい農作業のあいまに農民をなぐさめたイぺーの花を通じて、日系移民達の心を皇后様が思いやられる、さらにそのお歌を通じて、我々にも皇后様のお心が偲ばれる。まさに歌とは、人々の心をつなぐ架け橋である。

■4.和歌の前の平等 ■

 このように和歌は、歌のテクニックを競うものではなく、そこにこめられた「まごころ」を歌い、詠み味わうものである。

 現代では「まごころ」とは誠実さとか、人に対する思いやりという意味で用いられるが、古来の大和言葉では、「まごころ」とは「真心」であり、「人間の真実の思い、こころ」と言う意味であった。そして人間の真実の思いを大切にし、それをお互いに理解する事が、大切である、そういう考え方のもとに、自らの「真心」を見つめ、互いの「真心」を通わせるために日本人が発明した独創的な方法が和歌なのである。

 我が国最古の歌集、万葉集においても、地位や財産などの外形的なものよりも、人間の真実の思いを尊ぶ姿勢は、すでに明確に現れている。そこには天皇の歌から、名もない農民や兵士の歌まで収録されている。たとえば、次のような歌がある。

 父母が頭かき撫で幸(さ)くあれていひし言葉ぜ忘れかねつる

出がけに、父母が自分の頭を撫でながら、「くれぐれも気をつけていっておいで」と言ってくれた言葉が、忘れられない。

 天平勝宝七年(西暦755年)に、大陸からの侵攻に備えて、東国から九州太宰府に派遣された少年兵士の詠んだ歌である。年の頃は、冒頭の高校生の佐藤さんと同じ位ではないか。その親を思うまごころは、1200年以上も後に吉永さんが「父の背あかるし」と詠んだ親子の情と変わらない。

 万葉集は、地位や財産に関係なく、老若男女に関わりなく、まごころを詠んだ歌、そして、そういう歌を残した人を長く歴史に留めておこうとしたのである。

 キリスト教での「神の前の平等」に対し、これを「和歌の前の平等」と喝破したのは、渡部昇一の名著「日本語のこころ」(講談社現代新書)であった。我が国では、この「和歌の前の平等」を原理として、国民がお互いにまごころを通わせるような国を理想と考えていたのである。

 歌会始はこの理想を国家的制度にまで具現化したものである。

■5.世界から見た歌会始め■

 歌会始めは平安時代から行われていたようだ。宮中恒例の年頭行事となったのは、後土御門天皇御在位(1464-1500)の頃と言われている。国民一般の詠進が始まったのは、明治5年。それからすでに125年もの歳月が経っている。

 今年の歌会始で女子高生が宿題で詠んだ歌が、両陛下以下、新聞やテレビを通じて全国民に披露されるというのは、この「和歌の前の平等」の伝統が現代の歌会始にも脈々と息づいている事を示したものである。

 このように天皇と国民が一同に会して、お互いに歌を通じてまごころを通わせ合うというのは、外国人から見ても、驚くべき文化伝統であった。イギリスの桂冠詩人ブランデン、今上陛下の家庭教師であったアメリカのヴァイニング夫人は、それぞれ歌会始に陪席して、美しい感想を残している。

 また白百合女子大のマリー・マリー・フィロメーヌ教授は、

”The New Year's Poetry Party at the ImperialCourt -Two Decades in Post-war Years, 1960-1979" (北星堂、昭和58年)で諸外国に皇室の歌会始めを1冊の本で紹介され、

 日本の皇室と国民との間に、歌を介した美しい、次元の高い交流がある

と記された由である。(皇后陛下の御歌集「瀬音」p235-7)

 「和歌の前の平等」という優れて精神的文化的な伝統が我が国の古来からの国柄の一つとなっている事を、2月11日、建国記念の日に思い起こしたい。

■おたより 大石 郁夫さんより

 ひとつひとつの短歌に感動し、心が洗われるようでした。特に、昨年ツアーでブラジルに行って、日本人の評価が高いのを知り、日系移民の苦労をしみじみと感じたところなので、皇后様のお歌には、思わず涙してしまいました。良き意味で日本人としての誇りを思い起こしてくれました。



                Japan On the Globe (23)

_/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座

_/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成10年2月7日 1,972部発行より転載


キリシタン宣教師の野望

2010年11月24日 20時00分00秒 | 歴史
 前回の記事で、秀吉の大陸出兵についても触れていましたが、16世紀にカトリック教会が、イエズス会などの組織を作って世界中に布教活動を開始し、それと同時にその布教とともに、その地を征服して、植民地化することを目的にしていたというのは聞いたことがありました。そして、日本の戦国時代にも来てやはり同じように、征服し植民地にしようと、布教にやってきたのも聞いたことがありました。そして日本がたまたま戦国時代で、軍事訓練を常に実施して勇敢でつよいというので諦めたのも聞いたことがありました。
 しかし秀吉の大陸出兵の理由が、イエズス会の明の国を征服しようとしているのを阻止するためだったというのは初めて知りました。
 イエズス会は明を征服する話を秀吉にも持ちかけて誘ったらしいのですが、秀吉はイエズス会が明を征服したあと、元寇の時のように、今度は明を使って日本に攻めてくる可能性を心配し、先手を取るために明へ出兵しようと決意し、大型戦艦を持たない日本は半島経由で、明に出兵しようとしたのだそうです。
 いままで、秀吉の朝鮮出兵の理由もよくわからず、単に権力を得て、傲慢になり、しかも少し耄碌して無茶ばかりやるようになったのだろうくらいにしか考えていませんでした。全く理由がわからなかったからです。今はじめて理由を知り、秀吉の洞察力に感心しました。
 私は秀吉という人間はそんなに好きでもないですが、だからといって人間誰でも様々な面を持っていて、それを正当に評価されるべきだと思っています。秀吉のプラスの面、マイナスの面どちらもあるでしょうが、秀吉が、キリシタンを禁制にして、日本の国益を守った面、また大陸出兵も、国益を守ろうとしたのだという面は、正当に評価されるべきだと思います。
 キリシタン弾圧はひどいといえばひどいですが、そうしなくてはならない事情を無視して、秀吉や江戸幕府を責めるのは、間違っています。そうしなかったなら、日本は現在、国として残っていたかどうか分からないからです。その間の事情を書いてある、やはり国際派日本人養成講座の「キリシタン宣教師の野望」を転載します。



■1.日本布教は最も重要な事業のひとつ■

 イエズス会東インド巡察師アレッサンドロ・ヴァリニャーノは日本に3年近く滞在した後、1582年12月14日付けでマカオからフィリッピン総督フランシスコ・デ・サンデに次のような手紙を出した。

 私は閣下に対し、霊魂の改宗に関しては、日本布教は、神の教会の中で最も重要な事業のひとつである旨、断言することができる。何故なら、国民は非常に高貴且つ有能にして、理性によく従うからである。

 尤も、日本は何らかの征服事業を企てる対象としては不向きである。何故なら、日本は、私がこれまで見てきた中で、最も国土が不毛且つ貧しい故に、求めるべきものは何もなく、また国民は非常に勇敢で、しかも絶えず軍事訓練を積んでいるので、征服が可能な国土ではないからである。

 しかしながら、シナにおいて陛下が行いたいと思っていることのために、日本は時とともに、非常に益することになるだろう。それ故日本の地を極めて重視する必要がある。[1,p83]

 「シナにおいて陛下が行いたいと思っていること」とは、スペイン国王によるシナの植民地化である。日本は豊かでなく、強すぎるので征服の対象としては不向きだが、その武力はシナ征服に使えるから、キリスト教の日本布教を重視する必要がある、というのである。

■2.シナ征服の6つの利益■

 スペインの勢力はアメリカ大陸を経て、16世紀半ばには太平洋を横断してフィリピンに達し、そこを足場にしてシナを始めとする極東各地に対し、積極的な貿易と布教を行っていた。

 宣教師達はその後もスペイン国王にシナ征服の献策を続ける。1570年から81年まで、10年以上も日本に留まってイエズス会日本布教長を努めたフランシスコ・カブラルは、1584年6月27日付けで、スペイン国王あてに、シナ征服には次の6つの利益があると説いている。

 第1に、シナ人全体をキリスト教徒に改宗させる事は、主への大きな奉仕であり、第2にそれによって全世界的に陛下の名誉が高揚される。第3に、シナとの自由な貿易により王国に多額の利益がもたらされ、第4にその関税により王室への莫大な収入をあげることができる。第5に、シナの厖大な財宝を手に入れる事ができ、第6にそれを用いて、すべての敵をうち破り短期間で世界の帝王となることができよう、と。

 このようにスペイン帝国主義と、イエズス会の布教活動とは、車の両輪として聖俗両面での世界征服をめざしていた。

■3.日本人キリスト教徒の「ご奉公」■

 さらにカブラルはシナ人が逸楽にふけり、臆病であるので征服は容易であると述べ、その例証に、13人の日本人がマカオに渡来した時に、2~3千人のシナ人に包囲されたが、その囲みを破り、シナ人の船を奪って脱出した事件があり、その際に多数のシナ人が殺されたが、日本人は一人も殺されなかった事件をあげている。

 私の考えでは、この政府事業を行うのに、最初は7千乃至8千、多くても1万人の軍勢と適当な規模の艦隊で十分であろう。・・・日本に駐在しているイエズス会のパードレ(神父)達が容易に2~3千人の日本人キリスト教徒を送ることができるだろう。彼等は打ち続く戦争に従軍しているので、陸、海の戦闘に大変勇敢な兵隊であり、月に1エスクード半または2エスクードの給料で、としてこの征服事業に馳せ参じ、陛下にご奉公するであろう。[1,p95]

 日本に10年以上も滞在したイエズス会日本布教長は、日本人を傭兵の如くに見ていたのである。

■4.人類の救済者■

 宣教師は教会のほか、学校や病院、孤児院を立てた。地球が球形であることを伝え、一夫一妻制を守るよう説いた。これらにより、キリスト教の信者が西日本を中心に増えた。この当時、キリスト教とその信者をキリシタンといった。[2,p117]

 中学歴史教科書の一節である。同じページにはザビエルの肖像画があり、そこに記されたIHSという文字について、「イエズス会の標識で『耶蘇、人類の救済者』の略字」と説明される。キリシタン宣教師達は、まさに未開の民に科学と道徳を教え、社会事業を進める「救済者」として描かれている。

 数ページ後には家康によるキリシタン弾圧が次のように描かれている。

 家康は貿易のために、はじめキリシタンを黙認していたが、やがて禁教の方針をとった。信者に信仰を捨てるように命じ、従わない者は死刑にした。[1,p130]

 さらに家光が、「キリシタンを密告した者に賞金を出すなどして、キリシタンを完全になくさせようとした」事を述べ、厳しいキリシタン取り締まりに島原・天草で約4万人の農民が一揆を起こして、「全滅」した事を述べている。

 この教科書を読んだ中学生は、「救済者」達に対するなんと野蛮な宗教弾圧かと思うであろう。しかし、なぜ家康は黙認から禁教へと方針を変えたのか、については一言も説明がない。秀吉も同様に、初めのうちはキリシタンを奨励していたのに、急に宣教師追放令を出している。いずれもキリシタン勢力から国の独立を守ろうとする秀吉や家康の防衛政策なのである。

■5.日本準管区長コエリョの秀吉への申し出■

 キリシタン宣教師の中で、イエズス会日本準管区長ガスパル・コエリョは、最も行動的であった。当時の日本は準管区であったので、コエリョはイエズス会の日本での活動の最高責任者にあたる。

 天正13(1585)年、コエリョは当時キリシタンに好意的であった豊臣秀吉に会い、九州平定を勧めた。その際に、大友宗麟、有馬晴信などのキリシタン大名を全員結束させて、秀吉に味方させようと約束した。さらに秀吉が「日本を平定した後は、シナに渡るつもりだ」と述べると、その時には2艘の船を提供しよう、と申し出た。当時、日本には外航用の大艦を作る技術はなかったのである。

 秀吉は、表面はコエリョの申し出に満足したように見せかけながらも、イエズス会がそれほどの力を持っているなら、メキシコやフィリピンのように、我が国を侵略する野望を持っているのではないかと疑い始めた。

■6.コエリョの画策とバテレン追放令■

 翌々年、天正15年(1587)に秀吉が九州平定のために博多に下ると、コエリョは自ら作らせた平底の軍艦に乗って、大提督のような格好をして出迎えた。日本にはまったくない軍艦なので、秀吉の軍をおおいに驚かせたという。

 その前に秀吉は九州を一巡し、キリシタン大名によって無数の神社やお寺が焼かれているのを見て激怒していた。秀吉は軍事力を誇示するコエリョに、キリシタンの野望が事実であると確信し、その日のうちに宣教師追放令を出した。

 コエリョはただちに、有馬晴信のもとに走り、キリシタン大名達を結集して秀吉に敵対するよう働きかけた。そして自分は金と武器弾薬を提供すると約束し、軍需品を準備した。しかし、この企ては有馬晴信が応じずに実現されなかった。

 コエリョは次の策として、2,3百人のスペイン兵の派兵があれば、要塞を築いて、秀吉の武力から教界を守れるとフィリピンに要請したが、その能力がないと断られた。コエリョの集めた武器弾薬は秘密裏に売却され、これらの企ては秀吉に知られずに済んだ。[1,p109-114]

■7.秀吉のキリシタンとの対決■

 秀吉の朝鮮出兵の動機については諸説あるが、最近では、スペインやポルトガルのシナ征服への対抗策であったという説が出されている。スペインがメキシコやフィリピンのように明を征服したら、その武力と大陸の経済力が結びついて、次は元寇の時を上回る強力な大艦隊で日本を侵略してくるだろう。

 そこで、はじめはコエリョの提案のように、スペインに船を出させ、共同で明を征服して機先を制しよう、と考えた。しかし、コエリョが逆に秀吉を恫喝するような態度に出たので、独力での大陸征服に乗り出した。その際、シナ海を一気に渡る大船がないので、朝鮮半島経由で行かざるをえなかったのである。

 文禄3(1593)年、朝鮮出兵中の秀吉は、マニラ総督府あてに手紙を送り、日本軍が「シナに至ればルソンはすぐ近く予の指下にある」と脅している。[3,p372]

 慶長2(1597)年、秀吉は追放令に従わずに京都で布教活動を行っていたフランシスコ会の宣教師と日本人信徒26名をわざわざ長崎に連れて行って処刑した。これはキリシタン勢力に対するデモンストレーションであった。一方、イエズス会とマニラ総督府も、すかさずこの26人を聖人にする、という対抗手段をとった。丁々発止の外交戦である。

■8.天草をスペイン艦隊の基地に■

 全国統一をほぼ完成した秀吉との対立が決定的になると、キリシタン勢力の中では、布教を成功させるためには軍事力に頼るべきだという意見が強く訴えられるようになった。1590年から1605年頃まで、15年間も日本にいたペドロ・デ・ラ・クルスは、1599年2月25日付けで次のような手紙を、イエズス会総会長に出している。要点のみを記すと、

 日本人は海軍力が弱く、兵器が不足している。そこでもしも国王陛下が決意されるなら、わが軍は大挙してこの国を襲うことが出来よう。この地は島国なので、主としてその内の一島、即ち下(JOG注:九州のこと)又は四国を包囲することは容易であろう。そして敵対する者に対して海上を制して行動の自由を奪い、さらに塩田その他日本人の生存を不可能にするようなものを奪うことも出来るであろう。・・・

 このような軍隊を送る以前に、誰かキリスト教の領主と協定を結び、その領海内の港を艦隊の基地に使用出来るようにする。このためには、天草島、即ち志岐が非常に適している。なぜならその島は小さく、軽快な船でそこを取り囲んで守るのが容易であり、また艦隊の航海にとって格好な位置にある。・・・

 (日本国内に防備を固めたスペイン人の都市を建設することの利点について)日本人は、教俗(教会と政治と)共にキリスト教的な統治を経験することになる。・・・多くの日本の貴人はスペイン人と生活を共にし、子弟をスペイン人の間で育てることになるだろう。・・・

 スペイン人はその征服事業、殊に機会あり次第敢行すべきシナ征服のために、非常にそれに向いた兵隊を安価に日本から調達することが出来る。[1,p147-150]

 キリシタン勢力が武力をもって、アジアの港を手に入れ、そこを拠点にして、通商と布教、そしてさらなる征服を進める、というのは、すでにポルトガルがゴア、マラッカ、マカオで進めてきた常套手段であった。

 また大村純忠は軍資金調達のために、長崎の領地をイエズス会に寄進しており、ここにスペインの艦隊が入るだけでクルスの計画は実現する。秀吉はこの前年に亡くなっており、キリシタンとの戦いは、徳川家康に引き継がれた。

■9.国家の独立を守る戦い■

 家康が何よりも恐れていたのは、秀吉の遺児秀頼が大のキリシタンびいきで、大阪城にこもって、スペインの支援を受けて徳川と戦うという事態であった。当時の大阪城内には、宣教師までいた。大阪攻めに先立って、家康はキリシタン禁令を出し、キリシタン大名の中心人物の高山右近をフィリピンに追放している。

 1624年には江戸幕府はスペイン人の渡航を禁じ、さらに1637~38年のキリシタン勢力による島原の乱をようやく平定した翌39年に、ポルトガル人の渡航を禁じた。これは鎖国と言うより、朝鮮やオランダとの通商はその後も続けられたので、正確にはキリシタン勢力との絶縁と言うべきである。[4]

 キリシタン宣教師達にとっては、学校や病院、孤児院を立てることと、日本やシナを軍事征服し、神社仏閣を破壊して唯一絶対のキリスト教を広めることは、ともに「人類の救済者」としての疑いのない「善行」であった。その独善性を見破った秀吉や家康の反キリシタン政策は、国家の独立を守る戦いだった。これが成功したからこそ、我が国はメキシコやフィリピンのように、スペインの植民地とならずに済んだのである。


■参考■(お勧め度、★★★★:必読~★:専門家向け)
1. 「キリシタン時代の研究」★、高瀬弘一郎、岩波書店、S52.9
2. 「中学社会 歴史分野」、日本書籍、H9.1
3. 「国民の歴史」★★★、西尾幹二、産経新聞社、H11.11
4. 「歴史に学ぶ」★★★、村松剛、「日本への回帰 第17集」
  国民文化研究会編、S57.3

_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/ おたより _/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/_/
               坂井君(福岡県、高校生)より

 今回の『キリシタン宣教師の野望』とても興味深い内容でした。今までキリシタン宣教師がこのような考えを持って、日本に来ていたなんて知りませんでした。

 私は高校2年で、受験には関係ないのですが、こういった話にはとても興味を持っています。しかし、私の周りを見る限りこういった話を共に語り合うことができる友人は1人か2人しかいません。私がこういった話をするとみんな引いてしまいます。みんなびっくりするほど無関心で戦争のことについてなどまったく知らないのです。私は戦争についての知識が多少あるので、クラスでは戦争マニアで通っています。

 それほどまでにみんな知らないんです。どうしてみんなはこれほど無関心なのでしょうか?それとも私がおかしいんでしょうか?時々疑問に思います。正しいか正しくないかは別にしてこういったことをみんなで討論し合うことは、とてもすばらしいことだと思います。そして、多くの人がこういう知識をもつべきです。

■ 編集長・伊勢雅臣より

 平和を守るためにこそ、戦争のことを良く研究しておかねばなりません。君と語り合える人を、一人でも二人でも捜して語り合ってください。日本人の1%が変われば、日本は変わります。

  Japan On the Globe(154) 国際派日本人養成講座より転載



悲しいメキシコ人

2010年11月24日 10時44分12秒 | 歴史
 国際派日本人養成講座の「悲しきメキシコ人」からの転載です。この記事を読んで、メキシコ人や中南米の国は多くがスペイン人の子孫でブラジルはポルトガル人の子孫という気がしていたのですが、確かにスペインやポルトガルの血は引いているでしょうが、本来はその地に住んでいた原住民の子孫なのだということを、あらためて認識させられました。学校の授業では、この混血の人達をインディオと呼ぶのだと習いました。現在古代の原住民の純血種の人はいません。スペインの征服により、暴虐の限りを尽くされて、原住民は滅亡しました。またヨーロッパから持ち込んだ疫病、現地の人には全く免疫のない菌やウイルスに多くの人が感染して、疫病が蔓延したため人口が激減したそうです。
 メキシコ人が、スペインの血をひいてはいても、古代アステカ文明を創り上げた原住民の子孫であるという意識もあるようです。このひとたちは、一体どのようなアイデンティティを持っているのでしょう。加害者と被害者の両方の子孫というのはどういう気持なのでしょう。またアメリカにもテキサスをとられたという意識もあって、反米感情もあるようです。いままでメキシコ人をこのような角度で見たことがなかったので、16世紀のイエズス会の布教活動にも、歴史で習わなかったいろんな闇があるということを、再度(少しは聞いたことがありました。 )認識させられました。



■1.メキシコ人とアメリカ人の反目■

  テキサスからカリフォルニアにかけて、アメリカとメキシコとの国境沿いにマキラドーラと呼ばれる保税地域が点在している。アメリカ側から部品を無税で持ち込んで、メキシコの安い労働力で組み立てし、またアメリカ国内に出荷するという形で、多くの企業が集まっている。

 テキサス州のエルパソもその一つで、メキシコ側のファーレス市とリオ・グランデという川一つ挟んで、隣接している。エルパソから、ファーレスに入ると、道路は穴だらけ、住居は小さく貧しく、高層建築も全然ない、というように貧富の差は歴然としている。

 ここにある日系企業で聞いた話を紹介しよう。メキシコ人とアメリカ人との対立の深刻さに、日本人はみなびっくりするという。アメリカ人はメキシコ人を馬鹿にし、メキシコ人は、もともとメキシコのものだったテキサス、ニューメキシコからカリフォルニアに至る広大な領土をアメリカに戦争や詐欺まがいの手段で取られたことをうらんでいる。(エル・パソ、ロサンゼルス、サンフランシスコ等、皆スペイン語の地名である。) したがってアメリカ人がメキシコ人を使うと、なかなかうまく行かないという。

 ところが、間に日本人が入るとスムーズに行くそうだ。アメリカ人から見れば、日本人は雇い主なので当然一目置くし、メキシコ人から見ると、日本人は差別をしないので安心だという。さらに同じ非白人が、アメリカ人を使っているのは、メキシコ人としてもうれしいという感情もあるようだ。

■2.自らの文化を失ったメキシコ人■

 メキシコ人はアメリカに土地を奪われ、今は経済的に従属しているが、さらにかわいそうなのは、固有の文化・文明そのものをスペイン人に破壊されてしまったという点である。彼らの話すスペイン語は、その文化・文明を滅ぼした侵略者の言葉である。彼らの固有の神話、文学、宗教もすべて失われ、文化的には二流のスペイン人となってしまっている。

 1521年まで、メキシコにはアステカ文明が栄えていたのだが、スペイン人コルテスの侵略に屈した後は、鉱山開発で過酷な労働を強いられ、天然痘などの流行もあって人口が激減した。さらにキリスト教宣教師が固有の宗教を破壊し、経済的にも教会が国の資産と土地の3分の1を占有した。人種の混合政策がとられ、スペイン人の血の濃さに従って、複雑な階層に分化した。こうした過程で、アステカ文明は根絶やしにされたのである。

■3.日本も同じ運命をたどる危機があった■

 実はこれは日本人にとっても他人事ではない。戦国時代にスペインやポルトガルからキリスト教の宣教師がやってきたときに、日本が信長や秀吉のようなすぐれた人物に恵まれず、また民族的なエネルギーも不足してゐたら、メキシコ人と同じ運命をたどった可能性があった。現実にアジアでもフィリピンがそうなっている。

 イエズス会の宣教師たちは、日本を占領するつもりで来たのだが、その少し前に伝わった鉄砲が日本全土で10万丁も普及しているのに驚き、本国に「日本占領をあきらめるべし」という手紙を書いた。そのかわりに狙ったのが、西国の大名を改宗させ、それを手下に使って、九州の神社仏閣を破壊し、さらに明の侵略に使おうとしてのである。

 秀吉は、明がスペイン人に征服されては、元寇と同じ事が起こると考え、外国人バテレン追放令を出し、さらに先手をとろうと明征伐に向かったのである。(歴史の教科書では、こうしたスペイン人の侵略を伏せているので、キリシタン弾圧も、明征伐も、秀吉の狂気の沙汰としか描けない)[1]

■4.もし日本がメキシコと同じ運命をたどっていたら■

 もし日本がアステカやフィリピンのように脆弱で、キリスト教宣教師の野望が実現していたら、どうなっていたであろう。今日のメキシコと同様、日本語は忘れさられ、現在の我々は、ホセだとか、カルロスなどというスペイン風の名前になっていたことであろう。白人との混血の度合いで、様々な階級差別が作られたに違いない。全国の神社仏閣は破壊され、カトリックの教会があちこちに建っているであろう。

 日本語や日本文学は、もの好きな考古学者が研究するだけの存在になっていたであろう。また植民地として徹底的に収奪されていれば、江戸時代の文化的物質的蓄積もありえず、明治維新のエネルギーもありえなかったに違いない。おそらく没落したスペインのかわりに、台頭してきたアメリカか、ロシアの植民地となっていたであろう。

■5.誇りと使命感と、思いやりを■

 今日の日本が数千年の固有の文化・文明を保ちつつ、かつ経済・ 技術大国として世界に伍しているのは、まさに我々の先祖の並外れた能力と志の結果であると言える。国際派日本人としては、祖先への誇りと感謝、それを受け継ぎ発展させていこうとする子孫に対する使命感、そしてメキシコ人のような虐げられた民族への思いやりをもって、国際社会に臨んで欲しい。

[参考]
1. 「歴史に学ぶ」、村松剛、「日本への回帰第17集」、
  国民文化研究会、S57.3



                 Japan On the Globe (3)
_/ _/ _/ _/ _/_/ 国際派日本人養成講座
_/ _/ _/ _/ _/ _/ 平成9年9月20日 529部発行より転載


ヌートリアに決定

2010年11月23日 11時23分19秒 | 自然観察日記


 最近、毎日買い物に行く途中で、あの巨大ネズミを見ます。しかも、最近このねずみが一匹ではなく、どうも多数いることがわかりました。そして、以前はドブネズミなのかヌートリアなのか、検索して画像を見てもいまひとつはっきりわからない気がしたのですが、こう毎日見ているうちに、もう一度検索してみたら、これはヌートリアに違いないと確信できました。ドブネズミやクマネズミの写真は、いまははっきり違うように見えます。体と頭の大きさの比率や耳の形などで、ヌートリアは、頭が大きいし、ドブネズミやクマネズミのようにミッキーマウス型のまるくなった耳ではありません。ということでヌートリアに決定です。



      最初に見たのがこの黒い少し小さいヌートリアでは?



 最初に見たヌートリアは少し小さくて、黒っぽかったのですが、その後何となく大きくなったような気がしていたので、ヌートリアの子供が成長しているのかなと思いましたが、それにしても一日二日でこんなに違うのだろうかとか疑問も感じつつ、で、結局別の個体だったようです。もちろんどちらも子供ではあるのでしょう。最近は、二匹のヌートリアが出てきていることが良くあります。そして、田んぼの土手の草をムシャムシャ食べているのです。その様子は、うさぎのようです。しかも見ていても逃げる様子もなく、人の気配にも鈍感な感じです。

        暗渠に通じる穴

 田んぼと道路の境のコンクリートの壁に、道路の歩道の下にある用水の暗渠に通じる丸い穴があって、その蓋(ふた)が開いているのですが、一匹がその中に入っていくのも見ました。なんとなくその中にホントはいっぱいいるのではないかという気がします。そして、その近くに、刻まれた稲わらがこんもりと多めに置かれてあるところに、まるで巣のように、ヌートリアの出入りしたような穴がアチコチ空いていて、ひょっとしたらその中に何匹かひそんでいるのではとかも思ったりしました。何度かその中に隠れたこともありますから。齧歯類というのはとにかくねずみ算式に増えるというイメージがありますから、何かと同じで、数匹見たら、実態は数十匹なんて想像したりします。

        巣のように見えます。

        巣のように見えて、単に隠れただけかも

        隠れたときの様子

        結構かわいい顔

 とはいえ、こう毎日通るたびにヌートリアを見ていたら、いかにもそのおっとりした草を食べる様子も、可愛く見えて来ます。まあ草食だし、あまり害がなければいいのではとも思います。でも検索して調べてみると、ヌートリアは、うさぎと同じで、穴をよく掘るようで、河川の土手などにも巣穴を掘って、いろんなところにトンネルを作り、そのため大雨の時の河川決壊の原因となることもあるそうなのです。以前浮浪者の人が、利根川かどこかの土手で、うさぎを飼って、そのうさぎが繁殖し、土手にトンネルを掘りまくるので、土手でうさぎを飼うのを禁止したようなニュースを聞いたことがありますが、うさぎは飼い主が一応柵でなどで管理してみえたようですが、野生化したヌートリアに、こうした河川の土手を掘り返されては、処置なしで、見つけては駆除するしかないかも知れません。もともとは毛皮を取るために輸入して繁殖させたようですが、その後要らなくなって、野生化したそうです。ヌートリアという名前も、スペイン語のカワウソという意味らしく、スペインではカワウソの毛皮と偽って売られたところからついたようです。人間の勝手な都合で、外来生物が輸入され野生化した例は多くて、人間の浅はかさに悲しくなります。自然への畏敬を忘れた人間は、旧約聖書のアダムとイブのように智慧の木の実を食べて、科学という神の如き智慧を手に入れたけれど、結局楽園から追放されたように、人間の欲望から考え出されたさかしらな知恵は、自然と調和したところにある幸福とはどんどん遠ざかっていきます。きっとヌートリアは、まだましな方なのでしょう。私としては、近所の用水や川にいるミドリガメの繁殖が心配です。メダカやいろんな在来生物が食べられるのではと、思います。とにかく日本の自然を守るために、外来生物のペットなどの放置だけは取り締まって欲しいものです。



  こんな感じの時の尻尾を入れない胴体の長さだけで、25センチはありそうな気がします。