さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」からの転載です。
これが歴史の真実です。日本人は、この事実を見なおさねばなりません。いい加減に、戦勝国連合の欺瞞の極東裁判史観を脱して、日本がどのような戦いをしたのか、そして、多くの戦没者は何を目指し、どのような思いを抱いて亡くなられたのか、ちゃんと目を開いて見るべきです。
誰しも自分のいのちを捨てたくはないけれど、それでも祖国を守ろうとした人々は、ほんとに覚悟を決めて、壮絶な戦いのなかに無我献身と言えるような最後を遂げられた人が多かったのです。
ある人はソ連の戦車を止めようと手榴弾をもって戦車に飛び乗ったが、別の敵戦車の砲撃を受けて、首を飛ばされたそうですが、遺骨収集に行かれた人が見た遺体は、遺体が戦車にしがみつくように死んでも放さないで残っていたそうです。無私の極致ともいえる、自分の生命を祖国のために捧げる覚悟を決めた人が、どうして残虐行為のような卑劣なことをするでしょう。
特攻兵士が出発前に、その上官に当たる将校などと最後に話す機会などには、たとえ年下の兵士でも死を覚悟して祖国を守ると決めた人々は、上官といえども、人間的な精神性において位負けしてうまく話せないほどの、立派さというか威厳があったそうです。
また現地の激戦で、死を覚悟した人は、特攻隊ではなくても、自分の背後に両親や妻や子供がいるような感じになって、自分がここで銃弾を受け止めて日本が救われるなら死んでもいいと思うようになるそうです。極限状態になるほど、冷静になるのは日本人の特性のようですね。今回の東日本大震災で、この日本人の特性は発揮され、世界を驚かせました。
それは戦争の場面でも同じです。日本兵が悪逆の限りを尽くしたと教育では教わりましたが、それは戦勝国が、日本人に与えた、ウォーギルト・インフォーメーション・プロブラムによる洗脳です。だから極東裁判で一人、日本人被告全員に無罪を宣言したパール判事が、その後に日本を訪れ、日本人が自虐意識に染まっているのを見て、怒りと悲しみのコメントを残されたのです。
今回、最後の福地惇先生の小論文です。
この論文に書かれている歴史観こそ、戦後日本人が知る必要がある真実です。
そして、戦後からめくらにされて飼い馴らされ、それを平和だと有難がり、
日本には戦争は永遠にない、日本を攻めてくる国などない、と
「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」、
その狡猾さと卑劣さを見抜くことすら必要ないと信じているのだ。
本当は狡猾で卑劣だった占領支配 (下)
高知大学名誉教授 福地 惇
Ⅰ.敵製「神話」は日本民族の歴史の断絶と国民分解を目的とするイデオロギーだ
敵製「神話」の右翼は、「太平洋戦争史観」である。これは、実に分かり易い善悪二元論である。米国は善、日本帝国は悪。善が悪を懲らしめた戦争が太平洋戦争だ。
日本帝国が悪である証拠は、シナ大陸での長期侵略戦争や南京大虐殺、米国侵略の汚い真珠湾奇襲攻撃、これらが日本帝国の邪悪を象徴する事実だという。これが、戦後日本人に侵略戦争への贖罪意識を植え付ける土台になる。
単 純な論理だけに、敗北感に打ちひしがれた多くの国民はそう思い込まされ易かったと言えよう。だが、日米戦争の歴史の事実は、とてもこのように単純ではな く、本当の巨悪は「連合国」の共同謀議にあり、彼らはそれを厚顔無恥に隠蔽して自己を正当化する狡猾な本性を遺憾なく発揮したのである。
敵 製「神話」の左翼は、コミンテルン史観である。人類の歴史を弁証法的進化論で絵解きするしろものだ。資本主義社会の次は必然的に社会主義・共産主義社会が 到来する。それが歴史の法則だと豪語する。マルクス主義の階級闘争論で、支配階級と資本家階級は悪、それに支配され搾取・抑圧される圧倒的多数の人民大衆 は被害者であって善、と階級の善悪を区分けする。
哀れな被支配階級は、共産主義革命に起ちあがり邪悪な支配階級を打倒して歴史を進展させ、被抑圧(プロレタリアアート)階級が自由と平等を獲得して、この世の楽園を切り開け。これこそが科学的歴史観に基づく人類未来への道であるとバラ色の未来像を提示してみせる。
まさにこれまた善悪二元論で組み立てられた現代の神話である。
日 本に即してもう少し具体的に言えば、コミンテルン史観の政治的目標は、日本の共産化である。長い歴史で培われた日本民族の宗教・文化・伝統を破壊して、平 和と民主主義という美名で共産化することだ。悪いのは天皇制軍事独裁国家の戦争指導者で、それに従わざるを得なかった一般国民は戦争犠牲者だという、日本 国民分断の論理を以て日本民族とその国家を破壊することである。
日本軍国主義の象徴として国家神道は厳禁され(神道指令)、最高戦争指導者は断罪された。
極東国際軍事裁判という勝者の裁きで、所謂「A級戦犯」とされた人々は日本の歴史の悪の大言者、極悪人の代表者であるとされ、日本国家解体の先駆けとして、まさに「贖罪の山羊」として血祭りに挙げられたのであった。
Ⅱ.日本人左翼は国民同胞洗脳工作の先兵を務めた
政治の世界では、社会党・共産党が敵製「神話」を蔓延させる行動部隊になる。
言論・教育や文化の世界では進歩的文化人というマルクス主義者と同調者が指導者となり、日教組などという学校教職員の労働団体は、その活発な活動家集団になった。
また、朝日新聞や岩波書店を代表とした進歩的言論機関がその甚大な影響力を発揮して宣伝活動を担当した。日本放送協会(NHK)も同類と言って間違いない。
そして、潜在的・顕在的敵国(ワシントン・モスクワ・北京・ソウル)と水面下で密かに連携して、日本人愛国勢力の分断、劣化を工作し続けた。占領体制はそのような構造として仕立てられているのである。
北京政府が首相・閣僚の靖国神社公式参拝を非難する時、その理由の最たるものは「A級 戦犯」を合祀する神社への参拝は、戦争を美化して大東亜戦争の肯定になるので許せないということだ。しかし、まともな国民は少なからずいて、あの戦争はそ のように単純なものではなかったことを諒解している。だから、北京政府の我が国の祭祀や政治・経済に対する傲慢不遜で露骨な内政干渉に対しては、強い不快 感と反発心を持つのである。
他 方で悲しい事に、「連合国」と言う虎の威を借りるような北京政府や韓国政府が為にする威圧的言い分を、当然だ、もっともだ、と思ってしまう大人しい国民大 衆は、馬鹿に出来ないほど多いのが現実だ。学校教育でそう教えているから当然なので、所謂、学校秀才や周囲の雰囲気に飲み込まれやすい同調者タイプの「善 良者」が多いのである。
尚、 靖国問題で北京政府やソウル政府からの非難・攻撃が来ると、決まってそれへの迎合・妥協策(靖国神社に代わる国家的無宗教追悼施設設置)を言い出す手合い が国政政治化のみならず各界有力者の中にかなりいる。そんな徒輩は、敵製「神話」を信じ込まされて愛国心の希薄な国民大衆の支持を得たい、次の選挙に当選 さえできれば、自分の商いに利益が上がれば天下国家がどうなろうとも知るものか、などと考える売国奴的徒輩なのだが、それが異様なほどの多数を占める。
狡猾さと卑劣さを見抜けず、この半世紀以上に亙り、その支配体制を盤石にする働きをした日本人が、自覚しているか否かはさておき、多すぎたという悲しい現実である。
Ⅲ.現憲法は日本人のための国家基本法ではない
日本民族を衰亡させる手段としての敵製歴史観は、 『季報』の拙稿を参照されたい。米国占領軍は、虚偽の歴史観を巧妙に押し付けて日本支配層の心理を萎縮させた上で、間接統治を縦横に活用して、悪い戦争を悔いた日本国民が自ら自発的に平和と民主政治の新国家を建設するとの絡繰り芝居を日本人に演じさせたのである。
昭和21年11月3日に公布、翌年5月3日 に施行された日本国憲法には、昭和天皇の勅語が掲げられている。「朕は日本国民の総意に基づいて新日本建設の礎が定まるに至ったことを深くよろこび、枢密 院の諮詢及び帝国憲法第七十三条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。御名御璽」とある。
独立主権を剥奪されて施政権を連合国軍総司令官に掌握された被占領国家が間接統治の詐術に踊らされ、さも日本国民が明治憲法を改正したかのように演技させられて、この敵製憲法を押し付けられたわけだ。
第二十一条に「集会・結社・表現の自由・検閲の禁止・通信の秘密」の規定がある。「検閲禁止」を墨黒々と認めたが、昭和27年4月28日の講和条約発効までGHQは検閲・言論操縦を強力に推進して敗戦国民洗脳工作を継続したのである。
周知の通り前文には、「日本国民は、恒久の平和を祈願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであって、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した」とある。
ま た、第二章第九条には「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解 決する手段としては永久にこれを放棄する。前条の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権はこれを認めない」とある。
狡猾で卑劣な「連合国」への見事な迎合と他力本願の無抵抗主義である。
前文の「決意した」は、「決意させられた」が正しく、九条の「国の交戦権はこれを認めない」の主語は、日本国民ではなく米国政府であろう。
憲法とは言えない「トンデモ法規」で、私はこれを「占領憲法」あるいは「占領支配永久化法規」と呼ぶ。これを未だに信奉する日本人は邪悪な敵の代理人、或いは、奴隷以外の何物でもないと言うべきであろう。
(日本戦略研究フォーラム季報掲載)
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今回の福地先生の小論文「本当は狡猾で卑劣だった占領支配」の上・下ともに、真実の日本の姿を書き綴って、大変共感する論文であります。
このような真実こそ学校で教えるべく、多くの国民がこのような歴史観を持つことが必要なことではないでしょうか。
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