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現行憲法は無効破棄すべきが正しい。

2013年05月27日 23時44分36秒 | 日本人と憲法

サイタニのブログからの転載です。

先日チャンネル桜のさくらじで谷田川氏が東大の憲法論の今の主流の考え方を述べておられましたが、現行憲法は、形の上では、明治憲法を改正したことになっていますが、明治憲法は、欽定憲法であり、現行憲法は民定憲法なので、これは内容において改正の限界を超えているから、もはや改正ではない。従って、現行憲法は革命憲法であり、日本国家の8月革命説を左翼の憲法学者たちは取っていると言っておられました。この憲法が改正の限界を超えていると言う見方は、左翼であろうと、誰が見てもそのとおりなんですね。

日本が主権を失っている時に占領軍によって、英文で書かれた憲法を押し付けられたのであり、これは国際法違反であり、占領が終ると同時に、速やかに無効破棄するのが本来は国際的慣例なのです。

たしかに既に70年近くが過ぎて、この間この憲法のもとでの法体系や政治の運営が行われてきましたが、無効宣言したからといって、これが過去に遡って、それらの法体系や、政治が無効化するのではありません。これは無効宣言以後に改革改正が行われるということで、自主憲法制定とほぼ同じ道程が行われるに過ぎません。

ただ、無効宣言することで明治憲法が復元して、それを現代にあわせて改正しなくてはいけないところが、自主憲法制定とは違うところです。

倉山満氏は、自主憲法の内容が、日本国憲法を改正したようなものであってはならず、本来の日本的な独自の憲法でなくてはならない、従って、帝国憲法を改正した形の内容であるべきだと述べておられました。

であるならば、現行憲法を無効破棄して、正統の帝国憲法を復元し、それを改正するという形を手続き上とることに何の問題があるのでしょうか。倉山氏は、帝国憲法の復元には反対のようでしたが、そこがよくわかりません。日本国憲法無効論を唱えられる南出弁護士と確執があるような気がしますが、南出弁護士の講和条約説を取るか取らないかはともかく、帝国憲法を復元し、天皇の本来の地位を占領前の状態に正すことが、戦後レジームの脱却の最勝の方法だと思います。

日本は天皇を中心に、家族のように国民が絆を深めてきた国です。決して西洋のような人民を支配する絶対君主ではありません。神道という日本人の宇宙観自然観から生まれた国柄のかたちであり、それゆえに2600年以上続いてきたのです。

西洋のものを無理やり日本に当てはめて、西洋の見方で、歴史を見るのは、歪んだ合理主義であり、日本という個性を喪失して、すべてをグローバリズムで、類型でしかものを見ないというのは間違いです。

日本を取り戻すには、日本の内なるものを復活させなくては戦後レジームは脱却できないと思います。

 

 

サイタニのブログから

特集 なぜ憲法を改正しなければならないか
 
つづき 憲法について知らねばならぬこと
 
 
 
○新旧憲法には何等つながりはないのに
旧憲法七十三条による改正として国民を欺いた
(過去記事17日掲載)
 
こうして、現行憲法は、明治憲法を実質的には占領軍の圧カにより、廃棄した上に、新たな草案で新憲法を作らせたものであるから、実質的には新旧憲法は何らのつながりもないものであるそして統治の主権者及び統治の形式を定めたる重要な条章は「主権在君」から「主権在民」という全然新たなる内容に占領軍から強圧的に押しつけられたものであるから、新旧憲法の間には何らの継続はないのである。所謂(いわゆ)る、これは、「革命されたる憲法」である。主権者及び統治の形式が全然変更されるということは「革命」にほかならないのである。その革命を革命の様相を隠蔽(いんぺい)して、できるだけ静かに推移せしめるために、旧憲法七十三条による「改正」という形式を、占領軍がとらせたのである。
 
謂わば占領軍の傀儡(かいらい)政策により日本政府の「自発的改正」の如き外貌を呈せしめて、日本国民を欺瞞したのであった。
 
これに対して、井上孚磨氏は、このような統治の主体及び統治の形式の根本的変改は、「改正」という語義の限界を超えるものとして、それは「改正」ではなく「旧憲法の廃棄と新制定」であって、「改正限界を逸脱」している「無理」を、「改正」の場合を規定している七十三条で遂行したのであって、これは「法的不能の罪を犯すものであるから、法的には無効とならざるを得ぬのは勿論である」と結論を下しているのである。
 
 
○統治の究極的形態の変更は革命(過去記事1月8日掲載)
 
明治制定の帝国憲法は欽定憲法である。欽定憲法とは制定権が天皇に専属し、天皇の発議によって制定せられたる憲法である。従って現行憲法が明治憲法の改正せられたものであるならば、天皇の発議によって改正案が出されなければならない。それがマッカーサー草案によって、「最終的の日本政府の形態はポツダム宣言に遵(したが)い日本国民の自由に表明する意思に依り決定せらるべきものとす」
The ultimate form of government of Japan shall in accordance with the Potsdam Declaration, be established by the freely expressed will of the Japanese people.
という日本占領の根本政策にもとづいて「日本人民」によって「統治の究極的形態」が決定せられ「主権在君」が「主権在民」ということに革命的に変更せられることになったのである。
The ultimate form of governmentを 「最終的の日本国政府の形態は」と公式的の翻訳にはなっているけれども、「政府の形態」などというと、「行政府の形態」「内閣組織の形態」という風にもと れる訳文であって、この点は井上孚腐氏の見解と私の見解とは異るので「統治の究極的形態」と訳すべきものと私は思っている。バーンズ回答によれば、この 「統治の究極的形態」を人民 (People) の自由意志で定めるという占領軍の要請であり、これは明かに、「大日本帝国は万世一系の天皇これを統治す」という明治憲法の廃絶強要にほかならないのである。
 
 
○革命憲法の強要(過去記事1月8日掲載)
 
これでは決して欽定憲法の改正どころのさわぎではなく、明かに革命憲法の強要であるそれなのに「発議の権」が天皇に確保せられている帝国憲法第七十三条による形式を外観的には整えて制定の運びになったものであるから、その形式は欺瞞(ぎまん)であり、「占領憲法」又は「強要憲法」と称さなければならないも のなのである。しかし時の日本政府及び議会は、この強要を当時の占領状態から受容(うけい)れなければ、統治形式どころか、天皇そのものが廃絶されるおそ れがあるので、「統治形式などはどうでもよい。万世一系の天皇が温存されるだけでもよい、これによって最小限度の日本国体(歴史的伝統にもとづく国家のあり方)を護持できる」と考えて占領軍司令部の要請を呑んだのである。
 
だから現行憲法は形式的には明治憲法の改正であり、内容的には「革命憲法」であるこのような革命意図によって占領軍から押しつけられた現行憲法は平和が回復し、占領軍の消滅と共に自然消滅し、明治憲法に復原し、その上で明治憲法が新時代にふさわしくないところがあるならば、改めて、そのふさわしくないところを改正するようにするのが当然であるのである。抗拒不能の状態で奪われていた妻の貞操は、その暴力的圧力が除かれたときに自然にもとの正しい妻の座に還るようなものである。
 
 
○革命憲法は果して有効か(過去記事1月9日掲載)
 
と ころで、「現行憲法がこのような革命憲法であり、戦敗と占領軍の占領とによって実際に革命が行われたのだとするならば、革命だから、合理も不合理もない、 旧憲法との連絡があろうが無かろうが、そんなことは何の関係もない、それ自体革命憲法であって、其儘(そのまま)に有効なのではないか」というような、革 命憲法有効論がある。
 
こ れに対して井上孚麿氏は、「革命とは国の根本秩序を、その国民の中にある者が、超法的事実によって突発的に変革するのである」と革命の定義を述べ、「日本 の降伏によるボツダム宣言を受諾したときに既に新たに人民主権が確立し、その時すでに革命が行われたのであり、その革命の基礎の上にその革命を文書にあら わす新憲法が出来たのである」という八月革命説を反駁し、その変化の原因は「外力によるのであって、内力によらないから革命ではない」と 説き、ポツダム宣言の降伏条件として、日本より、「右宣言ハ天皇ノ国家統治ノ大権ヲ変更スルノ要求ヲ包含シ居ラザルコトノ了解ノ下二受諾ス」と申入れ、そ れに対しての連合軍の回答は、「降伏ノ時ヨリ天皇及日本国政府ノ国家統治ノ権限ハ、降伏条項ノ実施ノ為其ノ必要と認ムル処置ヲ執ル連合軍最高司令官ノ制限 ノ下ニ置カルモノトス」   というのであった。こうして、実際上、占領中の日本国内の行政は連合軍最高司令官の制限の下に置かれていたのは何人も知ると ころである。ところが連合軍最高司令官が「天皇及日本政府の国家統治の権限」を奪い去っていたかというと、そうではないのであって、連合軍は「降伏条項ノ 実施ノ為其ノ必要ト認ムル措置」について、日本政府に指示命令を下していたのであって、必要事項を実施するに方(あた)っては却(かえ)って日 本天皇の統治の権能をみとめて、「勅令第何号」という形で発令せしめていたのである。だから八月十四日のポツダム宣言受諾の際に即に「天皇統治権」の放棄 又は奪取があって革命が行われていたと言うのは当らないのであり「天皇統治」という国の根本秩序は占領当初と雖(いえど)も、「勅令発布」による「統治権 の実施」によって確保せられていたのである。
 
そして井上孚麿氏は、現行憲法が八月革命に基く革命憲法であるから合理を超えて有効であるとの説を反駁して、八月十四日のボツダム宣言受諾による「無条件降伏」.によって革命が既に起っているのだとみとめるならば「すでに、八月革命によって当然に主権者たる地位を喪失せる天皇、同じく憲法上の機関たる地位を喪失せる政府とか帝国議会とかが、この新憲法の成立に参加せることも革命憲法の有効成立を否定せしむるに充分の理由がある」と述べて占領憲法無効論を主張している。
 
 
○不合理強行で成立した憲法は無効である
(過去記事1月10日掲載)
 
こ うして現行憲法は法理上不能なる改正を合憲の如きカムフラージュをもって糊塗してつくり上げたる占領押しつけ憲法であり、「改正」としても存立不可能のも のであり、力による革命とするならば、不合理の強行の上に成立つものであるから、今後、実カあるものが出現するならば幾回でも改廃せしめうるものであるの である。だから「改正説」によるも「革命説」によるも結局、その存在の法理的根拠が成立たない無効憲法なのである
 
 
○連合軍司令官の「従属下」で定められた憲法
(過去記事1月10日掲載)
 
一国の根本法たる憲法の制定に関しては、統治者及び国民の自由意志によらなければならないのは当然である。然るに、現行憲法制定当時にはその自由意志が「連合軍司令官の制限の下に置かれる」ことになっていたので、この「制限の下に置かれる」という日本訳は、日本人の民心を刺戟しない方便のために穏和な語を用いたのであるけれども、原語は(subject to)であって、本当は「従属す」という意味である。だから完全に自由意志のなかった時期である。これについて井上孚麿氏は、
 
「憲法の制定にせよ、改正にせよ、すべて憲法を左右する行為には、完全なる自由意志の存在を必要とする
・・・中略・・・
 自由意志の欠如せる場合の実例として、天皇に故障があって摂政を置く場合の期間中に典憲の変更はできないとして、
・・・・中略・・・・
 マッカーサー元帥が天皇の統治権に制約を置いている時代には憲法の変更は出来ないし、たといその間に変改された憲法があるとしても、それは摂政の任期中(この場合はマッカーサー元帥の占領政策期間中)のみ有効であって、その後は無効となるべきは国際法上の慣例だと指摘しているのである。
 
・・・・省略・・・
 
つづく
 
谷口雅春著 「私の日本憲法論」
 

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25/5/24]

2013年05月27日 13時39分19秒 | 歴史

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25/5/24]

 

東西冷戦は、作られた構図だった。米ソが裏で手を結んだデキレースだった。

さらに、朝鮮戦争は実に不思議な戦争で、アメリカが国連軍として朝鮮に出兵したが、それが可能となった背景には、国連決議の時に安保理常任理事国のソ連が拒否権を発動せず、欠席したからである。何故欠席したかといえば、当時のグロムイコ外相が後に回顧録で、スターリンから、欠席するように言われたからだと書いているそうである。つまりスターリンは、アメリカが北朝鮮を叩くことに同意していたということだ。

またその時にマッカーサーが北朝鮮をやっつけるための有効な作戦をいくつか本国に提案したところ、そのすべてが拒否された。そしてその後マッカーサーは解任される。教科書では、その理由が、トルーマン大統領が第3次世界大戦に発展することを恐れたからと説明されているそうだが、アメリカは、北朝鮮を壊滅させたくなかったということである。

例えば、鴨緑江の橋をわたって、中国義勇軍が北朝鮮に入ってくるので、この橋を爆破することを提案した時にも、トルーマンからダメだと言われた。なぜかといえば、イギリスの意向を聞かないといけないからと言ったという。そして、イギリスがダメだと言っているということだった。このイギリスを通して、中国軍にマッカーサーの作戦が筒抜けになっていたということを回顧録に書いている。トルーマンの後ろには、イギリスが作戦を立てているということをマッカーサーは匂わせているという。このイギリスというのは、ロンドンのシティのことであり、金融資本だという。

 

今日本を襲っている国難とは、グローバリズムであり、今グローバリズムを推進しているのは、アメリカである。ただし、アメリカという国と言うよりは、アメリカのウォール・ストリートであり、国際金融資本である。アメリカのウォール・ストリートであり、ロンドンのシティである。今ユダヤ資本という言い方はしないが、共産主義を起こしたのは、ユダヤ人であり、ロシア革命は、ユダヤ人によって起こされた。国際金融資本がロシア革命を支援したのであり、また中華人民共和国を支援して建国させたのは国際金融資本である。

馬淵元大使がこれらのことを突き詰めたのは、全て公開文書によって読み解いたことである。

 

この動画の最初の部分を要約すればこうした内容です。馬渕氏が、公開された文書を紹介しながら、意外な事実から必然的にわかってくることを説明されています。なかなか面白いです。このユダヤ資本とか国際資本については、よく言われていますが、これをきちんと公開文書の史料に基き説明されているので、よく理解納得できます。

アメリカの戦略、またそれに合わせて反日運動する中韓、さらにそういう在日外国人をかなり入れているメディアのこと。そして、実はユダヤ人を多く助けた日本国家のことにも話が及びます。

杉原千畝

杉原千畝のことは、十数年前くらいにずいぶん有名になりましたが、当時この人を持ち上げる風潮と同時に、日本の政府は杉原氏のビザ発行に反対だったかのように宣伝されたり、また杉原氏が日本政府によって戦後解任されたかのようなデマが広がっているが全くの捏造である。

戦後は敗戦により、外務官僚の多くが不要になり、多くの人員が整理されたのであり、杉原氏もその一人として退職されたのである。退職金も年金もしっかりともらっておられる。また日本政府がこのビザに反対したということもないのである。ただユダヤ人受け入れの際の条件として、行く先をはっきりすることや、所持品を持っていることとしただけである。しかも日本入国の際には、結局この条件すら無くして全て受け入れたのであり、これは日本政府そのものがユダヤ人を受け入れたのである。

政府が反対しているのにビザを発行するなどということは、本来出来ないことであり、杉原氏以外にも、ビザを発行した人は多くいるのであり、これは、日本政府がOKを出しているから出来たことである。なぜ杉原氏のみを取り上げるのかというと、日本政府を貶めるための嘘を宣伝するためではないか。と言っておられます。

これはたしかにおかしいことで、樋口季一郎と言う軍人で、満州にいた人が、矢張りユダヤ人を多く救って、受け入れているが、これを受け入れるにあたって、当時上官だった東条英機がこの政策に賛成して、日本政府もユダヤ人を救うことに同意して、杉原氏以上に多くのユダヤ人が救われている。当時日本政府は、神武天皇の八紘為宇の精神に習って、人類は皆兄弟であり一つの家族のようにすべきで、人種差別はしないという方針であったからである。

樋口季一郎

いろいろな話に発展していますが、さらに、メディアなどが、日本国家を貶めるために、捏造した歴史ドラマを作成して、しかも「このドラマは歴史に基づいたフィクションです」という断り書きで、責任を巧みに逃れていることが許せないなど、プロパガンダで日本人を洗脳しようとする勢力の話も出てきます。

ぜひ見てみてください。






平泉澄先生の「少年日本史」  

2013年05月24日 00時04分51秒 | 歴史

 戦後の子供たちに正しい日本の歴史を学ばせたいという強い思いをもたれた平泉澄先生が、書き残された少年日本史を紹介致します。先生のはしがきを読んで日本の歴史が正しく子供たちに伝わらないことの無念さと、伝えたいという強い思いが、ひしひしと感じられて感動せずにはおれません。

 皆さんは日本人だ。皆さんを生んだものは、日本の歴史だ。その顔、その心、その言葉、それは皆幾百年前からの先祖より受けついだものだ。それを正しく受けついだ者が、正しい日本人だ。
從って、正しい日本人となる爲には、日本歴史の眞實を知り、之を受けつがねばならぬ。然るに、不幸にして、戰敗れた後の我が國は、占領軍の干渉の爲に、正 しい歴史を教える事が許されなかった。占領は足掛け八年にして解除せられた。然し歴史の學問は、占領下に大きく曲げられたままに、今日に至っている。從っ て皆さんが、此の少年日本史を讀まれる時、それが一般に行なわれている書物と、大きく相違しているのに驚くであろう。
皆さんよ、人の貴いのは、それが誠實であるからだ。誠實は一切の徳の根本だ。その誠實を守る爲には、非常な勇氣を必要とするのだ。世の中には、自分の慾の 爲に、事實を正しく視る事の出來ない人もあれば、世間の人々を恐れて、正しく事實を述べる勇氣のない人も多い。今後の日本を携うべき少年の皆さん、敗戰の 汚辱を拭い去って、光に充ちた日本の再興に當るべき皆さんは、何よりも先ず誠實でなければならぬ。そしてその誠實を一生守り通す勇氣を持たなければなら ぬ。日本の歴史は、さような誠實と勇氣との結晶だ。凡そ不誠實なるもの、卑怯なるものは、歴史の組成に與る事は出來ない。それは非歴史的なるもの、人體で いえば病菌だ。病菌を自分自身であるかのような錯覺をいだいてはならぬ。
私は今、数え年七十六歳だ。從って本書は、皆さんへの、最初の贈物であって、同時に最後の贈物となるであろう。私は戰で疲れ切った心身に、ようやく残る全力をあげて、一氣に之を書いた。
その原稿一千枚。それを私は歴史的假名遣で書いた。それが正しいと信ずるからだ。然し皆さんは學校で、現代假名遣しか學んでいない。よって時事通信杜は、 皆さんの讀みやすいように現代假名遣に改めたいと希望した。私は他日、日本が正しい日本にかえる時、必ず歴史的假名遣にかえるに違いないと信じつつ、しば らくその申入を容認した。

昭和四十五年秋九月     平泉 澄(ひらいずみ きよし)

国家建設   

01 国家建設

 皆さん! 皆さんは、牛若丸を知っていますか?  - そうです。五条の橋の上で、武蔵坊弁慶と一騎打の勝負をして、物の見事に之を負かし、一生忠実な家来にしてしまったかの勇敢なる少年です。それでは、その 牛若丸と、鵯越(ひよどりごえ)の嶮しい絶壁を流れ落しに駆け下りて、一の谷の平家の陣を攻め破った源九郎義経と、両人の関係は、どうですか?  - これも知っていましたか。そうです。両人は、実は同一人なのです。少年時代には、牛若丸と呼ばれ、大人になって、九郎義経と名乗ったのです。そのけじめ は、何時つけられたか、と云いますと、それは元服の時です。元服と云いますのは、今の成人式に当たります。それまでは、児童であり、少年であったものが、 この元服の日からは、大人として待遇せられ、同時に大人としての責任を負う様になるのです。

  それですから、元服の儀式は、厳重に行われました。牛若丸だけは、例外です。これは非常に不運な人でした。生まれたのが平治元年、その年のくれに、父の義 朝はいくさに敗れ、翌年早々殺されてしまったので、牛若丸は母のふところに抱かれたまま、方々逃げ廻ってたあげくにつかまって、鞍馬山に入れられ、修行を していたのが、自分で脱け出して奥州の平泉へ下る途中、近江(今の滋賀県)鏡の宿で、誰も世話してくれる者も無いので自分で元服し、名を九郎義経と改めた のでした。年は十六歳と伝えられますが、それは無論かぞえ年で、満で云えば十五でしょう。

牛若丸の場合は例外として、その他は元服の式は厳重に行われました。例えば八幡太郎義家、これは義経にとっては四代前の先祖に当たります。名高い武将です から、皆さん、知っていましょう。陸奥守に任命せられ、地方の氾濫を鎮定するために赴きました時、勿来の関(今の福島県いわき市勿来町)へかかりますと、 折柄美しく咲きみだれている桜の花が、吹きくる風にサーッと散ってゆく。それを惜しんで義家のよみました歌が、

吹く風を なこその関と 思へども
道もせに散る 山桜かな

と云う、あの有名な一首です。「なこそ」は、漢字をあてれば、「勿来」と書いて、「来てはならない」と云う意味です。「道もせに散る」は、「道も狭く感ぜ られるほど、道一杯に」と云う意味です。弓矢を執っては鬼神の如く恐れられた武将が、散りゆく花を惜しんで、馬上に歌をよむ風流、それは昔から人々の賛美 する所となりました。その義家は、児童の時には、源太と呼ばれていました。それが七歳の時に、石清水八幡宮の神前に於いて元服の式をあげ、よって八幡太郎 義家と名乗るに至ったと云います。

その義家に、弟が二人ありました。一人は義綱、少年時代に何と呼ばれたか分かりませんが、元服しては賀茂二郎義綱と名乗りました。して見ればこの人は、賀 茂の社で元服の式をあげたに違いありません。今一人、末の弟の義光、これは有名です。兄の義家が奥州で苦戦していると聞いて、それに力を添えようとして駆 けつける。その義光に影の如くに附添って来る人がある。それは豊原時秋と云う青年、この人は音楽を家の業としていましたが、父の時元が亡くなった時、子の 時秋まだ幼少であった為に、父から笙の秘曲を授かる事が出来ず、父はそれを源義光に伝えたままで亡くなりました。そこで今義光が合戦の場に赴くのを見て、 跡を慕って追懸けて来たのです。時秋に何も云わず、黙ってついてくる。然し義光には、その心持が分かったので、足柄山(静岡県と神奈川県の境)まで来た時 に馬より下り、人を遠退け、楯二枚を布いて、一枚には自分が座り、一枚には時秋を座らせて、しずかに笙を吹き、秘曲を教えて京都へ帰らせたと云います。勇 敢なる武将ではあるが、同時に芸能にも秀で、人情にも厚い人でした。この義光も、幼名を何と呼ばれたかは分りませんが、元服しては新羅三郎義光と名乗った ので、その元服の式が、近江(滋賀県)の新羅明神(三井寺の北)の神前で行われた事、明らかであります。

鎌倉時代の一般の武士を見てゆきますと、十四、五歳では、まだ何々丸と云い、十六、七歳では、もはや元服して大人の名になっていますから、十五歳前後で成 人の式をあげるのが普通であったろうと思われます。只、人によっては、随分早く元服したので、八幡太郎義家が、七歳で元服した事は、前に述べましたが、北 条時宗も、初めは正寿丸と呼ばれていたのが、七歳で元服して、時宗と名乗ったのでした。何しろ十四歳で幕府の重役となり、十八歳で幕府の代表となって蒙古 との交渉に当たり、二十四歳で外敵をしりぞけ、三十一歳で外国の連合軍百万の大軍を博多湾で皆殺しにした程の英雄でしたから、七歳ですでに大人としての見 識もあり、資格が備わっていたのでしょう。

源義家や、北条時宗は、これは例外として、普通は十五歳前後で元服、即ち成人の式をあげ、それより後は、大人としての待遇を受け、同時に自分は言語にも、 行為にも、完全に責任を負うたのでありました。それまでは、児童であり、少年であるとして、云う事、為す事、大目に見られていたものが、今度は尊敬を受け る一方、責任をもつ様になってきたのでした、即ち元服は、一生の中で大きなけじめをつける重大な時機だったのです。

形の上での元服は、心の上では立志と云う事になります。いよいよ一人前の大人となれば、心が定まり、目標がハッキリしなければなりません。それを「志を立 てる」と云うのです。孔子と云う人を知っていますか。支那の昔の哲人です。キリストよりも、五百年ばかり前に出た人ですが、西洋のキリストや、印度の釈迦 と相並んで、ひろく又長く、人々の心に大きな感銘、深い影響を与えた偉大なる哲人です。その孔子の云われた言葉に、

吾、十有五にして楽に志し、三十にして立つ。四十にして惑はず。五十にして天命を知る。

とあります。十有五は、十五歳です。即ち孔子は、十五歳にして目標を確定し、三十歳の時には足の踏み所がしっかりときまって動揺しなかったと云うのです。
また皆さんは、

男児、志を立てて郷関を出づ、
               

 学若し成らずんば、死すとも還らじ、
骨を埋む、豈ただ墳墓の地のみならんや、

 人間、到る処、青山あり

 
                             

 「将に東遊せんとして壁に題す」釈 月 性


【釈月性(1817~1858)
幕末期、長州藩出身の真宗僧侶。海防の必要を積極的に説いたことから海防僧とよばれる。また吉田松陰らとの親交あり。
 
と云う有名な詩の、吟詠せられるを、聞いた事があるでしょう。その志学と云い、立志と云うのは、その人一生の目標がきまり、方向が定まった事、つまり生涯が一定の軌道に乗った事に、外ならないのです。
                                                   

さて個人において、形の上では元服、心の上では立志と云う事を理解しておいて、之を民族に移して考えますと、民族全体の立志、或いは元服と云うべきもの、 それは即ち国家建設、略して云えば建国であります。日本民族の起原は、遠い遠い昔にさかのぼるでしょう。然しそれは云わばテンデンバラバラであって、そこ には意志の統一が無く、共通の責任が無かったでしょう。それが一つの目標の下に団結し、一つの意志によって統一せられ、他の民族に対して責任をもつように なった時、それは即ち国家建設の成しとげられた時でしょう。

日本民族は、混成民族だと云う人があります。そうではありますまい。無論包容力の強い民族ですから、他の民族を受入れ、之と混合する事は、その例はいろい ろありますけれども、その中心となり、主力となっているものは、全く日本独特の性格をもつものであって、その特徴は、混成によって消されていないのです。 すぐれたる学者の、骨格及び血液の研究によって、日本民族は世界において独特のものであり、その分布は揚子江下流の地方から、沖縄群島を経て、九州、四 国、本州、及びそのまわりの島々に及んでいる事が明らかになってきました。その血液型の研究を見ると、周辺のどの民族をどう混合しても、日本民族にはなら ないのです。

日本民族は、その最も本質的なる血液や骨格の上から考えて、独特の民族である事、確かでしょう。然し若しそれが、国家を建設する事が無かったならば、この 民族は一体どうなったでしょうか。それは揚子江下流地方の民族を考えれば、ハッキリ分かるでしょう。たとえ血液型において、或いはまた骨格の上で、日本民 族と同じであるとしたところが、精神的には全く共通するものを見出し得ないでしょう。国家建設によって、民族がその意志を統一せられ、その団結を固くし、 一つの高い目標に向かって、整然と進んでゆくと云う事が、いかに大切であるか、それを皆さんは分かられたでしょう。繰り返して云う、個人においては立志で あり、元服である、民族においてはその立志に当たり、元服に当たるもの、それは国家建設に外ならない。




日本建国の理想

2013年05月12日 16時36分40秒 | 日本人と憲法

みどり松のブログに神武天皇建国の「皇都経営の詔」とその略解が書かれていましたのでそれについて、改めて、考えてみたいと思います。今、憲法改正論議が盛んですが、倉山満氏もチャンネル桜で言っておられましたが、現行憲法の改正という視点のみで改正案を考えている人が多いのはおかしいことです。

倉山氏の言葉で言えば、現行憲法は、占領軍に押し付けられたまさに憲法の素人の書いた『落書き』に過ぎないものであり、これをいくら改正しても、土台がアメリカ製の落書きでは、日本の自主憲法という名にふさわしいとは思えません。

かつて、昭和天皇が初めて御訪米された時に、 アメリカ人の多くが、昭和天皇の歩まれる姿を見て、「歴史が歩いているという実感を受けた」と語ったということです。

建国以来2600年以上にわたって万世一系の天皇を戴いている日本の、その天皇は、まさに歴史を体現しているお方だというのは過言ではありません。

当時米国は建国200年を迎えようとしていた頃ですから、まさに2600年の歴史の重みは、圧倒されるものがあったことでしょう。

そして日本においては、天皇は同時に『建国の理想』の体現者でもあられるのです。

 昭和天皇はこの年のお歌会始に

 

     
          わが庭の宮居に祭る神々に世の平らぎを祈る朝々


  と歌われました。このお歌の精神こそ、歴代天皇のお心であり、建国より代々受け継がれてきた建国の理想ともいうべきものです。

 歴代天皇が神々に誓われ、祈られ、続いてきた日本の国の建国の理想というものは、初代天皇である神武天皇の即位建都の大詔に遡るべきでありましょう。

以下転載です。

 

 神武天皇、即位建都の大詔には次の如く書かれているのであります。

  「・・・・夫れ大人(ひじり)の 制(のり)を立つる、義(ことわり)必ず時に随ふ。苟いやしく)も民(おほみたから)に利有らば、何ぞ聖の造(わざ)に妨(たが)はむ。且当(またまさ)に山林を披 (ひら)き払ひ、宮室(おほみや)を経営(をさめつく)りて、恭(つつし)みて宝位に臨み、以て元元(おほみたから)を鎮むべし。上(かみ)は則(すな は)ち乾霊(あまつかみ)の國を授けたまひし徳(うつくしび)に答へ、下は則ち皇孫正(すめみまただしき)を養ひたまふ心を弘めん。然して後に六合(くに のうち)を兼ねて以て都を開き、八紘(あめのした)を掩ひて宇(いへ)を為(せ)むこと、亦可からずや。夫(か)の畝傍山の東南(たつみのすみ)、橿原の 地(ところ)を観れば、蓋し國の墺區(もなか)か、治(みやこつく)るべし。」



 これを略解して見ますと、

   「思うに大人(ひじり)が制度を立てるにあたっては、必ずその時勢に順応した良い制度を立てなければならぬ。

苟も人民の利益になる事であったならば、た とい聖人の制定したものであっても、その制度を変更するに何の妨げがあろうや。 〈註:ここに日本天皇の民主主義的性格があらわれているのであります。〉

  朕は、いま山林をひらき伐採して宮殿を築造経営し、恭しい心持で天皇の位に即き、人民の安寧と幸福とをはかであろう。

そして上は、神が國を授けたも うた其の御神徳に答え奉り、下は皇孫以下が正しい心を養成するよすがとし、そして天下を治める為の都をひらき、その徳をひろめて、世界の八方の荒れたる 隅々までも一つの家庭として人類は皆兄弟として互に手をつなぐべき目的を実現するために、畝傍山の東南、橿原の地に都をつくるであろう。」


  この詔勅には何処にも侵略的な精神は見られないのであります。

世界を一家族として、人類を兄弟とする其の中心地として畝傍山の東南の橿原の地に都をつくろ うと仰せられたのでありまして、

まだ此の詔には「大和國(やまとのくに)」と云う国号はあらわれておりませんが、此の橿原の地を中心に「大和國」と称せら れることになったのでありまして、

「大和(やまと)」の国号そのものにも全世界の人類が一つの家族として和合すると云う建国の理想があらわれるのでありま す。

 〈私の記憶によりますと、文書として日本の国号ヤマトと称せられている最初は日本書紀の神功皇后の條であります。〉



  兎も角、斯くして、日本の歴史は形の世界に神武天皇があろうがなかろうが、日本民族の魂の歴史に於いては、その建国の精神の擬人化として神武天皇がましま すのであります。 

神武天皇と大和(だいわ)の理想は日本民族の魂の中に厳然として存在するところの理念でありまして、

形の世界はその理念の具象化とし て、徐々に展開して行くものでありまして、

途中に色々の消長や停頓がありましても、この「神武」の理念と「大和(だいわ)」の理念とを骨子として、それに 具体的歴史が肉付けられて行くのでありますから、

神武建国の事実は歴史註中の歴史なる一大因縁の「因」をなすものとして、日本の歴史より決して抹殺し去る べきものではないのであります。



 

 

 

 

【青山繁晴】国家と戦没者と宗教と政党[桜H25/5/10]

 

 

 


事実を告げる憲法教育の必要性

2013年05月07日 14時39分44秒 | 日本人と憲法

久しぶりに朱雀さんのブログにおじゃましたら、正論の記事で、長谷川三千子氏の論文が載っており、なかなか良いことが書かれていたので、産経ニュースから元記事を転載しました。この方は、チャンネル桜の討論番組の憲法をテーマにした回に出ておられて、国民主権が日本には合わない思想であることを話されていましたので、その時の説明が実に納得の行くものだったのが印象に残っています。今回も国民主権についても触れておられます。

今回はまた、日本国憲法の成立過程の欺瞞性について指摘しておられます。国民主権と言いながら、日本の国家も国民も主権を奪われていた中で成立したものが現行の日本国憲法であることを痛切に批判しておられます。

日本国憲法は日本の終戦の翌年、昭和21年の113日に公布され、2253日より施行されました。しかし、そもそもハーグ条約 陸戦法規(いわゆる国際法)43条に「勝ち組が被占領地に到達したときは、その国の法律を変えてはならない」とあるのに、これに違反して占領軍が押し付けたものです。

占領軍は、この憲法を日本が受け入れなければ、「天皇の人体(Person of Emperorという語を使ったという)もどうなるかわからぬ」と脅したといいます。しかもそのように脅しながら、「しかし一国の憲法はその国の国民が定めるのであるから自分でよく考えて、このアメリカ草案の憲法に基づいて日本国憲法を改正するかどうか、ちょっとお庭を20分間ほど散歩してくるからその間に考えて返事をしなさい」と言ってホィットニー准将は散歩に出ていったといいます。


つまり、もし受け入れなければ、天皇の命は保証しないけど、決めるのはあくまで日本国民なのだから強制はしないから、20分 間よく考えてから返事をしなさい。というもので、例えれば、強盗が押し入って、その家の子供を人質に取り、子供を殺されたくなければ、有り金全部出せ。で も強制はしたくないから、お金を出すかどうか決めるのは、お前が自分で判断しろ。五つ数えるまで待ってやる。と言っているのと同じではありませんか。

日本は止むを得ず、当時の帝国議会で、憲法改正の審議をすることになりましたが、皆これを可決するのが嫌でしたが、正面から占領軍に反抗しては、政治追放又は戦 犯裁判に処せられるというので、時間切れで審議未了で流してしまうつもりだったのです。

ところがいよいよ時間切れになるその日の午後十 二時の五分前に、帝国議会のすべての時計が全部停ってしまいました。むろん、これは議事の進行を見守っている占領軍が全部の時計を止めてしまったのです。これではいつまでたっても時間切れにはなりません。

このような乱暴な押しつけ又は強制によって、「日本国憲法」と称するアメリカ製作文は、形式だけは議会を通過したのでした。

 

 

「国民の憲法」考 埼玉大学名誉教授・長谷川三千子

2013.4.30 03:14 (1/4ページ)憲法改正

教科書が語らない「制定」の真実

  わが国では戦後ながらく、憲法についての思考停止状態がつづいてきました。昨今はそれが少し解消したかのようにも見えますが、基本的な点では、ほとんど何 も変わっていません。産経新聞が新しい憲法案「国民の憲法」要綱を発表しましたが、いくらよい憲法案を作っても、この思考停止が解けない限り、本当の「国 民の憲法」は実現しないでしょう。それを解決するのには、何よりも大切なのが正しい憲法教育なのですが、現状はいささかお粗末と言わざるを得ません。

《素通りの「誰が作ったか」》

  昨年たまたま、或る出版社のご好意によって、その年出版された中学公民の教科書をいくつか見る機会がありました。いずれもきれいな写真が沢山のった観光パ ンフレットと見紛うような美装本で、かつての社会科教科書とは様変わりしていましたが、その中身は、ほとんどいずれも、敗戦直後の中学教科書『あたらしい 憲法のはなし』を一歩も出ていない。むしろ或る意味で思考停止ぶりが深まっているとすら言えるのです。

 

 かつて『あたらしい憲法のはなし』は、日本国憲法の成立についてこんなことを語っていました。

 「これまであった憲法は、明治二十 二年にできたもので、これは明治天皇がおつくりになって、国民にあたえられたものです。しかし、こんどのあたらしい憲法は、日本国民がじぶんでつくったも ので、日本国民ぜんたいの意見で、自由につくられたものであります」。もちろんこれは大ウソです。新憲法は「日本国民が自分でつくった」ものではなく、占 領者の作った草案を日本人が「自由に」修正することも許されなかった。しかし昭和22年、占領下の日本にはそのことについてウソをつかない自由すらなかっ たのです。

 では、ウソをつく必要のなくなった平成24年の教科書はどんな風に日本国憲法の成立を語っているのか。例えば清水書院の教科書 はこんな言い方をしています。「ポツダム宣言にもとづいて、憲法の改正を求められた日本政府は、連合国軍総司令部から民主主義を基本とする憲法案を示され た。これをもとにつくられた改正案が、新たに20歳以上の男女による普通選挙で選ばれた国会で審議・議決されて、日本国憲法が誕生した」

 

 たしかに、ここにはウソは書かれていません。しかし本当のことも書かれていないのです。この文章がすべて「られた」「された」と受動態で書かれて いることにお気付きでしょうか。いったい、この憲法は誰が作ったのか、という肝心の問いを、この執筆者は完全に素通りしているのです。

《主権なき中で主権うたう矛盾》

  同時に、連合国軍総司令部が日本政府に憲法案を(示しただけでなく)強制したこと。総司令部が厳しい検閲によって、そのことを一切日本国民に知らせなかっ たこと。そうした事実も全く語られていません。それに言及しているのは自由社と育鵬社のみなのですが、この2社ですら、当時の日本は軍事占領下にあって国 家主権を奪われていた、という事実については、一言も語っていません。

 占領を解かれて半世紀以上もたっているのに、どうしてこんな風にすべての教科書が本当のことを避けているのでしょうか。それはもし日本国憲法の成立について本当のことを語ってしまうと、それにつづく話がすべてめちゃくちゃになってしまうからなのです。


 どの教科書も、日本国憲法の三大原理として「国民主権、平和主義、基本的人権」をあげています。その第一の「国民主権」とは、「国の政治のあり方 を最終的に決める力(主権)が国民にあるということ」と説明されています。当然それは憲法を改正したり制定したりする力でもあるはずです。ところが、日本 国憲法自体は「主権」が完全に奪い去られた状態で制定された--ということになると、まるで訳のわからない話になってしまいます。

《事実示し考えさせる教育を》

  公民教科書では「国民主権」と「国家主権」とが完全に別物のようにして扱われていますが、もともとは同じ一つの概念の内側と外側といった関係です。実は、 そもそも「国民主権」とは、フランス革命における、王を殺して国民が権力を奪うのが正義だ、という思想に基づく、問題のある政治原理なのですが、なににせ よ「国家主権」のないところでは「国民主権」も成立しえないのです。

 さらに言えば、国家が一切の力を放棄するという日本国憲法の「平和主義」は、国家主権の放棄であり、そこでは「国民主権」が成り立たないどころか、近代憲法自体が成り立ちません。国民の「基本的人権」を守ることも不可能となります。

 つまりこんな風に、日本国憲法は全くめちゃくちゃな憲法なのです。その衝撃の事実をありのままに子供達の目の前にさらけ出すこと--本当の考えさせる憲法教育はそこから始めるべきでしょう。(はせがわ みちこ)