玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

トドロフ『幻想文学論序説』(1)

2016年11月26日 | 日本幻想文学

 

日本の幻想文学を論ずるときに、ツヴェタン・トドロフを参照する必要がどこにあるのかと言う人もいるかも知れないが、トドロフの名著『幻想文学論序説』は国書刊行会の『日本幻想文学集成』を読んでいくときに、大いに役に立つだろうという予想はある。
 日本の幻想文学論は、渋澤龍彦流の反近代主義に毒されたものが多く、ほとんど参照するに足りないからである。渋澤は正統派文学に対して異端としての文学を対峙させて、その価値を称揚したのであったが、そのような議論は今日ではもはや成り立たない。
 あの荒俣宏でさえ、今日、幻想文学と呼ばれるものの居心地が良くなりすぎたために、もはや「正統」に対する「異端」としての位置を保持することが出来なくなってしまったことを、1982年に書いているが、渋澤流の幻想文学観は60年代、70年代には有効であったかも知れないが、80年代にはすでに破綻していたというわけである。
 ゴシック・ロマンスについてもその創始者であるホレース・ウォルポールやウィリアム・ベックフォードの作品に、18世紀合理主義に対する反時代的な貴族趣味を読み取って賞賛するという風潮があったが、そうしたものの見方もすでに破綻している。
 そのような変化の分水嶺には、構造主義的なものの考え方があって、それ以前とそれ以降を画然と分割しているのは、世界的な潮流であるが、日本ではそれ以降も構造主義的な幻想文学論というものは出現しなかったし、相も変わらぬ渋澤流の俗論が幻想文学の世界を支配していたことは、高原英理の議論を読めば直ぐに解ることである。
 トドロフの『幻想文学論序説』は1975年に朝日出版社から翻訳が出ているが、私は1999年に東京創元社から出た創元ライブラリ版を所有している。日本における幻想文学の定着に果たした東京創元社の役割は「怪奇小説傑作集」全5巻の刊行などによって限りなく大きいものがあるが、トドロフのこの本の文庫化も、幻想文学の理論的著作を紹介したという意味で重要な功績であった。
 トドロフはまずジャンルとしての幻想文学の定義を行っているが、その時に批判的に参照しているのがノースロップ・フライの『批評の解剖』である。フライは構造主義の先駆者といわれた存在であり、文学というものを構造分析的に考察した人であるが、こと幻想文学については恣意的な分類しか行っていないというのがトドロフの批判の要諦である。
 トドロフはジャック・カゾットの『悪魔の恋』を取り上げて、主人公が我が身に起きたことが現実なのか、それとも幻覚にすぎないのかという曖昧さを体験するところに「幻想」の本質があるとする。トドロフは次のように言う。

「「幻想」はこうした不確定の時間を占めている。どちらか答えが選択されてしまえば、幻想を離れて「怪奇」あるいは「驚異」という隣接のジャンルへ入り込むことになる。幻想とは自然の法則しか知らぬ者が、超自然と思える出来事に直面して感じる「ためらい」のことなのである。」

「怪奇」は超自然というものがあることを認めず、起きた出来事を自然的事象へと還元する認識であり、「驚異」は超自然的存在を認め、起きた出来事を超自然に由来するものと判断する認識である。「幻想」はその二つの認識の境界域にある「ためらい」であるというのがトドロフの議論である。
 だから「幻想」は「怪奇」と「驚異」の中間地帯にある、過渡的なものだとトドロフは言うが、ではなぜ世に「幻想小説」というものが存在しうるのかについて、トドロフははっきりとは言わないのである。

ツヴェタン・トドロフ『幻想文学論序説』(1999、東京創元社、創元ライブラリ)三好郁朗訳

カバーに使われているのはギュスターヴ・モローの〈オイディプスとスフィンクス〉