玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

佐藤春夫『新編 日本幻想文学集成』より(1)

2022年01月31日 | 日本幻想文学

 国書刊行会は1991年から1995年にかけて『日本幻想文学集成』全33巻を発行したが、2017年に新たに『新編 日本幻想文学集成』を刊行している。一人の作家につき1巻だったものを、4から5人の作家をそれぞれ1巻にまとめ、旧版発行時以降に亡くなった安部公房・倉橋由美子・中井英夫・日影丈吉の巻を追加して、全部で9巻の叢書にまとめ直したのであった。
 ここまで日本の幻想文学を体系的にまとめたアンソロジーは他にはないので、私は老後の楽しみに全部読んでやろうという意気込みで購入したのだった。しかしこれまでに読んだのは安部公房と倉橋由美子だけで、すでに私の老後も黄昏が近づいているのだった。安部と倉橋について書こうと思ったのだが、倉橋についてはともかく、安部にはかなり失望してしまったので、その時は書けなかった。
 助走としてツヴェタン・トドロフの『幻想文学論序説』を読んで、それについてまず書いたので、トドロフの本についてはこのブログの「日本幻想文学」の項目に入っているという、変則的な形になってしまっている。トドロフの本は極めて有益な議論を展開しているので、これからも参考にすることもあるだろう。
 今回、久しぶりに『新編 日本幻想文学集成』に取りついたのは、佐藤春夫を読むためであった。しばらく前に、東雅夫編の『日本幻想文学大全』というアンソロジーの、「幻妖の水脈」に載っていた「女誡扇綺譚」という作品を読んで、その見事な出来栄えに感心していたので、次に読む日本の幻想小説は佐藤春夫と決めていたのである。
 佐藤春夫が含まれる第5巻は「大正夢幻派」と題されていて、他に江戸川乱歩・稲垣足穂・宇野浩二が入っている。私は江戸川乱歩以外ほとんど読んだことがないので、これからも楽しんで読んでいけるだろう。
 最初の作品「指紋」を読んで私は、佐藤春夫についていくつかの基本的なイメージを?むことができたように思う。まず「指紋」はいわゆる「探偵小説」として読めるということである。初出は1917年「中央公論」だが、1920年創刊の「新青年」にこそ相応しい内容となっている。実際に佐藤は「新青年」に探偵小説を寄稿していたのであった。
「指紋」はR・Nという男を主人公とし、その友人の「私」(=佐藤)によって語られる彼にまつわる摩訶不思議な物語である。洋行していたR・Nはずっと「私」に手紙を寄越していたが、ある時から音信が途絶えてしまう。その後十数年ぶりに突然「私」の前に現れたR・Nは、健康を害しているように見え、「私をかくまってくれ」と懇願する。かと思うと突然長崎へ行くと言って、また姿を消してしまう。
 このように最初に奇態な謎を提示しておいて、それを徐々に解明していくというのが、「探偵小説」の手法であり、これはゴシック小説や恐怖小説に発する常套的な手法なのである。当時はジャンルが未分化であったから、幻想小説的なものも、推理小説的なものも総じて「探偵小説」と呼ばれた。探偵が出てこなくてもそれは「探偵小説」と呼ばれたのであった。
 謎は謎を呼んで、一緒に観た「女賊ロザリオ」という活動写真に対する彼の異常な反応が、さらにまた謎を呼ぶ。謎解きはかなり奇矯であり、強引ではあるが、一応合理的になされていて、超自然的な要素を含まない。
 だからこの小説は「夢幻」的な作品とは見なせないのだが、錯綜した謎の部分だけでなく、R・Nが阿片窟でみる夢の描写に幻想的なものがあると言える。そうした傾向を「新青年」的と言うとすれば、佐藤春夫は「新青年」的小説の先駆け的存在であったのかも知れない。そして、その夢は明らかにゴシック的な夢であって、これが阿片吸引がもたらす夢であるとすれば、それは佐藤本人の経験によるよりも、ド・クインシーの作品からの影響と見るべきだろう。こんな夢である。

「それは非常に静かで、最も碧く、?漠として居た。だが私はそれが湖水だといふことをよく知って居る。といふのは、その海のやうに曠漠とした平静な水面の対岸に、やはりそれと同じやうに巨大な建築物が見えるからだ。それは自然の風景を十二倍した位の巨大さだ。その?の風景は今も言ふとほり、湖水を前景にして自然を十二倍した巨大さで或る古城が現れた。その古城の未だ後には回々教の殿堂だと見えるドオムが、やはり少くとも自然を十二倍した位に、古城の凹凸のぎざぎざや銃眼のある城壁に半分隠されて重り合って居る。城壁の後に回々教の殿堂といふ対照は理智的に考へるといかにも飛び離れた組合せではあるが、夢のなかではそれが最も合理的なリズムで調和されて居た。さう。 それに明るい月光が照して居た――私は水さへ見ればきっと月を、月さへ見ればきっと水を見た。海のやうに広漠な水面の夢なのだ。」

 この場面が夢幻的だとしても、文章はあくまでクリアで明晰である。佐藤春夫という作家は幻想作家ではあるが、夢の描写において決して狂熱的な文章で書ける人ではなかったというのが、私の印象である。

・「新編 日本幻想文学集成」第5巻『大正夢幻派』の佐藤春夫 



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