玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(1)

2021年01月31日 | 読書ノート

 私設図書館として私どもが運営する「游文舎」で、アルベール・ベガンの『真視の人 バルザック』という本を発見したので、早速読んでみた。アルベール・ベガン(1901~1958)はスイスの学者で、その大著『ロマン的魂と夢』が有名。その本は学生時代に買って読み、大きな感銘を受けて今でも大切にしている。

『ロマン的魂と夢』はドイツ・ロマン派研究の書でもあり、それがフランス・ロマン派に与えた影響について詳しく論じた名著であり、私は大学の時、興味を持ったジェラルド・ネルヴァルに影響を与えた、ドイツ・ロマン派について知りたいがために、その本を購入したのであった。

「真視の人」というのは耳慣れぬ日本語であるが、visionnaireの訳であり、普通であれば〝幻視者〟と訳すところであるにも拘わらずそうしたのは、訳者の西岡範明によれば、visionを「幻想」と訳したのでは原語の曖昧な意味がそのまま残ってしまうので、「真視」という言葉を選んだのだという。

 まあ相手が19世紀リアリズム小説の生みの親といわれるバルザックであるだけに、「幻想」や「幻視」という用語が誤解を生む恐れもあったかと思わないでもない。しかし今になってみれば(この本は1973年に訳されている)「幻視者バルザック」でよかったのではないか。今日では「幻視者」という言葉は肯定的な価値をもつものとして定着しているし、本書を読めばベガンが終始肯定的な価値をもつ言葉としてvisionやvisionnaireを使っていることがよく分かるし、誤解の余地もないからである。

 しかし、1968年にはネルヴァルのLes Illuminésが『幻視者』と題して邦訳されていたから、これに対する遠慮の気持ちがあったのかもしれない。こちらのilluminésの方は蔑称としての「幻想家」「夢想家」の意味をもっていて、内容を読んでも分かるように(最初にビセートルの狂人ラウール・スピファームが出てくる。16世紀に生きたこの男は自分のことを、当時の国王アンリ二世だと思いこんでいた)、『幻想家』か『夢想家』と訳すべきだったと思われる。

 今日肯定的な意味での「幻視者」として定着しているのは、visionnaireの方であってilluminéではないのだから、もし新訳を出すなら『真視の人 バルザック』は「幻視者バルザック」とし、ネルヴァルの本は「夢想家達」とした方がよいと思う。

 ベガンのこの本はバルザックの後継者を自称していた、フローベールやゴンクール兄弟、ゾラなどが、バルザックのことを「戸籍簿と張り合うこと、当代社会を描くこと、外的世界になんらの変貌もあたえずにこれを自分が刷毛をふるったタブローのなかに移し入れること」を意図した作家と見なすという、決定的な誤りから彼を救い出そうという試みである。

 つまりバルザックを自然主義文学の先駆者としてではなく、「幻視者」として、あるいは偉大なロマン主義作家として捉え直そうというのがベガンの本の意図なのである。いかにも『ロマン的魂と夢』の作者らしく、ベガンはバルザックをドイツ・ロマン派やイギリス・ゴシック小説の影響から出発した作家として位置づける。

 バルザックを『あら皮』から読み始めた私のような人間にとって、そうしたことはいわば〝自明の理〟であり、今さら読むほどのことはない本であったかもしれない。しかし私は『あら皮』に大きな感銘を受け、東京創元社版『バルザック全集』全26巻を買い求めたのはいいが、その後『幻滅』を読んだのみで30年以上ほったらかしにしていたので、立派なことを言う資格はない。

 私は当時『幻滅』を社会派リアリズム小説として読み、バルザックについての俗説を真に受けてしまい、幻想文学やロマンティックに深い興味のあった私はバルザックから遠ざかってしまったのであった。不幸なことだった。だからベガンの『真視の人 バルザック』は、かつての私の迷妄を払拭してくれる本であったし、最近になって『セラフィタ』や『ルイ・ランベール』を読んだ私の新しいバルザック観を確認させてくれる本でもあったのである。

 

アルベール・ベガン『真視の人 バルザック』(1973、審美社)西岡範明訳

 

 

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