ヘンリー・ジェイムズが〝バルザックの教訓〟と言う時、それは人生上の教訓や、道徳上の教訓を意味していない。バルザックの小説は〝いかに生きるか〟などというテーマを追っているのではないからだ。たとえばバルザックが、『従妹ベット』の高級娼婦ヴァレリーを愛していたとしても、それは彼女の生き方が正しいという理由によっていない。
ジェイムズの〝教訓〟というのは、ほとんど小説作法上の〝教訓〟というに等しい。たとえば次のようにジェイムズが語るのも、作家とその作中人物の関係のあり方という方法上の問題に帰結するだろう。
「この上なく生命感に溢れる強烈な個性の持ち主を愛したことによって、バルザックははじめてあのように見事な作中人物を次々に活躍させられたのです。作中人物の見せるさまざまな動き、つまり作者の手を離れ、それぞれの性格に基づいて自由に動き廻る姿に対する愛情と喜びこそ、先に述べた主題との密着を可能にしたものなのです。」
バルザックが彼の創造する作中人物達を徹底的に愛していたこと、それが彼の作品に生命を与えていると、ジェイムズは言いたいのである。バルザックの人物達はどれも極端な性格の持ち主で、ある種のいきすぎを演じてはばからないが、それこそが〝教訓的〟な小説から遠い場所に彼の作品を導いていくのだし、あるいはフローベールの場合に見たように、登場人物の凡庸さから逃れる小説にしている要素なのである。
言ってみればバルザックの時代には、未だそうした魅力的な人物が創造可能だったのであり、フローベールの時代にはもはやそうではなかったと言わなければ、私は公平性を欠いた言い方をしてしまうことになるだろう。またそうした魅力的な人物を創造する時に、彼の執拗な描写や、くどいほどの背景説明が必要とされたのであっただろう。『ウジェニー・グランデ』は『絶対の探究』程に長大ではないが、それでも長すぎる導入部を持っている。
最初の「町方風俗」の章は、まず小説の舞台となるソミュールという田舎町の描写から始まり、そこで暮らす人々の生活ぶりを描き出していく。ようやくこの小説の主人公ウジェニー・グランデの父親の話題になると、これまた長々しく彼の経歴やら所有財産やらについての説明が続く。
さらにグランデ氏の狭い交流範囲の中にいるクリュショ家とデ・グラッサン家の人々についての紹介の後、使用人のナノンとグランデ氏の関係についての長い説明が続き、ようやくグランデ夫人とウジェニーのところに辿り着く。
そこに突然、グランデ氏の弟の息子(ウジェニーにとっては従兄)シャルルが現れ、漸く物語が動き出していく。一人の人物を創造するにはその人物が育った土地の歴史や自然環境、風俗、家柄や財産、交遊関係など、ありとあらゆるデータについて描写し、説明しなければ収まらないのである。
バルザックの人間観がまさにそれであり、当時の読者もまたそのような人間観を受け入れる素地を持っていたということになる。しかし、それにしても過剰ではないのか。くど過ぎはしないか。ヘンリー・ジェイムズはそのことについても述べていて、そこにバルザックの欠点を指摘はするが、なぜそれが欠点なのかについての言及は避けている。
「ある問題にどこまで奥深く分け入るかというのが問題なのです。彼の通路は常に奥へ奥へと進んでいます――ということは、つまり彼には詳細な描写への人並み外れた情熱があったということに他なりません。このくどさは彼の大きな欠点でもあったのですが、それは今問題とする必要はありません。それに細部描写は生き生きとしていますし、彼の構想と密接に結びついていて有意義なものなのです。」
むしろこの異常なほどの描写と説明へのこだわりは、バルザックの欠点ではなく長所だったのかも知れない。どんな作家でも描写への誘惑を防御しきれるものではなく、むしろ積極的にそこに溺れていくものだからである。ヘンリー・ジェイムズ自身もそのような作家であったし、そのことを自覚してもいた。この問題については後で検証してみたい。