玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

カルロス・フエンテス『遠い家族』(1)

2017年04月13日 | ゴシック論

 メキシコのノーベル賞詩人、オクタビオ・パスは、カルロス・フエンテスの『アウラ』と『遠い家族』を〝完璧な小説〟と高く評価しているという。『アウラ』については以前に書いているが、私もまたこの小説について、ラテン・アメリカを代表する短編小説のひとつだと思う。
 その完成度の高さはフエンテスの作品の中でも傑出していて、幻想小説としてもラテン・アメリカ文学の最高傑作のひとつに数えられるのではないか。オクタビオ・パスが『アウラ』(1962)と並んで『遠い家族』(1980)を〝完璧な小説〟と言うからには、どうしても『遠い家族』を読まないわけにはいかない。
 また、フエンテスの真価が短編小説よりも長編小説の方に求められるのだとすれば、この長編小説を読まずにすますことは出来ないのである。私はフエンテスの代表作『テラ・ノストラ』(1975)を一年前に買ってあるのだが、そのあまりのボリュームに恐れをなして、そのまま放置してある。『遠い家族』を読むことを『テラ・ノストラ』の世界に入っていくための助走としたいという気持もあって、取りかかることにした。
 しかし、読んでもなかなか物語の枠組みが頭に入らない。半分まで読んでもその作品世界に没頭していくことが出来ず、意を決してもう一度最初から読みなおすことにしたのである。
『アウラ』も一度読んだだけでは、その物語の輪郭が夢幻の世界に消えていくだけで、捉えがたいものがある。しかし『アウラ』は短編小説であるから繰り返し読むことが出来、そのようにして私はそれが〝完璧な小説〟であることを自らに証明することが出来たのである。
 一方『遠い家族』は大長編ではないが、翻訳書は四六判で300頁ほどあり、そんなに繰り返して読むことは出来ない。最初からきちんとおさえて読んでいかないと、全体が雲散霧消してしまうことになる。
 この小説の第一の特徴は、それがかなり典型的なゴシック小説であるところにある。だからこのブログでも、ラテン・アメリカ文学のジャンルではなく、ゴシック論のところで取り上げるわけだ。『アウラ』も濃厚なゴシック小説であり、同時に幻想小説であるが、『遠い家族』の方は必ずしも幻想小説とは言えないかも知れない。
 しかし、最初に謎が提起されて、後半でその謎が解明されていくという物語構造は、多くのゴシック小説に共通したものである。『アウラ』のように超自然的な現象が扱われているわけではなく、一見超自然的な符帳とも思われる謎があるにしても、その謎は後半で合理的に解明されるのである。
 ただし、『遠い家族』はアン・ラドクリフの作品に代表されるような推理小説的な謎解き小説ではない。謎の解明というプロットはこの小説にあって主要な要素ではないからである。それがある程度読者の興味を牽引していく動力として機能はしているが、その謎は、世界とは何か? あるいは人間とは何か? という壮大なテーマに関わるのであり、ウエイトはそちらの方にかかっている。
 またゴシック小説の大きな特徴として、物語がある閉鎖空間の中で展開していくということが挙げられるが、『アウラ』が一度足を踏み入れたらそこから決して出ることが出来ないコンスエロ夫人の屋敷の中で繰り広げられるように、『遠い家族』では主人公であるブランリー伯爵が迷い込んだというか、誘い込まれたクロ・デ・ルナール館という閉鎖空間の中で、物語は進行していく。
 さらにゴシック小説の特徴として、いわゆる「枠物語」ということも挙げられる。物語の全体は主人公ブランリーがこの小説の作者であるカルロス・フエンテスに語るという「枠」としての構造を持っており、さらにその中に謎の解明のために挿入される、ウーゴ・エレディアがブランリーに語るもう一つの「枠」が存在している。
 舞台はフランスのパリである。フランスは旧世界を象徴する。そしてブランリーが旧世界を代表する人物として設定される。ブランリーを取り巻く人物たち(フエンテス自身も含まれる)は、メキシコからやって来たのであり、メキシコは言うまでもなく新世界を象徴する。
 そしてその旧世界と新世界のせめぎ合いが、『遠い家族』のテーマそのものとなり、それはブランリーとクロ・デ・ルナール館の主、ビクトル・エレディアとの対決を通して語られていくのである。

カルロス・フエンテス『遠い家族』(1992、現代企画室「ラテンアメリカ文学選集」10)堀内研二訳