玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

Ann Radcliffe The Mysteries of Udolpho(13)

2016年04月11日 | ゴシック論

 第35章、舞台は代わってラングドックのヴィルフォール伯爵の城。この城は彼が会ったこともない従兄弟のヴィルロア侯爵の遺産として受け継いだもので、『ユドルフォの謎』の最初に出てくる城だということが、読んでいくと次第に分かってくる。
 サントベール一家が迷い込んだ古城で、その城の領地に住むラヴォアザンという老人に、一家は大変世話になり、そこでサントベールは死を迎えたのであった。
 ヴィルフォール伯爵はこの荒れ果てた城を修繕して住みたいと思っているが、夫人はパリ生活が長く、田舎が好きではない。二人には子供がいて(伯爵夫人は継母)、兄のアンリと妹のブランシュが一緒に暮らしている。ブランシュは数年間修道院に入っていたが、ようやくそこから出てきたところである。
 このブランシュがエミリーにそっくりなのである。都会を好まず、大自然を愛し、古城のたたずまいを賛嘆してやまないばかりか、飛んでいる蝶を見て詩を作る所など、エミリーに生き写しである。ただし、一つだけ違うところがある。
 ブランシュが修道院の非人間的な環境を、そこに数年暮らしたがために嫌っているのに対して、エミリーは修道院に対する憧れを抱いている。それはこの古城(ルブラン城)近くの修道院で世話になったからである。
 しかし、ブランシュの修道院嫌いは徹底している。彼女は「誰が最初に修道院なんてものを発明したの?」と自問し、「誰が最初にそんなところに入ることを人に説得できたの?」と疑問を呈するのである。
 ここにはカトリックの修道院に対する新教徒としての批判が含まれているのであって、だからこそイギリスを発祥の地とするゴシック・ロマンスは、その初期においてカトリックの国を舞台とせざるを得なかったのである。
『ユドルフォの謎』はフランスとイタリアを舞台としているし、ラドクリフの影響を受けたルイスの『マンク』はスペインのマドリッドを舞台としている。そして最後のゴシック・ロマンスと言われるマチューリンの『放浪者メルモス』もまた、主要な舞台をスペインに置いているのである。
 そこにこそクリス・ボルディックの言う「文学におけるゴシックは、実は反ゴシックである」という言葉の正統性が求められる。アン・ラドクリフの『ユドルフォの謎』もまた"反ゴシック"なのに他ならず、ラドクリフが旧教の国に憧れていたがために、フランスやイタリアを舞台にしたわけでは決してない。
 ブランシュ嬢の修道院嫌いから、我々はラドクリフのカトリック批判を読み取るべきなのである。そして、ゴシック小説が何故にイギリスを発祥の地としなければならなかったかの本当の理由をそこに読み取らなければならない。
 つまり、反カトリックの国イギリスこそが"反ゴシック"としてのゴシック小説の発祥の地である他はなかったのである。そしてゴシック小説の伝統が新大陸アメリカに引き継がれていった要因もまた、そこにこそあったと言わなければならない。
 ところで、それにしてもラドクリフの人物造形はよろしくない。ブランシュ嬢がエミリーにそっくりなのは、ラドクリフがその程度の人間理解しか持てなかったことを示している。
 そしてデュポンという男の存在もまた、中途半端で許し難いものがある。エミリーを愛してやまないが、エミリーに拒絶され続けるデュポンが、何のためにここに存在しているのか、私には理解できない。
 ユドルフォ城脱出のきっかけを作ったとはいえ、この男の存在感はまるで稀薄であって、早く消えてもらうにしくはない。