玄文社主人の書斎

玄文社主人日々の雑感もしくは読後ノート

藤田嗣治と石黒敬七

2006年06月02日 | 日記
 藤田嗣治展の会場で買ってきた『藤田嗣治「異邦人」の生涯』(近藤史人著・講談社文庫)を読んでいたら、柏崎出身の柔道家・石黒敬七とのエピソードが出てきた。一九二六年というから藤田は四十歳、石黒はパリで初めての柔道場を開いたばかりで、若干二十八歳だった頃の話。
 パリの大新聞が主催したオペラ座での慈善興行に、藤田と石黒が柔道の模擬試合で出演しているのだ。なんで藤田が柔道かと思うかも知れないが、藤田の父は陸軍軍医、伯父は旧福知山藩士で剣豪であり、藤田自身、東京高等師範附属中学校時代、熱心に柔道場に通い続けたという。
 オペラ座の公演は、藤田が石黒に日本刀で斬りかかり、最後は石黒に巴投げで投げ飛ばされるというものだった。公演は舞台の上につくられた高さ三メートル、幅一メートルの橋の上で行われ、投げられた藤田は勢い余って橋から転落しかかり、しばらく松葉杖での生活を余儀なくされたという。
 当時藤田の絵はパリで高く評価され、絶頂期にあったから、なぜこんな遊び半分のショーに興じていたのか理解に苦しむが、道場を開いたばかりの石黒を売り出すための好意からの出演であったようだ。しかし、藤田の伝記を読んでいて、ある意味画家としてあまりふさわしいとは思えない軽薄な行動の数々を知ると、どうしても生身の藤田の人格を疑ってしまうところがある。
 しかし、その人格と作品は別のものであって、作品は作品としてきちんと評価する必要がある。今回の展覧会を観て、いろんな人がいろんなことを書いているが、藤田復権の傾向が強くある。藤田の戦争画に非戦反戦への強い意志を読み取る人さえいるが、そんなに単純化できるものではないと思う。
 藤田の洗礼名Leonard Foujitaの“Fou”はフランス語で“バカ”の意味がある。

越後タイムス5月26日「週末点描」より)