「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

大晦日

2005年12月31日 07時36分48秒 | Weblog

 1年最後の日になりました。
 今日は元の実家(今は兄一家が相続)へ行き、正月を過ごします。
 一人暮らしの叔母も一緒に集まるのが毎年の恒例になっています。
 毎日書き込んできた記事もお休みです。

 今年は初めてブログを開設して2ヶ月弱。
 皆さん、ご覧いただいてどうもありがとうございました。
 お知り合いの人たちもでき、これからまた広げていきたいと思います。
 来年もどうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m


サイコドラマ(4)

2005年12月30日 20時44分48秒 | 心理
 そしてディレクターは一応の決着を見て、ドラマを終了します。
 それで問題が解決すればめでたしですが、普通はある程度の段階まで主役の気持ちや思いが進展すればいいものです。
 同じテーマで次回も引き続きドラマを進めることもよくあります。

 ドラマ終了後、「シェアリング」と言って、主役を囲んで参加者たちがドラマの感想や、主役に送る言葉などを順に述べていきます。
 あくまでも主役が中心で、主役を批判したりするのではなく、主役の気持ちに沿うことをシェアします。

 それから、サイコドラマは極めてプライベートな空間なので、その場で見聞きしたことは決して外には持っていかないという約束をします。

 主役はドラマを体験したことによって感情が変化しているので、「頭では分かっているけど実際にはそういかない」というふうにはなりません。
 それがサイコドラマの大事なところだと思います。


サイコドラマ(3)

2005年12月29日 20時44分27秒 | 心理
 
 主役はリバースロールをして新たなことに気付いたら、今度はそれに対してどうするかなどを即興で演じたりします。
 それらを繰り返してドラマを進めていくのです。

 ディレクターはドラマの展開を見ながら、適切なところで新たな場面設定をして、テーマを深めていきます。
 さらに現在や未来のシーンを作っていったりします。
 ディレクターの手腕がものを言うところです。

 主役は、何が問題だったのかを発見したり、新たなことを感じたりします。
 そしてそのテーマにこれからどう向き合うかなどを、ロールプレイで演じていきます。

 ディレクターは結末に向けてドラマをクライマックスに持っていきます。
 実際に体験しないと分からないのですが、主役は頭で考えるだけでなく、非常に感情が動きます。
 これがサイコドラマの重要なところです。

 主役は涙でぼろぼろになることも珍しくありません。
 参加者も自分の中の感情が共振して涙が溢れることもあります。

(続く)


サイコドラマ(2)

2005年12月28日 20時36分25秒 | 心理
 
 まず、主人公のテーマを見つめるのに適切な場面設定をします。
 そのテーマに関係する過去のでき事のシーンから始めたりします。
 主人公と関わる人物の役を演じる人を、参加者の中から主人公が何人か選んでいきます。

 それから実際にあった会話などを、ロールプレイで再現していきます。
 言われたときどう感じたかなどの感想や意見を述べます。
 また言葉だけでなく体の動きで表現したりし、感情や体感をフルに使っていくことが大切です。

 そして、これがサイコドラマの特徴ですが、ディレクターの指示で「リバースロール」ということを行ないます。
 互いの役割を入れ換え、主人公が相手の立場になって、セリフや動きを与えたり与えられたりするのです。
 それによって主人公は、今までと違う角度から自分のことを見つめることができるわけです。
 どのタイミングで「リバースロール」という指示を出すかが、ディレクターの腕前になります。

(続く)


サイコドラマ(1)

2005年12月27日 20時40分25秒 | 心理
 
 心子と僕が最初に出会ったのは、「サイコドラマ」という心理関係のワークショップでした。
 心子がサイコドラマに参加したのは1回きりでしたが、その日の飲み会で盛り上がり、心子と二人で会う機会ができるようになりました。

 さて、このサイコドラマというのはどういうものかというと、言葉で説明するのが非常に難しいのですが、アメリカで始まった心理療法です。
 10人前後の参加者のグループに、ディレクターと呼ばれる専門の指導者一人で行なうものです。
 ディレクターは精神科医や臨床心理士などです。

 リクリエーションのレベルから、参加者が抱えている大小の心の問題を取り扱うレベルまで、色々なやり方があります。
 後者の場合、その日のテーマに取り上げてほしいという希望を参加者の中から募り、その人を「主人公」として、ディレクターの指示に従って即興の「ドラマ」を進めていくのです。

(続く)


「プライドと偏見」

2005年12月26日 21時46分12秒 | 映画

 英国の女流作家ジェーン=オースティンの小説、「高慢と偏見」の映画化作品。
 18世紀末、イギリス田舎町の上流社会における、男女の出会いと恋物語を格調高く描いた話です。

 何といっても主役のキーラ=ナイトレイが魅力的でした。
 エレガントで華麗、強い意思を持ちながら、笑うとやんちゃさを覗かせる。
 高慢で鼻持ちならない男性に、嫌悪感を感じながら複雑な心理を抱き惹かれていく、当時の女性の心を演じていました。

 僕は02年、女の子のサッカーチームの映画「ベッカムに恋して」で初めて彼女を見て、ボーイッシュで個性的な眼差しがとても印象に残っていました。
 03年「パイレーツ・オブ・カリビアン」では、勇敢なお嬢様役を演じて大ブレイク。
 「ラブ・アクチュアリー」でも脇役ながら、かわいい女性で活き活きと輝きを放っていました。
 更に翌年、「キング・アーサー」でアーサー王の妻に扮し、気高く力強い演技で地位を確立。
 そして05年の「ドミノ」では、何と荒くれの女賞金稼ぎの役、まるで本人とは思えないような怪演でした。
 どんな役柄にでもなりきるキイラのファンになろうと思います。(^^;)

 今回の作品は、イギリスの片田舎の社交界を背景に、反発したり誤解したりしながら、次第に互いの気持ちに気付いていく男女の心情が伝わってきました。
 脇役では、本人は大まじめながら端からは失笑を買ったり、不愉快に感じさせられる三枚目役の神父、“神経質”を自任するお節介な母親など、品のあるユーモアもたっぷりで楽しめました。


「キング・コング」(2)

2005年12月25日 20時48分03秒 | 映画

 また、前作ではコングはアンを初めから人形を愛でるように扱っていましたが、本作では最初は本当に食べるための生贄でした。
 でも女優のアンがコングの前で奇妙な動きを演じたりするうちに、コングはアンに興味を持ちはじめるのです。
 その辺りのコングの感情や表情の変化も、とてもよく表現されていたと思います。

 コングの動きを演じているのは、「ロード・オブ・ザ・リング」でゴラムを演じたアンディ・サーキス。
 モーション・キャプチャーで見事な身体演技を見せてくれます。
 動物園でゴリラの動きを熱心に観察しているうちに雌のゴリラに惚れられ、隣にいたアンディの奥さんは雌ゴリラに嫉妬されて物を投げられたとか。
(アンディは今回、素顔でも船のコックの役をこなしています。)

 コングの動きは非常にスピーディーでした。
 巨大な体を持った動物はあんなに早く動けないのではと思うのですが、やはりそれが迫力を出していたのかもしれません。

 キング・コングは日本の怪獣映画の主役でもありましたし、連載マンガにもなっていました。
 巨大なゴリラというモチーフは、何故か人のイメージをすこぶる刺激するのですね。
 また、生け捕りにして都会で見せ物にするという設定も、「ジュラシックパーク」に引き継がれています。
 オリジナル版「キング・コング」の発想と威力は絶大で、ピーター・ジャクソンが最大の影響を受けて、この作品のために全勢力を注いだのも頷けます。

 とにかく、一見の価値ありの上等な娯楽作品です。


「キング・コング」(1)

2005年12月24日 21時38分46秒 | 映画

 映画「キング・コング」を観てきました。
 1933年のオリジナル版は、小さい頃テレビで部分的に見た覚えがあります。

 30年前の第2作である前作はロードショーで観ました。
 当時としてはやはり最先端の作品で、コンピューターでキング・コングの表情を制御しているということで話題になりました。
 非常に微妙で豊かな表情を表わしていました。
 前作も僕はとても面白かった作品で、記憶に残っています。

 本作は映像技術的には前作を遥かにしのぐわけですが、監督・ピーター=ジャクソンは前作の焼き直しにならないよう、随分考えたのだろうと思います。
 コングが“恋人”のアンと夕日を見つめるシーンや、氷の上で滑って戯れるシーンは前作にはなかった「ラブシーン」で、とても感銘を受けるものでした。
 やはり“ラブストーリー”なのですね。

 逆に、ラストシーンで飛行機の攻撃を受けるとき、コングが手に握っていたアンを下に下ろそうとして、アンが「離さないで!」と叫ぶシーンはありませんでした。
 コングがアンを手に持っていれば戦闘機がコングを狙うことはできないため、アンは必至になってコングに泣きすがりますが、コングはアンをそっと物陰に隠し、戦闘機に立ち向かっていくのでした。
 僕はとても感動したシーンで、今回なかったのが残念でしたが、作品のオリジナリティのためには仕方ないのかもしれません。

(続く)


健啖家? 過食嘔吐?(2)

2005年12月23日 20時46分53秒 | Weblog
 隣のテーブルの女性は、何度も席を立って料理を取ってきます。
 僕も料理を取りにブュッフェ台へ行きました。
 が、女性の姿が見えません。
 すると、その女性がけろりとした顔をして、トイレから出てきたのです。
 やはり、トイレで……。

 考えてみれば女性が食べているのは、あんな細い体に入るはずがない量です。
 でもテレビの大食い大会にも、入るはずのない量を食べる人が沢山出てくるし……。
 でも、やっぱりあの足腰の細さは……。

 心の病に苦しむ人がここにもいるのか、と思いました。

 僕は自分では食べ放題を満喫しつつ、時々思うことがあります。
 日本や先進国ではこれだけ物が溢れていて、大量の食べ残しが捨てられるのに、世界には飢えている人たちが数えきれないほどいる。
 この食料を一部でも飢餓地域へ送る流通システムはできないものなのかと。

 しかし、社会が平和で物が満ち足りた社会では、心を病む人が出てくる。
 愛に飢えた人が増えてくる……。
 人間は複雑で矛盾した存在です。


健啖家? 過食嘔吐?(1)

2005年12月22日 21時31分15秒 | Weblog
 ランチバイキングが趣味のσ (^^;)です。
 先日とあるレストランのランチバイキングに行ったときのこと。

 隣のテーブルで一人の若い女性がバイキングを堪能していました。
 帽子をかぶって綺麗な人でしたが、その食べっぷりが実に見事なのです。
 皿一杯に1種類ずつの料理を盛ってきて、もりもりと口に運んでいきます。
 ひとつの皿を平らげてから次の皿に取りかかります。
 その早いこと、早いこと。
 羨ましいくらいです。

 昔、一関圭(いちのせきけい)という東京芸大出身のマンガ家が描いた、「美食三昧」というタイトルだったかの劇画を思い出していました。
 華奢で美しい花魁(おいらん)の話ですが、その食欲が尋常でないのです。
 朝から何十人前とも思えるような食事をぺろりと平らげ、食べるためなら何でもするというような話でした。

 隣のテーブルの女性は次の料理を取りに席を立ちました。
 分厚い上着を着ていたので上半身は分かりませんでしたが、その足腰はびっくりするくらい か細いのです。

 一瞬、過食嘔吐をする人なのかと思ってしまいました。
 でも、そういう人は食べることを罪のように感じるので、人前でこんな開放的に食べることはないんじゃないかと考えました。

(続く)


清水喜美子さんが「BPD★BBS」を

2005年12月21日 20時27分37秒 | ボーダーに関して

 書庫「心子、もろもろ」の記事「頑張る心子(2)」(12月19日)に、脚本家・清水さんがコメントを付けてくださいましたが、清水さんはBPDのBBSを開設されました。
 下記がそのURLです。
http://otd10.jbbs.livedoor.jp/see_saw_bpd/bbs_tree

 清水さんのブログにもその記事が載っています。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_7ff7.html

 皆さん、気軽に書き込んでくださるようにと言われています。
 どうぞ清水さんのBBSもよろしくお願いいたします。
 色々なつながりが広がっていくといいですね。


心子と教会

2005年12月20日 19時55分12秒 | 心子、もろもろ

 脚本家・清水んは、自殺を自ら封印するためにクリスチャンになったとのことです。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html

 心子もクリスチャンでした。
 人の世に傷つき、純粋な信仰の世界に入りました。
 限りのある人間の愛情に絶望し、限りがない神の愛を希求して。
 また、女性の牧師先生に対して、母親代わりの愛情を求めたのでしょう。

 でも、心子は自分の死を止めることができませんでした。
 キリスト教で自殺は罪ですが、心子は遺書に、教会で葬儀を挙げてほしいとしたためてありました。
 遺族の意向で葬祭は仏式になりましたが、僕は心子の希望に沿うよう、教会での葬礼を牧師先生にお願いしました。
 牧師先生夫妻は罪のことには一言も触れず、願いをかなえてくださいました。

 今でも牧師先生は心子の良き理解者です。
 やはり心子は「キョウカイ」に縁が深いのですね。
(って、今日はダジャレ落ちです(^^;)。)


頑張る心子(2)

2005年12月19日 20時42分31秒 | 「境界に生きた心子」

 そして心子は、そんな自分を抱き締めることができませんでした。

 心身打ちひしがれて息も絶え絶えのときでも、心子は這うようにバイトに行こうとしました。
 自分自身がコンディションを崩していても、知人から悩みの相談があるとカウンセリングの約束をしてしまいます。
 我が身の苦境より相手の急場を放っておけないのです。
 自分自身が誰より苦しみを知っているからです。

 不調なときは休養してくれと、僕は再三心子に伝えました。
「激しい運動をすると筋肉はボロボロになるでしょ。
 でも充分休息を取ることで、筋肉は『超回復』といって元よりも強くなるんだよ」
「心もそれと同じだって……?」
「休むことも『仕事』なんだよ」
「休むことも仕事……休むことも仕事……」
 心子は何遍もつぶやきながら、その文言を聖書の裏表紙に書き込みました。

「マー君が教えてくれた」
 そうして心子はようやく休むことを覚えていったものでした。


頑張る心子(1)

2005年12月18日 19時15分45秒 | 心子、もろもろ

 脚本家の清水さんは、自分自身に対して、
「今まで、よく頑張って生きてきたね」
 と声をかけることができたとき、自分の存在を認められたそうです。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html

 心子は物事に向かうとき、常に頑張りすぎるほど頑張ってきました。
 「もっと頑張ればよかった」という後悔をしたことがないと言います。

 心子は「休む」ということができませんでした。
 まるで休むのが罪悪であるかのように。

 心子の父親は幼い心子に常に完璧を課し、テストで99点を取ってくると目の前で答案用紙を破り捨てたといいます。
 それは0点と同じなのです。
 父親を異性として愛していた心子は、父親に認められ愛されるために、子供の頃から馬車馬のように頑張ってきたのかもしれません。

 あるいはそれは、頑張っても頑張っても果てしがない、ブラックホールのような心の空洞を埋めようと、血道を上げて打ち込んでしまう行動なのではないでしょうか。


行き戻りする心子

2005年12月17日 21時12分50秒 | ボーダーに関して

 脚本家・清水さんは元のご主人と、このままでは二人とも不幸になると思われて、ご自分から家を出たそうです。
http://see-saw.way-nifty.com/diary/2005/12/post_e221.html

 心子もトラブルがあると、自分が見捨てられるのではないかという恐れを無意識に感じ、自分が傷つく前に彼女のほうから僕を見捨てて去っていきました。
 でも、時間が経つと、いずれ必ず帰ってきたのです。
 そして何事もなかったように、再びまた楽しいときを過ごします。
 それを常に繰り返したのでした。

 帰ってくるまで時間は数日間であったり、ときによってまちまちでした。
 最長で一ヶ月以上、最短で数秒でした。

傷ついて、姿を消し、苦しんで、戻ってくる。
 そして甘え、求め、また傷ついては去っていく。
 今度こそはこれで終わりかと僕も観念します。
 しかし心子は、ついにはまた戻ってくるのでした。
 心子は狂おしいほどに身もだえしながら、天国と地獄の往き来を繰り返さざるを得ませんでした。

 でも今は本当の天国で、静かに、静かに、身も心も休めているでしょう。