「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

東日本大震災、 1年

2012年03月11日 20時35分24秒 | 東日本大震災
 
 今も日本を揺るがし続けている 3・11から、 ちょうど1年目の日です。

 国立劇場で行われた追悼式の TV中継を観ながら、

 2時46分には 僕も1分間の黙祷を捧げました。

 僕が生きてきた中で、 日本で起きたでき事のうち 最大のものです。

 新聞でも地震発生の日以来、 震災関係の記事が 途絶えたことはありません。

 正にあの日を境に 日本は変化し、

 あらゆる想定外を想定内とする 防災, 減災対策へ 舵を切ってきました。

 今回の天災で、 津波の恐ろしさを 誰もが思い知らされました。

 1万6千人近くの被害者の、 9割が津波によるものです。

(しかも高齢者が 大半を占めています。)

 初動の  「3mの津波」 という警報により、

 人々が安心して 逃げなかったということも 被害を拡大させ、

 今後の警報のあり方を 変えさせました。

 今も進まぬ復興を 遮っているもののひとつに、 ガレキがあります。

 100年分とも言われる廃棄物の 処理が済んだのは、 まだわずか6%です。

 放射能汚染が輪をかけていますが、

 全国の自治体が 分担して受け入れなければ 解決の道はありません。

 原発問題も ずっと尾を引いています。

 国策として 強引に推進されてきた原発は、

 計画当時から 巨大津波の可能性を訴えていた 学者たちの忠告を、

 全て闇に葬ってきたのでした。

 これは間違いなく人災です。

 将来の電力源について、 孫正義氏は

 「アジアスーパーグリッド」 という、 壮大な構想を述べていました。

 ゴビ砂漠に 風力, 太陽光発電の施設を建設し、 日本に送電するというものです。

 原発2000基分の電力を、 遥かに安価な費用で まかなえるといいます。

 また、 これからの心のケアや、 孤独死の予防も重大です。

 阪神大震災では、 2年目以降に 仮設住宅での孤独死が急増したそうです。

 今回はそれを教訓として、 被災者の孤立化を防ぐため、

 サポートセンターが多数設立され、

 被災者の見守りや 相談業務などが行なわれているそうです。

 とても書き切れない問題を 無数に抱えた今回の災禍。

 全員が忘れることなく 胸に刻み、

 様々な課題を 考え続けていかなければなりません。

 被災地の 真の復興を祈りつつ、 自分にできることを やっていきたいものです。

 幸か不幸か人間は、 危難を経験してから、 成長するものです。
 

「津波が来る」 と 走った高校生

2011年09月20日 22時38分20秒 | 東日本大震災
 
 3月11日の陸前高田市、 激しい揺れに襲われた瞬間、 高校3年生のS君は、

 幼いころから繰り返し聞かされてきた 言い伝えを思い出しました。

 「大きく揺れたら、 高台さ上がれ」

 友人と高台に走りましたが、 逃げてきた人の姿はまばらです。

 S君は 制服の上着を脱いで 友人に渡し、

 危険を知らせるため 坂を駆け下りました。

 人を見つけては 避難を呼びかけましたが、 耳を貸さない人もいます。

 寒い季節なのに ワイシャツ姿のS君が 美容室に飛び込んできて、

 Kさんはびっくりしました。

 「津波が来ます!  逃げて!  お願いします!」

 S君は言い残すと 走り去りました。

 Kさんは半信半疑ながら 客らと高台に上りました。

 その直後、 津波が街を襲ったのです。

 美容室を後にしたS君は、 その後も街を走り回り、

 「高台へ!」 と 声をかけ続けていました。

 息が切れて立ち止まったとき、 堤防の上に 津波のしぶきが見えました。

 S君は 道路脇の建物の飛び込み、 3階まで駆け上がると、 そこには12人の人が。

 屋根裏部屋に上がろうとし、 階段を一人ずつ上がる途中で、

 濁流が一気に入り込み、 S君の下にいた6人が 呑み込まれたのです。

 寒さと恐怖に 振るえる一夜を過ごし、 翌日ヘリコプターで救出されました。

 「自分は助かった。 でも……」

 そんなS君に 前を向く勇気を与えてくれたのは、

 彼の呼びかけで避難した人たちとの 再会でした。

 避難所で、 Kさんが駆け寄ってきて 泣き崩れました。

 「あなたのお陰で、 私も 周りの人も助かったよ」

 現在、 S君は高校で 操船の勉強を続けています。

 「将来は 漁師の父親の後を継ぎたい。

 海に生きて、 この津波を語り継いでいく。

 それが、 生き残った者の 責任だと思う」

〔 読売新聞より 〕
 

大震災で 「共感疲労」

2011年07月30日 20時39分14秒 | 東日本大震災
 
 東日本大震災では、 新聞やテレビで 深刻な被害を見て、

 眠りが浅くなったり、 涙もろくなったりする人が 多く見られました。

 4ヶ月経った今でも、 ニュースなどをきっかけに、

 つらい気持ちがよみがえる というという人もいます。

 被災者への同情がストレスになり、 自分の心を傷つけてしまう、

 「共感疲労」 と言われるものです。

 被災を我が身のことのように 考えすぎてしまい、

 仕事に支障が出るほど 心的ストレスが高まった状態になります。

 時間の経過とともに 自然に癒えていくので、 治療が必要なわけではありません。

 自分の心の揺れが、  「共感疲労」 だと分かるだけで 落ち着く面があります。

 本来、 他人への共感は 大切な能力です。

 一般に、 医療・福祉職の人が、

 患者や利用者に 過度に共感して、 この状態に 陥ることがあります。

 それを避けるため、 医療・福祉職では新人時代に、

 感情を抑制する 訓練を受けるといいます。

 被災地で 医療救護活動を行なった 医療従事者に、

 臨床心理士が面談を行なっています。

 慢性化して PTSDに進行するのを 防ぐのが狙いですが、

 現時点で 治療が必要な人は ほとんどいません。

 ストレスに対しては、 休息が第一です。

 不眠などがある場合は、 抗うつ剤を使うこともあります。

 心と体を 充分に休めることが 大切なのです。

〔 読売新聞より 〕
 

お年寄り、 避難ストレス死

2011年07月29日 19時29分20秒 | 東日本大震災
 
 福島原発事故のため、 移動を余儀なくされた 特養の入所者が、

 環境の激変に耐えられず、 3ヶ月で 826人のうち77人が、

 次々と命を落としていきました。

 施設関係者は 無念の思いを募らせています。

 「要介護度の高い お年寄りが多く、 移動は危険。 私たちは町に残る」

 原発から10キロ圏内にある 特養では、 事故発生の3月11日、

 県の避難要請を 拒み続けました。

 翌12日、 国の避難指示による バス3台で、

 入所者70人を 移動させることになりました。

 約1時間後、 隣町に着き、 車内で1時間ほど待たされた後、 村内の集会場へ。

 畳に 座布団と毛布を敷きつめて 寝ましたが、

 寝返りを打つと 隣の人とぶつかる狭さです。

 体調の悪い 95才の女性のために、 物置部屋を個室にし、

 看護婦が交替で看病しましたが、

 女性は衰弱し、 14日昼過ぎに 息を引き取りました。

 翌日深夜には、 98才の女性も亡くなりました。

 施設長は、

 「移動方法や避難先を もっと配慮してくれていたら。

 悔やんでも悔やみきれない」 と 無念さをにじませました。

 南相馬市の3つの特養では、 計229人が 3月19日に避難し始めました。

 バスで横浜の施設まで 12時間近くかけて移動する途中、

 80代の男性が心肺停止状態に。

 AEDで命を取り留めたものの、 搬送先の病院で 翌日他界しました。

 3施設の入所者は、 その後も 2次, 3次避難しましたが、

 計23人が死亡しています。

 その他の施設でも、 食事介助が必要な人が、 避難先で 食事を口から取れなくなり、

 亡くなってしまいました。

 少しでも環境が変わると、 高齢者にはストレスになるのです。

 職員も被災して 充分な対応ができないケースもあり、

 一番弱い人に しわ寄せがきています。

〔 読売新聞より 〕
 

被災自治体で残業代減額

2011年07月28日 20時52分34秒 | 東日本大震災
                    
 被災地の自治体で、 復旧の最前線で働く 職員の残業代の、

 減額や支給見合せが相次いでいる、 という新聞記事がありました。

 被災住民への配慮からですが、 組合からの反発もあります。

・南三陸町

 「全額払いたいが、 予算の中で払わざるを得ない。

 職員は 手当のために残業しているのではなく、 使命感で働いている」

・名取市

 手当が1億6000万円に上り、 半減して支給。

 労働基準法に触れると、 県から指摘を受け、 一転して全額支払いました。

 市民から  「なぜ公務員だけ 沢山もらうんだ」 と 批判が相次いだといいます。

・釜石市

 3月の超勤手当は 昨年同月の25倍になり、

 1日の上限が4200円の  「宿日直手当」 に置き換えて支給しました。

 額は10分の1になり、 組合は 「家族も捜さずに 働いた職員もいる」 と反発。

 労使が交渉をしています。

・女川市

 一般職員の手当を 支給しませんでした。

 残業時間が計算できず、 町民のほとんどが被災しているのを 考えてのことです。

・石巻市

 手当単価を 1時間あたり1900円にして支給。

 支給総額は半額以下になりました。

・大船渡市

 手当が1億円を超え、 組合と協議して、 額に応じた休日を 与えることにしました。

 「過酷な勤務で 休暇が必要」  「手当を全てもらうことはできない」 と、

 職員側も了承しています。

・南相馬市

 これまで手当は未支給。

 原発事故での勤務は、 東電や国への請求を検討しています。

 未曾有の震災で、手当のあり方の 見直しが必要です。

〔 読売新聞より 〕
 

原発はコストが高い

2011年07月12日 22時02分05秒 | 東日本大震災
 
 原発は他の発電より 最もコストが低いという 触込みで、

 国策として推進されてきました。

 しかし 国の試算には 含まれていない費用が、 実は相当あるというのです。

 巨大な研究開発費と、 立地された自治体への 莫大な交付金を合わせると、

 年間4000億円余りになるといいます。

 それを含めて、 1970年~2007年の コストを計算しなおすと、

 驚く結果が出ました。

   1キロワット/時間当たりの発電コスト

水力   8~13円 → 7.3円

火力   7~8円  → 9.9円

原子力  5~6円  → 10.7円

 その上、 核燃料サイクルのための費用も 含まれていませんでした。

 全ての使用済み核燃料を 再処理するのに必要な額は、

 40年間で19兆円と 見込まれていましたが、

 実際に再処理できるのは 全体の半分だけで、

 残りの費用は 先送りされたままです。

 先送りした分を含めて 再計算すると、 発電コストは 少なくとも11.6円、

 処理費が膨らめば 13.7円に可能性もあります。

 その他にも、 追加負担される項目は まだあるそうです。

 それは 国民の負担になってきます。

 そして、 今回の被害の賠償費用は 10兆円とも言われます。

 それを組み込むと、 さらに4円近く上昇し、 17.2円にまで膨らみます。

 加えて、 汚染水など事故処理にも 兆単位の費用がかかるでしょう。

 今はまだ高いといわれる 自然エネルギーより、 安いとは言えません。

 (風力 10~14円, 地熱 8~22円, 太陽光 49円)

 のみならず、 原発被害は計り知れない 不安と恐怖をもたらし、

 多くの国民の 生活も奪いました。

 これらは 金銭には置き換えられないのです。

〔 テレビ朝日 「報道ステーション」 より 〕
 

夜は 電気を使ったほうがいい

2011年07月11日 20時29分31秒 | 東日本大震災
 
 東日本大震災後、 節電が叫ばれ始めたころから、

 僕は疑問に 思っていたことがあります。

 節電は昼のピーク時に 必要なのであって、

 夜は余裕があるのだから、 節電の必要はないのではないか? 

 でも街ではこぞって ネオンや街灯を消したり、 ナイターがセーブされたりしました。

 暗い道路を 自転車で走行するときには、 危険を感じる場所もありました。

 夏を迎えた今になって、 メディアでもこのことを 取り上げるようになりました。

 資源エネルギー庁のホームページには、 次のように掲載されています。

 「夏 (7~9月) の平日 9時~20時における消費電力を、

 15%減らすことを目指して、 節電に取り組んでいただきますよう」

 節電の時間を限っており、 夜間は 節電しなくていいということなのです。

 夜の電灯を消すことは、 色々な弊害をもたらします。

 商店では 客の入りが悪くなり、 売り上げが落ちているといいます。

 暗がりではひったくりが増え、

 夜エアコンを消して 窓を開けている家が 盗みに入られています。

 電力中央研究所の主任も、

 「夜間は 経済活動や生活に 必要な電気は きっちり使うべき」 と述べています。

 また、 熊谷では 熱中症の死亡者の半分は 夜間だそうです。

 夜の電力使用も減ると、 東電の収入は逼迫し、

 被災地への補償が ますます遠のいてしまうのではないでしょうか。

 むしろ夜は 余計に電力を使ったほうが、

 被災者の救済に つながるのではないかと思いますが、 いかがでしょう。

〔 参考 : フジテレビ 「とくダネ!」 〕
 

お役目を終えた赤プリ

2011年07月01日 23時32分28秒 | 東日本大震災
 
 「赤プリ」 の愛称で親しまれた  「グランドプリンスホテル赤坂」 は、

 老朽化などのため 3月一杯で閉館したあと、

 東日本大震災の被災者を 受け入れていました。

 7月から解体作業の計画が 決まっていたため、

 6月30日で 避難所としてのお役目を終了しました。

 実は今年の2月、 僕は友だちと

 赤プリのランチバイキングを 食べに行っていました。

 最初は 3月で営業終了ということを 知らなかったのですが、

 ネットでニュースを見て びっくりした次第です。

 そのため予約も かなり取りにくかったのですが、

 幸い赤プリで 最後のランチを楽しむことができました。

 その1ヶ月後に 東日本を襲った大震災、

 そして 赤プリが都と共同で 被災者を宿泊させてきました。

 都心の一等地で 豪華ホテルに無料で泊まれるのに、

 当初は 被災者から敬遠されていました。

 期限が6月までと限られているので、

 その後の避難先や 子供の転校を心配したためです。

 でも6月末の時点で 579人が生活し、 31人の児童生徒の家族も

 近くの避難所に 移ることが決まり、 転校しないですむことになりました。

 6月30日には、 352人が “チェックアウト” しました。

 最後は 被災者の子供たちが 従業員に寄せ書きを手渡し、

 涙をこぼすスタッフもいました。

 この3ヶ月間、 スタッフは

 赤プリが 被災者の 「家」 となるよう、 心を砕いたといいます。

 子供は全員、 名前を覚えて呼びかけました。

 ボランティアらも学習室を設置して、

 児童生徒に勉強を教えたり、 進路相談に乗ったこともあるそうです。

 被災者も、  「赤プリの人たちは、 優しくて洗練されていた」 と振り返り、

 お世話になったホテルを 後にしたのでした。

 これで赤プリが なくなってしまうのかと思うと、 感慨深いものがあります。

〔 参考資料: 読売新聞他 〕
 

救助が任務のはずなのに

2011年06月30日 22時16分45秒 | 東日本大震災
 
 津波の被災地では、 自衛隊や警察などが 直後から人命救助に取り組みましたが、

 懸命に探しても 見つかるのは遺体ばかりという、 かつてない経験でした。

 「生きている人もいるはずだ」

 自ら鼓舞しても、 人命救助の任務は、 無数の遺体の収容に 変わっていました。

 抱き合ったままの 母子の遺体を見て、 自分の家族の姿に重なり、

 辛い思いを抑えられなくなった 隊員も少なくありません。

 「遺体の夢ばかり見る。 自分を見失いそう」

 「食事がのどを通らない」

 隊員からの 悩みの訴えが急増しました。

 「早く救助できていたら」

 「自分は無力だ」

 と 自責の念にとらわれる人もいます。

 そんな隊員に、 安置所に来た僧侶は、

 「あなたのお陰で ご家族は遺体を拝むことができる。

 大切な仕事をしてくれて ありがとう」

 と声をかけました。

 僧侶の読経の声で、 張りつめた空気が緩み、 心が落ち着いたといいます。

 読経は、 亡き人を通して 感謝の心を教わる 時間だということです。

 「個人の頑張りで 何とかなるものではなかった」

 「あなただけが弱いのではない」

 と伝えることが大切です。

 この大きな喪失は、 一人で受け止めきれるものではありません。

 残された者が、 手を取り合って 受け止めていくしかないでしょう。

〔 読売新聞より 〕
 

被災地の介護タクシー

2011年06月28日 22時20分51秒 | 東日本大震災
 
 被災地で介護タクシーが、 通院や買い物の足として、

 お年寄りたちの生活を支えています。

 介護タクシーは ヘルパー資格を持つ乗務員が、

 車の乗り降りや 移動の介助サービスを提供するものです。

 タクシー会社自体も被災し、 一時は 避難していた所もありますが、

 お年寄りのために戻ってきたといいます。

 利用者宅を訪れると、 ずっと動けず ひどい床ずれを 起こしている人もいました。

 燃料不足のなか、 病院への送迎だけでなく、

 避難所への移動、 買い物の手伝いに走り回ります。

 緊急車両の指定を受けて、 各地で奮闘しました。

 乗務員は、 「市外から戻るお年寄りの 嬉しそうな顔を見ると……

 少しは役に立ったのかな」 と 話します。

 タクシー会社は 介護保険が使える会社と、 全額自費の会社に分かれます。

 前者は、 利用は要介護の人で、

 通院介助の乗務員の付き添いは 病院の受け付けまでなど、

 サービスに制限があります。

 後者は、 要介護認定されていなくても、 介助が必要なら利用でき、

 冠婚葬祭の送迎など 目的も自由ですが、

 費用は保険利用の 約5倍以上かかる場合もあります。

 会社に問い合わせ、 うまく利用することが大切です。

〔 読売新聞より 〕
 

がれき処理の試み

2011年06月27日 20時51分14秒 | 東日本大震災
 
 膨大ながれきの処理に 幾つかの対応が行なわれています。

 石巻市では、 5人の作業員が 手作業でがれきを分別してから、

 トラックで仮置き場に搬送しています。

 場所が限られている仮置き場では、

 コンクリート, 鉄, 畳, 自転車などが、 分けて積み上げられているため、

 最初から現場で仕分けすることによって、 効率化を図るのだそうです。

 しかし やはり大変な時間がかかります。

 その時間とコストを 省く試みが、 愛知県のある工場でなされています。

 生ゴミ, 木材, 紙くず, プラスチックなどが混在したゴミを、

 特殊な機械に入れ、 高温高圧の水蒸気で 熱処理をします。

 すると 有機物は溶解され、 熱湯の中で分散、 全ての成分が混合して、

 石炭並みの燃料が できるというのです。

 塩分や雑菌も、 高温で処理されるため 問題ないということです。

 今は実験段階ですが、 実証レベルで被災地に据えつけ、

 がれきの処分に携わりたいと、 開発業者は述べています。

 ただ 自ら被災している自治体では、 処理業者の情報がなく、

 業者から申入れがあっても それが適正かどうか 審査することもできず、

 対応が難しいのだといいます。

 国主導のがれき処理の必要性が 高まっています。

 秋田県能代市では、 がれき受け入れを検討しはじめています。

 能代市は、 「リサイクルポート」 という、

 がれきの受け入れをしやすい 港を持つ、 日本有数のリサイクル都市です。

 今まで 資源化できなかったものも資源化でき、

 レアメタルを抽出することもできます。

 津波で塩分を被ったプラスチックは リサイクルが困難ですが、

 秋田では 粉砕, 洗浄することで 新たな製品を作り、 被災地へ戻しています。

 被災地が必要とする 業者や自治体の調整に、 今こそ国が介入するときです。

〔 フジテレビ 「新報道2001」 より 〕
 

被災障害者の安否調査に、 個人情報保護の壁

2011年06月26日 19時19分16秒 | 東日本大震災
 
 被災した障害者の 孤立が懸念されるなか、

 個人情報保護法が 障害者支援の足かせになっています。

 障害者団体が、 被災した障害者の安否確認のために 個人情報の開示を求めても、

 自治体によって対応が 大きく異なっています。

 宮城, 岩手, 福島の3県と 33市町村のうち、

 情報開示に応じたのは 1県1市のみでした。

 南相馬市は 職員不足のため、 「日本障害フォーラム」 の 要請を受け、

 障害者1000人分のリストを渡し、 訪問調査を依頼しました。

 情報を他に利用しない 確約書を交わしました。

 個人情報保護条例は

 「個人の生命、 身体などの 安全を守るため 緊急かつ止むを得ない場合」 に、

 本人の同意なしに 情報を提供することを認めています。

 一方 福島県は、 開示は市町村の判断に任せる という姿勢です。

 宮城県は、 個人情報保護優先のため 開示はしないとの立場。

 日本障害フォーラムが 宮城県で、 震災後2ヶ月で 安否確認できた障害者は、

 全体の1.7%でした。

 同フォーラムが 実地調査をしたところ、

 リストでは  「軽度障害」 となっていても、

 実際は 深刻な困難を抱えている ケースもあります。

 リストに載っている 男児だけでなく、 高齢の祖母は 足が悪くて歩けず、

 姉も持病があって 働けず、 母親が一人で 支えている家もありました。

 支援には 早期の調査が必要です。

 役所も被災したので、 障害者支援には

 外部の強力を 得る必要があるとの 認識が広まっています。

 ただ、 遠方のなじみのない団体が 支援を申し出る場合もあり、

 「どういう団体か知らずに 個人情報は出せない」 という 事情もあります。

 災害時の協力体制を、 平時から作っておくことが 今後の課題です。
 

原発シニア隊 (3) -- 年寄りは放射線に強い? 

2011年06月26日 17時09分02秒 | 東日本大震災
 
(前の記事からの続き)

 「原発シニア隊」 の正式名は  「福島原発 暴発阻止行動プロジェクト」で、

 下記のページから登録できるようです。

http://bouhatsusoshi.jp/
 

 ところで、 テレビや新聞では 特に疑問とされていませんでしたが、

 高齢者は本当に 被曝に有利なのでしょうか? 

 いま被曝しても 今後 生きていく時間が短いから、

 大勢に影響ないという 考えなのだと思いますが、

 本当にそうなのだろうか という気がします。

 人間は放射線を受けて 遺伝子が損傷されても、

 修復力があるので ある程度被曝しても大丈夫です。

 でも高齢者は、 その修復力が 衰えているのではないでしょうか? 

 また、 加齢によって 自然に遺伝子が傷んでいます。

 高齢になると がんが増えるのはそのためです。

 そこにさらに 放射線を受けたら、

 遺伝子のダメージは より大きくならないのでしょうか?

 ただでさえ がんになりやすいのに、 それを促進して、

 がんで亡くなるのを 早めてしまうのではないかという気がします。

 それとも、 遺伝子が壊れてから がん細胞になるまでには、

 何年, 何十年とかかるので、 やはり大勢に影響がないのでしょうか。

 でも 原発シニア隊の参加資格の 60才で被曝したとして、

 その後 30年, 40年と 生きていくこともあります。

 或いは、 規制レベルの放射線では、

 がん化に繋がる程度の 遺伝子損傷も起きないのか……? 

 もし 危険の可能性があるとしたら、 科学的に正しく検証してから、

 作業を進めてほしいものだと思います。

 正確なところは分かりませんが、 どなたか 分かる方はいらっしゃいますか? 
 

原発シニア隊 (2)

2011年06月26日 17時08分28秒 | 東日本大震災
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/61928282.html からの続き)

 「原発シニア隊」 は、 海外メディアからも 注目を受け始めています。

 ただ、 日本のシニアボランティア 「福島決死隊」、

 日本の退職者の 「チーム決死隊」 などと、

 神風特攻隊になぞらえた 報道も多くありました。

 しかしYさんは、

 「我々は無謀なことはしない。 成算のあることしかしない。

 最大限に安全に 帰ってくるのが課題」 だと、 特攻隊との違いを強調します。

 けれども 原発の現場では毎日、

 脱水症状や酸欠などで 体調を崩す人が 後を絶たないそうです。

 さらに 8人の作業員が、

 上限の250ミリシーベルトを越す 被曝をしていることが明らかになり、

 今後も 増えていくだろうと思われます。

 内部被曝に関しては、 一切検査を受けておらず、

 説明も受けていないという状態です。

 人手不足も深刻です。

 技術のある人たちが 線量の上限まで被曝して、 仕事ができなくなったら、

 今後何年も 人材を準備することはできません。

 そこに、 原発シニア隊を 活用することはできるでしょうか。

 現職を離れていた人が 現場に復帰するのは 安全上も問題があり、

 高齢なので 放射線より暑さと湿気で 体力を消耗するということです。

 そんな過酷な環境で、 シニア隊は どんな役割を果たせるのか、

 激論が続いています。

 志願者は 1秒も早く現場に行って、 若い人に代わりたいと 熱望しています。

 でも、 ただ行って 無駄死にするのではなく、

 本当に準備を整えて 事故を収束させるには、

 皆で協力して、 国を動かしていかなければならず、

 時間がかかるのは仕方ないと 訴える人もいます。

 東電は、 医師や休憩所を増やし、

 作業環境を改善することを 工程表に盛り込みました。

 「原発シニア隊」 として、 今月中にも 5人程度の先遣隊を 受け入れる方向で、

 調整が続いています。

 ただ 志願者の半数は、 特別な技術や 経験のない人たちです。

 そこで 現地へ行って何をするのか、 これから考えていく状況だといいます。

〔 テレビ朝日 「Sフロントライン」 より 〕

(次の記事に続く)
 

被災時に なぜ逃げおくれるのか

2011年06月25日 20時58分08秒 | 東日本大震災
 
 東日本大震災では、 津波警報が鳴っても すぐ逃げなかった人が 少なくありません。

 なぜ逃げおくれるのか、 災害心理学で考えられていることがあります。

 人間は安心して生きるために、 心の中に  「あそび」 の部分があります。

 ある範囲までの異常は 異常と感じず、 正常範囲内と 受け止めてしまうのです。

 この 「あそび」 を、

 「正常性バイアス」、 または 「正常化の偏見」 と呼びます。

 小さな物音に いつも驚いていては 神経が持たず、

 心を守るために 必要な反応です。

(思うに BPDの人は、 この 「あそび」 が 非常に小さいのではないでしょうか。

 僅かなことに反応してしまい、 心を守ることができない、

 安心して生きられないのだろうと 思います。)

 しかし この 「正常性バイアス」 は、

 非常時に危機感を 鈍らせてしまう働きもあります。

 ある実験で、 部屋に 80人の被験者に入ってもらい、

 いきなり白煙を吹き込んでも、 煙の速度がゆっくりだと、

 7割の人が 煙が充満しても 逃げませんでした。

 また、 非常ベル, 消防車のサイレン, 煙の進入を、 順番に発生させた実験では、

 一緒にいる人が無反応だと、 逃げない人が多かったのです。

 「地震が起こったら、 君が 最初に逃げる人になれ」

 首都圏防災研究センター長は、 岩手県釜石市の小中学生に そう訴え続けました。

 そして起こった大地震。

 子供たちは 教師の指示を待たずに、 高台へ一斉に駆けだしました。

 避難場所は危険と判断して、 さらに高台に上がって 助かった子供もいました。

 釜石市の小中学生の生存率は、実に99.8%でした。

 正常性バイアスに加えて、

「自分だけが飛び出して 何もなかったら恥をかく」 という心理が 避難を遅らせます。

 非常時には 自分の生存を第一に考え、

 ためらわず行動する 自主性が何よりも大切です。

 その素早い行動が、 周囲も救います。

 また、 行き先で 避難ルートの確認を 習慣づけることも大切です。

 建物内では 非常口を必ず確認し、 海では 高台の位置や距離に 留意しておきます。

 そうするだけで、 いざという時の 心身の反応が 抜群に早くなるのです。

〔 読売新聞より 〕