「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

犯罪者を育てる社会

2006年03月31日 19時31分08秒 | 死刑制度と癒し
 
 もしオウム事件の松本智津夫の死刑が決定したとしたら、当然と思う遺族もいる一方、

 真実が分からないまま葬られることに、割り切れない思いを抱く遺族の人もいます。

 例え大量虐殺者やテロリストと言えども、犯罪者一人を処刑して解決することは何でしょう? 

 失われた数多くの命に対して、一個の命であがなうことができるでしょうか。

 歴史的な犯罪者を抹消するのではなく、その精神構造を研究することのほうが、将来の犯罪予防のためにも重要なことではないでしょうか。
 

 凶悪犯の幼少期は、貧困や劣悪な人間関係のなかで育ったり、色々な虐待、親の愛情のゆがみを受けてきたケースが多いものです。

 その結果、愛情というものを信じられなかったり、自分や人間の存在を肯定できなくなり、

 社会に絶望し怨みを抱いて、他人への共感や反省の感情を持ちにくくなってしまうことがあります。

 そういう人間性の根幹的な問題に対して、刑を重罰化しようとするのは場当たり的な対応に過ぎませんし、

 世代に渡った根深い問題を解決することには決してなりません。

(続く)
 

死刑制度のマイナス面

2006年03月30日 13時42分41秒 | 死刑制度と癒し
 
 死刑存置論者の根拠のひとつに、死刑制度による犯罪の抑止効果があります。

 しかし、死刑制度があるために凶悪犯罪が減るというのは、統計学的に証明できたことがありません。

 逆に、犯人が死刑を恐れ、事件の発覚を免れるために、被害者の殺害に至ってしまうこともあるといいます。

 殺人犯は、実際には恐怖に駆られて殺人を犯してしまったという、臆病な人間も多いそうです。
 

 また、冤罪による死刑は、他の刑と違って全く取り返しがつきません。

 日本の量刑では、極刑である死刑の次は無期懲役です。

 しかし無期懲役は15年もすれば仮釈放になり、死刑との間があまりにも離れすぎています。

 誤審の恐れを逃れるためにも、仮釈放のない絶対的終身刑の設置が求められます。
 

 そもそも人を殺してはならないという社会で、“正義”として人を殺すという根本的な矛盾があります。

 死刑囚の家族の悲しみや、自らの手で人の命を絶たなければならない、死刑執行人の苦悩もあります。

 死刑制度は新たな悲劇を生んでいきます。

(続く)
 

殺人被害者遺族の癒し

2006年03月29日 11時30分24秒 | 死刑制度と癒し
 
アメリカでは「ジャーニー・オブ・ホープ」という試みがなされています。

 被害者遺族たちと加害者家族たちが団体で旅行をし(直接の被害者と加害者は含まれません)、互いの苦しみを理解しあうというものです。

 また「メディエーション」(仲裁,和解)という制度もあります。

 双方が希望すれば、コーディネーターが中にはいって、被害者や被害者遺族が加害者と対面する制度です。

 加害者は被害者の痛みを目の当たりにすることによって、罪の重さを知らされることになります。

 被害者団体の全国組織もいくつかあり、充実した活動をしています。
 

加害者が死刑になっても、被害者遺族の傷は消えません。

 人間の心の傷は、人の心によってしか癒されることは決してないのです。

 本当に必要なのは加害者の処刑ではなく、遺族の傷をケアすることでしょう。

 日本でも、がんで家族を亡くした遺族をはじめ、喪失体験をした人々の「分かち合い」(ピア・カウンセリング)が各地で開かれています。

 しかし殺人事件の遺族の「分かち合い」はあまり聞きません。

 同じ体験者同士の自助グループでのサポートシステムや、カウンセリングなどの心理療法を早急に整えることが望まれます。

(続く)
 

殺人被害者遺族の感情

2006年03月28日 19時16分04秒 | 死刑制度と癒し
 
死刑には、「被害者感情に報いる」という錦の御旗があります。

 けれども、「被害者感情」という言葉が一人歩きしてはいないでしょうか。

 被害者感情と言っても、怒りや悲しみなど決して一様なものではありません。

 確かに、被害者遺族は加害者の死刑を望むことも多いでしょう。

 しかし、事件や犯人のことにはもう触れたくないという被害者も少なくなく、

 長い間殺意を抱きつづける人はむしろ少ないとも言われます。

 一生犯人を憎んで生きる苦しさから免れるために、やがて死刑反対の活動を始める遺族も例外ではありません。

犯人を殺せと声を高めるのは、むしろ第三者の観客です。

 当の被害者遺族が加害者を許そうとしても、世間の“被害者感情”がそれを許さないというのは奇妙な現象です。

 殺人事件の取材で、「犯人を殺してやりたい」という遺族の言葉だけをもらってくるマスコミにも責任はあるでしょう。

(続く)
 

H氏にとっての死刑制度

2006年03月27日 19時19分31秒 | 死刑制度と癒し
 
 加害者が犯した行為は死刑に値する罪だと、本人に認識させるのは大切です。

 でも死刑判決と死刑執行とは全く別物だとH氏は言います。

 死刑制度は国家による殺人だと。

 第三者にとっては処刑で全てが終わりますが、被害者にとっては死ぬまで苦しみが続きます。

 死刑制度存廃の議論は、被害者の救済や人権が確保されて、はじめて触れられる問題でしょう。

 被害者救済制度が充分に整えば、被害者は加害者に対する応報感情が和らぎ、必ずしも極刑を望まない場合もあります。

 被害者支援と死刑廃止は対立するものではなく、両立しうるものだと考えられます。

 H氏はこう考えています。

 何より大切なのは被害者救済なのに、わが国ではいまだに、悪い奴を吊るして一件落着と思っている向きが少なくない。

「死刑制度こそ被害者救済の道を閉ざしている元凶だ。」

(続く)

(参考文献・「されど我、処刑を望まず」)
 

H氏と加害者

2006年03月26日 17時08分17秒 | 死刑制度と癒し
 
 加害者は獄中からH氏に、毎月2~3通ずつひたすら謝罪の手紙を書き続けました。

 H氏は最初は怒りに煮えくり返って、手紙を破り捨てていました。

 そして逮捕から6年あまり経ち、手紙の数も100通を越えたといいます。

 歳月はH氏の気持ちを次第に変えていきました。

 加害者は死刑判決を受け、どう転んでも2度と娑婆には戻れない。

 鉄格子の中で死を待つだけの存在だ。

 その安堵感がH氏に気持ちのゆとりを与えたようです。

 ただし、それは加害者が死刑判決を受けているからという前提であり、量刑の重さが被害者遺族に実に微妙な影響を与えるのです。

 加害者に心から悔いる感情が生まれるのも、死刑という前提があってこそでしょう。
 

 H氏は加害者に会ってみようという気になっていきます。

 そうして、実際に面会してみると、加害者は申し訳なさそうに身を縮こまらせている、ちっぽけな男でした。

 “殺人鬼”ではなく、自分と同じ一人の人間だと感じたということです。

 憐憫の情も感じ、H氏は複雑な思いにかられました。

「こんな男を殺せなんて、よういえん」

(現在は死刑囚は親族と弁護士以外、外部との交渉を厳しく制限されています。)

 それからH氏は、加害者に生きて償いをしてほしいと思うようになるのです。

(参考文献・「されど我、処刑を望まず」)
 

剣道部時代の親友上京

2006年03月26日 10時17分16秒 | Weblog
 
 大学の剣道部時代の親友が鹿児島から上京してきて、夕べは同級生6~7人が集まって飲みました。 (^^)

 中には10年くらいぶりに会った奴もいて、本当に懐かしい場が持てました。

 鹿児島の親友は若いときから老けていて〔*注:〕、逆にそれから時間が経っても全然年を取りません。

〔*注:小学校6年のとき、バスの中で小さい子供に「おじいちゃん」と言われ、その子のお母さんから「おじさん」と言われたそうです (^^;)。〕

 そいつは今も髪の毛も真っ黒でふさふさ(ゴワゴワ? (^^;))、昔と「寸分たりとも変わっていない」というのは誇張ではありません。

 3~4人は学生のときとあまり変わっていませんでしたが、

 それに対して、3人は頭のてっぺんがすっかり風化してしまい、それこそ“おじいちゃん”みたいになってる奴もいました。 (^^;)

 割と二極化した集まりになりましたね。
 

 きのうは、今まではあまり深く話したことのなかった奴とたまたま話し込みました。

 剣道部のとき主将だった奴ですが、5年ほど前うつになったそうで、本当に意外でした。

 うつになりにくそうに見える人ほど、なることがあるのだと思います。

 周りも理解しないし、誰にも話せなかったそうです。

 まして人格障害などは非常に理解されにくいと話していました。

 ボーダーの人のことが少しずつでも、人々に知られていくようになってほしいと切に思います。
 

 それにしても、学生時代,特に運動部の同じ釜の飯を食った仲間というのは、いつまで経っても一番気がおけず、腹を割って語らいあえるものです。
 

弟を殺されたH氏

2006年03月25日 15時51分09秒 | 死刑制度と癒し
 
 H氏自身の言葉を紹介してみましょう。

「殺されたから殺す。

 第三者なら大方が、この単純な因果応報の理屈に賛成するでしょう。

 ところが、被害者の身内であった私たちにとっては、まさにここのところが納得がいかないんですよ。

 私たち家族にとってはどう考えても、非道なことをした犯人より弟の命のほうが尊い。

 その弟が殺されたから、加害者の命を奪ってハイ、おしまいというんじゃあ、なんだか、あまりに安易で、命の等価交換にかすぎないと思うんですよ。

 これでは弟と加害者と同じ価値しかないことになる。

 それでは我慢できないんですよ。」

 加害者を許したわけではない。

 いや彼の犯行を憎むからこそ、死刑執行を望まないのだ。

 生きて、とことん生きて、それこそ血を吐く思いで償ってほしい。

(「されど我、処刑を望まず」福田ますみ[現代書店]より)

(続く)
 

死刑に反対する被害者遺族

2006年03月24日 19時36分02秒 | 死刑制度と癒し
 
 20世紀最初の年の瀬が押し迫った12月27日、小泉政権下で初めて死刑が執行されました。

 その執行に抗議の声明を提出した人がいます。

 死刑囚に殺害された被害者の実兄・H氏です。

 彼は「死刑廃止フォーラム」のメンバーと共に、ずっと死刑執行に反対し続けてきたのです。

H氏も最初は犯人の極刑を望みました。

 しかし、死刑囚と面会と文通を重ねるうちに、「本人が生きていて初めて罪が償える」と思うようになりました。

 死刑囚も拘置所内で洗礼を受け、贖罪の日を送っていました。

 H氏は、

「怒りや悲しみは消えていない。

 でも加害者を死刑にすることによって、被害者が救われるわけではない。

 国による一方的な『終わり』は納得できない。

 私たちの中では事件は終わらない。」と語りました。
 

死刑反対の立場に対しては、必ず「ではあなたの愛する人が殺されたらどうか?」という問いが投げかけられます。

 それに答えられるようにするためにも、真の被害者感情を知り、それが癒されるには何が必要なのかということを考えたいと思います。

(続く)
 

ドラマ「妻は多重人格者」

2006年03月24日 09時31分37秒 | 心理
 
 1月4日の記事で紹介した、花田深さんの実話「妻は多重人格者」(集英社)がドラマ化されて、本日午後9時フジテレビで放送されます。

 関心のある方はぜひご覧になってみてください。
 

 境界性人格障害よりも多重人格のほうが劇的で、一般の人の興味を引き、映像作品になりやすいでしょうね。

(筆者の花田さんは映像監督で、知り合いのプロデューサーがドラマ化したという幸運があるのですが。)

 また多重人格のほうが“病気”ということで割り切りやすいですが、人格障害は性格の問題で本人のせいと思われやすく、

 当人の苦しみはなかなか理解されにくいと思います。

 何とかして、一般の人々にも境界性人格障害を理解してもらえるようにしていきたい,

「境界に生きた心子」も映像化できないかと願っているのですが……。
 

死刑制度を考える

2006年03月23日 18時11分35秒 | 死刑制度と癒し
 
 凶悪犯罪は昔からありましたが、近年は無軌道化しているかのような印象もあります。

 このような極悪な犯罪者には極刑を、という意見が世論では過半数を占めています。

 それも無理からぬ気持ちだろうと思います。

 しかし、世界の趨勢は死刑制度が廃止される方向にあり、先進国のうちで現在死刑が残っているのは、アメリカのいくつかの州と日本だけです。

 それは何故なのでしょう? 

 日本で死刑を肯定する意見が多いのは、死刑や“被害者感情”の実情を知らされていないからではないでしょうか?

加害者の処刑によって解決されるものは果して何でしょう? 

 死刑制度の表裏を理解し、私たちはどのような社会を求めるべきなのか、ということを考えていきたいと思います。

 死刑制度を持つか持たないかは、その国の民度をはかるものだとも言われます。

 特に被害者の心の傷の癒しに重点を置いて、書いてみたいと思います。

(続く)
 

死刑制度と被害者の癒し,加害者甦生プログラム

2006年03月22日 23時59分09秒 | 死刑制度と癒し
 
 僕はこのブログと同じ記事を、ヤフーブログ「境界に生きた心子」に書き込んでいます。

 3月19日の記事「光市母子殺害事件の本村さん」にコメントとTBをいただき、先方のブログでは随分物議をかもしています。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/29181389.html

 それを受けて、被害者の心の癒しの観点から見た死刑制度や、加害者の甦生プログラム「アミティ」についてを、このカテゴリーに少し載せていきたいと思います。

 ここでは死刑制度存廃の結論は出しませんが、死刑のない社会をめざす努力をしていく方向性を示してみたいと思います。
 

 僕は元々死刑制度廃止の立場でした。

 「憎しみからは憎しみしか生まれない」というのはその通りだと思います。

(だから近代国家は個人の仇討ちを禁止し、国家が代わって罰するという法体系を作ったわけですが。)

 でも本村さんが語った、「死刑にならないなら釈放してほしい。自分がこの手で殺す」という言葉を聞いて、胸が締めつけられるような思いがしました。

 本村さんのような成熟した人でさえ、加害者の極刑を求めるのだという痛切な声を聞かなければ、僕は被害者の本当の苦しみというものを、観念的にしか分からなかっただろうと思います。

 死刑廃止という“人権派”の考え方を強化していたかもしれません。

 死刑反対を訴えるとするなら、我々はこの本村さんの血のにじむ叫びに、正面から応えなければならないのです。
 

 心子は、悪を決して許さない純粋な人間でした。

 でも、どれほど自分を傷つけた加害者でも、相手が憂き目に陥ると、愛憐の情をいだかざるをえない心根の持ち主でした。

 ちなみに、今回の事件の加害者は、反社会性人格障害の側面があるようにも感じられますが、

 人格障害への誤解がないよう、記事「現代の心の障害(2)」(書庫「解説・境界性人格障害)もご覧になってみてください。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/28426637.html
 

いま、会ってきました

2006年03月21日 19時52分21秒 | 心子、もろもろ
 
 心子の墓前に参ってきました。

 今日はお彼岸なので(クリスチャンの心子には関係ないんですが(^^;))、花屋さんでいつもよりいい花を買おうと思ってました。

 ところが今日はお彼岸なので、花屋さんには仏花ばかり沢山あって、僕がいつも買う鉢植えはあんまりいいのがありませんでした。(;_;)

 仏花は辛気臭いので、僕はお袋が亡くなったときから買ったことはないのです。

 お墓に着くと、今日はお彼岸なので(^^;)、さすがに墓参り客が多く(“客”か?)、お墓も花盛りでした。

 小さいですが新しい霊園で、心子のお墓が本家から分かれてここへ移ったときには、まだ空いた敷地も多かったのですが、大分埋まってきました。

(「埋まる」ってシャレではありません。)

 霊園には供えた花に水をやる係の人がいて、鉢植えにも土が乾いたら水をやってくれるということで、丁寧にお礼を言ったら喜んでくれました。(^^)

 いつもより心子と長く話して、「また来るからね」とお墓をあとにしました。


 帰りには、予定通り新宿で「ブロークバック・マウンテン」を観に。

 ところが、20分以上前に何とすでに満席で、中に入ることができませんでした。(ToT)
 

いま、会いにゆきます

2006年03月21日 10時03分14秒 | 心子、もろもろ
 
 毎月17日の心子の月命日には墓参りに行っていますが、今月は都合で行けなかったので、今日お彼岸の日にこれから行ってきます。

 天気もよいし、墓参り日和。

 途中で久しぶりに池袋の回転寿司を食べていこうと思います。(^^;)

 心子と会ったあとは、アカデミー賞エントリー作品「ブロークバック・マウンテン」を観る予定です。
 

光市母子殺害事件の本村さん(2)

2006年03月20日 19時28分22秒 | 光市母子殺害事件
 
 きのうの記事「光市母子殺害事件の本村さん」にコメントとTBをいただきました。
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/29181389.html

 先方に付けさせていただいた僕のコメントを、こちらにも掲載したいと思います。

(文脈の関係上、一部加工しました。)

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 まず、僕は元々死刑反対の立場です。

(今は必ずしもそう言い切れなくなっています。

 正にそれは本村さんの影響ですが。)

 加害者の甦生プログラムと、犯罪被害者支援、遺族の癒しのシステムの必要性も強く感じています。

 僕は被害者遺族の本村さんのお話を直接聞いたこともありますし、メディアを通じて拝見したりしていました。

 当事者でありながらとても理知的で、客観的に見つめている方だと思います。

 一審の無期懲役判決が出たとき、悲憤と涙に打ち震えながら訴えた本村さんの下記の言葉は、非常に心に響きます。

 「怒りや憎しみやを乗り越えて、再び優しさを取り戻すためには、死ぬような努力をしなければならないんです」。

 怒りに身を任せてしまうだけでなく、その先にある優しさのことまでを踏まえた、深い人間性とその苦しみには計り知れないものを感じます。

 これほどの人格と品位を備えた被害者の言葉を、僕は他に知りません。

 その本村さんをして、「死刑にならないなら釈放してほしい。自分が殺す」と言わしめざるを得ないほどの、底知れない憤怒の被害者感情。

 死刑反対論者でも、この本村さんの言葉には耳を傾けざるを得ません。

 犯罪被害者支援運動の黎明期にあって、正に「神が与えた被害者」と言われる存在です。

 

 本村さんは憤りだけを持ち続けているわけではありませんでした。

 絶望や自暴自棄に陥っていた時期もあります。

 被害者遺族や被害者の言葉を、本人でない人は誰も代弁することはできないでしょう。

 ただし、被害者遺族もまた人それぞれで、加害者の極刑を望まない人も大勢います。

 もしこの事件の加害者が死刑になったあと、本村さんがどう感じ、生きていくか、それは誰にも分からないことだと思います。
 

 なお、「自分が殺す」という本村さんの言葉は、それほどの気持ちだということの表れで、実際に本村さんが加害者を目の前にして、手をくだすなどということはないと思います。

(続く)

最高裁上告審判決
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/36556382.html

差戻し審
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/47777510.html

被告人質問
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/48536162.html

第2回集中審理
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/49124214.html

第3回集中審理
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/50202257.html

差し戻し審判決
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/53880108.html


死刑制度について
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/29545347.html
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/51895139.html