「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (9)

2015年02月26日 20時36分12秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
【さらに考察を進める。
 
BPD患者が  「答えのない問いを生きる」 とき、
 
最終的には みずからの犠牲によって  「解決」 しようとすることが多い。
 
多くの場合は、 周りの人たちを巻き込んでしまう。
 
心子は 最終的に究極的な自己犠牲、 つまり自殺によって この世を去った。
 
なぜ、 BPDを患った者が、
 
このように 生きることそれじたいに 苦しまなければならないのか。】

【BPD患者の織り成す世界の ひとつの魅力とは、
 
純粋なるものへの 激しいまでの渇望である。
 
ただし、 その世界においては、 現実と折り合いがつくことはない。
 
折り合いがつかないからこそ  〈生きづらさ〉 を感じるのだが、
 
そのとき、 現実のほうが間違っている 可能性もあるわけである。
 
言い換えれば、 この種の 〈生きづらさ〉 に関しては、
 
個人を病理化して治療しても、 「病巣」 は社会的不正義なのであるから、
 
〈生きづらさ〉 が解消することはないということである。】

【字義通り、 「答えのない問い」 に 答えることはできない。
 
ならばどうすればよいのか。
 
「答えのない問い」 を 可能な限り 社会からなくしていくことである。
 
すなわち、  「答えのない問い」 に はまり込む手前で、
 
そのような問いを 問う必要のない社会を 作っていくことである。
 
「現実は グレーゾーンであり、
 
白や黒など はっきりと決着のつけられないものである」 と よく言われる。
 
それは一理あるかもしれない。
 
しかしながら、
 
決着をつけるべき問いに 決着をつけようとしていないだけのこともあるだろう。
 
そのような状況を、 BPD患者は 出し抜かずにはいられないのである、
 
みずからの 〈生きづらさ〉 と引き換えに。
 
純粋さが、  「自己犠牲」 へと変わってしまうのである。

BPD患者の 「治療」 を考えるならば、
 
薬物療法と精神療法だけでは うまくいかない。
 
なぜならば、 それらは両方とも、 患者個体に働きかけることによって
 
社会との折り合いをつけることを 目指すものだからである。
 
むしろ、 BPD患者を取り巻く人たちや、 社会が変わらない限り、
 
真にBPD患者の 〈生きづらさ〉 は 焦点化されないと言ってよい。
 
社会的不正義を問題にし、 それを変えていくことこそ、
 
BPD患者の 「治療」 に つながっていくのではないだろうか。
 
BPD患者が社会と折り合いがつけられない、 ではなく、
 
社会のほうが BPD患者と折り合いをつけない、 と見たとき、
 
事態はこのように描くことができるだろう。】

〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (8)

2015年02月25日 19時42分11秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 野崎さんの論文で、 「境界に生きた心子」 が 引用された部分は以上です。
 
 「障害学」 という分野で 学術的に取り上げてもらい、 とても嬉しく思います。
 
 BPD体験談のノンフィクションは 少ないとはいえ、
 
 最近も2、 3の本が 出てきたようです。
 
 それらの中で 拙著が選ばれたのは光栄です。
 
 野崎さんの論文は、 続く第3章で、 BPDの人の生きづらさを、
 
 BPD本人より むしろ社会のあり方に求める 独自の論を進めていきます。
 
 興味深いことなので、 それも抜粋させていただきます。
 
【第3章 境界性パーソナリティ障害の障害学に向けて

私たちは 好む好まざるにかかわらず、
 
生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
 
先に見てきたように、 BPD患者は
 
「社会のなかで生きることそのもの」 に  〈生きづらさ〉 を感じているが、
 
その場合でも容赦なく、 生きているかぎりは 社会と相対さざるを得ない。
 
生きているかぎりは、
 
完全に個体だけが 問題として浮上してくることなど、 ほぼあり得ない。
 
BPD患者の 〈生きづらさ〉 は、
 
貴戸理恵の言う  「関係的な生きづらさ」 に 近いものではなかろうか。
 
 「それは 個人の特殊な 状態や性質というよりも、
 
 人が他者や集団につながるときに ある局面で 不可避に立ち現れてくる
 
 関係性の失調のようなもの、 ではないでしょうか」。】
 
【第二章で取り上げた 心子の 「病状」 も、
 
心子のメンタルな 個体の失調というより、 心子と稲本、
 
あるいは 心子と周りの人たちとのあいだの 関係性の失調と考えた方がよい。
 
なぜなら、 ひとは 個体で完結して生きていくわけではなく、
 
かならず他者との相互作用によって 生きていかざるを得ないからである。
 
こうして、 BPD患者が 失調を起こすと考えるのではなく、
 
むしろ この社会によって規定された 関係性によって
 
〈生きづらさ〉 を生起させられる、 という発想にたどりつくのである。
 
さらに掘り下げていけば、
 
こうした社会こそが 「正常」 であり、
 
病気や疾患を持つ個人、 個体が 「異常」 であるという考え方を
 
疑問に付すことができる。
 
個人が 「異常」 だから  〈生きづらさ〉 を感じるのではなく、
 
〈生きづらさ〉 を誘引するような 社会的規範が存在するのだと
 
考えることができるのである。】
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (7)

2015年02月23日 12時50分32秒 | 「境界に生きた心子」
 
(http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/64502648.html からの続き)
 
稲本はここで、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題を、
 
「人格」 「メンタリティ」 「心の障害」 「自我」 といった 個人の問題に
 
還元させてしまい、  「適切な愛情」 の問題へと 帰着してしまっている。
 
また、 「伝統的な価値観」 が、  「伝統的」 であるだけで 正しいとは限らない。
 
むしろ伝統的価値観に基づいた  「父親や母親の役割」 は、
 
社会において 女性を不当に抑圧してきたことは、
 
フェミニズムが指摘してきたとおりである。
 
BPD患者は、 そのような世の中の不正には 敏感なのである。
 
しかし、 世の中の不正など 一朝一夕で正されるものではない。
 
そのあいだで、 BPD患者は何とか生きているのである。
 
そうした意味において、 個人の問題に焦点を当てることは、
 
社会的不正義の問題を 霧消させてしまうのだ。
 
また、 言動の否定と生存の否定とを 結びつけてしまうのは、
 
BPD患者の責任でもなんでもない。
 
私たちの社会が、 正しいやり方で議論をし、
 
何ごとかを決定する段をふまえないからこそ、
 
こうしたことが BPD患者の 〈生きづらさ〉 となって 現れてしまうのではないか。
 
つまり、  「主張の否定が人格の否定ではない」 ということを、
 
社会に根づかせる必要があるということである。
 
そしてそれは、 教育において教えられるべきことの ひとつになるであろう。
 
《心子はロマンチストで モラルを尊ぶ反面、
 
世間は薄汚く、 きれいごとが通るわけではないと 見限っていたりした。
 
そしてペシミスティックなことを言っては 僕を困らせた。
 
でも 純潔なゆえに追求するものが高く、 そして打ち破られ、
 
失意が高じて 何もかも捨ててしまいたい心理になるのは、 僕にはうなずけた。》 
[24]
 
[24]稲本[2009:113] 。
 
このように考えたとき、 BPD患者の 〈生きづらさ〉 の問題の根底には、
 
自分と社会とが 折り合いがつけられないときどうするか、
 
という問いが横たわる[25]。
 
言い換えれば、 私はBPD患者の不安の根源には、
 
「答えのない問いを生きざるを得ない」  ということがあると 主張したいのである。
 
こうしたことを、 次章において より説得的に示していきたい。
 
 
[25]もちろん、 社会もBPD患者の主張も 間違っている、 ということがありうる。
 
しかし、 二者択一で考える思考パターンを 身につけているBPD患者にとって、
 
そのこともまた 理解することが困難なように思われる。】
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

心子、 50才の誕生日

2015年02月21日 22時26分59秒 | 心子、もろもろ
 
 今日は 心子の50回目の誕生日でした。
 
 午前中 カウンセラー講座を受けたあと、 自転車で墓参りに行ってきました。
 
 趣味の ランチバイキングと銭湯巡りもしてきました。  (^^;)
 
 いつもの心子似の花屋さんは、 花にリボンをつけてくれました。
 
 心子にショートケーキを供え、 ハッピーバースデイを歌ってきました。  (^^;)
 
 生きていれば 心子も何と50才。
 
 どんな風になっていたか。
 
 彼女が旅立ってから しばらくの間は、
 
 何年経っても 生きている時の 子供っぽい心子の姿しか、
 
 思い浮かべることができませんでした。
 
 でも今は、 何となく 少し年を重ねた心子の顔を 想像することができる気がします。
 
 ちょっとは落ち着いた女性に なっているのではないかとも思いますが、
 
 やっぱり基本は いとけない子ではないでしょうか。
 
 実際、 50近くになっても 心子と同じようにかわいい BPDの女性もいるので、
 
 やはり そんな感じではないかと思います。
 
 それにつけても、 今心子が生きていたらと 夢想せざるをえません。
 
 現在は ボーダーの情報も増え、 対応法も知られてきて、
 
 きっと当時と違う接し方が 心子にできているはずです。
 
 そしてネットなどで、 当事者同士やパートナー同士の、
 
 現在進行形の繋がりもできているはずです。
 
 仲間とのコミュニケーションや支え合いなどから、
 
 希望や喜びが生まれたかもしれません。
 
 新たなケアによって、 心子の状態も変わっていたでしょう。
 
 それを思うと 本当に残念でなりません。
 
 ただ、  「境界に生きた心子」 で 心子の生きた姿は 多くの人の心に届き、
 
 心子は今も その人たちと共にいるはずです。
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (6)

2015年02月19日 19時30分30秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
BPD患者は、  「世の常識に染まることがない」 ゆえに
 
 〈生きづらさ〉 を感じると考えれば どうなるか。
 
常識は、  「常識であること」 によってだけでは、
 
正しいか正しくないかわからない。
 
私は、 体制や常識の正しさを 吟味することなく、
 
体制に寄りかかったり、 自分を押し殺し 常識に迎合することで、
 
世間を渡っていける人たちよりも、 断然、 心子のような人たちを評価する。
 
しかしながら、 そのことが 心子らBPD患者たちを苦しめ、
 
 〈生きづらさ〉 を感じさせるのであるから、 事態は厄介なのだ。
 
しかし、 だとすれば、 次のような稲本の叙述は不可解である。
 
《ボーダーの人は、 本来発達するべき人格が できなかったと言える。
 
安定した自己がなく、 衝動を自省できないのが 中心的な症状である と言う人もいる。
 
そのため、 自分の願望通りにいかないと 感情をコントロールできなくなってしまう。
 
子供に適切な愛情を 与えられない親が増加し、
 
子供の健全なメンタリティの発育が 妨げられることと 関係しているかもしれない。
 
現代は 父親や母親の役割をはじめ、 世の中の伝統的な 価値観の枠が揺らぎ、
 
確固として人格の形成が しにくくなっている。
 
境界性パーソナリティ障害は、 ボーダーレス時代の 象徴的な心の障害だと思う。
 
彼らは 社会の枠組みの境界線上におり、 一触即発の雲行きで彷徨しているのだ。
 
ボーダーの人は 人格の 「核」 ができていないので、
 
苦しみや悲しみに向かい合う力が きわめて弱いと考えられる。
 
葛藤を冷静に見つめたり、 自省する自我ができていない。
 
心子にとって 自分の言動を否認されることは、
 
生存そのものが消滅してしまうくらい 恐ろしいことである。
 
彼女の過激な反応は、
 
その恐怖を振り払って生き延びるための 命がけのあがきなのだ。》 [23]
 
[23]稲本[2009:54] 。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(続く)
http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/64509074.html
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (5)

2015年02月18日 20時58分15秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
場面2では、 心子が冗談を言ったのに対し、 稲本も冗談で応じる。
 
ただ、 稲本の冗談が過ぎたものであると 感じた心子は、
 
それまでの穏やかな応対から 急変し、 突如傷つき、 調子を狂わせてしまう。
 
たしかに、 稲本の言い方には
 
「私が傷つかない言い方なら、 心子も傷つかないだろう」 という
 
思い込みがあったかもしれない。
 
しかしながら、 心子の傷つきようは
 
やはり尋常ならざるものがあるだろうと 言わざるを得ないだろう。
 
また、  「怒りや恨みはない」 と言いながらも、
 
「私を傷つけたこと、 今まで何回もあったね」 とも言う。
 
通常私たちが考える  「怒りや恨み」 とは違うとしても、
 
稲本に傷つけられたことを  「根に持つ」 ぐらいには、
 
心子は 「壊れやすい」 と理解することができよう。
 
BPD患者は、 自分の存在が 根本から肯定できないがゆえに、
 
上記のような 独特の 〈生きづらさ〉 に苛まれる、 そのように通常は考えられる。
 
だが、 視点を逆転させてみて、 次のように考えることはできないであろうか。
 
すなわち、 この社会は、 BPD患者に対してのみならず、
 
ありとあらゆる人々にとって生きづらい。
 
そして、 その 〈生きづらさ〉 は、
 
社会的に構築された 「弱者」 に より重くのしかかる。
 
こんな不正義な社会であるからこそ、 BPD患者が生きづらくなるのは、
 
その意味で理にかなっていると 言えるのではないか。
 
実際、 心子をはたから見ていた稲本は 次のように言う。
 
《ボーダーの人は 何かしら純粋なものを待望している。
 
良くも悪くも 世の常識に染まることがない。
 
普通の人間は、 自分と周りとのバランスを取ったり 達観したりしながら、
 
より多様で柔軟な 人生観を見いだしていこうとする。
 
それとも 現実とぶつかることを回避して、 本音と建前を使い分けたり、
 
長いものに巻かれたり、 事なかれ主義で 浮世を渡っていく。
 
しかしボーダーの人は 決して世間ずれすることがないという。
 
心子も権威的なものになじまず、 体制におもねる者を嫌った。
 
威力を笠に着て 弱い人を泣かせる手合いには、 憤りをあらわにした。
 
世俗の不条理や権力に 屈することなく、
 
そのために自分が不利になるのを 微塵も意に介さない。
 
こういう無垢な心根が ボーダーの人の魅力だ。
 
それが社会の虚偽粉飾を暴いたり、 マンネリ化を打ち破ることがある。
 
危険性を伴うと同時に、 ボーダーの人の独創的な面である。》[22]
 
[22]稲本[2009:73] 。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (4)

2015年02月17日 20時31分46秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
私たちは、 意識的にであろうが無意識的であろうが、
 
現実に対してなんらかの妥協をしながら 生きている。
 
そうせざるを得ないのが 現実というものの制約である。
 
「人は、 どんな結果をも受け入れる (肯定する) しかない」 し、
 
「現実を受け入れ肯定しなければ、
 
その中で (適応して) 生きていくことができない」 [20]。
 
だが、 そうであるからこそ、 妥協というものを一切拒み [21]、
 
みずからの思いに 百パーセント純粋であろうとする BPDの患者が、
 
現実への 「不適応」 をおこすのは 当然のことであると言える。
 
当人にとっては、 みずからの感情の発露であるとしても、
 
現実を回そうとする周りにとっては
 
はた迷惑な存在としてしか映らないのも また理解できよう。
 
いずれにしても、 BPD患者が 「現実を生きる」 ということは、
 
このように矛盾のただなかを 生きざるを得ないということであり、
 
そのことだけですでに BPD患者は疲弊してしまうことは、 想像するに難くない。
 
場面1では、 心子にそのつもりがなくても、
 
心子の言動は 稲本を巻き添えにし、 共倒れに追い込むものであろう。
 
他人には  「私はどう生きていけばよいのか」 などという問いは、
 
端的に言って 答えられないものである。
 
それを、 場面1における心子は 問わずにはいられない状況だった。
 
稲本も述べているように、 心子にとっては 稲本がどう答えようと その答えじたいは、
 
乱暴に言ってしまえば どうでもよいのだ。
 
むしろ、  「このような問いに 私はとらわれているからこそ、 私は生きづらい」
 
と解釈してもよいのではなかろうか。
 
答えなどどうでもよいが、
 
そのようなどうでもよい答えを 求める問いを 生きざるを得ないことを、
 
心子は訴えているのではなかろうか。
 
だからこそ、 稲本がどのように答えようとも、
 
あるいはその問いを前に 稲本がかりに沈黙したとしても、
 
問うている心子本人には ほとんど響かないわけである。
 
[20]土屋[2012:5] 。
 
[21] 矛盾するようだが、
 
BPD患者は時として  「妥協を許さない」 態度とは まったく正反対の
 
「諦念する」 という態度をとる。
 
しかしこれも考えてみれば、 みずからが傷つかないように
 
「0か1か」 の思考パターンが 身についてしまった
 
BPD患者の特徴なのかもしれない。
 
さらに、  「みずからが傷つかないように」 と述べたが、
 
「どうしようもなく みずからをメチャクチャにしたい」 という願望も、
 
おそらくは持っている。
 
根底にある  「自分など必要とされない、 自分が生きていても価値がない」
 
という思いが、 そのような願望を抱かせてしまうのである。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (3)

2015年02月16日 20時21分54秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
〔場面2〕
 
《心子は友達にも ピュアだと言われたそうだ。
 
「あたし、 ピュアじゃないんだけどォ」
 
心子は冗談めかし、 僕もふざけて言った。
 
「じゃ、 けがれてんの?」
 
もちろん  「けがれてないでしょ」 という前提だ。
 
僕は 自分がてんで奥手のくせに、
 
つい口先だけの きついジョークを言ってしまうことがあった。
 
だが下手な戯れ言だった。
 
それもせめて  「不純なの?」 というようなら、 まだしもだったかもしれないが、
 
なぜか口が滑った。
 
「どうせ、 あたしはけがれてる ……」
 
心子はしょげ込んだ。
 
いくら謝っても、 弁解し慰めても、 あとの祭りだった。
 
(中略)
 
心子は、 クリスチャンにとって 「穢れてる」 という言葉は、
 
生きる価値もないことだと言った。
 
頭を殴られた気がした。
 
宗教的な意味合いでの  「穢れ」 という発想はなかった。
 
だがもう取り返しがつかない。
 
「あれから体中が痙攣して、 湿布だらけで、 立てないの。
 
心臓も発作起こして ……。
 
マーは いい人だって分かってるよ。 でも会うのが恐い。 危険な人だから。
 
これからも付き合うか考えてる。
 
怒りや恨みはないよ。 ただ恐いの。 こんど倒れたらおしまいだから。
 
立ちなおるのに何週間もかかるのよ。
 
治療費払って リハビリするのは私だから。
 
マー君には責任取れないでしょ」
 
僕が治療費を出すと言っても、 心子は自分のプライドだと言って 受け付けなかった。
 
「昔の私だったら 二~三発殴って 別れてるよ。
 
お前は清廉潔白なのかって言いたい。
 
マーと手をつないだりするの よそうとさえ思った。
 
私を傷つけたこと、 今まで何回もあったね。
 
私と付き合うっていうのは こういうことなのよ。
 
それが分かってないと 私の彼氏は務まらない。
 
何度も説明したよね。
 
マー君は 人の本当の痛みが分からない」 。》 [19]
 
[19]稲本[2009:74-76] 。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 『現代生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (2)

2015年02月15日 18時42分51秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
BPD患者の恋人である者
 
 ―― 正確には 心子は自殺したので  「恋人であった者」 ―― の
 
手記を使う利点としては、 家族ほどには利害関係が多くはない ことが挙げられる。
 
BPD患者の場合、 幼少期に親から 適切な愛情が得られなかったとも言われ、
 
ときに親に対する 強いこだわりが見られる。
 
その結果、 親のほうも 「正しい理解を示すこと」 より
 
 「毎日の現実をまわすこと」 に追われ、 よき伴走者になれない場合が多い。
 
恋人の場合、 生まれてからずっと いっしょにいるわけでもない。
 
稲本と心子も、 心子が自殺するまでの一年半を 恋人として過ごし [16]、
 
その前の六年間は 事あるごとに連絡がある程度だった [17]。
 
また、 本論では、 稲本と心子、 二人の個人的関係には立ち入らず、
 
まずは 2つの場面をコマ切れで 心子の様子を抜粋したい。
 
それでも、 恋人が書いたものというバイアスを 完全に消し去ることは難しい。
 
しかし、 みずからでさえ自分を持て余してしまう BPD患者当人とは違った目で、
 
ときに外側から、 またときに 内側に迫って書くことが、
 
恋人にはできるのではないだろうか。
 
そのような観点から、 本書を題材とするものである。
 
[16]稲本[2009:191] 。
[17]稲本[2009:4-6] 。
 
 
〔場面1〕

《心子と差し向かうとき 銘記すべきは、
 
彼女の発言や行ないに  「巻き込まれないように」  極力努めることだ。
 
彼女の言うことを真に受けて、 困惑したり怒ったり、
 
巻き込まれてしまうと 共倒れになり、 それでは元も子もない。
 
例えばあるとき、 心子は生きる望みを失い、 悲憤に駆られて 僕に詰め寄ってきた。
 
 「どう生きていったらいいの!?  彼氏なら教えて!
 
あたしの彼氏は ちゃんと答えられる人であってほしいの!
 
答えられなかったら別れるからね!
 
彼氏はあたしより 全てにおいて上じゃないといけないの!」
 
心子の問い詰めに即答できるかどうか、 僕は内心うろたえた。
 
 「それも 白か黒かを求めてるってことだよ。 ひとつの答えはないんだよ」
 
僕はかろうじて 取り澄まし答えたが、 心子は 軽蔑的なため息をついて言った。
 
 「答えられないんだね …… これで別れよう」
 
巻き込まれないようにということが 分かっているはずなのに、
 
僕はすっかり 彼女の言い草に乗せられていた。
 
詰問に答えなければと 焦ってしまった。
 
しかし、 心子は 実際に具体的な答えが聞きたくて 言っているのではない。
 
よしんば 別のどのような返答をしても 満足しなかっただろう。
 
 “どちらに転んでも恨まれる” と言われる、 ボーダーの人との袋小路だ。》
 [18]
 
[18]稲本[2009:56] 。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」 が 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 に引用 (1)

2015年02月14日 22時16分33秒 | 「境界に生きた心子」
 
 もうひとつ、 立命館大学講師などを勤める 野崎泰伸さんの、
 
 「境界性パーソナリティ障害の障害学」 という論文にも、
 
 「境界に生きた心子」 が引用されました。
 
(『現代生命哲学研究』 第3号 ( 2014年3月): 15- 30)

http://www.philosophyoflife.org/jp/seimei201402.pdf
p.20~25
 
 長くなりますが、 「境界に生きた心子」 について論じられた部分を 紹介します。
 
 拙著の引用部分を 《 》 で示します。
 
 [ ] は野崎さんの注釈です。
 
 
【第2章 BPDの実例 ―― 手記をもとに
 
ここでは、 実際のBPD患者の生活を、 ある手記をもとに描いてみよう。
 
ここで題材にする手記は、 稲本雅之の 『境界に生きた心子』 である。
 
これは、 BPD患者である村瀬心子と、 その恋人である稲本との交流を、
 
稲本自身が綴ったものである [13]。
 
なぜ この手記をもとに分析するのか。
 
それは、 稲本が描く心子が、
 
BPDによくありがちな行動を とるように思えたからである。
 
稲本は次のように記している。
 
《 心子が求めるのは、 痛みを百パーセント理解され、
 
全てを抱擁される 理想的な愛情である。
 
わずかでもそれに飽き足らないと、 その悲しみが 怒りと化して荒れ狂い、
 
自他を傷つける。
 
心子自身、 その感情を抑えることが できなくなってしまうのだ。》 [14]
 
[14]稲本[2009:3] 。
 
《 まさしく 「理想化とこき下ろしの 両極端を揺れ動く」 というのは、
 
僕がただならず 振り回されているものだ。
 
俗にジェットコースターと言われる。
 
全か無か、 白か黒かの 「分裂(splitting)」 は、
 
ボーダーの人の特徴である 二分思考だ。
 
人間は 善悪の両面を合わせ持った、
 
灰色で割り切れないものだ ということが認識できない。
 
百パーセント理想的な 文句なしの人間か、 自分を打ちこわす最悪の輩か、
 
一方でしかなくなってしまう。
 
それは 自分自身についても同様で、
 
素晴らしいところもだめなところも 両方あって自分なんだという、
 
統合された自己イメージをキープできない。
 
心子は 並外れた夢や気概と、 無力感や絶望との 両極を行き戻りする、
 
「不安定な自己像」 を擁している。》 [15]
 
[15]稲本[2009:46-47] 。
 
 
[13]本論に直接関係するわけではないが、
 
『境界に生きた心子』 の書籍の帯には、
 
「激しい感情の荒波に巻き込まれ、 壮絶ながらも、
 
ピュアでドラマチックなラブストーリー」 とある。
 
販売促進が 帯の目的のひとつであるとはいえ、
 
こうした文言が 販促として成立するような 社会のありように対し、
 
私は次の二点において 疑問を投げかけたい。
 
ひとつめは、
 
患者あるいは なんらかのハンデを背負った者が 恋愛物語に登場するとき、
 
それをあたかも 純粋なものとして描こうとする点である。
 
ふたつめは、
 
いわゆるロマンティック・ラブ・イデオロギーを 前提として描こうとする点である。
 
出版社が、 こうした点を 読者に対して あからさまに要求している点において、
 
この社会における恋愛の表象、
 
とりわけ なんらかのハンデを有する者との 恋愛の表象は不問にされている。
 
この点は 非常に大切な論点であるが、 本論の性質を鑑み、 これ以上は触れずにおく。
 
〔「境界性パーソナリティ障害の障害学」 野崎泰伸 生命哲学研究』第3号〕
 
(次の記事に続く)
 

「境界に生きた心子」が 香山リカさんの著書に引用 (2)

2015年02月12日 20時20分52秒 | 「境界に生きた心子」
 
(前の記事からの続き)
 
 心子のエピソードの引用は、 心と体の傷の関係において、
 
 体が癒されれば 心も癒されるのか、 という文脈で描かれているようです。
 
 拙著の趣旨は、 心子が 心の空洞を埋める象徴として 体の一体感を求める、
 
 ということでしたが、 香山さんのような取り方も あるかと思います。
 
 実は 香山さんには、 2005年 新風舎から拙著を出版する際に、
 
 帯の推薦文をお願いした という経緯がありました。
 
 香山さんは 拙著の内容は評価してくださいましたが、
 
 担当の患者さんへの 影響があるということで、 辞退されました。
 
 BPDの患者さんが 拙著を読んだ場合に 傷つく可能性があるということを、
 
 懸念したのでしょう。
 
 (BPDの人は 拙著で深く傷つく場合と、
 
 感動して涙が止まらないという場合の 両極端に分かれます。
 
 ちなみに、 新風舎の帯文は 海原純子さんに書いていただきました。)
 
 香山さんはそのとき 拙著のことを覚えておられ、
 
 今回引用してくださったのでしょうか。
 
 ただ 細かい点で 事実と違っていたところがありました。
 
 まず、
 
  「心子が 『一日中ホテルでいっしょにいたい』 と せがむ場面」 はありません。
(^^; )。
 
 でも、  「ひとつになりたい」 と せがむことはありましたから、
 
 香山さんの見解に影響はありません。
 
 また、  「カッターでからだを傷つけるような 行為を繰り返す」
 
 ということもありませんでした。
 
 多分 心子が、 カッターやペンなどで 自分を刺そうとする行為を、
 
 僕の目の前で繰り返し、 その度に僕が制止したことを 指しているのでしょう。
 
 香山さんのように超多忙な人が、 拙著の詳細な記述まで 逐次確認しながら、
 
 正確に執筆するのは 無理があるのだろうと思われます。
 
 でも、 拙著が星和書店から再出版されたことは 把握されており、
 
 今回 読み返してくださったのではないかと想像します。
 
 とにかく、 香山さんに引用されたのは 大変ありがたいことですし、
 
 心子の本が また他の人にも知られて、
 
 読んでもらうことができたら 嬉しい限りだと思います。
 

「境界に生きた心子」が 香山リカさんの著書に引用 (1)

2015年02月11日 20時36分31秒 | 「境界に生きた心子」
 
 先日たまたまネットで、
 
 「境界に生きた心子」 が 香山リカさんの本に 引用されているのを見つけました。
 
 またもうひとつ、 障害学の論文に 取り上げられているのもありました。
 
 香山さんの著書は、  「傷ついたまま生きてみる」  (PHP文庫/2014年) 。
 
 その中の、 心の傷と体の傷の関係を 述べた一節に例示されており、
 
 援助交際で 体を傷つけても心は傷つかない と思っていた女性との
 
 対比がされています。
 
https://books.google.co.jp/books?id=Am0X4JD4LxsC&pg=PA71&dq#v=onepage&q&f=false
 
〈逆に、 最初から 「私の心の傷をなんとかして」 と 思っている人もいる。
 
 境界性パーソナリティ障害という 心の病を抱える恋人を持つ男性の
 
 手記 『境界に生きた心子』 (稲本雅之/星和書店) には、
 
 その恋人・ 心子が  「一日中ホテルでいっしょにいたい」 と せがむ場面がある。
 
 しかし、 心子は、 決して からだのつながりや快感を 求めているわけではない、
 
 と男性は知っている。
 
 「『ひとつになりたい』 という表現は、
 
 心子の 究極の一体感への願望を 象徴している。
 
 心子の心には 満たされない欠落した部分があり、
 
 その不全感を補うため、 この上なく緊密な接触を求める。」
 
 しかし、 その後、 心子は 「うつがひどい」 と 外出もできなくなり、
 
 恋人との 心やからだのつながりで、
 
 自分の欠けた部分や 傷ついた部分を 埋めることもできなくなる。
 
 そうなると、 心子は今度は、
 
 逆に カッターでからだを傷つけるような 行為を繰り返すようになり、
 
 最終的には 自分で自分の命を 絶ってしまうことになるのだ。
 
 (中略)
 
 心子は  「からだの一体感さえあれば 心の傷も癒える」 と 思っていたのに、
 
 実際はそうはならなかった。
 
 そして、 「私はまだこんなに傷ついている」  ということを強調するかのように
 
 リストカットを繰り返し、
 
 結局は からだも心も 死に追いやることになってしまったのだ。」
 
 このように、 心の傷と体には 切っても切れない強い関係があるが、
 
 そこに決まった法則を 見つけるのは難しい。
 
  「からださえ元気なら心も元気」 でもなければ、
 
  「からだの元気と心の元気は まったく別もの」 でもない。
 
 ただひとつ言えるのは、 「私の場合、 心とからだは別」 とか
 
  「私は、 心の傷つきは 誰かとのからだの一体感がなければ 絶対に埋まらない」
 
 と決めつけすぎるのは危険、 ということだ。
 
 (後略)〉
 
(次の記事に続く)
 

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※ アクション・ステップ6  以下の信念を抱いていますか? (3)

2015年02月07日 19時58分42秒 | 「BPD 実践ワークブック」より
 
(前の記事からの続き)
 
_ もし誰かが本当の私を知ったら、 嫌いになるだろう
 
 恥, 恐れ, 激しい自己嫌悪などの感情が 暴かれないための、
 
  「全て善い」 というマスクを被っています。
 
_ 自信満々の仮面は 全ての人をだます
 
  「全て善い」 のマスクは、 一部の人を 部分的にだますことはできます。
 
 しかし マスクを永久に維持することはできません。
 
 結婚したら、 完璧な連れ合いが 全く別の人になってしまいます。
 
_ 相手が 惨めな存在だと立証できれば、
 
  自分は思うほど悪くはない という意味になる
 
 欠落している自己愛を埋め合わせるため、 際限なく注目, 愛情を必要とします。
 
 けれどもボーダーの人は、 愛は有限だと考えているので、
 
 ノン・ボーダーの人に関わる 他の人に嫉妬します。
 
 ノン・ボーダーの人の 友人や家族を排除しようとし、
 
 相手をけなそうとするかもしれません。
 
 
 あなたが出会う全ての人々は、 その人自身の 〈感情的な反応〉 を持っていて、
 
 感情的なインパクトを与えた あなたの人格や行動の側面を 記憶するでしょう。
 
 そのような側面が初めに注目され、 最も重要なものだと見なされ、
 
 そして最も長期間 記憶されるのです。
 
 あなたがボーダーの人に引きつけられるのは、
 
 出会う前に基盤があるのかもしれません。
 
 ボーダーラインの親を持つ人の多くが、
 
 ボーダーの人と結婚する理由は ここにあるのかもしれません。
 
 慣れ親しんだ 「合っている」 ものに感じられ、
 
 無意識に 過去から持ちこされた 未解決の件を終わらせたいと
 
 望んでいるからなのかもしれません。
 
 何が 自分とボーダーの人の内に 様々な感情をかきたてるかを知ることは、
 
 よりうまく関わり合っていくことに 役立つでしょう。
 
 少なくとも、 起こりうる問題を 早めに予期することができるでしょう。
 
〔「境界性人格障害=BPD 実践ワークブック」 (星和書店)
 〈ランディ・クリーガー著/監訳:遊佐安一郎〉 より〕
 

※ アクション・ステップ6  以下の信念を抱いていますか? (2)

2015年02月06日 21時02分19秒 | 「BPD 実践ワークブック」より
 
(前の記事からの続き)
 
_ 感情が自室を創り出す -- 逆ではない
 
 現実になんの根拠もない 決断をします。
 
 私たちは 感情が思考に影響することを 気付いていますが、
 
 ボーダーの人は 二者の区別がつかないかもしれないのです。
 
_ 全てのものは白か黒である。 明度差とか他の色は存在しない
 
 分裂 (スプリッティング) は 最も顕著なもののひとつです。
 
 分裂は年単位で続くかもしれませんし、 3分かもしれません。
 
 生活の全ての領域に存在し、 他の問題を複雑にします。
 
 人を祭り上げますが、
 
 それは そこから叩き落とすためだけに やっているようなものです。
 
_ 私は他の皆の行動の 犠牲者である
 
 自分が全面的に悪というのを 避けるため、 全ての不幸を 他人の過ちのせいにし、
 
 自分自身をかわいそうで不幸な 犠牲者とします。
 
 ボーダーの人が パートナーから自分で去っていっても、
 
 ノン・ボーダーラインの人が  「見捨てた側」 として非難されるのです。
 
_ 誰かをコントロールできれば、 私を愛してくれる
 
 自分の感情をコントロールできないあまり、 他者をコントロールしようとします。
 
 要求に従う人は 「愛され」、 従わないと 「極悪」 と分類されます。
 
_ 自分が幸せになるために 他人が必要だ。
 
  けれど この要求があまりに怖いので、 他人を遠ざけなければならない
 
 これは  「見捨てられ/飲み込まれのサイクル」 と呼ばれます。
 
 近づきすぎると、 ボーダーの人は 罠にはまったような気がします。
 
 離れすぎると、 見捨てられたと感じます。
 
  「大嫌い - 行かないで」 と名づけたような、
 
 連続的な引いては押す、 を繰り返す関係になります。
 
(次の記事に続く)
 
〔「境界性人格障害=BPD 実践ワークブック」 (星和書店)
 〈ランディ・クリーガー著/監訳:遊佐安一郎〉 より〕
 

※ アクション・ステップ6  以下の信念を抱いていますか? (1)

2015年02月05日 19時45分53秒 | 「BPD 実践ワークブック」より
 
 下記の各項目にあるような信念に基づくことを、 言ったり行なったりしましたか? 
 
 自己破壊, 取り残されているという感覚, 低い自尊心,
 
 言うこととすることの差異などを示すものです。
 
 各項目に1から5までの 5段階評価をしてみてください。
 
 1は 歪んだ考えを強く信じている, 3は 中立か不明,
 
 5は 歪んだ考えに対する 強い不信を示します。
 
 1か2の場合は、 ノートに説明を書いてください。
 
 
_ 私は価値がなく、 空虚で、 愛されることなんてない
 
 この信念のため、 ボーダーの人は批判に敏感です。
 
 酷評を投影するか、 自己破壊的なことを内面化することで、 批判に対処するのです。
 
 高機能のボーダーの人は、 うまくやっているというマスクを 被ることができます。
 
 しかし、 ボーダーの人とあなたが何をしようと、
 
 無価値感と恥の感覚は、 最終的に表に出てしまうのです。
 
_ 私はひどい人間で、 罰せられる必要がある
 
 自己愛の欠如を、 過度の補償、 つまり、
 
 自分は自信過剰気味で ハッピーでパワフル,
 
 そして 仕事でも有能な人間だと 人をだますことで、 埋め合わせをする人もいます。
 
 無価値感を他人に投影する人もいます。
 
 虐待に甘んじる人もいます。
 
_ 自分を愛する人がいたら、 その人はおかしい
 
  「完璧なパートナー」 を求めるという想定で、
 
 ある関係から別の関係に 移っていくかもしれません。
 
 しかし本当の問題は、
 
 近づきすぎることも 本当の姿を見せることも 恐れているのかもしれません。
 
 もしセラピストが、 ボーダーの人の 本当の問題を認識すると、
 
 ボーダーの人はセラピストのあら探しをし、
 
 自分に都合のいい 別のセラピストに移っていくのです。
 
(次の記事に続く)
 
〔「境界性人格障害=BPD 実践ワークブック」 (星和書店)
 〈ランディ・クリーガー著/監訳:遊佐安一郎〉 より〕