「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

間違っていた敬語

2006年02月28日 20時38分52秒 | Weblog
 
 話し下手のσ(^^;)が、何を間違ってかテレホン・オペレーターのバイトをしています。

 敬語の使い方の講習もありましたが、不覚にも今まで誤って使っていた敬語がいくつかありました。

 メールなどで相手に対して「~しておられる」と書いていましたが、「おる」は「いる」の謙譲語で、尊敬の「れる」との組み合わせはできなかったのです。

(それでも、今でもあえて使ってしまうことはあります。(^^;))


 それから、相手に「○○様でございますね」という言い方です。

 「○○様でいらっしゃいますね」が正しく、「ございます」は相手に対しては使わないということ。

 あと、「とんでもございません」という言い方もしてしまいますね。

 「とんでもない」の「ない」は、「あぶない」の「ない」と同じで、「ございません」にはならないそうです。

 「とんでもないです」か、「とんでもないことでございます」が正しい言い方です。

 でも、聞くほうもそれを知らない人が大半ですから、誤用しても失礼にならないのではないかと。(^^;)

 また、「○○のほう」というのも、たまに知らずに言ってしまうこともあります。(><)

 一昨日の「日記」の、「よろしいでございますか」を笑えないσ(- -;)でした……。
 

「お見えになる」

2006年02月27日 20時25分13秒 | Weblog
 
 きのうに続く日本語ネタです。

 過日の読売新聞に、「先生がお見えになります」は過剰敬語だという記事が載っていました。

 どうして過剰敬語なのか分からなかったので、読売新聞に電話で問い合わせました。

 すると担当の人も迷って、ちょっと調べてくるといって席を離れました。

 その結果、「先生」が自分の担任の先生くらいだとすると、「来られます」でいいだろうとのこと。

 もっと偉い先生ならば「お見えになる」でいいが、この記事の文面だけでは確かに不明瞭だったと詫びていました。

 他の読者からの質問などはなかったそうですが、天下の読売新聞の不備を指摘してしまいました。(^^;)
 

 ところが、それを受けてのことなのかどうか、数日後の読売新聞の「日本語日めくり」という欄に、「お見えになる」が取り上げられていました。

 「見える」はそれ自体が「来る」の尊敬語なので、「お~になる」と合わせると形の上では二重敬語になる。

 ただ「見える」の敬意は低めで、重ねてもさほど過剰ではなく広く使われている。

 文化庁の世論調査でも、82.9%の人が正しい使い方だと答え、定着を裏付けている、という内容でした。

 電話で読売に問い合わせた時と内容が違っています。

 また過日の記事は、日本語が誤って使われているという趣旨でしたが、「日本語日めくり」の記事は、「お見えになります」は過剰敬語だが定着している、という記述でした。

 同じ読売なのに、ニュアンスが逆になってしまっています。(^^)
 

「よろしいでございますか?」

2006年02月26日 17時23分51秒 | Weblog
 
 ランチバイキングが趣味のσ(^^;)。

 以前行ったランチバイキングでのことです。

 このレストランは場所も汐留の一等地、落ち着いてしゃれた雰囲気の店です。

 料理も安い料金と思えない、シェフが丹念に作り上げた手の込んだものでした。

 営業時間が終わりに近づいてきた頃、鈴木京香似のきちっとしたウエイトレスが、各テーブルを回って終了予定を告げに来ました。

「お料理が最後になりますが、よろしいでございますか?」

 隣のテーブルでも真面目な顔で同じことを何回も繰り返す彼女に、苦笑するやら閉口するやら。

 教育が行き届いているであろう従業員だけに、不思議に思いました。

 この場合は「よろしいですか」で充分。

 「よろしゅうございますか」ならいいですが、滅多に使わない言い方でしょう。

 「よろしいでございますか」は誤った敬語というより、ギャグの領域ですね。

 タレントのマルシアが言いそうな。(^^;)

 日本語ブームの昨今ですが、物を書く立場上、日本語ネタには引っかかります。
 

傷ついた治療者(2)

2006年02月25日 17時56分55秒 | BPDの治療について
 
 ボーダーの人も、これと同じことをしているのではないかという問いかけがされました。

 ボーダーの人の言動は、攻撃的だったり相手を不安定にしたりしますが、彼らは無意識のうちに、相手の中に自分と同じ傷つきを引き起こし、共感的状況を作り出そうとしているのかもしれないと。

 これが正しいかどうか、僕の立場では言えませんが、興味深い観点であるのかもしれません。

 一般的にはこれとは逆に、ボーダーの人の言動には巻き込まれないように、ということが言われます。

 そうすることで、何があっても動かないものが存在するのだということを、ボーダーの人に教えることになる、と書いてある本もありました。


 一方、書庫「女医さんのお話」の11月12日の記事で、「境界に生きた心子」を読んでくれた女医さんが次のように語っています。

「(ボーダーの人は、)感情に巻き込まれず優しく応対してくれる人に対して、
『とってもいい人だけど所詮私の気持ちはわからない!』と、
人柄は認めても感性は見下しがちです。

 ですからこのタイプの人に対しては、
『本人のその時々の感情と完璧に同じ感情エネルギーを表現して、共感を示した後、すばやく感情をコントロールして巻き込まれずに対処する』
ということを繰り返しやって見せるのが効果があります。

 そうすることで、
『共感できる感情を持った上で、更に感情をコントロールする方法がある。その方がもっと能力が上だ』
と体験的に教えることができます。」

 「傷ついた治療者」の話は、これと通じるようなことがあるのかもしれません。

 何が正しいか僕にはまだ分かりませんし、ボーダーの人によっても違うのかもしれません。
 

傷ついた治療者(1)

2006年02月24日 20時33分03秒 | BPDの治療について
 
 以前の記事で、僕は「ユング心理学研究会」という所に所属していることを書きました。

(書庫「心理」1月29日「ユングの連想実験(1)」)
http://www002.upp.so-net.ne.jp/u-jung/Index.htm

 今月は「傷ついた治療者をめぐって」というタイトルでセミナーがありました。

 傷ついた治療者でなければ患者を癒せないのか、というテーマです。

 そのなかで次のようなことが言われました。


 治療中、患者が治療者に起こす投影〔*注〕は、治療者に不安を引き起こしたり、攻撃的なものとして感じられる。

〔*注:自分の中のネガティブな感情や難点を、自分のものとして抱えるのは堪えられないため、それを相手のほうへ投げ映し、相手のものとして移しかえてしまうこと。

 自分の心を守るための無意識の防衛機制。〕

 しかし、治療者は患者から受けたこの傷(逆転移)を、引き受けることが重要である。

 治療者の個人的な傷がうずくことで、深い治療関係になる。

 治療者は逆転移を分析し、それを活用して患者を癒すことができる。

 これを患者の側から見ると、患者の無意識の働きがあるように思われる。

 投影は患者が自分の不快な感情を取り除くためだけではなく、ポジティブな目的も含まれている。

 つまり、患者が治療者の中に傷つきを見い出したり、作り出したりしようとしている。

 そのことによって、無意識に治療状況に持ち込もうとしているかのようである。

(続く)
 

「クラッシュ」

2006年02月23日 18時37分30秒 | 映画
 
 アカデミー賞最有力と言われるヒューマンドラマ。

 ひとつの交通事故をきっかけに、様々な人間たちのドラマが交錯し、ぶつかり合って(クラッシュして)いきます。

 愛あり、悲劇あり、涙あり、希望あり……。

 ひとつのエピソードは感動を呼び起こし、ひとつのエピソードは絶望的に終わり、ひとつのエピソードはおとぎ話のように……。

 人種差別主義者が自らの命も省みない正義感だったり、若く純粋な青年が己の罪を隠滅したり……。

 とにかく一筋縄ではいかない、善と悪とが常に隣り合わせに併存している映画です。

 作劇の基本の起承転結など超越し、いくつものエピソードが次々と繰り広げられていきます。

 普通の映画は、一人の主人公の視線でドラマが進み、クライマックスでカタルシスを迎えるわけですが、この映画は全員が主人公で、ハッピーエンドと惨劇とが共存しています。

 観終わったあとは複雑な気持ちに捕らわれました。

 しかし正にそれこそが人間であり、世界であるわけでしょう。
 

誕生日のお墓参り

2006年02月22日 09時48分27秒 | 心子、もろもろ
 
 心子のお墓の最寄りの駅、去年の12月に新しい店に変わった花屋さんで、鉢の花を買いました。

「ご自宅用ですか?」

「お墓なんですけど」

「いつも鉢物を買っていかれるんですか?」

「そのほうが持つんで」

「そうですよね」

 僕が前も鉢物を買うのを知ってたんでしょうか? 

 この店で買うのは3回目で、初めて応対してくれた店員さんは覚えてるんですが、2回目の先月は今日と同じ人だったかどうか? 

 先月も「ご自宅用ですか?」と聞かれました。
(先月はつい「まあ」と答えてしまいました。 (^^;))

 もし毎月こういう会話があると、この店員さんとはそのうち心子の話が出るかも知れません。


 お墓に着くと、先月,先々月に供えた花もまだきれいに咲いていて、鉢が全部で7つになり、お墓の前が明るい花々で包まれました。

 心子の家族が供えたのであろう切花もまだ真新しく、花で囲まれた心子も嬉しいことでしょう。 (^^)

 心子と温もりのひとときが持てました。
 

心子の誕生日

2006年02月21日 10時25分10秒 | 「境界に生きた心子」
 
 今日は心子の誕生日です。

 そして、「境界に生きた心子」の発刊1周年になります。

 彼女のバースデイ記念日出版です。

 拙著は心子の生まれ変わりでもあります。

 心子も生きていれば42才。

 どんな女性になっていたでしょうね。

(相変わらず子供っぽいかと (^^;))


 この1年、読者の方々から手紙やメールをいただき、感動したとか救われたと言ってくださった方も多く、拙著を書いてやはりよかったと思っています。

 インターネットで検索すると、拙著を読んでくれた人がHPやブログに感想を書いていたり、あちこちで取り上げてくれています。

 一方でボーダー本人の方が読まれると葛藤もあり、勉強になりました。

 昨年末からはブログも始め、色々な人たちとのつながりもできました。

 ネットの時代ならではのありがたいことですね。

 心子も喜んでいるだろうと思います。


 今後も「境界に生きた心子」が人々に伝わり、そしてマンガや映像になることを夢見ています。 (^^;)

 境界性人格障害への理解が広がることを。

 では、これから心子のお墓参りに行って、報告とお祝いをしてきます。 (^^)
 

心子との付き合い方(2)

2006年02月20日 21時25分05秒 | 心子、もろもろ
 
 巻き込まれないようにということが分かっているはずなのに、僕はすっかり彼女の言い草に乗せられていました。

 詰問に答えなければと焦ってしまいました。

 しかし、心子は実際に具体的な答が聞きたくて言っているのではありません。

 もし別のどんな返答をしても、彼女は満足しなかったでしょう。

 心子は自分自身に対する絶望的な怒りを抱えきれないために、ありあまる情念を僕のほうに向けていたのです。

 「別れよう」というのもそのときは本心に他ならないのですが、決して持続的な意思ではありません。


 それらを重々心得て、うろたえないように自分を保つことが僕には必要でした。

 ある程度振り回されるのは仕方ありませんが、バランスを取っていないと二人ともつぶれてしまいます。

 自分の常識的な感覚を頼りにして取り乱さないよう構え、日頃トラブルが重なっても、気疲れしたり嫌気がさしたりしないようにすること。

 それが肝心なのでした。
 

心子との付き合い方(1)

2006年02月19日 18時26分04秒 | 心子、もろもろ
 
 心子と向き合うときに重要なのは、彼女の発言や行ないに「巻き込まれないように」極力努めることでした。

 彼女の言うことを真に受けて困惑したり怒ったり、巻き込まれてしまうと共倒れになり、それでは元も子もありません。


 例えばあるとき、心子は生きる望みを失い、悲憤に駆られて僕に詰め寄ってきました。

「どう生きてったらいいの!? 彼氏なら教えて! 

 あたしの彼氏はちゃんと答えられる人であってほしいの! 

 答えられなかったら別れるからね! 

 彼氏はあたしより全てにおいて上じゃないといけないの!」

 心子の問い詰めに即答できるかどうか、僕は内心うろたえました。

「それも白か黒かを求めてるってことだよ。ひとつの答はないんだよ」

 僕は辛うじて取り澄まし答えましたが、心子は軽蔑的なため息をついて言いました。

「答えられないんだね……これで別れよう」

(続く)
 

境界性人格障害の心理

2006年02月18日 19時09分55秒 | 心子、もろもろ
 
 ボーダーの人は人格の「核」が育まれなかったため、苦しみや悲しみに向かい合うことが非常に難しいのです。

 葛藤を冷静に見つめたり、自分を省みる自我の力が弱いと言えます。

 心子にとって自分の言動を否認されることは、生存そのものが消滅してしまうくらい恐ろしいことでした。

 彼女の過激な反応は、その恐怖を振り払って生き延びるための、命がけのあがきなのです。


 生きる値打ちがあるのかどうか見いだせず、自分を大事にする気持ちがもろく壊れやすい。

 それを無意識に取り繕うため、優秀さを気取るマスクをかぶり、相手が自分より劣って間違っていると主張することで、自分が非難されるのをなりふり構わず阻止しようとします。

 もし相手が危険な人物だと見なされれば、自分がやられる前に先制攻撃をかけます。

 そうしている間は、底なしの悲嘆や喪失感に直面しないですむからです。

 闘うことで、辛くも倒れないよう持ちこたえているのです。

(続く)
 

ボーダーレス時代の象徴

2006年02月17日 19時55分17秒 | 心子、もろもろ
 
 ボーダーの人は、本来発達するべき人格が育ちませんでした。

 安定した自己がなく、衝動を自制できないのが中心的な症状であるとも言われます。

 そのため自分の願望通りにいかないと、感情をコントロールできなくなってしまいます。

 キレる若者たちのことが言われて久しいですが、子供に適切な愛情を与えられない親が増加し、子供の健全なメンタリティの発育が妨げられることと関係していると思います。

 現代は父親や母親の役割をはじめ、世の中の伝統的な価値観の枠が揺らぎ、様々な物事の輪郭があいまいになってきています。

 それに伴って、確固とした人格の形成がしにくくなってしまいました。

 境界性人格障害は、ボーダーレス時代の象徴的な心の障害です。

 彼らは社会の枠組みの境界線上にいて、一触即発の雲行きでさまよっているのです。

(続く)
 

心子と両親

2006年02月16日 22時37分13秒 | 心子、もろもろ
 
 母親はそんな心子を、放っておいても大丈夫な子だと思いました。

 その代わり、一才年上の兄には何かと世話を焼いたそうです。

 心子の目にはひいきに見えたことでしょう。


 逆に父親は、跡継ぎとしての兄の才覚に見切りを付けていました。

 父親は兄には手ひどい暴力を振るいました。

 顔面を殴り、鼻血がしぶきのように飛び散ったといいます。


 父親は心子には完璧を課しました。

 心子をあまり学校へはやらせず、家や実地で勉強させましたが、学校の試験は満点を取らなければ承知しませんでした。

 99点だと目の前で答案用紙を破り捨てました。

 それは零点と同じなのです。

 100かゼロかという心子の性質は、或いはこんなところからも植えつけられたのかもしれません。


 心子は父親の愛情を得るため、完全な良い子である自分を無意識に作り出したのではないでしょうか。

 常に100%でなければ父に褒められない,自身の存在意義が見つけられないため、目的に向かって馬車馬のように頑張ってしまいます。

 でも、それはそもそもの自然な自分の姿ではあり得ません。

 人生の一時期を“仮の自分”を装うことで切り抜けたとしても、いつしか何らかの壁にぶつかったとき、意識下に抑圧していた矛盾は噴き出してくるのです。

(続く)
 

心子と父親

2006年02月15日 11時29分26秒 | 心子、もろもろ
 
心子と父親は、並の父娘の結びつきではありませんでした。

 恋愛感情と言っていいものでつながり合っていました。

 心子は父親を異性として深く愛していました。

 幼い心子にとって、父親は完全無欠な男性の理想像になり、長じて心子が理想の男性を希求する原型になったのかもしれません。


 父親は遺伝的な心臓病で、いつ発作に襲われるか知れない体でした。

 父親は自分がいなくなったあとも心子が独力で生きていけるようにと、心子を厳しくしつけました。

 心子の素質を見込み、英語や礼儀作法,社会の表と裏を教え込みました。

 乗馬や社交ダンスも教えたということです。

 心子も勉強をしていれば時がたつのを忘れる子でした。

 そして親の手を借りずに何でもしてしまう子になりました。

 3才のときには独りで病院へ受診しに行ったといいます。

 受付の台が高くて診察券が届かなかったそうです。

(続く)
 

心子と母親

2006年02月14日 10時23分48秒 | 心子、もろもろ
 
心子は母親とも父親とも親子らしい愛情を育めませんでした。

 病気知らずだった母親は、幼いときから体の弱かった心子の痛みをくむことができず、心子は無神経な母親のせいで傷を負ってはうっぷんをぶつけました。

 母親とは人生観も感性も全く異にし、もめ事が絶えなかったといいます。

 心子は愛情をもらえなかった母親を憎んでおり、17才で家を出ました。

 このままでは母親を殺してしまうと思ったそうです。


 僕と付き合うようになってからも、母親とケンカになったというメールが何回か送られてきました。

<母は馬鹿で病人の気持ち判らない人で、他人の痛みが判らないヤツなんて人間やめろ!>

<母は下等動物だから、気にしてると私が発狂するから実家へ帰させました。人間所詮一人ですよ>

 ところが片方ではこんなメールが来ました。

<もう人を傷つけたくない。私はいつもそばにいる人を傷つける。いつかまた、あなたも傷つけてしまう。大切な人を>

 愛され方を知らずに育ち、愛し方も分からないのです。

(続く)