「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

触法精神障害者と 刑事責任能力 (5)

2010年05月30日 20時33分40秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
(前の記事からの続き)

 昨日のフジテレビ 「刑事・鳴沢了」 で、

 触法精神障害者の事件をやっていました。

 連続女性殺人事件の犯人が 精神障害 (詐病) で罪を逃れ、

 被害者遺族が 犯人を殺そうという話です。

 ラストシーン、 遺族役の遠藤憲一の 真に迫る演技は、

 やり場のない 遺族の激しい怒りが 痛切に伝わってきました。

 責任能力がないからといって、 家族を殺された遺族の 犯人に対する憎しみは、

 到底おさまるものではありません。

 その悲しみや怨念は、 僕にも 身を切られるように理解できました。

 では、 詐病の場合は別にして、

 責任能力のない者でも 罰するべきだということになるでしょうか? 

 例えば、 もし仮に 加害者が、

 誰かに催眠術でもかけられて 殺人を犯してしまったとしたら、

 遺族の怒りは 加害者よりも、 催眠術をかけた人間に 向かうのではないでしょうか。

 加害者本人は 殺意も通常の意識もなく、 ただそうさせられてしまっただけで、

 その人に責任があるのではないということが、 遺族にも分かるだろうと思います。

 それと同じように、 例えば 精神病の幻覚や幻聴のために 人を殺めてしまったら、

 それは 本人の意志ではなく、

 「別の力」 によって やらされてしまっただけなのです。

 しかし その場合には、 遺族の感情の ぶつけ所がありません。

 そのため怒りは 加害者向かうしかないのでしょう。

 でも 催眠術の例で考えれば、 加害者に責任はなく、

 憎しみは 加害者に向けるべきではないということが 分かるはずだと思います。

 そこで 刑罰とは別に、 遺族の 怒りや恨みを和らげる、

 心のケアの対処が 必要になってくると考えるのです。

 それは難しいからといって 加害者を罰しても意味はなく、

 法治国家として 国民の心の安寧を 保障していかなければならないと思います。
 

〔追伸〕
 
 催眠術では、かけられた人が元々悪だと思っていること(道義的にできないと思っていること)は、やるように仕向けられてもできないということを、以前TVでやっていたのを思い出しました。
 それは願わしいことですが、上記の日記は例えですから、不都合はないでしょう。
 

触法精神障害者と 刑事責任能力 (4)

2010年05月29日 20時03分16秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
(前の記事からの続き)

 責任能力のない者を 処罰してならないのは、

 「責任主義刑法」 という 刑法の大原則です。

 刑法39条は それに基づいたもので、

 その対象者は 刑罰ではなく医療の対象になるのです。

 では 精神障害者は、 一般の人より 犯罪を犯しやすくて 危険なのでしょうか? 

 精神障害者の犯罪率は、 一般人の 約三分の一だと言われます。

 ただ、 殺人や放火などは 精神障害者の割合が高いようです。

 しかしそれらの人は、 犯行時に治療を受けていなかったり 中断している場合が多く、

 適切な治療をしていれば 防げる可能性が高かったでしょう。

 治療を受けられる社会体制を 整備する必要があります。

 それには、 精神障害に対する 偏見を改め、

 患者が病院へ 行きやすくすることも大切です。

 再犯率においても、 精神障害者は 一般人より低くなっています。

 殺人の再犯率は 双方でほとんど変わらず、

 放火のそれは 一般人のほうが かなり高いということです。

 正しい情報によって、 精神障害者に対する 誤解を解消していかなければなりません。

 精神障害者に 自傷他害の恐れがある場合、

 強制的に入院させる 措置入院の制度は、 治療という 本人の利益のためです。

 それに対して、 治安維持のために 入院させるのは、

 刑罰に代わる 処罰としての拘束にもなりえます。

 これは、 かつて否定された 保安処分に通じるもので、

 危険な考えだと 言う人もいます。

 治療のための入院と、 治安のための入院は、

 厳に分けて考えなければならない ということです。

 正しい情報や解釈によって、 精神障害者と理解し合い、

 互いに共生する 社会にしていきたいものです。

〔参考文献:
http://www.seirokyo.com/archive/folder1/shokuhou/seimei/0109satomi.html
http://www.kyotoben.or.jp/siritai/menu01/i22.html 〕
 
(次の記事に続く)
 

触法精神障害者と 刑事責任能力 (3)

2010年05月28日 21時15分50秒 | 凶悪犯罪と心の問題
(前の記事からの続き)

 罪を犯した精神疾患者の 治療や矯正は、 自傷他害の恐れがある場合、

 病院や施設に 入院・ 入所して行なうものです。

 従って 自由は拘束されます。

 治療, 矯正, 再発防止の責任は、 むろん国にあります。

 そして 言うまでもなく、 精神疾患者には人権があります。

 むしろ 自立して生きていけない面、

 普通の市民以上に 守られなければならない存在 ともいえるでしょう。

 いつ退院・ 退所していいか という決定は、

 個々のケースで それぞれに判断していくしか ないと思います。

 再犯を防ぎ、 市民の安全を守ることは 何よりも大切ですが、

 だからといって精神疾患者を 無闇に拘束することはできません。

 暴力団組員だというだけで 逮捕できないのと同じように。

 退院・ 退所の判断に 決して間違いがあってはいけないわけですが、

 人間が行なう以上、 冤罪が起こりうるのと同じように、

 完璧はないと 言わざるを得ないのかもしれません。

 (すでに起こったことを 判断するより、

 将来のことを判断する方が 難しいと言えるでしょう。)

 人権の尊重と、 社会の安全と、

 究極のところで 人間の叡智を 絞っていくしかないのだろうと思います。

 かつて ハンセン病患者などをはじめ、

 ハンディを持った 数々の人たちに 人権が認められず、 不条理な偏見 差別を受け、

 悲惨な不幸を 生んできた時代を通して、 社会は人権意識を 発達させてきました。

 今度は、 触法精神障害者の番だと 言えるかもしれません。
 

〔参考〕

 加害者の甦生プログラムには、  「アミティ」 がとても有効とされています。

 下記の記事から連載しています。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/30977301.html

 被害者への心のケアとしては、 心理カウンセリングは元より、

 アメリカでは 殺人事件の被害者遺族と 死刑囚の家族が 共に旅をして、

 和解と癒しを求める  「ジャーニー・オブ・ホープ」 が行なわれています。

http://homepage2.nifty.com/shihai/report/sakagami/1.html

 被害者遺族と死刑囚本人が 面会する試みもありました。

(次の日記に続く)
 

触法精神障害者と 刑事責任能力 (2)

2010年05月27日 21時16分34秒 | 凶悪犯罪と心の問題
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 刑法39条があると、 精神疾患者は 何をしても罰せられないから、

 恐ろしい存在だという偏見を 生じさせるという意見があります。

 しかし、 だから 精神疾患者を罰するべきだ というのではなく、

 そういう偏見を解くため 正しい情報を発信していくのが、 あるべき姿勢でしょう。

 責任能力のない者を罰するのは 酷だと思うのは、

 単なる 「情」 に 過ぎないでしょうか?

 しかし そもそも、 「情」 のない司法も 世界も存在しないと 僕は思っています。

 罪を犯した者は 償うべきとか、 責任がない者を罰するのは 不当と思うのも、

 人間の本質的な 感情だと思います。

 「何故償うべきか?」 という 明晰な論理を 見いだすのは難しく、

 直感的, 経験的に そう感じるからです。

 (僕は、 人間の理屈は 最も深い所で、

 感情の上に乗っているものだと 思っています。

 感情は善悪を判断する、 「合理的な」 心の機能です。

 僕は 感情は論理より深い (強い) と 思っていますが、

 「感情」 「論理」 の議論は 本題ではありません。

 また 法の場では、 感情から客観性を 導き出さなければなりません。)

 因みに、 「情状酌量」 は 正に 「情」 に応えようとするものですし、

 裁判員制度も 健全な市民感情を 取り入れるためのものです。

 (もっとも僕は、 国家の法には 通常の市民感情よりも、

 崇高な理念が 必要だと思う場合も あるのですが。)

 そのような 人間の根源的, 一般的な感情に、

 合理的に対応するため、 体系的なルールを作るのが 法だと思います。

 要するに、 そのとき 情に流されすぎないよう、

 理性的に バランスを取ることが 肝心なわけでしょう。

 精神疾患やBPDなどに対する、 精神医学的な 知見の深まりを 期待すると共に、

 以上の事柄を 考え合わせて、

 これらの刑事責任能力と 罰を熟慮するべきだと思います。

 最後に もう一度、 被害者の心のケアを 進めることが、

 何にも増して 大切なことだと 強調しておきます。

(次の記事に続く)
 

触法精神障害者と 刑事責任能力 (1)

2010年05月26日 23時58分03秒 | 凶悪犯罪と心の問題
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 近代の刑法は、 仇討ちやリンチを防ぐため、

 被害者に変わって 国家が加害者を罰する という思想です。

 心神耗弱・ 喪失は 罰を減免するという刑法39条も、

 加害者を罰するべきか、 つまり責任能力が あるかどうかという観点で、

 被害者の立場は 考慮されていないのではないかと 思われます。

 被害者の応報感情は 考慮されるものの、

 司法の場で 被害者は今まで 蚊帳の外に置かれてきました。

 でも 近年になってようやく、 被害者にも光が 当てられるようになってきました。

 僕は 犯罪被害者支援の勉強もしていたので、

 被害者の立場の苦悩も 理解しているつもりです。

 しかし 責任能力のない者を罰するのは、 やはり意味がないことだと 僕は思います。

 子供に 刑事罰を科さないのと同じです。

 そういう加害者に必要なのは、 治療, 教育, 矯正などだと考えます。

 それから、 再発防止のための 医療や施策も不可欠でしょう。

 そして それらと同時に、 それ以上に重要なことは、

 被害者に対する 物心両面への支援 (なかんずく心のケア), 補償などだと、

 僕は 以前から述べています。

 それが国家の義務ですが、 特に日本では それが何より遅れています。

 被害者への心のケアの 有効なプログラムは、

 今のところ世界的にも 充分ではないのでしょうが、 研究の推進が望まれます。

 被害者の応報感情は 当然のことですから、

 何とかそれを癒す術を 早急に、 どこまでも 追求していってほしいと思います。

 現在 ケアが足りないからといって、

 加害者を罰するのは 目指す方向が違うでしょう。

 責任能力を持てない者を 罰しても、

 抑止能力にならないのは 明らかではないでしょうか。

 彼らは意識して 犯行をしているのではなく、

 犯行時に 罪を自覚できないのですから、 罰を恐れる心理は 働きません。

 従って、 新たな被害者が 減ることもありません。

 法治国家の秩序を 守るために求められるのは、

 効力のない刑罰ではなく、 再犯や新たな犯行の 防止でしょう。

 今の日本の刑務所は 更生教育の役割は ほとんど果たしておらず、

 その意味でも 単なる拘束は 無益だと思います。

 罪に応じた罰 という視点からも、

 責任のない人に 罰を負わせるというのは 不当なことです。

 繰り返しになりますが、 肝要なのは 治療や教育です。

(次の記事に続く)
 

パーソナリティ障害と 刑事責任能力

2010年05月23日 20時49分19秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
(前の記事からの続き)

 解離性同一性障害とパーソナリティ障害の 解離症状の差異に対して、

 刑事裁判では責任能力を どのように判断するべきでしょうか? 

 心子も 広義の解離性同一性障害でした。

 記憶をなくすことも しばしばありました。

 または、 記憶のない時ではなくても、

 心子が何かのきっかけで、 人を害することを 起こさなかったとは言い切れません。

 現実には 犯罪とは縁遠い心子でしたが、 一般にBPDの人は、

 罪科を起こしたり 巻き込まれたりする可能性も、 ないとは言えないでしょう。

 解離性同一性障害は 責任能力を免れる場合が あるのに対して

(日本ではまだ そういう判決はありませんが)、

 パーソナリティ障害は責任能力ありとされます。

 自分を抑えらずに、 自分自身が最も苦しんでいる パーソナリティ障害の人に対して、

 それは酷な面が あるのではないかと、 僕は感じています。

 統合失調症などは、 心神喪失なら 刑事責任を負わされないことがあります。

 心神耗弱の状態では 刑を減じられます。

 BPDの人が 例えば解離を起こしたとき、

 心神耗弱、 さらには 心神喪失とも言える 状態があるかもしれません。

 詳しい精神医学的な 研究が必要で、 法的にも綿密な 検討が望まれます。

 裁判員になる市民にも、 真摯に考えていってほしい問題です。

 そのために、 パーソナリティ障害の知見が もっと広く知られ、

 理解されるようになっていかなければ と思います。

(次の記事に続く)
 

ミュンヒハウゼン症候群、 パーソナリティ障害と 刑事責任能力

2010年05月22日 21時01分22秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
(前の記事からの続き)

 2000年、 奈良でも 

 代理ミュンヒハウゼン症候群の被告の 事件が発覚しました。

 このときは、 同症候群に対してではなく、

 被告女性の家庭環境に対する 情状酌量によって、 減刑がされました。

 被告女性は 子供の頃より、 父親から近親姦を受け、

 複数の男からも 性的虐待を受けています。

 離婚後は 相次いで、 3人の子供のうち 二人が死亡、 一人が自殺未遂、

 両親が不審死を遂げました。

 こうした生育歴が、 同症候群に関わっているでしょうか。

 また、 他の 代理ミュンヒハウゼン症候群のケースでは、

 子供のときに 手術を経験して、 周りの同情を買った 記憶から、

 病気を作り出す行為を 繰り返す例も多いといいます。

 代理ミュンヒハウゼン症候群と パーソナリティ障害との関わりも

 指摘されているそうですが、

 どちらも生育歴や 幼少時の愛情不足が 関係しているのかもしれません。

 普段から充分な愛情を 与えられている子供なら、

 わざと病気になって 同情を引く必要はないでしょうから。

 BPDも、 本人が充分な愛情を 感じられなかった結果、

 愛情を得るため 死に物狂いになったり、

 思い通りにならないと 自分を抑えられないほど、

 激しい言動に 走ってしまうわけです。

 しかし、 パーソナリティ障害も 代理ミュンヒハウゼン症候群と同様、

 刑事責任能力はあるとされています。

 一方、 解離性同一性障害の被告では、

 多重人格を広く知らしめた ビリー・ミリガンをはじめ、

 強姦や殺人が 無罪になった例があります。

 犯罪を犯した人格が 主人格とは別で、 主人格には記憶がないからとされます。

 けれども、 解離症状を起こして、 自分の起こした言動に 記憶がなくなるのは、

 BPDも同じです。

 この点は BPDも解離性同一性障害も 類似したメカニズムで、

 ストレスの程度の 差によるのかもしれません。

(次の記事に続く)
 

ミュンヒハウゼン症候群と 刑事責任能力

2010年05月21日 17時20分15秒 | 凶悪犯罪と心の問題
 
 裁判員制度が始まり、 ちょうど今日で 1年目ということです。

 折しも、  「代理ミュンヒハウゼン症候群」 の 女性が起こした

 傷害致死事件の判決が、 昨日 京都地裁でありました。

 母親が 自分の娘3人の点滴に、 異物などを混入して 死傷させた事件です。

 「代理」 が付かない 「ミュンヒハウゼン症候群」 というのは、

 自分に関心を持ってもらうため、 自分自身を傷つけたり、

 病気を装ったりするものです。

 “ほら吹き男爵” の異名を持つ、 ドイツの実在の貴族・

 ミュンヒハウゼン男爵から 命名されました。

 ただし  「詐病」 とは異なり、 周囲の同情を得る 精神的利益が目的で、

 そのために 自傷や手術を受ける リスクも厭いません。

 詐病は 主に経済的利益のためであり、 大きなリスクは避けようとします。

 「代理(による)ミュンヒハウゼン症候群」 は、

 傷つける対象が 自分ではなく 別の人であり、

 被害者を献身的に看病をする 自分の姿に、 関心を集めたいためにするものです。

 多くの場合、 母親が子供を傷つけますが、 母親は子供を愛していて、

 懸命に子供に尽くすため、 周囲は傷害行為に なかなか気付かないといいます。

 母親の目的は あくまでも、 看病する自分が 注目されることであって、

 子供を傷つけることでは 全くありません。

 今回の事件でも 殺意はなく、 医学知識の不足のために、

 死にまで至らしめてしまった ということでしょう。

 昨日の判決では、 同症候群のために、

 刑事責任能力が一定程度 低下していることは認められましたが、

 弁護側が主張した 執行猶予は付きませんでした。

 「裁判員制度スタート以来、 最も難しい事件」 とも言われる この裁判ですが、

 裁判員に 難解な医学知識を 理解させると共に、

 心の障害を持った 被告の責任能力の判断は、 今後のことも含めて 大変な難題です。

(次の記事に続く)
 

よい自分、 悪い自分、 そして本来の自分 (3)

2010年05月20日 20時34分13秒 | 「境界性パーソナリティ障害」より
 
(前の記事からの続き)

 しかし、 心子は 母親に対しては、  「悪い子の自分」 を 経験していました。

 心子は 僕に向かっても、 母親のことを ひどくけなしたりしていました。

 病気知らずだった母親は、

 幼い頃から 体の弱かった心子の 痛みを理解することができず、

 心子は 無神経な母親の所為で 傷を負っては、 うっぷんをぶつけたといいます。

 母親とは 人生観も感性も 全く異なり、 もめ事が絶えませんでした。

 心子は 愛してもらえなかった 母親を憎んでおり、 17才で家を出ました。

 このままでは 母親を殺してしまうと 思ったそうです。

 しかし実は、 心子と母親との関係は それ相応に良かったようです。

 心子と母親は 結構旅行にも行ったり、

 母親は 心子のマンションへ 頻繁にやってきて、

 家賃や食料を届けたり、 心子のベッドに 母娘で寝たりしていました。

 心子の中には、母親に対する 愛と憎悪が同居していたでしょう。

 心子は 僕の所へ、 母を口さがなく なじるメールを送ってきたりし、

 しかしその直後には、 それを悔いるメールを 送信してきました。

 愛され方を 知らずに育ち、 愛し方も 分からなかったのです。

 「よい子の自分」 と 「悪い子の自分」 が バランス悪く併存し、

 二分法的で極端に揺れて、 不安定になっていた状態です。

 残念ながら、 それを統合する道のりを 歩み始める前に、

 心子は 幕引きをしていってしまいました。
 

よい自分、 悪い自分、 そして本来の自分 (2)

2010年05月19日 19時20分58秒 | 「境界性パーソナリティ障害」より
 
(前の記事からの続き)

 心子は 父親に厳しく育てられ、

 何でも 完璧にやりこなす価値観を 植えつけられました。

 幼かった心子は 父親を愛しており、

 父に認められるため、 完全な 「よい子の自分」 を 作り出したのでしょう。

 一心不乱に勉強し、 習い事をし (ただし後者は、 心子の心的事実でした)、

 何でも独りでする 子になりました。

 (心子は元来 勉強好きで、 勉強していれば 時間が経つのを 忘れる子でした。)

 そして、 心臓発作を抱えていた父親と、 共に逝くことを 約束していました。

 (これも 心子の心的事実です。)

 父親は 心子が10歳のとき 急逝しますが、 心子は約束を 果たせませんでした。

 父との誓いを破った、 そのことが、 その後の心子を呪縛し、

 彼女の根源的な 罪悪感, 自己否定になります。

 心子は 父親に逆らい、 「悪い子の自分」 を形成する

 機会を失ってしまったのだと 思います。

 父親が生きていれば、 思春期を迎えて 自我が育つにつれ、

 父の不完全さも 見えてきて、 自然な反抗期を 迎えるでしょう。

 しかし 心子の中では、 父親は完全無欠なままの イメージで残り、

 父親を否定するプロセスを 辿れなかったのでしょう。

 心子の主治医の先生も、 治療において、

 死者が相手なのは 非常に難しいと言っていました。

 心子は 父親に対して、 「よい子の自分」 と 「悪い子の自分」 を通過し、

 統合することができませんでした。

(次の記事に続く)
 

よい自分、 悪い自分、 そして本来の自分 (1)

2010年05月18日 20時04分25秒 | 「境界性パーソナリティ障害」より
 
 思春期を迎えるまでは、 親から与えられたままに、 自分を形成します。

 それは 親の価値観に支配された  「よい自分」 です。

 思春期から 自己意識が育ってくると、 その自分に気付いて、

 お仕着せを脱ぎ捨て、 正反対の自分を まとおうとするようになります。

 それが 「悪い子の自分」 です。

 親を恨みつらみ、 困らせ、 それまでの人生を すべて否定するのです。

 この時期は、 親に対する嫌悪と 自分に対する嫌悪が 同居しています。

 しかし 境界性パーソナリティ障害の人は、  「悪い子の自分」 になりきれません。

 「悪い子の自分」 として 振る舞いながら、

 罪悪感や後ろめたさを 感じてしまいます。

 「よい子の自分」 と 「悪い子の自分」 が 統合されることなく、

 バランス悪く併存しています。

 二分法的で 極端に揺れ、 不安定になるのです。

 そこからの回復は、 双方が大切な 自分だということを受け止め、

 両方の自分を 統合することです。

 それによって、  「本来の自分」 に辿り着くのです。

 否定してきた親や、  「よい子の自分」 を 再評価することです。

 同時に、  「悪い子の自分」 に対して 距離を取り始め、

 「悪い子の自分」 を もう一度否定します。

 「よい子の自分」 に戻るのではなく、 それを受け入れ、

 「悪い子の自分」 も通過した、 新たな自分が生まれます。

 この過程は 一回限りではなく、 何度か繰り返されて 成し遂げられます。

〔 「境界性パーソナリティ障害」 岡田尊司 (幻冬舎) より 〕

(次の記事に続く)
 

自分を統合する (2)

2010年05月16日 09時15分17秒 | 「境界性パーソナリティ障害」より
 
(前の記事からの続き)

 4月22日の記事に 書いたように、

 心子はある時期から、 自分を呪縛していた 父親との関係を語るようになり、

 その頃から自殺企図や、 解離を起こして 子供の人格が現れるようになっていました。

http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/60571174.html

 症状が悪化したのではないかと 僕は心配していましたが、

 主治医の森本先生は、 意識下の真実を出すようになって、

 初めて 解離した自分を  「統合」 する作業が 始まるのだと説明しました。

 心子の治療に要するのは、 幼いときのでき事を思い出して 内的な再体験をし、

 その思い出を癒していくこと、 そして心理的に 象徴的な死を通して、

 生まれ変わっていくことなのだといいます。

 それが回復へのプロセスです。

 しかし その統合の過程が、 本人にとっては 最も苦しい道のりになります。

 自身の古傷や欠陥などを 掘り下げていくことが求められ、

 それは 針のむしろのようなものでしょう。

 快方に向かい始める途中で 抑うつ状態に陥ったり、

 一時的に 解離などが生じることがあり、

 最悪の場合は 自殺に向かってしまうこともあります。

 いずれにしても、 治療は十年単位になると 言われました。

 けだし、 心子はその一歩を 踏み出していたところだったのでしょうか?

 まさしく心子は、 生死の境界を さまよい歩いていたのでしょう。
 

自分を統合する (1)

2010年05月15日 08時02分31秒 | 「境界性パーソナリティ障害」より
 
 境界性パーソナリティ障害の回復において、

 それまでの人生を振り返り、 出来事に どういう意味があったかを、

 ひとつの物語として 統合していくことが、 大きな山場となります。

 それは 自分をめぐる 家族の歴史全体を 理解する作業にもなります。

 語ることや 書く作業を通して、 再統合が進むに従い、

 傷や呪縛から 次第に自由になり、 主体性とコントロールを 取り戻していきます。

 深刻なケースほど この作業が求められます。

 しかし それにはある程度、 自分をコントロールできる 必要があります。

 過去に向き合うのは、 パンドラの匣(はこ)を 開けるようなもので、

 体験が深刻であるほど 一時的に不安定になり、

 自傷や自殺企図を 誘発する危険もあります。

 外来治療では リスクや時間的制限のため、

 この領域に踏み込むことには 慎重にならざるを得ません。

 でもそれは 火種を抱えたまま、

 ごまかしてどうにか バランスを取っていることです。

 治療だけでなく、 宗教, 社会奉仕, 芸術的自己表現などによって、

 それを克服していく人もいます。

 どういう方法でも、 自分の人生に 意味を取り戻し、

 再統合を成し遂げていくことです。

〔 「境界性パーソナリティ障害」 岡田尊司 (幻冬舎) より 〕

(次の記事に続く)
 

遺伝, 脳, 環境の相互作用

2010年05月13日 21時56分48秒 | 「BPDのABC」より
 
 BPDのリスク因子は、 生物学的要因と環境的要因が 考えられます。

 生物学的要因には、 物理的脳, 化学的脳, 遺伝の3つの部分があります。

 物理的脳はハードウェアで、

 脳スキャンによって、 BPDの人の脳が 違うことが見られます。

 化学的脳はソフトウェアで、 神経伝達物質を通じて 行なわれる伝達です。

 このバランスが崩れると、 考え方, 感じ方, 振る舞い方が荒らされてしまいます。

 遺伝は青写真のようなもので、

 いくつかの遺伝子の 組み合わせによって、 BPDの発症の可能性が 高くなります。

 遺伝, 脳, 環境は、 相互に作用して BPDを生み出します。

 チョコレートケーキから 砂糖, 卵, 小麦粉を分離できないように、

 互いに織り合わさっているのです。

 相互作用の詳細については、 なお 分からないことが沢山あります。

 大事なのは、 ある人の環境が BPDを引き起こすとは 示されていないことです。

 フリーデル博士は こう書いています。

 「同じ虐待, 別離, 悪い子育てにさらされた 多くの人々が、

 境界性人格障害を発症せず、

 一部のBPD患者は こういった環境的リスク因子の どれも経験していない。」

 「ある人が 境界性人格障害を発するには、

 生物学的リスク因子と環境的リスク因子の、

 何らかの 決定的な組み合わせが 必要である可能性が 非常に高い。」

〔 「BPDのABC」 ランディ・クリーガー / E・ガン (星和書店) より〕
 

 最後の部分、 BPDの人の一部は 虐待や不適切な生育環境を 全く経験していない、

 というのは 注目すべきことです。

 以前は 親の育て方ばかりが 悪者にされてきましたが、

 生育歴には一切 問題がないケースも あるということです。
 

BPDは遺伝するか? 

2010年05月12日 22時00分21秒 | ボーダーに関して
 
(関連記事: http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/59959409.html )

 DNAの存在が 知れ渡るようになって、

 「遺伝」 という言葉の印象が 少し変わってきたように思います。

 以前は、 親の持っている (表に現れている) 特性が、

 子供にも現れることを、  「遺伝する」 と言っていました。

 (隔世遺伝も含めて。)

 しかし現在は、 遺伝子に組み込まれている 先天的な要素を、

 「遺伝的」 なものと言うでしょう。

 DNAは 両親から受け継いだものですが、

 親はその性質が 必ずしも表に現れているとは 限りません。

 それゆえ、 「遺伝」 という言葉から 受けるニュアンスが、

 人によっては 違ってきてはいないでしょうか? 

 BPDのでは、 脳の脆弱性など (遺伝的) が 第一の要因と言われていて、

 親も そういう遺伝子を持っていても、

 BPDを 発症している場合と、 していない場合があります。

 そのために、 BPDは遺伝とは言えない という人もいるでしょうか? 

 ランディ・クリーガーさんの著書によれば、

 BPDの発症に 関係する遺伝子が 4~5個あるそうです。

 ただし、 遺伝しうるのは BPDではありません。

 衝動性, 感情の規制, 攻撃性, うつ, 脆弱性など、

 組み合わさると BPDを発症するかもしれない特性が、

 遺伝する可能性があるのです。

 その意味では、 BPDは遺伝ではないとも 言えるでしょう。

 BPDの発症には 数個の遺伝子が関係しており、

 親や兄弟でも、 それらの遺伝子の 組み合わせが異なります。

 両親とも BPDを抱えていなくても、 子供のうちの一人に、

 BPDが発生するような形で 遺伝子が結合するかもしれません。

 遺伝子の組み合わせによって、

 BPDを発症する可能性が 異なってくるということです。

 それは親のせいでも 子供のせいでもないのです。
 
〔 参考文献:

 「BPDのABC」 ランディ・クリーガー / E・ガン (星和書店) 〕