「境界に生きた心子」

境界性パーソナリティ障害の彼女と過ごした千変万化の日々を綴った、ノンフィクションのラブストーリー[星和書店・刊]

物語の名人 …… 子どものBPD (2)

2009年03月17日 20時17分57秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の日記からの続き)

 BPDの子どもの中には、 “物語の名人” と言える子がいます。

 話を作り上げ、 まるで真実のように 見事に物語るのです。

 「意図的な嘘」 と呼ばれますが、 それは 次のような理由によります。

 難を逃れるため, 社会的に受け入れられるため,

 復讐するため, 関心を得るためなどです。

 「恩赦を与えるやり方」 を うまく利用することができます。

 まず 嘘がどのようなトラブルを 引き起こすか、 よく話し合います。

 そして 嘘をついても、

 それを正直に打ち明けたら 怒らないと約束します。

 そうするうちに、 嘘をついてから それを告白するまでの期間が、

 だんだん短くなるといいます。

 その後、 嘘を付いている最中に 話を止め、

 その場で嘘を認めて、 話をやり直すようになり、

 やがて 全く嘘をつかなくなるということです。

 BPDの子の中には、 空想と現実の区別が できていない場合もあり、

 自分の話していることが 真実だと確信していることがあります。

 一方、 自分の話が 事実でないと理解していながら、

 話に封じ込められて 後戻りできなくなっていることもあるようです。

〔 「BPDをもつ子どもの 親へのアドバイス」
  ランディ・クリーガー (星和書店) 〕 より

(次の記事に続く)
 

「心のネットワーク」 (4)

2009年03月15日 15時14分01秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「それは、 アメリカで進んでいる

 『臨死体験』 の研究によっても 裏打ちされるだろう。

 臨死体験をした人達は その大半が、 死に対する 恐怖がなくなり、

 死後の生命を確信し、 限りなく自分が受容され、

 絶対的な存在との一体感、 筆舌に尽くしがたい 安らぎを得るという。

 それは、 『あるもの』 による 究極の 『癒し』 なのだろうと 僕は思う。

 僕には 肉体的な臨死体験はないが、

 精神的死に瀕していた 体験を通して 絶対的なものと邂逅した。

 これも臨死体験に通ずる 証左であると思っている。

 また 臨死体験者は、 無条件の愛、 人類同胞意識、

 思いやりや寛容というものの 価値を見いだし、

 その後の人生観が 一変するという。

 自分の存在が 全面的に抱かれていると 感じられたとき、

 自らもまた 他のために奉ずることが できるのかもしれない。

 全ての人間は、 『あるもの』 の許で 受け入れ合い、

 支え合っている存在である。

 自ら生きるとともに、 互いに生かされ合っている。

 他者に臓器を 提供するという価値観も、 ここに通じてくるのだと言える。

 『私の命』 と 『あなたの命』 は 同じひとつのものである。

 その死生観のうえにこそ 移植は成り立つだろう。

 ひとりの命は 万人に与かっているし、

 万人の命もまた 一人に与かっているのである。」


 かつての僕は、 理想ばかりが怪物的に巨大で、 その結果 精神的に破滅し、

 それまでの自分の 信念も希望も 全てを失ったのでした。

 でも その泥沼から這い上がり、

 再び零から 価値観を築いていくことができました。

 今の僕は、 現実と自分の 限界も受け入れ、

 しかし 決して妥協することなく、

 時間をかけて じっくりやっていかなければならないと 思っています。

(以上)
 

「心のネットワーク」 (3)

2009年03月14日 22時51分27秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、

 癒されるべき 存在なのではないだろうか。

 だが、 この世で それが得られることは 稀である。

 本当に人が苦しむことを 許せる人間は 極めて少ない。

 人は 他人の不幸と在ることを 嫌悪する。

 不幸の重さは 隣りの人をも押しつぶす。

 不幸は 人に伝染するかのようである。

 人の心に 携わっている人間でさえ、

 身も世もない苦悩を 自ら味わったことのない者は、

 苦しみもがく人間の どうしようもない痛切を、

 ついには 受け入れられないことがある。

 最も癒しを求め、 分かち合いを信じた 正にそのとき、

 否定される傷の深みは 無惨なまでに痛ましい。

 しかし 人間には、 それでもなお 人を信じ、 受け入れていこうとする、

 ほとんど祈りにも近い  『希求』が、 いつしか再び 湧き起こってくる。

 多くの人に受け入れられないことを 悲しむより、

 ある魂を持った人々と 通じ合えることこそが、

 幸甚であると 言うべきなのだろう。

 その人々の魂だけで 万人に値する。

 それによってこそ 人は支えられ、 癒される。

 それはまた、 人を想い、 共にあろうとするときの 力となる。

 それが 『あるもの』 へと 繋がる証である。

 そしてまた、 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を 終えたとき、

 『あるもの』 の許へ 帰っていく、 と僕は思っている。

 死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。 」

(次の記事に続く)
 

「心のネットワーク」 (2)

2009年03月13日 20時18分25秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 『 もし僕が 人生に殺されたとしても、

 それでもなお、 僕は 人生に希み (のぞみ) を かけずにはいられない。 』

 苦中の僕は、 深大な感慨をもって それを感得することができた。

 人生は いつかまた 僕を裏切るだろう。

 しかし、 僕こそは もはや人生を 裏切ってはならないのだ。

 幸福なときにではなく、 最も苦しいときに、 それを感じ取ることができた。

 感じ取れるものが 自分の中にあった。

 自分はもう生涯 幸せになることはできないだろうと 苛まれていたなかから、

 絶望ではなく希望が、 憎しみではなく愛が、 自らのうちに甦ってきた。

 この底知れない希望は、 果たして何なのだろうか?

 一体どこから やって来たものなのだろうか?

 これはもはや  『あるもの』 から 自分のうちに与えられたのだ、

 としか、 僕には思えない。

 与えてくれたもの、 信じさせてくれたものの 存在を、

 僕は 渇仰しないわけにはいかない。


 僕は 特定の宗教は持たない。

 それが 『あるもの』 に対する 僕の敬虔さである。

 『あるもの』 は 一切を止揚し、 そしてまた 万物のなかにある。

 『全』 にして 『個』、  『個』 にして 『全』 というものなのだと思う。

 自己 (個) と 『あるもの』 (全) は、

 最も根源的なところで 繋がっており、 全一なるものである。

( ウパニシャッド哲学では、 真実の自我たる 『アートマン』 と

 宇宙そのものである 絶対者 『ブラフマン』 とは、

 最終的に 同一になるとされる。 )

 善と悪さえも 一体であると思われる。

 あらゆる個は 互いに 争闘し合うとともに、

 それらの相剋は あまねく 全なる存在に支えられている。」

(次の記事に続く)
 

「心のネットワーク」 (1)

2009年03月12日 21時15分40秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
 「ジャン・クリストフ」 や 友人との出会いによって、

 長く、 重苦しい暗闇から ようやく抜け出し、

 やがて 深い傷も癒えて、 日常生活も取り戻していきました。

 僕は ある会の冊子、 「心のネットワーク」 に 以下の文章を寄せました。

「 僕には 27才のとき、 大なる挫折の 時期があった。

 孤独、 自己否定、 絶望、 嫉妬、 世に対する呪い……

 あらゆる負の感情に 蝕まれ、 僕は泥沼の底で のたうちまわっていた。

 苦しみは 人を執着させ、 悲しみは 人を過敏にさせる。

 周囲のあらゆる不実に ずたずたに切り裂かれ、

 僕は全てを見失って 喘いでいた。

 苦しみと悲しみを蕩尽し、 破滅の淵に窒息しながら、

 僕は必死になって 救いを、 癒しを、 求めていた。

 僕は あまりに苦しかったのだ。

 居るのが 苦しい。

 早く、 一日が 終わってほしい………。

阿鼻叫喚のなかで、 僕は ロマン=ロランの 『ジャン=クリストフ』 と、

 ひとりの友の 存在に出会った。

 彼らの存在がなければ、 今、 僕は 精神病院か刑務所にいたとしても、

 あるいは こうしてここに 生きていなかったとしても、 少しも不思議ではない。

 彼らの支えによって、 僕は長い苦しみを 苦しむなかから、

 『 もし僕が ここで死んでも、 自分と同じ魂を 持った人達が、

 僕のできなかったことを やっていってくれる。

 僕は魂によって 彼らと繋がっている。

 自分は 一人ではないのだ。』 ということを、

 全身全霊をもって 体得していくことができた。

 それは まさに 『宗教体験』 と 言えるものだった。

 あらゆる魂は ひとつに繋がっている。

 全ての命は ひとつのものである。

 それは 僕の 『信仰』 とも 言えるものになっている。

( その 絶対的な存在に対し、

 長い間僕は 名前を付けることができないでいたが、

 自分のうちに  『あるもの』 という 言葉が生じてきた。 )

(次の記事に続く)
 

言葉の宝石たち

2009年03月06日 20時20分06秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 当時の僕は 色々な書物などに 救いを求め、

 いくつもの珠玉の言葉に 出会いました。

 それらを紹介します。


パスカル 「パンセ」

「 人間とは、 一体 何という怪物であるか。

 何という珍奇, 妖怪, 混沌、 何という矛盾の主、 何という驚異か。

 万物の審判者にして 愚鈍なるみみず。

 真理の受託者にして 曖昧と誤謬の泥溝。

 宇宙の栄光にして 廃物。

 誰がこのもつれを 解くだろうか。 」

「僕等は 何も確実には知りえないが、 又、 全く無知でもありえない。

 僕等は 渺茫(びょうぼう)たる 中間に漂っている。 」

「 彼が 己を高くしたら、 僕は 彼を卑下しよう。

 自ら卑下したら、 高めてやる。

 彼が 己を不可解な怪物と認めるまで、 いつでも彼に抗弁してやる。 」


林 語堂 「人生をいかに生きるか」

「私は、 どんな人間でも、 賢者の知恵から 愚者の知恵へと進み、

 まず 人生の悲劇を感じ、 ついで 人生の喜劇を感じ、

 笑う哲学者となるまでは、 これを賢明とは呼ばない。

 なぜかといえば、 我々は 笑える前に 泣かねばならないからである。 」


小林秀雄

「 文学者の告白病-- 告白文学が成功する場合は 非常に少ない。

 自己反省というのも 自惚れ鏡のようなもので、

 むしろ 自己韜晦(とうかい)の術だ。 」


ウィルヘルム・ シュテーケル (精神分析学者)

「 一般に、 未成熟な人間の特徴は、

 理想のために 高貴な死を、 選ぼうとする点にある。

 これに対し、 成熟した人間の特徴は、

 理想のために 卑小な生を、 選ぼうとする点にある。 」


二宮尊徳

「 大きな夢を 真実ならしめんがための 第一の能力は、

 夢を持つ 大きな能力。

 第二に、 それを持ち続ける能力。 」

「高くて 固くて 狭い心ではなく、

 低くて 柔らかくて 広い心。

 これだ。 」

(続く)
 

苦しみと創作

2009年03月05日 21時29分14秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

「 (苦しみを通して) 人の痛み, 弱さが分かるようになった。

 これは極めて月並みだが 本当のことだ。

 人の話が 聞けるようになった。

 作品は 低い視線で描かなければ 伝わらない

 所詮 人の苦しみは分からない。

 自分が 人を苦しめているとしても。

 生きているかぎり (肉体があるかぎり)  人間は限りがある。

 囚われがある。

 人は 苦しまないと考えない。

 因果なことだ。

 不幸なときにこそ 偉大な芸術ができる。

 平和な時代には 天才が出てこない。

 しかし、 それでも 人間は平和なほうがいい。

 苦しみと、 人を幸福にする創作との 矛盾。

 何故 人間は苦しまないと 成長しないのか?

 何故 物質的世界と 精神的世界があるのか? 

 この世の 役割とは何か? 

 人間には何故精 神世界のことが分からないのか? 

 何故 死を恐れるのか? 」


「 かつて 僕が一人 世界から隔絶されて、

 絶望と孤独に 苛まれていたときのことが 思い出されてなりません。

 何週間も 人と会うこともなく、 声を出すこともなく、

 そんな生活が 何ヵ月も続くなかで、 自分だけが 取り残された焦燥感に、

 文字通り 『居ても立ってもいられない』  苦しみに喘いでいました。

 そのとき僕が 必死にすがりつこうとして もがいていた

 『ジャン=クリストフ』 の一節。

『 人生は 苦悶と残忍との 無限な総和の上に立ってることを、

 彼はだれよりも よく知っていた。

 人は 他を苦しめずには 生きてゆけない。

 眼をつぶったり 言葉でごまかしたりすべきではない。

 人間の不断の努力は、

 苦しみと残虐との総和を 減ぜんとすることにあらねばならぬ。

 それが 人間の第一の務めである。』 」
 
(次の記事に続く)
 

精神的臨死体験

2009年03月04日 21時45分56秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 何を体験したかではなく、 いかに体験したかが 重要であると言われます。

 当時は 臨死体験が話題になっていましたが、

 僕が体験した極限状況は 精神的臨死体験と言っても いいものでした。

 それらを通して僕は、 何か ある絶対的な存在、

 「あるもの」 (と命名したもの) を 体感したのです。

「 僕は 特定の宗教は持たない。

 それが 『あるもの』 に対する 僕の敬虔さである。

 人間とは、 『あるもの』 のうちに 本来的に抱かれ、

 癒されるべき 存在なのではないだろうか。

 『死』 は、 『あるもの』 と一体化する

 『成就』 であると 言えるのかもしれない。

 個々の命は この世での役割を終えたとき、

 『あるもの』 の許へ帰っていく、 と僕は思っている。

 死は 終焉なのではなく、 人間が本来 抱かれるべき場への 回帰であり、

 そして 再生への希望であるのかもしれない。

 臨死体験をした人達は その大半が、 死に対する恐怖がなくなり、

 死後の生命を確信し、 限りなく自分が受容され、

 絶対的な存在との一体感、 筆舌に尽くしがたい 安らぎを得るという。

 それは、 『あるもの』 による 究極の 『癒し』 なのだろうと 僕は思う。

 僕には 肉体的な臨死体験はないが、

 精神的死に瀕していた 体験を通して 絶対的なものと邂逅した。

 これも 臨死体験に通ずる証左であると 思っている。

 また 臨死体験者は、 無条件の愛、 人類同胞意識、

 思いやりや寛容というものの 価値を見いだし、

 その後の人生観が 一変するという。

 自分の存在が 全面的に抱かれていると 感じられたとき、

 自らもまた 他のために奉ずることが できるのかもしれない。

 全ての人間は、 『あるもの』 の許で 受け入れ合い、

 支え合っている存在である。

 自ら生きるとともに、 互いに生かされ合っている。 」

(次の記事に続く)
 

真の甦生

2009年03月03日 19時55分32秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(11/13)

「 悪い時は 全てが悪い。

 やっとうまく いきそうになっても、 僅かな偶然で だめになる。

 よい時は 全てがよい。

 うまくいきかけたことが やっぱりだめになりそうになっても、

 偶然が重なって うまくいく。

 去年も、 今年も、 事態が好転しかけたとき、

 これでうまくいく、 これで立ち直れると思った。

 いや、 必死で思おうとした。

 今思えば、 それは 懸命なやせ我慢だった。

 上向いてきたと 自分に言い聞かせ、 一生懸命 自分をだましていたのだ。

 我ながら何という けな気さだったのだろう。

 今は、 今は 本当に立ち直った。

 この嬉しさは本物だ。

 ああ、 生きていて本当によかった。

 これが人生というものか。

 魂が正しければ、 心が誠実ならば、 それは いつか必ず実を結ぶ。

 人にも通じる……。

 自分で 思い込んだものではない。

 他人を説得させずには 耐えられないものではない。

 ただ 自ら嬉しいのだ。

 誰にも納得させなくとも、 ただ自ら嬉しいのだ。

 自分を確信するのだ。

 人に理解されないということが、

 分かってもらいたい人に 拒絶されるということが、

 一体どれだけの力を 僕から奪っていたのだろう。

 どれだけ僕を 卑しくしていたことだろう。

 人に受け入れられるということが、 人に伝えられるということが、

 今 どれだけ大きな力を 僕に与えてくれることか。

 どれだけ活気づけていることか。

 僕はいずれまた 失敗するだろう。

 また どん底に落ち込むだろう。

 はっ!!  そしたらまた 立ち直るさ!! 」

( '85.3/7)

「 人間は、 不幸である時、 苦しい時に、

 いかに多くのものを 身につけていくことか。

 どん底にある最中には、 全てがうまくいかない。

 全てが分からない。

 しかし そうしてあがきながら、 誰も気付かないうちに、

 人はいかに 豊かになっていくことか。

 正常ならば 気付かないようなことを、 感じないようなことを、

 苦しい時には 敏感につかみ取る。

 苦しみから這い上がった時、 それは誰にも分からない形で 必ず実を結ぶ。

 人は、 苦しいときほど 豊かである。 」

(次の記事に続く)
 

限界

2009年03月02日 20時52分24秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 やがて マンガ同人誌の活動が 再開されました。

 僕は 以前と変化していましたが、 実際にどういう言葉を 伝えたらいいのか、

 メンバーとの 新たな接し方を 試行錯誤しました。

 様々な対応を、 具体的に考えれば考えるほど 分からなくなり、

 ついに 頭がオーバーヒートしてしまったのです。

(6/26)

「 考えれば考えるほど、 僕の頭は悪くなる。

 感じれば感じるほど、 僕の心は鈍くなる

 思えば思うほど、 僕の意志は弱くなる。

 信じれば信じるほど、 僕は小さくなる。

 疑えば疑うほど、 僕は誤る。

 知れば知るほど、 僕は知らなくなる。

 会えば会うほど、 僕は孤独になる。

 求めれば求めるほど、 僕は裏切られる。

 誠実になればなるほど、 僕は人を傷つける。

 愛すれば愛するほど、 僕は悲しくなる。

 生きれば生きるほど、 僕は苦しくなる。

 ……僕はまだ、 生き方が足りないのだ………。 」

「全ての理解は、 誤解からきたものだ。

 全ての信念は、 無知からきたものだ。

 全ての真実は、 幻影からきたものだ。

 全ての世界は、 偶然からきたものだ。

 ……それでも僕は、 求めている………。

   それでも僕は、 信じている………。 」

「ああ、 何という不安定。

 あと、 ちょっとでいいのだ。

 あと ちょっとさえあれば。

 絶大な自信と、 絶望的な否定は 紙一重。」

(次の記事に続く)
 

復活

2009年03月01日 22時32分07秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(2/8)

「 そうだ、 そうしよう。

 僕は 苦しんで生きるが正しい。

 だが 君達はそうではない。

 君達は、 僕の苦しみなど 知る必要はない。

 僕はそれを秘めよう。

 理解などされる必要はない。

 そして、 僕は君達を愛そう。

 君達を喜ばせよう。

 君達も、 僕を、 僕の作品を、 愛してくれ。

 僕は創作に 我が身を捧げる。

 さあ、 苦しみよ、 来るがいい。

 悲しみよ、 僕の身を貫け。

 僕は、 受けて立ってやろう。

 おまえたちが 来れば来るほど、 僕は強くなっていくのだ。

 集まれ、 分かち合える人々よ! 

 我々は 一人ではないのだ。

 理解者たちよ、 無理解者たちよ、

 何度もまとめて 僕の所へ来るがいい。 」

(2/13)

「 ああ、 人間て こんなに変わるもんだろうか。

 人間の心って、 何て不思議なんだろう。

 かつて、 僕は道を歩いた。

 街が 褐色になって 僕にのしかかってきた。

 周りを歩く人間は 全て自分の敵だった。

 呼吸が苦しかった。

 歩くのが苦しかった。

 今 僕は道を歩く。

 街が 柔らかい銀白色に 暖かく輝いている。

 周りの人間を皆 優しく見られる。

 歩くのが嬉しい。

 こんなに 感じられるようになったのが 嬉しいのだ。 」

(2/14)

「 僕は、 こんなに 失敗することができて、 よかった。 」

(2/16)

「 僕は、 彼女や彼らが 僕から得たより数倍も、

 いや、 数十倍も 多くを得た。

 彼女らよりはるかに 豊饒となった。

 彼女らのなかに 僕はいない。

 しかし、 僕のなかに 彼女らはいる。

 ありがとう。 」


「ジャン=クリストフ」 読了

「 生涯の終わりに及んで、 かつて 孤独なことがなかったと、

 もっとも一人ぽっちのときにも 孤独ではなかったと、

 みずから考えるのは なんといいことだろう!…… 」

(次の記事に続く)
 

2009年02月28日 20時04分00秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
( http://blogs.yahoo.co.jp/geg07531/57890390.html からの続き)

( '84.1/10)

「 今、 僕は少しずつ 目が覚めつつある。

 自分が おおらかに見えてきた。

 世界が優しく見えてきた。

 潔癖にこだわっているうちは、 まだ人間が小さい。

 未熟なのだ。

 今、 少し 大きくなれるのではないか。

 今までの 暗い苦しみだって、 決して無駄ではない。

 それがなければ、 僕はまだまだ 小さく弱い人間だったろう。

 人の心の痛み、 切実さが分からなかったろう。

 悲しみを越えた時の、 本当の喜びを 知らなかったろう。 」


( 「ジャン・クリストフ」 )

「 苦悶もまた 一つの力となる--統御される一つの力となる--

 という点にまで 彼は達していた。

 彼はもはや 苦悶に所有されずに、 かえって 苦悶を所有していた。

 それは暴れまわって 籠の格子を 揺することはあっても、

 彼はそれを 籠から外に出さなかった。 」


(1/30)

「 悪条件の下で 自分のやりたいことをやれる 人間こそ、 偉大な人間なのだ。

 好条件なんか ありはしない。

 悪条件であるからこそ、 やりたいことが出てくるのだ。

 やらなければならないのだ。 」

(2/5)

「 ああ、 しかし、 それでも理解が欲しい。

 全てを理解し、 全てを理解されたい。

『 分かる部分で やっていけばいい』

 そんなことで 妥協してしまってはいけないのだ。

 理解は、 相互の努力によって 必ず深まるはずだ。

 それをしないのは、

 理解することの 難渋さや煩わしさから 逃げているだけだ。

 それはいけない。

 僕は どうしても我慢できない。

 理解を、 より本当の理解を。

 僕のこの欲求は、 一体 どれだけ深いことか。 」

「 焦らないでよい。

 自分が成長していけばいいのだ。

 10年単位で見ればよい。

 理解されからないといって、 苛立ってはいけない。

 自分を信じ、 じっくりと待つのだ。

 力を養っていくのだ。

 少しずつ、 少しずつ 分かち合っていけばよい。 」

「 ああ、 喜びも、 悲しみも、 苦しみも、 何とすばらしいことだろう。

 こんなに 感じることができるなんて、

 僕は何て 幸せに生まれついたんだろう。

 苦しみさえも喜びだ。

 そうだ。 苦しみさえも喜びだと 知ったのだ。

 この先、 どんな苦しみに 会ったとしても、

 僕は このことに支えられて、 生きていけるのではないか。」

(次の記事に続く)
 

揺れ動き

2009年02月20日 21時45分39秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

 僕は自分の姿を 取り戻しかけましたが、

 それでもまだ、 揺れに揺れ続けました。

 それまでの 極端な自分から抜け出し、

 相手の立場になって、 異なった視野で 考えようとしていました。

 しかし、 純粋な理想を 捨てきることもできませんでした。

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 君たちは あまりに謙譲だ。

 神経衰弱的疑惑こそ 大敵なんだ。

 人は寛容で 人間的であり得るし あるべきである。

 しかし、 善であり真であると 信じてる事柄を疑ってはいけない。

 そして 信じてる事柄を 支持しなければいけない。

 われわれの力が どれくらいのものであろうと、

 われわれは 譲歩してはならない。 」

「 自分が生きてきた信念を、 どうして疑うことができようか?

 それは 生を捨てるのと 同じである。

 隣人に似寄るために、 もしくは 隣人を容赦するために、

 本当の考えとは 違う考えを装っても、 それが なんの役に立つものか。

 それは 自分を破壊するばかりで、 だれの利益にも なりはしない。

 人の第一の義務は ありのままのものとなることである。 」


(12/26)

「 そうだ、 僕には今、 わかってきた。

 潔癖さ、 切実さなどは、 多くの人にとっては どうでもいいことなのだ。

 そんなことに こだわっているから、 人のことが理解できない。

 清純と淫蕩は 極めて自然に 両立しうる。

 それでも善良なのだ。

 深刻に考えないほうが、 多くのものを フレキシブルに取り込みうる。

 世界が豊かになる。

 僕は偏屈すぎた。

 深刻ぶらない人間にとっては、 全てがいいのだ。

 僕は一皮むけたのか、 邪悪になったのか。

 どちらにしても、 今までより広いものが 描けるかもしれない。

 愚劣-- それは人間にとって、 いいことじゃないのか!?」

(続く)
 

クリストフの 芸術観の革命

2009年02月19日 23時22分01秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

( 「ジャン・クリストフ」 )

「 僕にとっては、 また、

 真理を担いうるだけ 丈夫な腰を 持ってる者にとっては、 真理がいいのだ。

 しかし その他の者にとっては、 それは一種の残酷であり 馬鹿げたことだ。

 自分自身よりも 真理を愛さなければいけないけれど、

 真理よりも隣人を いっそう愛さなければいけない。

 われわれわは もっとも真理のうちで、

 世のためになり得るものをしか 明言してはいけない。

 他の真理は それをわれわれのうちに しまって置くべきである。

 隠れたる太陽の 柔らかな光のように、

 それはわれわれの あらゆる行為の上に 照り渡るだろう。 」

「 彼の芸術観に 革命が起こってきた。

 彼の芸術観は いっそう広い いっそう人間的なものとなっていった。

 彼はもはや、

 単なる独白であり 自分一人のための言葉である 音楽を欲しなかったし、

 専門家ばかりを相手の むずかしい組み立ては なおさら欲しなかった。

 彼は 音楽が一般の人々と 交渉することを欲した。

 他人に結びつく芸術こそ、 真に 生きたる芸術である。 」

「 現代の 多くの音楽家の 音楽に見るような、

 一階級だけの方言にすぎない その芸術的な言葉を、

 極端に避けようではないか。

 『芸術家』 としてではなく、

 人間として話すだけの 勇気をもたなければならない。 」


 僕は、 “元の自分” に 戻ってきた気がしました。

 人間は成長するにつれ、

 少しずつ 本来の自分に 戻っていくのではないでしょうか。

〔 「ジャン=クリストフ」 ロマン=ロラン (岩波文庫) 豊島与志雄 訳 〕

(次の記事に続く)
 

愛の再生

2009年02月18日 14時15分15秒 | 僕と「ジャン=クリストフ」
 
(前の記事からの続き)

(10/23)

「 人に理解される、 人を理解するということの 困難さを

 誰よりも思い知らされながら、 誰よりもそれを求め、 もがき苦しんでいる。

 そのことについては 僕はこの3年間、 或いはこの数カ月間、

 どん底をのたうちまわるような 悲痛を味わった。

 このようなことは 人に漏らさず、 黙って持ちこたえ、

 自若として成長していくのが 人物といわれるものかもしれない。

 しかし 僕をして作家へ向かわしめる 表現欲求 (或いは自己顕示欲) は、

 どうしても 告白の衝動をかきたてる。

 そうするたびに 僕は誤解を増大させ、 侮蔑され、 人に疎ましがられてきた。

 しかし それでもなお僕は、 言うことを ついにやめることができない。 」

(11/12)

「 僕は 君をできるだけ 尊重することを努めてきた。

 しかし、 根本的に 自己主張のほうが強かった。

 僕が 努めなければならなかったのは、

 君を尊重することではなく、 君を活かすことだったろう。

 僕が 君をかわいいと思うときには、

 君は君の好きなものを 信じればいいし、

 僕は僕の正しいと思うものを 信じればよかったのだ。

 僕はそのように 心掛けたつもりだった。

 しかし、 君の僕に対する あまりに見当外れな (僕にとって) 意見は、

 僕を面食らわせ、 君を包容する 余裕を失わせた。

 君は 僕の理解の範囲外にあった。

 だからこそ僕は それを理解したいと思った。

 僕は知りたいのだ。

 僕は分かりたいのだ。

 どうしようもない欲求だ。 」


「 自分と近しい人間が、 親しかった人間が、

 このまま 心が離れてしまうなんて、 こんな悲しいことは ないではないか。

 拒絶したままでいる、 こんな悲しいことは ないではないか。

 人は誰しも 愚かさを持っている。

 ある人にとっては 美徳であっても、

 ある人にとっては 愚劣である場合もある。

 また その逆もある。

 人の愚劣さだけを見取って、

 その人の本性を 見取ったような錯覚に 陥っているのは、

 何とも愚かしく 悲しいことではないか。

 誠意を持とう。

 相手の誠実さを 信じよう。

 善良さを確認しよう。

 過ちを許そう。

 そして その愚かさをも愛そう。」

(次の記事に続く)