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阪急電車のあれこれ ③ - 歴史と小林一三 -

2016年01月29日 10時35分30秒 | 鉄道のよもやま話

創業100年を2010年(平成22年)に迎えた阪急電車の歴史は1907年(明治40年)から始まりました
その時は箕面有馬電気軌道として創立され、その3年後の1910年3月10日、梅田~宝塚間と石橋~箕面間の運輸営業を開始しました。

なぜ、ここに鉄道を施設したのでしょうか?
これは、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線)が国有化されるということで、その株主たちが代替路線とすべく事業を立ち上げたことに起因します。

その時は、大阪と有馬、箕面を結ぶ予定でしたが、思うように資金が集まらず、それを救ったのが、阪鶴鉄道の監査役だった小林一三でした。

    
    小林一三 (阪鶴鉄道専務のころ)
          明治43年の梅田停留所  

 

小林一三は、1873年(明治6年)1月 山梨県に生まれ、青春時代は文学青年として新聞社へ就職しました。
が、その望みが叶わず現在の三井住友銀行(当時の三井銀行)に転職し、ここで運命を変える出会いがありました。

その人物は、岩下清周で、彼は、ここの三井銀行を辞め北浜銀行を設立した人物で、その薦めで証券会社の支配人になります。(明治40年)
所が、ここも気が進まず、再び岩下清周に阪鶴鉄道入りを薦められ、ここで腰を落ち着けます。

  
    明治43年ころ 神崎川を渡る        宝塚停留所  


新会社設立の資金が集まらなかったところ、小林は、北浜銀行に株式の大部分を引き受けさせ、自身はその新会社箕面有馬軌道の専務となり、手腕を振るい、数々の新事業をも起こし、今日の阪急電車の基礎を築きました。

  

  昭和9年6月に切り替える前の梅田停留所 現在はJRが高架を走っていますが、当時は阪急が高架で 
  した。 この切り替え工事には、国と色々と問題が起こりましたが・・・            
  当時、この工事の指揮を取った小林は会長となっており、61歳でした。             



その間、社名も何度か変え、路線を増やし、沿線に住宅街や宝塚歌劇場、世界初のターミナルデパートなどを造りました。
その間のいきさつなどは後日に・・・