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上総・下総の史跡を巡る旅

2009年07月26日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★ 6月2日~3日
国立歴史民俗博物館→成田山新勝寺→房総のむら→伊能忠敬記念館→佐原の街並→潮来あやめ園→潮来ホテル→香取神宮→福聚寺→銚子港→上総国分尼寺跡

6月2日、3日の二日間、所属している「史跡ボランティアの会」主催の県外研修旅行、「上総・下総の史跡を巡る旅」に参加、とても楽しく有意義な時を過ごすことが出来た。

まずは「歴博」の愛称で親しまれている国立歴史民俗博物館を訪れる。
森に囲まれたこの博物館は、海老名にも領地を持った堀田氏の居城、旧佐倉城跡に建てられている。
国立の歴史博物館だけあって規模が大きく、自分の見たいテーマに絞って展示室を見て回らないとタイムアウトになってしまうので、古代中心の第1展示室を集中的に見学する。
模型展示の造りが素晴らしく、三内丸山遺跡などは当時の生活様式が手に取るように解り、感心することしきり。
 

「魏志倭人伝」に出てくる卑弥呼の死と、箸墓古墳の造られた時代が一致するらしい。
卑弥呼の墓かもしれないこの古墳のレプリカを見ていると、九州説と思っていた邪馬台国が畿内説に段々揺らいでいく自分の気持ちが頼りない。
稲荷山鉄剣の銘文、日本史の中で謎に包まれていた5世紀に光を当てた画期的な発見だと言われている。
銘文からは次のようなことが読み取れるという。
①5世期末には、大和朝廷の権力が北関東にまで及んでいた。
②古墳時代に、471年という絶対年代を示す資料が文字で残されていた。
③当時、漢字を借りて日本語を表記する方法が確立していた。
④日本書紀の内容と雄略天皇の実在性について、信憑性が高まった。
隅田八幡宮人物画像鏡の銘文も面白い。
「斯麻王(百済の武寧王)が鏡を作らせて、弟の男弟王(継体天皇)の長寿を祈った。」と読み取れるということは、日本の古代王朝と韓国の百済王朝の関係を深く匂わせるもので何とも興味が尽きない。
  

聖武天皇が治めた奈良の平城京、その入口の正門(羅城門)の高さは20メートル余りもあったらしい。
復元模型はとても立派なもので、当時の繁栄ぶりを思い浮かべつつ門の前に立ち止まりしばし見とれる。
多賀城は奈良・平安時代に陸奥国府が置かれ、東北各地の城柵の中心でもあったところ。
9世紀になると、多賀城の南門に至る南北大路と、これとほぼ直交する東西大路を軸に、100m毎に小路が造られ、碁盤の目状の道路網が都市計画にもとづいて整備されたという。
これほどの大きさは稀にしても、全国各地に設置された国府の有様が偲ばれる。
 

真言宗智山派の総本山、成田山新勝寺を訪れる。
本尊は不動明王(成田不動)で、関東地方で有数の参拝者が訪れる所でもある。
総門に足を踏み入れると、由緒ありげな造りの仁王門が見えてくる。
800Kgもある大提灯が寺門の守護の役目をはたす為、門のひさしにどっしりと構えている。
 

仁王門の左に密迹(みっしゃく)金剛、右には那羅延(ならえん)金剛の仁王像が鋭い眼でにらみを利かしている。
写真を載せてはいないが、裏には広目天と多聞天の2像も眼を光らせている。
五智如来を安置し、周囲に十六羅漢の彫刻をめぐらしている三重塔を眺める。
雲水紋の彫刻をほどこした各層の垂木(たるき)は一枚板でつくられた珍しいものだという。
  

大本堂は不動明王を本尊として成田山で最も重要な御護摩祈祷を行うところだが、薄暗くて御本尊の顔を充分に伺うことは出来なかった。
毎日、明け方と正午、および夕方に梵鐘が撞かれる鐘楼を眺めながら出口への階段へ足を進める。
桜町領(栃木)の復興を命ぜられた二宮尊徳は、成田山に籠もり21日間の断食祈願をしたが、その立派な人となりに感服の度合いを強めつつお寺を後にする。
  

江戸時代後期から明治初期における房総の商家・武家屋敷・農家などを再現している県立の房総のむらを訪れる。
一辺80m、高さ約13mの全国最大級の規模を持つ国指定史跡「岩屋古墳」、その古墳の入り口にじっと眼をやる。
  

伊能忠敬記念館を訪れる。
伊能忠敬は、50歳を過ぎてから、日本全国を測量して歩き、わが国で初の実測日本地図を作り上げたことで知られている。
館内での展示にある忠敬の大日本沿海興地全図と、今の日本総地図と比べてもほとんど輪郭が違わないのには、本当に恐れ入ってしまう。
国史跡に指定されている伊能忠敬旧宅は、忠敬が17歳(1762年)の時に婿養子に出るまで住んでいた建物で、書院などは彼が設計したと伝えられている。
 

佐原は、江戸時代から利根川水運の中継港として発展し商人の町として栄えたところで、昭和までの町家、土蔵、そしてレンガ造りの建物が多く残っており、情緒漂う街並を醸し出している。
宿泊するのホテルの近くにある潮来あやめ園を散策する。
紫、白、黄と色とりどりのアヤメが咲き競うその眺めはなかなかのもの。
アヤメの花の種類は、花弁の弁元の特長で見分けると解りやすい。
花菖蒲は黄色い色、杜若は白の一本筋、、そしてあやめは綾目の模様がある。
その日は潮来ホテルに一泊し旅の皆と歓談、温かいお風呂にも入りしばし旅の疲れを癒す。
 

全国一の宮巡りを目指している私にとっては、下総一の宮の香取神宮に詣でることが出来たのは大きな収穫。
香取神宮は神武天皇の御代18年と伝えられ、日本建国の大功神、国土開発の祖神と崇められる経津主大神が奉祀されている。
要石を見ようと、総門へ向かう左側の道を行く。
説明板によると、「むかし鹿島の神である武甕槌大神と香取の神である経津主大神は、葦原中つ国を平定し、香取が浦(霞ヶ浦)付近にたどり着いたが、このあたりは地下に潜む大ナマズのせいで地震が頻発していました。
二神はこれを鎮めるため地中深くに石棒を差し込み、鹿島の武甕槌大神はナマズの頭を、経津主大神はナマズの尻尾を抑え、地震を鎮めました。」とある。
 

元禄13年に建造された楼門を眺める。
楼上の額は東郷平八郎の筆になり、楼門内には右が武内宿禰、左が藤原鎌足の像が安置されている。
拝殿は黒漆塗りで、周囲の朱色に対比して荘厳な雰囲気をかもしている。
檜皮葺屋根、黒漆権現造りの典雅な社殿、厳かな気持ちでいつもの二礼二拍一拝、なにやら熱心にお願い事をする。
 

鉄牛和尚が中心となって新田開発の為に尽力したとされる、椿海の干拓地を遙か遠くに眺める。
補陀洛山福聚寺は鉄牛禅師を開祖とする黄檗宗の寺院で、中国風の門構えも独特のものがある。
 

東庄・干潟町・旭市・八日市場市にまたがる低湿地帯は、かつて海水が湾入していた椿海という湖だった。
この湖の新田干拓の大工事に中心となって活躍したのが鉄牛和尚であり、干潟八万石といわれる良田2741町歩の整備は、お米を最も大切にしていた当時の領主や農民にとってどれだけ有難い事だったか目の中にありありと浮かぶ。
鉄牛和尚は元禄13年(1700年)に亡くなったが、その墓石は仙台藩主伊達綱村と小田原藩主稲葉正通の寄進によるもの。
 

自らを三宝の奴(仏教のしもべ)というほど仏教を厚く信仰していた聖武天皇と光明皇后は、当時の社会不安や政治の混乱を仏教の力で鎮め、、人々の心を一つに纏めるために全国に国分寺を建立した。
寺域が全国で一番広いという上総国分尼寺の全容を示す復元模型を見ると、市原市が古代上総国の政治・文化の中心地であったことを良く象徴している。
国分尼寺は女性の悟りを説く妙法蓮華経(法華経)にちなみ「法華滅罪之寺」と名づけられたが、略称とされる法花寺の寺名を墨書した土器も出土している。
  

国分寺(僧寺)にあった高さ63mの七重塔、仏舎利の代わりに納められたお経(金光明最勝王経)も展示されている。
立派に復元再現された上総国分尼寺の中門、回廊、及び金堂の基壇をじっと眺めていると、海老名にある相模国分尼寺もこういう造りだったのかと、嬉しいやら寂しいやら複雑な気持ちが頭の中を駆け巡る。
 

上総国分尼寺は発掘調査の結果、南北371m、東西285~350m、そして寺域面積約12万㎡の大きさを持つ全国最大の規模であることが判明している。
また寺域内には、尼僧の日常生活の場である大衆院、運営を執り行う政所院、建物や器具の維持を行う修理院、雑役夫の居住区である賎院、栽培を行う薗院・花苑院など、さまざまな施設があったことが判明しているという。
今回の旅行で復元再現された国分尼寺を生の目で見ることが出来たこと、これは私にとってとても大きな収穫であった。
 

帰りのバスの中、巡った貴重な史跡の数々を思い起こしながら、この素晴らしいツアーを企画、主催をしてくれた幹事の方々に、参加した皆共々お礼の気持ちで一杯になる。
「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)


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