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「岩宿遺跡・上野国分寺跡など」を訪ねて(上州の旅)

2008年04月17日 | 歴史・旅(国内)
コース順路:コース満足度★★★★★
岩宿遺跡→大室古墳群→上野国分寺跡→伊香保温泉→榛名神社→一宮貫前神社→富岡製糸工場→県立歴史博物館

4月9日、10日の二日間、所属している「史跡ボランティアの会」主催の行事、上州の旅に参加した。
古くからの歴史を持つ上野国は、かつて毛野国(けぬのくに)と言われていた所の一部であった。
毛野国は後に上毛野(かみつけぬのくに)と下毛野国(しもつけぬのくに)に別れ、それから上野(上つ毛=群馬県)と下野(下つ毛=栃木県)となった。
毛野国は古墳が多く、その数は一万を超えていたと言うし、上野国の豪族であった上毛野君(かみつけのきみ)は、大和地方古代王朝の大王だった崇神天皇の皇子、豊城入彦命(とよきいりひこのみこと)の子孫とされている。
大和地方との繋がりも伺える上野国の古代の歴史、このツアーでたくさんの貴重な史跡も見れそうだし、この古代ロマン紀行への夢は大きく膨らむ。

まず訪れたのが岩宿遺跡、ここは「旧石器時代の日本には、人は住んでいなかった。」という当時の歴史認識を覆す大発見がなされた所。
一万年前より古い時代の火山活動により堆積した関東ローム層の赤土の中から発見された石器、それは人間が住める環境ではなかったと考えていた研究者達の考えを覆すものだった。
昭和21年、アマチュアの考古探求者であった相沢忠洋氏の貴重な発見である。
岩宿博物館に入ると、マンモス像の全身骨格(レプリカ)が最初に目に入る。
この遺跡周辺から発見されたものではないが(北海道以北に生息)、氷河時代を代表する大型動物として展示されている。
 

「ナイフ型石器」の材料につかわれた黒曜石が展示してある。
これは地下からマグマが噴出して急に冷やされた時に出来た岩石で、石器の材料の中でも最上級といわれる。
黒曜石は取れる地域が限定されており、神奈川県の箱根付近・神津島・長野県の和田峠あたりから持ってきた可能性もあるのではないか。
遺跡周辺を歩いていると白い色のタンポポを発見、何故か嬉しい気持ちがする。
日本の在来種でシロバナタンポポと言い、関西には割合多いとのこと。
西洋タンポポと同じく単為生殖(受粉しないで種ができる)できる種で、結構頑張って生息域を広げている様だ。
 

大室公園内にあるこの地域の豪族の墓、大室古墳群を訪れる。
公園はきれいに整備されていて、この時期、沼のほとりの桜並木がとても美しい。
中二子古墳と呼ばれる6世紀前半の前方後円墳の墓、ここの古墳群の中でも全長111mで最も大きいもの。
その大きさは、赤城南面の肥沃な土地を背景に君臨する大豪族の栄華を偲ばせる。
 

古墳の前にある説明板には、墓の大きさ、埴輪の種類、葺石の構造や墳丘の盛土のことなどが解りやすく説明されている。
埴輪の種類と特長をまとめると、家型埴輪_堅魚木(かつおぎ)をのせた豪族の家、翳(さしば)_やや長い柄の付いた扇、太刀_三輪玉を付けた刀、靫(ゆき)_翼状の飾りを持つ矢筒、鞆(とも)_弓を射るときに手を守る革製の防具、盾_革製を表現した線刻を持つ防具。
後二子古墳(全長85m)は大室古墳群最後の首長墓とされるもので、横穴入口から入って石室が見れるようになっている。
  

石室は、大きな石を巧みに積んでいて厳かな空間を形成している。
石室手前に置かれている土器は、埋葬の際の儀式に遣われたものと見られる。
小二子古墳(全長38m)には沢山の埴輪が置かれている。
その内容は、後円部:葬られた人の宿る家とそれを守る武器の埴輪、前方部:貴人を先頭に武人・巫女・飾り馬・馬飼い人・盾の埴輪(葬列の風景だろうか?)。
 

上野国の国分寺は、政治の中心である国府の北西の地に建てられた。
国府の場所はいまの群馬県庁がある所、バスから見ただけだが、その立派なビルは昔を忍ばせるような威容(高さ127mは群馬で一番、県庁では全国一とのこと)を誇っていた。
国分寺ガイダンス施設にある伽藍の配置を見てみると、武蔵国分寺や相模国分寺とはまた違う配置になっている。
(ちなみに相模国分寺の伽藍配置は、中門から講堂に向かって西に塔、東に金堂を配置し、周囲を回廊・築地で囲う法隆寺式。)
嬉しいことに、ここの国分寺跡には一部分であるが、築垣が復元されている。
築垣は、古代と同じく棒でつき固めた土を積み上げる版築で造られているとのこと。
 

基壇のあるところは、相模国分寺跡や武蔵国分寺跡と同じ様な少し殺風景ともいえる佇まい。
七重の塔を支えていた基壇は、一辺が19.2mの正方形で上面に17個の礎石が並んでいる。
金堂の基壇には、36個の礎石(柱の台石)並んでいる。
塔と金堂の基壇の周囲は、榛名山の噴出物である安山岩の切石を使った壇正積で化粧されていたとのこと。
 

その日は伊香保温泉に一泊し旅の皆と歓談、しばし温泉で疲れを癒す。
翌朝、伊香保名物の約360段あるという階段を上り伊香保神社に到着、いつもの二礼二拍手一礼をし、神妙な面持で何やら願い事をする。
 

上野国は一の宮から九宮まで神社が残っている全国でも珍しい由緒あるところ、榛名神社はその六の宮にあたる。
用明天皇元年(585)の草創と伝えられる古い神社で、榛名山信仰の中核として栄えたとされている。
案内文を読むと、「神社入り口より約700メートルの参道は清流に添い、老杉が空を蔽い、巨岩奇岩に心打たれ森厳極まりなく、本殿に到着した時には身も心も洗われております。」とある。
少し進むと、県内唯一と言われる木造三重塔がそびえている。
造られたのは江戸時代末期と言うから、比較的新しい。
 

本殿背後にある仏像にも似た岩が、この神社のご神体で”御姿岩”と呼ばれているもの。
台風が来たら今にも崩れそうな感じで心配だが、余計な事を言うなとの神の声がどこからか聞こえてきそう。
本殿は、拝殿と本社をつなぐ幣殿とからなる権現造りの複合建築になっている。
 

諸国一の宮を訪れたいと思っているので、今回、上野国一の宮”貫前神社”を参拝出来たのはとても良かった。
総門より下り参道になっているという、例のない神社の配置が珍しい。
総門から見下ろすと、石段の下に美しい極彩色の楼門や社殿が緑の森に映えて佇んでいる。
現在の社殿は、三代将軍家光が願主となり再建したものを、五代将軍綱吉が大修理したもの。
極彩色の漆塗りを施した華麗な造り、これは日光廟を完成する過程の際、この神社も同じ手法を用いて造られたのだという。
ここでも二礼二拍手一礼の後、神妙な面持でいつもの願い事。
 

冷たい雨の中、ユネスコ世界遺産の登録を目指している富岡製糸場を訪問。
近代国家の仲間入りを目指す新政府が、日本の産業革命の原点として明治五年(1871)に設立、創業が開始された。
赤レンガ造りの建物は、当時としてはかなり近代的な工場に見えたに違いない。
当時のまま残っている繰糸場の内部、創業時は世界最大規模で、フランス製の300人繰りの繰糸器が備えられたという。
 

群馬県立歴史博物館の立派な建物を見てまず感心、中に入ってそのきちんと整備された展示物で、今まで見てきた各所の史跡の事も思い出し、さらに感心する次第。
上野国分寺跡出土の軒瓦、創建時のもので丸瓦の紋は素弁五葉蓮華紋、平瓦の紋は忍冬唐草紋とある。
紋様の意味するところは、残念ながらまだ不勉強で説明できず。
 

五世紀になると、群馬東部は毛野(けぬ)の地の中心になっていたようで、各地に大きな前方後円墳が築かれている。
太田市鳥山鶴山古墳で出土された五世紀中頃の甲冑も立派なもので、この地で豪族間の争いがあったことを偲ばせる。
養蚕、製糸の盛んな地域であった群馬、富岡製糸場(模型)の近代的な造りや規模がこの事を良く示している。
京の西陣織と並んで東の桐生織と謳われる小京都、桐生市なども一度じっくり旅してみたい。
 

群馬県、そして日本の発展に寄与したこの県出身の偉人のパネルが掲げられている。
時間が無くて、一人一人の確認が詳しく出来なかったが、海老名出身の大島正健氏と親交のあった新島襄氏(写真右下)、内村鑑三氏(写真下中央)の顔が見えるのが何故か嬉しい。
出口の近くに掲げられていた昭和三十年代の茶の間の風景の写真、じっと見つめると、子供の頃にちゃぶ台の前に座って家族みんなで食事をした風景が目に重なり、何とも懐かしいと言うか郷愁に駆られ、パネルの前でしばし佇んでしまった。
 

帰りのバスの中、回った貴重な史跡の数々を思い起こしながら、この素晴らしいツアーを企画、主催をしてくれた幹事の方々に、参加した皆共々お礼の気持ちで一杯になる。
上総・下総の史跡を巡る旅

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