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エルンスト・バルラハ展

2006年04月15日 16時41分20秒 | 読書


 年代を追っての展示、バルラハの変遷がうかがえて大変興味深かった。
 初期には、日本の影響が大きかった時期やパリに滞在してフランスのサンボリズムの影響を受けていた時期がある。表現するスタイルを模索していた時期。
 それがロシアにおいて、自己のスタイルを確立するようになる。
 革命後の高揚感から一転厳しい現実にさらされたロシアの民衆の姿を通して、彼は人間存在に迫る。
 「すべての人間は物乞いか、あるいは問題を抱えた存在」
 「人間は貧困と諦念の中で苦悩する地上的な存在」
 そうした人間の本質を内面的な苦悩や内省としてとらえ、それを造形するイメージとして南ロシアの民間信仰の造形バラバノフを発見する。このときに作られた「盲目の物乞い」など、まさに諦念をそのまま形に造形したような彫刻だ。「ロシアの物乞い女Ⅱ」では、彼女と現実とを結びつけているのは、物乞いに差し出された彼女の片手だけ、というこちらに迫る造形となっている。物乞いの片手で辛うじて世界とつながっている、孤独な生。
恋人同士を描いた「ロシアの恋人たち」でも、二人の視線は見つめ合うことはなく、空中をさまよう。見つめ合うことさえできないほどの存在の疲れ。
 こうした彼の人間への視線に加え、フィレンツェ滞在で彼は胡桃材というマチエールに出会う。「ベルセルケル(戦士)」のためられた力強い動き。単純なドレープと左手の動きがより一層力を表現している。
 ここで多く見られるモチーフは占星術師だ。両手を合わせ天を見つめるモチーフがいくつか見られる。また「夢みる人」も同様に天をあおぐ。
 第一次世界大戦を迎え、最初は戦争に肯定的だったバルラハも、次第に近代の総力戦というものがどういうものか覚り、その悲惨さや人の苦悩から戦争に反対する立場をとるようになる。この時期の彫刻が素晴らしい。
 「苦行者」の静謐感。苦行しているはずなのに、この静かさ。目は外界のものを何も見ていない。見るという愉悦の拒否。苦行者は見ることをやめ、そのことによって自分の内なるものと向き合っている。
 「読書する修道院生徒」の深い瞑想。少し大きめの頭が中世風の情緒を醸しだし、ぼくはリーメンシュナイダーを思い起こした。この時期のバルラハの造形は、精神そのものの造形のように感じる。ぼくらはその造形の前で、まさにおのれの精神を問われるような気になるのだ。
 身の引き締まる展示だった。

 バルラハは晩年不遇だった。
 戦争に反対し、内省の世界を形作ったバルラハをナチスが好意的に受け入れるはずはなかった。彼の制作した公共的な戦没者慰霊碑などは撤去され、破壊される。作品そのものも、「頽廃美術」というレッテルを貼られ、反国家的な扱いを受ける。
 1938年バルラハは伸張するナチス勢力を見つめながら亡くなった。

                    
                    東京芸術大学美術館で5/28まで

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