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ブラックセプテンバー/五輪テロの真実(1)

2006年02月17日 12時17分38秒 | 映画
 1999年アカデミー長編ドキュメンタリー賞受賞。たぶんスピルバーグの「ミュンヘン」上映がきっかけで放映されたのだろう。しっかりとした作りで瞬く間に画面に引き込まれた。
 この映画とは関係ないが、グループ名「ブラックセプテンバー」をミュンヘン五輪テロが9月だったからと勘違いしている人が多い。彼らのグループ名の9月はミュンヘン五輪の1972年ではなく、1970年9月にちなんでいるのだ。ヨルダンとPLOとの関係が悪化し(かなり単純化した言い方だが)、ヨルダンのフセイン国王は1970年9月PLOを弾圧。その際のPLOの死者は5000人とも伝えられている。もちろんこれはヨルダン側が一方的に悪いわけではない。ヨルダンはPLOのよき支持国であり、訓練基地などの提供もしていた。それに対し、PLOがしだいに横暴化し、ヨルダン国内で資金調達と称する強盗を働いたり、パレスチナ人から搾取したりし始める。決定的になったのは5件のハイジャック事件だ。ハイジャックした機をヨルダン国内のドーソン基地に着陸させ(失敗したり、滑走路が短くて着陸できない場合もあったが)、ここから各国に政治犯の釈放などの要求をした。
 さすがのフセイン国王もこれにはキレた。今まで我慢しためていた鬱憤が爆発。戒厳令をひき、国王親衛隊のベドウィン兵にPLO討伐を命じたのだった。これが1970年9月。PLO側はこの事件を「ブラックセプテンバー」と名付け、これ以降国際テロをするときのグループ名にしたのだ。
 映画の内容に戻る。
 まずは当時のセキュリティー観念のなさに驚く。夜中銃をもったゲリラたちが塀を乗り越えて難なく選手村に入っていく。しかも酒を飲んでいて閉め出されたアメリカ人選手たちと力を合わせて。アメリカ人たちと「ありがとう」を言い合って別れたあと、彼らはイスラエル宿舎へ向ったのだ。今では考えられない。
 そしてすごいのは、この証言をした人間。これを証言できるのは実行犯だけだ。そう、この映画には実行犯最後の生き残り、当時18歳だったジャマール・アル・ガーシーが出ているのだ。今でもモサドに狙われているので、もちろん顔は隠してだが。
 事件の時間に沿って映画が進むに連れ、驚くのはドイツ側のこれでもかこれでもかという程の対応のまずさだ。ドイツというともっとしっかりした国や人を思い浮かべていたのだが(実際にミュンヘンに行ったとき、いろんな人間と話していてそう思ったのだが)、このドイツの対応の悪さは犯罪に匹敵するほどだ。現にその悪さが惨事をエスカレートさせた。
 ドイツはミュンヘンオリンピックを支障なく続行できるように、とにかくスピードを優先した。

 長くなるので続きます

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