毎日が観光

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四万六千日

2008年07月11日 09時23分05秒 | らくがき
 快楽は永遠にして回帰を求める。永劫の回帰から脱するためには、だから、快楽を貪る気を滅却しなくてはならない。これが般若(智慧)である。
 というわけで、昨日は四万六千日。
 おお、葛西臨海公園から強引にもっていく前フリだこと、我ながら。
 精神の特権的瞬間が繰り返しを求めなくても持続するのに対して、肉体的悦びは繰り返しを求める。その二つに引き裂かれる自分。マラルメの言う「生ける身は悲し」は、ぼくの変わらぬテーマである。世間一般では肉体的なことよりも精神的なことの方が上だとか気高いとか思われがちだろうが、大間違いだ。ある意味たかだか大脳新皮質の妄想に過ぎない精神が、最初の生命が誕生して以来脈々と受け継いできた野生である肉体より上のわけがないのだ。
 本能が壊れてしまった肉体が、それを補完する精神を必要とした、あるいは精神が本能を壊した、か。いずれにしてもどちらが上という問題ではない。だから、「結局からだ目当てだったのか」(あえて男言葉)という言説はおかしい。言われたことないけど。
 あああ、話がどんどん四万六千日から遠ざかる。
 夏の暑い中、この日にお参りすると四万六千日お参りしたのと同じ功徳があるとされた日。落語の「船徳」は四万六千日が舞台で、うまい演者が語るとうだるような暑さの中、蝉の鳴き声が聞こえてきそうだが、でも、暑くない。去年は暑かった覚えがあるが、今年は暑くない。少なくとも2年前は暑かった。もっとも旧暦の7月9、10日は今の8月だから、暑い中ご苦労さん感は昔に比べれば乏しいのは致し方あるまい。
 護国寺の本堂に入って太鼓を聴いている内に、酩酊感が沸き上がってくる。水木しげるが台湾で神のようなものを見ることができたのも、太鼓の雨の中だった。笛はこの世ならぬものを呼び、太鼓は我が身をこの世ならぬところへ連れて行く。太鼓のあとは声明。ああ、これはグレゴリオ聖歌じゃないか、と思う、逆転した考え。どう考えても、カトリックの修道院より寺の方が身近なのに、音楽に関しては逆。小学校の音楽教育が西洋音楽に偏りすぎているのも問題であることも確かだけれど、われわれが江戸以前の音楽とは完全に断絶したところから音楽を始めてしまったことが一番の問題なのかもしれない。乱拍子はもう能楽堂だけの作法である。
 いずれにしても、グレゴリオ聖歌にしても声明にしても、その中に浸っていると大変心地よいのである。α波がたれまくりなのである。肉体的な気持ちよさで満たされる。激しいセックスや美食のあとに感じる倦怠とは無縁の気持ちよさ。あああ、これが癒しってヤツなのか。俺は癒されてしまったのか。「癒し」なんて言葉嫌いだったのに。
コメント
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