松山高等商業学校(現・松山大学)の創設者・新田長次郎(1857~1936)が嫡孫である利國の為に昭和3(1928)年に建設。 長次郎の長女カツの娘婿である建築家・木子七郎(1884~1955)に設計を依頼して建てさせたスパニッシュと和風を組み合わせた瀟洒な洋館です。 長年に渡って新田邸として用いられてきましたが平成元(1989)年に松山大学に寄贈され、現在は学生の研究活動の場などとして活用されています。 ちなみに「温山」(おんざん)とは長次郎の雅号から命名されたものになるようです。 兵庫県西宮市甲子園口1-12-31 09年1月下旬ほか
※参考『歴史遺産 日本の洋館 第五巻 昭和篇Ⅰ』 2003
『銀座八丁目の75年 新田ビルの建築記録』 2007
『日本のステンドグラス 宇野澤辰雄の世界』 2010
『萬翠荘物語』 2012
JR甲子園口から歩いて5分、閑静な住宅地の小川沿いに建物が見えてくる。
長次郎の長男であった利一は若くして亡くなり、その息子である利國も体が弱かった為、気候温暖で空気の良いこの地を選んで建てられたという。
玄関脇の小窓にはビン底のように見えるクラウンガラス。
イスラム風のタイルが玄関周りに貼られています。
見学会に参加して内部へ。
こちらの足元にもイスラム風タイル。
ペンダント照明です。
まずは1階のセミナー室へ。
床の模様が立体的に見えてくる。
各部屋や廊下にはセントラルヒーティングが設置されグリルにも手の込んだ装飾が施されていました。
門の外からも見えていた玄関横の3連アーチ窓の部屋。
半円のステンドグラス。
鹿の頭の剥製がある造り付け(?)の家具。
こちらのタイルもイスラム風ですね。
隣りの部屋は元のダイニングルーム。
重厚。
暖炉風のセントラルヒーティングになるのでしょうか。
左が新田長次郎。 長次郎は現在の松山市山西町の生まれ、二十歳を機に大阪に出て製革所に勤めた後に独立、安価で質の高い伝動用革ベルトの製造に成功したのを皮切りに事業を拡大して一代で巨万の富を築いた立志伝中の人物。 郷里を慕い、松山高等商業学校の設立の際には必要な費用を全額負担し、それは現在の金額に直すとおよそ30億円にもなるという途方も無い金額であったという。
外套掛け?
キッチンは現代的なものに変えられています。
使用人用と思われる階段。 この建物には利國夫妻の他には女中が3人と男衆が1人の計6人が暮らしていたそう。
1階の東南にある和室。
和室にいると庭園を間近に感じます。
玄関ホールに戻ってきました。
ここに主階段があります。 写真には全く写っていませんが他にも見学者が多くて苦心しながら撮っています。。
45度ねじれて立つ階段親柱。
階段部分にはダイヤ柄のアーチ窓が並ぶ。
2階の会議室。
アール・デコのステンドグラス。 この邸宅のステンドグラスは大正12(1923)年に大阪に設立されたベニス工房によるものらしい。 日本のステンドグラスの歴史を開いた宇野澤辰雄(1867~1911)の流れを汲む工房です。
南西の部屋。
床の模様は一風変わったデザイン。
先程の会議室の東隣りの部屋。
廊下側にステンドグラスがあります。
槲(柏・かしわ)の葉と実をデザインしてあるようですが…?
くぐり抜けた先は和室になっています。
丸窓と一枚板で作られた違い棚のバランス感覚が美しい。
2階のトイレもチェック。
ビリヤードルーム。 利國は外ではほとんど遊ばず、友人を家に呼んではビリヤードをするのが好きだったそうです。
談話室も兼ねる。
上流社会の嗜み。
扉は市松模様。
トップライトの照明のガラス板にも装飾がありました。
小扉を開けると階段室。
ささやかな仕掛けが楽しい。
楽しい時間はあっという間に過ぎ去る。
内部見学の時間は終了、外に出てきました。
南面の様子。 複雑な造形を何とか収めたような印象です。
壁泉がありました。
雄羊の吐出し口。
お庭を回って東面へ。
建物完成の翌年に造られたという防空壕がありました。
中へ入ってみます。
お別れの時。 庭園と一体になったその姿は訪れる人々を今も魅了して止まない。