旧W別荘

2011-02-26 18:54:49 |  東京都


 東京と埼玉の都県境、「トトロの森」とも称される狭山丘陵のひとすみに建つこの建物は、家業の醤油醸造業を弟に譲り、自らは別の事業で成功したW氏が郷里の丘陵の最も眺望の良い所に建てた白亜の別荘建築。 大正10年代頃のものといわれます。 その後、建物は主を変えることはありましたが、そのモダンな佇まいは里山の風景の中で変わることはありませんでした。  東京都武蔵村山市  11年02月下旬



 建物の西側。 梁を露出させたハーフティンバー風の妻面が目を引く。






 印象的な円筒部分はそれぞれ6畳ほどの居室になっているという。


 最下層のこの部分は浴室。


 展望台へは外階段を使って上がるみたい。 南側に開けた斜面に建っているので眺望は素晴らしいでしょう。


 そっとしておきたい場所。 見学の際はご配慮ください。
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三菱倉庫本社ビル(旧江戸橋倉庫)

2010-01-29 07:04:13 |  東京都






 江戸橋の袂に位置するこの建物は昭和5(1930)年完成のモダンビルディング。 倉庫と事務所が一体となった建物ですが、水辺に浮かぶ豪華客船をイメージしたと云われる美しいデザインをしています。 車を運転していて中央道から首都高の環状線に入り、都心を抜けて行く時の日銀本店~野村証券~三菱倉庫本社ビルと続く眺めは個人的なお気に入りスポットなのですが、近い将来に予定されているこのビルの建て替え工事が始まってしまえば、慢性的な渋滞が続く首都高の苦痛は和らぐ事がなくなってしまいそうです。  東京都中央区日本橋1-19  05年06月中旬他
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明石小学校

2009-12-19 15:00:00 |  東京都


 大正15(1926)年築。 関東大震災(大正12年)後の復興事業により建てられた117の「復興小学校」のうちの一つ。 復興小学校の中でも早い時期に建設されたものの一つで、柱型や庇の角を落とした柔らかな丸みが子供達への優しい気遣いを感じさせます。 今も現役の小学校として立派に機能していますが、同じ復興小学校である中央・明正小学校と共に中央区による改築計画が進められているようです。 名のある建築家の作品ではありませんし(東京市臨時建築局学校建設課による設計)、築後80年を超えてコンクリートの劣化や教室の狭さなどが問題となっているようですが、町単位の共同体意識の低下が叫ばれる都市部においては、地域住民の多くが通って様々な時代の記憶が堆積した古き小学校の存在はかけがえのないものだと思います。 近くには聖路加国際病院旧棟やカトリック築地教会といった歴史的建造物が残り、明石小と一体となった景観は地域の誇りとして胸を張れるべき存在。 安易な形での決着はして欲しくありません。  東京都中央区明石町1-15  09年11月中旬

 ※現存せず。




































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滝乃川学園本館

2009-12-09 07:16:10 |  東京都





 滝乃川学園は明治24(1891)年に石井亮一(1867~1937)により創設された「聖三一孤女学院」を起源とする日本で最初の知的障害者教育・福祉施設。 昭和3(1928)年に建てられた本館は今年修復工事が完了し、 「石井亮一・筆子記念館」としてリニューアルされました。 純白に塗り替えられた建物が創立精神の揺るぎない気高さを表しているように感じます。  東京都国立市谷保6234  09年11月中旬他

 ※竣工年を訂正しました。
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旧日立航空機立川工場変電所

2009-11-11 07:06:57 |  東京都






 多摩都市モノレールと西武拝島線が交錯する玉川上水駅のほんの少し北東側、緑あふれる公園の一角に建つ小さな建物は、航空機のエンジン製造の為に建設された東京瓦斯電気工業(後の日立航空機)へ電気を送る為に設置された、かつての変電所の建物です(昭和13年築 1938)。 昭和20(1945)年に米軍機の機銃掃射やB29による空爆により多数の死傷者と共に工場は大破しましたが、この建物は奇跡的に生き残り、壁面に無数に開いた銃爆撃痕の補修も無いまま内部設備の更新のみで平成5(1993)年まで変電所として使用されました。
 
 駅周辺には高層の都営住宅やマンションが建ち並び、休日ともなると多くの家族連れで公園は賑わっています。 生々しい傷跡を抱えた建物は子供たちに戦争の悲惨さをもの言わぬ証人として訴えかけているようでした。  東京都東大和市桜ケ丘2 東大和南公園内  06年12月上旬他
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高輪消防署二本榎出張所

2009-09-10 07:08:11 |  東京都










 白色のタイルで覆われた陸地の灯台のような建物は、昭和8(1933)年に当時の高輪消防署として建てられたもの。 3階部分の円形講堂や望楼に配された丸窓がいかにも昭和モダンっぽい雰囲気です。 今や周囲の超高層マンションに高さで圧倒されてしまい見下ろされるばかりですが、かつては周りに高い建物も無く、東を見渡せば東京湾のあたりまで見通す事が出来たそうです。  東京都港区高輪2-6-17  06年09月上旬他
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新宿御苑旧洋館御休所

2009-08-31 00:00:00 |  東京都





 新宿御苑は江戸時代には信州高遠藩主・内藤家の下屋敷があった場所であり、明治5(1872)年に明治政府により周辺一帯と共に買収され、農業や植物研究を目的とする内藤新宿試験場となりました。 その後、明治12(1879)年には宮内省に移管され皇室庭園として整備が進みました。
 
 この建物は天皇や皇族が御苑内の温室で植物観賞する際の休憩所として、明治29(1896)年に宮内省内匠寮の設計により建てられたものです。 当初は今より半分くらいの大きさの建物でしたが、明治末から大正にかけて御休所の利用が増えると、明治42(1909)年、大正11(1922)年、同13(1924)年と3度の増築が行われ、ほぼ現在の姿に落ち着いたそうです。 特徴的な東側のボウウインドウの部分も大正11年の増築ですが、内外から見ても特に変な違和感も無く、他の増築部分同様うまく調和させているように思います。 派手な装飾も無いので広い苑内では見逃されがちですが、皇室のイメージと重なるノーブルさを感じさせる建物でした。  東京都新宿区内藤町11 新宿御苑内  08年02月上旬
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旧渡辺甚吉邸(旧スリランカ大使館邸)

2009-06-04 07:15:17 |  東京都






 美濃の大地主で銀行業を営むなど岐阜きっての名家・渡辺家の長男に生まれたのが渡辺甚吉。 大学卒業と同時に欧米に遊学し、その際に帰国後の住宅建設の為にと同郷出身の青年建築家・遠藤健三(後に大日本土木を創業)を誘って同行させ、およそ一年の歳月をかけた建物見聞の旅から戻ってきて建てたのがこの洋館(昭和9年築 1934)。 2人が出した結論はチューダー様式の建物を、という事になり、建物本体の設計は遠藤が担当。 照明器具などの細部装飾は遠藤の早稲田大学時代の恩師・今和次郎に依頼し、全体的な計画はあめりか屋技師長となった山本拙郎が行ったものだと云われます。
 
 今和次郎は「考現学」の提唱者としても知られる建築造形家ですが、実際に残した作品が少ない(無い?)事から幻の建築デザイナーとされ、その点からもこの洋館は貴重なものだそうです。 ちょっと前まではスリランカ大使館邸となっていましたが、現在はどこかの企業の所有となっているようでした。  東京都港区白金台4-19  09年03月中旬

 ※11年11月追記 渡辺甚吉氏の御子孫の方から『建物は現在も渡辺家の所有です』というお話を頂きました。 ここにお詫びして訂正致します。 

 ※参考 『総覧 日本の建築3 東京』 1987
     『日本タイル博物誌』 1991  内部写真が掲載されています



 山形県新庄市に残る 雪の里情報館(旧農林省積雪地方農村経済調査所 昭和8年築)。 今和次郎の設計作品(現存唯一? もう一つあるとも→福島・田村市の旧大越娯楽場)。
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東京大学 医科学研究所

2009-03-29 16:22:56 |  東京都









 旧伝染病研究所(昭和12年築 1937)。 外壁にスクラッチタイルを用い、玄関の車寄せ(ポーチ)に連続アーチを配すなど、東大の本郷キャンパスの建物群と同じスタイルでまとめ上げられた「ウチダゴシック」の建物(設計・内田祥三)。 建物を上から見ると両翼が後ろに下がったブーメランのような形をしています。 東側のポーチの屋根部分に設けられた3種類の明かり取り(?)の図柄にはどんな意味が込められているのでしょう。  東京都港区白金台4-6  05年04月上旬他

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勝専寺

2009-03-16 07:07:15 |  東京都




 北千住にある赤レンガの洋風寺院(明治36年築 1903)。 赤レンガといっても純粋なレンガ造ではなく、コンクリ造の外壁にレンガを張り付けたものですが、釣鐘型の窓や庇に載っかる徳川家の葵紋(?)、入り口扉上の漆喰装飾など、鎌倉時代に創建された名刹としては異例の和洋が混ぜこぜになった建物であります。 当時、川向うにあった小菅監獄が赤レンガの建物だったので、レンガ壁ではイメージが悪いという檀家からの反対もあったようですが、それを押し切ってまでこの建物を作ってしまった住職は、さぞや進取の気象に富む人だったのでしょうね。  東京都足立区千住2-11  06年01月中旬他

 ※参考 『近代建築再見 上巻  生き続ける街角の主役たち』  2002
   
 
 おまけ  北千住の商店街のアーケードがぽっかり途切れる場所にあるのが、この大橋眼科医院。 大正6年の建物を建て替えるにあたり、他の古い建物から集めた千以上の解体部材を用いて昭和57(1982)年に建て直したものだそうです。 なにしろ本物の古い部材を使っているだけに、とても築30年かそこらの建物には見えません。
 


 
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東上野の看板建築

2009-03-05 07:14:49 |  東京都




 傾き始めた太陽との競争で何とか写真に「押さえた」T邸は、昭和5(1930)年に建てられたモルタル塗りの木造建築。 自家設計・施工のこの建物は、左官屋だったT氏が住まいづくりと修業を兼ねて自ら腕を振るったものだそうです。 その仕事の確かさは80年近く経った時の流れが今、つまびらかにしています。  東京都台東区東上野3丁目  08年11月下旬

 ※個人邸ですので見学の際はご配慮願います。

  参考 『わが町のモダン建築』 1987
     『東京の近代建築』 2000
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上野駅

2009-03-04 07:11:57 |  東京都







 東京の「北の玄関口」である上野駅の現駅舎が建てられたのは昭和7(1932)年の事。 関東大震災で焼失した初代駅舎に代わって建てられた2代目の駅舎にあたります。 大勢の乗降客の中に混じっていると人の流れにただ身を任せるだけですが、ちょっとだけ足を止め、つぶさに建物を見てみると、そこここに素敵なデザインが施されている事に気づかされます。 今はレストランになっている、かつての貴賓室の内部には、いったいどんな空間が待ち受けているのでしょう。  東京都台東区上野  06年10月上旬他
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黒田機器 赤羽工場

2009-01-23 07:12:12 |  東京都




 麻布の辺りにあった英国人住宅を移築してきたという建物(昭和10年以前築 1935以前)。 設計が外国人らしく、まさしく「異人館」という形容がピッタリくるような佇まいです。 黄色く塗られた下見板は、せせこましい住宅街にあるよりも緑に溢れた広いお庭の中で映えそうですね。  東京都北区志茂  08年04月上旬

 ※個人所有の建物なので、見学の際はご配慮願います。
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東京中央郵便局

2008-11-25 19:45:30 |  東京都
 無駄な装飾を廃したモダニズム建築の秀作(昭和6年築 1931)。 地上200メートルという高層ビルへの建て替えが決定し、建物は既に囲われて空家の状態でした。 B.タウトやA.レーモンドも高く評価したというこの建物の姿を見る事が出来るのは、あとわずかな時間しか残されていません。  東京都千代田区丸の内2-7  08年11月23日ほか



 朝一番の静けさの中で。


 丸ビル・外部テラスより臨む。 時計の針は12時ジャストで止められたまま。 ※写真が大きくなります。


 逞しさも窺える。


 郵便局の前にあったポストの上には天使像。 窓に映るは赤煉瓦の東京駅。


 新丸ビル・外部テラスより。 この建物の通りを挟んだ右後ろの辺りでは、三菱一号館の赤煉瓦棟を復元中でした。

 
 三菱一号館。
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国立天文台 その2  

2008-11-12 07:19:51 |  東京都
 
 今年の春先に三鷹の国立天文台に再訪したら公開エリアが広がっており、今まで見られなかった建物も見学できるようになっていました。 前回の様子はコチラ。 今回は新規物件のご紹介です。  08年03月上旬

 旧図書庫
 昭和5(1930)年築。 名称の通り、図書資料の保管をしていた建物。 丸窓や外壁に貼られたスクラッチタイルがいかにも昭和初期といったところです。 外観のみ公開。





 レプソルド子午儀室
 大正14(1925)年築。 1880年ドイツ製のレプソルド子午儀(大子午儀)によって月や惑星、主要な小惑星の赤経観測が行われていた建物。 柱の頭部や入口のひさし部分にセセッションの直線模様が使われているそうです。 いくつかの観測機器が展示され、ガラス越しに内部が見られます。






 ゴーチェ子午環
 大正13(1924)年築。 白のドームが美しく印象的な建物。 子午環とは天体の位置を精密に観測する為に工夫された望遠鏡(写真右上)の事。 ここにあるのは1903年フランス製で、大正12(1923)年の関東大震災の時は、ちょうど天文台が麻布から三鷹に移る作業中で梱包されていた事から被害を免れたものだとか。







 自動光電子午環
 これは昭和57(1982)年築の建物。 ゴーチェ子午環同様、天体の精密位置観測に使っていた観測施設。 内部も公開されています。




 最後のこれは子午線標? 何をする為の施設か私には分かりません。。。 

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