坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

報恩講準備終了

2013年05月25日 | 坊主の家計簿
報恩講準備終了。つか、3時(笑)アイロン、結構時間かかった。

お堂の準備は出来た。明日も少しあるけど。

報恩講。宗祖親鸞聖人の報恩講。

「あなたにとってロックとはなんですか?」は、じゃがたら。
「あなたにとって宗祖とは?」か。

機とは「はずみ」という意味らしい。平野修先生『民衆の中の親鸞』に書いてあった。どこかに貼り付けた気もするが、ええわ。

「はずみ」を生きている。「はずみ」しか生きれない。たまたま予定通りに行く事もあるけど、小学生の頃の予定では今頃プロレスラーになっている予定だったんだが…。何故か住職になったりしている。

その後は北海道で牧場暮らしだとか、ミナミでマスターだとか、色んな予定があったはずなんだか、何故か不思議な事に。

『敵』という存在は不思議なもので、自分の中から消し去ろうとしても、まあ、生きている。存在している。だから鬱陶しいわけなんだが、その人が存在している、その人から問われるパワー。「何故、認められないのか?」

中年になってから「たまたま」という言葉が好きになって来た。

ある先生が、というか、運動家だが、まあ、真宗仏教の先生。宅間事件当時に話をしていたら

「宅間さんに謝らないといけない。『あなたの所に、こんなに辛い犯罪を犯してしまうようなものが行ってしまったんですね。申し訳ございません』と謝らないといけない」と。

御想像通りの変人です。筋金入りのド念佛の人です。わけ、わかりません。でも、その世界の方が好き。

たまたま。私の人生はこれからどうなって行くのだろうか?
幸い、という言葉が適格かどうかには少し首を傾げてしまう所もあるけど、でも、『世間で生きやすい』という部分では、幸いに大した犯罪もしていない。日々、多くの『生き物を殺した死骸』を食べているが、これは世間的には罪にならない。宗教的には別だが。

今までも、きっとこれからも数多くの人達を傷つけて行くだろうが、それが社会から散々避難される事があっても、それも「たまたま」。

乙武氏がTwitterで「つい」店名を出してしまった事があった。注意深くみてない。Twitterで流れて来たのを少しみた程度。
障害者解放運動の論理からするなら、店側が間違っている。健常者しか来れない様な店作り。身体障害者が行く事に一報を入れないといけないというのは、断りを入れないといけないというのは差別である。でも、少し見ただけの、乙武氏の問題は、店側が忙しくイライラしていた、という事情もある。乙武氏も断られた事に対して感情的になって、つい、店名を出してしまった。

そんな「たまたま」がやって来て、その度に「はずみ」があって生きている。
だから「私は決して『ああいう風な人にはならない』」とは言えない。言いたくない。言う資格がない。

でも、その事を平気で言ってしまう人も居ている。当たり前だ。それがその人の人生だっただけだから。イイも悪いも関係ない。それがその人の人生だったから。でも、きっと、今の私よりも生きる事が苦しいと思う。自分の可能性を押し殺しているのだから。「あんな風になりたくない」は、「こういう私でないと認められない」と。
だから、安楽坊は後鳥羽上皇に「私を殺さないで下さい。念佛を弾圧する人は地獄に堕ちてしまいます」みたいな事を言ったのではなかろうか。当時の治安維持の為でもあったのだろうが、怒りと怨みの感情もあっただろう。『他者』という存在を認める事が出来なかった人に対しての念佛相続。

私の人生はこれからどう転がって行くのだろうか?一応、本堂を建て替えして、次の住職にバトンタッチしてから死んで行く予定なんだが、そんなものも予定でしか過ぎない。自分の人生が自分で解る予知能力などもっていない。

でも、恩師たちから頂いた「転がり続けて行く力」「どんな自分でも引き受けていける力」あ、当然、不平不満、愚痴三昧だが、でも、「そこから始める力」。

鳥が鳴き出した(笑)
寝ます。