坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

日ごろのこころ

2012年05月16日 | 坊主の家計簿
 バタバタとしております。小休止にすべきか、本日の業務終了にすべきかビールを飲みつつ。というか、ビールを飲んでいる段階で業務終了気分満載なんだが。まあ、土曜日までに完成すれば良しとしよう。
 一段落ついたので、次回の学校の課題をみる。歎異抄第三章の前半らしい。いつでも読めるようiPhoneにコピペしてメール送信。iPhoneから直接コピペしてもいいのだが、小さいのでやはりやり辛い。メールで送ってコピペしてメモに張付けておくといつでも簡単に見れる。一時期は完全に暗記していたはずなんだが、まあ、もう一度身体に叩き込もう。

 小休止なので、チラ見する。で、第一稿。新たな参考書なしでの現状。

【善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを、世のひとつねにいわく、悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや。この条、一旦そのいわれあるににたれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆえは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたるあいだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。】(歎異抄第三章より)

【『往生禮讃』に云く「若し能く上の如く念念相續して、畢命を期と爲る者は、十は即ち十ながら生じ、百は即ち百ながら生ず。何を以ての故に、外の雜縁無し、正念を得るが故に、佛の本願と相應することを得るが故に、咊に違せざるが故に、佛語に隨順するが故なり。若し專を捨てて雜業を修せんと欲する者は、百は時に希に一二を得、千は時に希に五三を得。何を以ての故に、乃し雜縁亂動す正念を失するに由るが故に、佛の本願と相應せざるが故に、咊と相違せるが故に、佛語に順ぜざるが故に、係念相續せざるが故に、憶想間斷するが故に、廻願慇重眞實ならざるが故に、貪瞋諸見の煩惱來り間斷するが故に、慙愧悔過有ること無きが故に。 又相續して彼の佛恩を念報せざるが故に、心に輕慢を生じ業行を作すと雖も常に名利と相應するが故に、人我自ら覆ひて同行善知識に親近せざるが故に、樂みて雜縁に近づきて、往生の正行を自障障他するが故に。何を以ての故に。余比日自ら諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして、專雜異有り。但意を專にして作さ使むれば、十は即ち十ながら生ず。雜を修するは到心ならざれば、千が中に一も無し。此の二行の得失、前に已に辨ぜるが如し。仰ぎ願はくは一切の往生人等、善く自ら己が能を思量せよ。】(選択本願念仏集より)

 だけだと面白くないし、飲み始めたばかりである。今から1枚100円でレンタルして来たDVDを観始めると大変な事になり、また、録画している『リーガルハイ』を観始めると、録画中の『怒り新党』まで観てしまうであろう。それも危険である。明日、忙しいし、通夜もあるし、出来るだけ早く寝たい(私タイムで)。

 竹中先生が、「如来の本願といってもそれは『みんなと一緒に生きたい!』という事ですよ」と仰った事がある。別の日に

  弥陀の報土をねがうひと
  外儀のすがたはことなりと
  本願名号信受して
  寤寐にわするることなかれ

 の和讃の『弥陀の報土をねがうひと』について、「みんなと一緒に生きたい!」と語って居られた記憶があり、聖典にも書いてあるのだが、なんせ私の事であり、記憶がかなり怪しいのだが、まあ、イイや。『某先生』という事で(笑)

 河田光夫『親鸞と被差別民衆』の中で『悪人=被差別民』としているが、「それだけやないやろう」と。
 悪人正機は、私が知る範囲では平先生の本で「んなもん、当時の仏教にとっては珍しい考え方やおまへんで」と、史学(?)の学者らしく文献から論証しているが、んなもんかも知れん。
 そういや、合計5枚借りて来たレンタルDVDの中の一枚が『禅』という道元の映画なんだが、パッケージ写真では貧しい人達と共に居ている道元だったし、日蓮だって『旃陀羅の子』と言っている。
 被差別の側に立ち、「この善人どもめ!」と

 ♪起て飢えたる者よ 今ぞ日は近し

 という道『だけ』なら、そんな事を言っている人達こそが『善人』になる。『差別する事=穢れ』という新たな差別。社会運動ならばそれでも良いのだろうが、自己を証らかにする、自己を課題にする仏道において、んなもん正義に酔っぱらって自己を忘却しているだけの話。あくまでも娑婆の話であり、出会いがあればやればイイだけの話。また「親鸞は三部経読誦を辞めた」と言って、別に辞める必要もない。ありゃ、親鸞の問題意識ではなかったのか?親鸞の人生ではなかったのか?自分の人生の中で出会いがあり、「私はこの人達との出会いを大切にしてボランティアをする中で御念仏申して生きます」でも何ら問題ない。自分の人生『だけ』が確かとする=有頂天から下界を眺めていやがるから鬱陶しい。被差別者とも連帯し、差別者の立場に立つ、ツーのがエエ感じ。
 
 あ、


『自力のこころをひるがえして』が気になる。

  わたしの まちがひだつた
  わたしのまちがひだつた
  こうして 草にすわれば それがわかる
 (八木重吉『草にすわる』)

 これは、うちの班で是非紹介したい言葉なので使いたい。

 「みんなと一緒に生きたい!」と、言ってみた所で、変わりもしない私生活がある。日常の「クソッタレ!アホか!」「なんじゃアイツらわ!」がある。「みんなと一緒に生きたい!」と言ってみた所で、いや、言ってみたからこそ、誓ったからこそ、その事が問題になる。自己の罪深さがアリアリと見えて来る。それを隠してしまうのが『善』であり、まあ、「私はこれだけやってるやんか!」である。その事を誇りにする事により、いいわけをする。「あの人達はちゃんと勉強せえへんかったからああいう風に道で寝ざるおえないようになったのよ。」なんぞと。「だから、○○ちゃんは一生懸命勉強しましょうね」と、親子の会話のネタにされ、反面教師のネタにされる『だけ』。今なら、なんだ?原発立地自治体を見捨てる事か?『そこに居られる人』、私と全く変わらず、様々な苦悩を抱えて生活して居られる方々に対しての尊敬の念なく、見捨てる事、「原発立地自治体の自業自得だ!」なんぞと言うのか?それこそ、福島第一原発事故以前からの反原発運動家が嫌いそうな言葉に『自己責任』という言葉があるが、「原発立地自治体の自己責任』とでもいうのか?つーか、んなもん、んな悲しい、偏った見方しか出来ないのが生身の人間なんだが。

 酔っぱらって来た。


【最後にA君へ
 今、あなたに会いたいような、絶対に顔も見たくないような複雑な思いでいます。私たちの宝物だった、たった一人の愛娘を、あんなかたちで奪い取ったあなたの行為を、決して許すことはできません。
 母であるがゆえに、娘がされたことと同じことをしてやりたいという、どうしようもない怒りと悔しさと憎しみがあります。
 その一方で、これもまた母であるがゆえに、どんなに時間がかかってもあなたを更生させてやりたいと願う気持ちがあることも嘘ではありません。
 一見、相反する感情が、私の心の中に同居していて、その割合の比率は日々同じではないまま、不思議なバランスを保っています。
 もし、私があなたの母であるなら……、
 真っ先に、思い切り抱きしめて、共に泣きたい。言葉はなくとも、一緒に苦しみたい。今まで、あなたの眼は母である私を超えて、いったいどこを見ていたのでしょう。私の声があなたの乾いた心に届き、揺さぶることはなかったのでしょうか。思い切り抱きしめて、温かい血の流れを伝えてきたでしょうか。
 そして、あんな恐ろしいことをしてしまうまで自分を追いつめていくことに、どうしてもっと早く気づいてやれなかったのでしょうか。たった一人の母なのに、どうしてわかってやれなかったのか。
 氷のように冷たく固まってしまったあなたの心。そのうえ、それを深い海の底に沈めてしまった。
 でも、深く暗い海底からそれを捜し出し、ていねいにゆっくりと氷を溶かし、ゆったりとほぐすことができるのは親の愛しかない。とりわけ、母の愛が太陽の温かさで包み込む以外に、道はないと思うのです。
 罪を罪と自覚し、心の底からわき出る悔恨と謝罪の思いがいっぱいにつまった、微塵のよどみもない澄みきった涙を、亡くなった二人の霊前で、苦しんだ被害者の方々の前で流すことこそ、本当の更生と信じます。
 それまで、共に苦しみ、共に闘おう。あなたは私の大切な息子なのだから。 】(山下京子『彩花へ -「生きる力」をありがとう』より)


【1 「えらばず、きらわず、みすてず」の如来の本願に触れ、
 2 「はじめに尊敬あり」と生活を切り開き、
 3 困難にぶつかり、それをまっとうできない時の「だからこそ」といういのちのさけびを聞く。】
 (狐野秀存『竹中智秀先生とは誰であったのか 生活をひらく三つの言葉』37ページより)

 
 次回の私の発表は6月4日らしく、それまでに仕上げれば良いのだが、報恩講を控えている忙しい時期であり、切れた焼酎&ビールも買いに行かなければならず、娘と一緒に遊びたいし、飲みにも行って二日酔いにもなりたい。なので、酔いつつ、遊びつつ、寝る準備つつ、うだうだと。