え~と…。むちゃ久しぶりのブログ更新です。つか、広告を消したいのと、「しばらく書いてなければブログを消されるのではないのか?すると私の大切なデーターバンク(?)でもあるこのブログが…」と勝手な妄想危機感で、先日学校の宿題で作ったものを投稿。
歎異抄 序
※表題『愚どんの身になして』
※本文
竊かに愚案を回らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ること莫れ。よって、故親鸞聖人御物語の趣、耳底に留まるところ、いささかこれをしるす。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々
※語意・語注
(伊東慧明『歎異抄の世界』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/sekai/1_1.htmlより)
(一) 廻愚案。 ひそかにぐあんをめぐらして。竊(ひそかに)は「公然と」にたいする「私に」の意味で、愚案とか粗(ほぼ)とともに謙遜のこころをあらわします。 『教行信証』の総序が「竊以」(ひそかにおもんみれば)という言葉ではじまっていることが連想されますが、これらは、信の純粋な敬虔感情(けいけんかんじょう)を表白する言葉です。
(二) 粗勘古今。 ほぼここんをかんがうるに。古今とは、親鸞密人在世の昔と、聖人なき今、つまり唯円が筆をとっている今のことです。
(三) 歎異。 ことなることをなげき。この書物が、タンニ抄と名づけられるのは、親鸞聖人の口伝(くでん)の真信に異る現実を歎いて書いたものであるということです。
(四) 先師口伝之真信。 せんしくでんのしんしん。先師とは、師なきあと、弟子から師をよぶ言葉。ここでは親鸞聖人のこと。口伝は、秘密の伝授ということではなく、口から耳へと直接語り伝えられること。真信は、真実の信心。 歎異抄は、細川行信先生の説によれば、親鸞没後二十年乃至二十五年頃に書かれたと思われます。その頃になると、信者の数は多いが、親鸞に面接した人は少くなり、また、たとい親鸞を知っていても、教えを正しく伝える人は多くはない。とすると、ここに、先師口伝といい、真信に異ることを歎くという言葉の重さが知られます。
(五) 有。 あらんことを。これを蓮如(れんにょ)親筆本、永正(えいしょう)本などでは「あることを」と読み、慧空(えくう)自筆本は「ありと」と読んでいますが、多屋頼俊先生は、ここは将来のことを推量するのだから「あらんことを」と読むのが正しいといっておられます。
(六) 後学相続之疑惑。 こうがくそうぞくのぎわく。あとから学ぶ人、後進のものが、教えを聞き、真信をうけついでいこうとするにあたっての疑い、まどい。
(七) 有縁知識。 うえんのちしき。有縁は、縁がある、関係があるということ。知識は、善知識(ぜんぢしぎ)の略。善知識は、梵語カルヤーナミトラ kalygamitraの訳語で、善友、勝友、親友などとも訳されます。これは、自分の内外をよく知っているもののことで、仏道の友は、みな善知識ですが、後には、特に師のことをさすようになります。また、広い意味で道に進むたすけとなるものを外護善知識(げごぜんぢしき)、同じ道を行く友を同行善知識(どうぎょうぜんぢしき)、道の行く手を明らかにするものを教授善知識(きょうじゅぜんぢしき)といいます。
(八) 易行一門。 いぎょうのいちもん。他力念仏の道。易行は、難行(なんぎょう)にたいする言葉ですが、これは「安易な」道ということではなく、自力にたいする過信をすてて、自力を完全に発揮しつくさせる道のことです。
(九) 自見の覚悟。 じけんのかくご。自分のひとりよがりな理解、勝手な了解。
(十) 乱。 みだる。患いあやまる、とりちがえるという意味で、素乱するという意味の「みだす」ではありません。
(十一) 他力の宗旨。 たりきのしゅうし。他力とは、他人の力をあてにするような消極的、退嬰的な他力ではなくここでは、アミダの本願の力のこと。宗旨は、ともに「むね」ということで、根本のこころ、根本義という意味。したがって、他力の宗旨をとりちがえるなというのは、人生には他力と自力が相対してあるのではないということ。つまり自力を完全燃焼させる力が他力である、アミダの本願力に支えられて人間生活が成立っている、この事実に気づけということです。
(十二) 所留耳底。 みみのそこにとどまるところ。いつも耳底になりひびいていて、忘れることのできない言葉。いわゆる耳で聞くのではなくて、耳識(にしき)の底の深い意識に、刻みつけられている言葉。
(十三) 同心行者。 どうしんのぎょうじゃ。心を同じくして同じ道を行く人。道友、同朋、同行、同法などといいます。
(十四) 為散不審。 ふしんをさんぜんがため。疑惑を解消するため。疑いをなくするため。
(十五) 云々。 うんぬん。まだ、いうべきことがあるけれども、それを省略するということ。
※現代語訳
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn01.htmlより)
私が思うに、親鸞聖人がいらっしゃったころと今とをくらべてみると、聖人が直接教えてくださった信心と異なることがあるのは、まことに悲しいことである。それによって、教えを学び受け継ぐ者たちに、疑いや惑いが起こりつつある。よき師に出遇(であ)うことがなければ、本願念仏の教えには入ることができないであろう。自分の勝手な考えで、他力の教えをけっして乱してはならない。そこで、亡き聖人からお聞きして忘れられないお話の要点を書き記しておこう。これは、ひとえに同じ志の求道者が陥りやすい不明な点を除くためである。
※関連語句
【『歎異抄』は申すまでもなく、「先師口伝の真信に異なることを歎き」とある。その「先師口伝の真信」とは、この『抄』いたるところにあるところの善導大師いらい伝承の二種深信であります。】
(曽我量深『歎異抄聴記』真宗文庫 5頁より)
【仏教の歴史というのは、一面から言うと、釈尊にそむいてきた歴史です。あるいは、親鸞聖人にそむいてきた歴史だと言っていいと思うのです。そむいたものが、そむいたという懺悔を通して、本来の命を回復する。それを歎異精神といいます。本来の仏教の精神によってそむいた歴史を、もう一度もとの命に回復する、そういうのが大乗運動といわれています。だから歎異というのは、釈尊や親鸞聖人にそむいた安心になっていることを歎くことによって、ほんとうの精神を回復するということです。そのような歎異精神によって、釈尊や親鸞にそむいた現在の仏法を回復していくという、歴史的に重大な働きを担っているのが同朋会運動です。そういう仏教復興の願いから出ているのが同朋会運動ですから、東本願寺というような、そんな一宗派の小さい問題ではないのです。】
(訓覇信雄『死して生きる』法蔵館 12頁より)
【如来より私どもに賜る信心とは、それがもはや人間の心を信ぜず、ただ、如来の御心をのみ深く信じる我であることにより、もはや私ども各自の差別の相に囚われることなく、ただ、自己自身の善し悪しにのみ心を奪われ、真実に生きることを忘れ果てた私ども人間そのものを、実に一文不知の愚鈍の身として自覚するという、そんな私どもにとっての全く新しい我になるものであり、傍若無人に独り我一人のみ善しとして生きようとするその私ども人間をして、「尼入道の無智のともがらに同ぜ」しめ、いかなる無智のともがらとも一つに手をつなぎ合わせ、共に如来を仰がせるという、そんな我ともなるべきものなのです。】
(信国淳『歎異抄講話』柏樹社 信国淳選集第一巻36頁より)
【世尊がさとった者の眼で世間を観察されると、生けるものたちにして、汚れの少ない者たち、汚れの多い者たち、資質のすぐれた者たち、資質の劣った者たち、善い性質の者たち、悪い性質の者たち、教えやすい者たち、教えにくい者たち、また来世に苦しみを受けなければならないと自分が行った罪業に怖れを見つつ暮らしている一部の者たちなどがいるのを世尊は見られた。】
(律蔵・大品より。但し講談社『原始仏典 ブッタの生涯』62頁より)
【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人々に平等に慈悲をおこして、あまねく一切を摂め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』129頁より)
【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】
(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』願生第145号より)
※所感
【利害の異なる門徒集団は各自に三代伝持を主張したと考えられます。それは唯円も同様であったでしょう。『歎異抄』本文に何度も法然と親鸞の名が出てきます。そして「序」に、
故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれをしるす。
とあって、唯円が正しく親鸞の教えを受け継いでいるのだ、と主張しているのです。これは唯円の門弟向けの発言であるということも考えられます。】
(今井雅晴『わが心の歎異抄』東本願寺 198頁より)
竊は窃盗の『窃』の旧字体。
2011年5月12日難波別院での狐野先生の歎異抄講座での講義ノートに
【気持ち的には窃む。何を窃むのか?仏法。人間のなす事、愚かな自分のする事。だから仏法を窃む事になるかもしれない。私は仏法を窃む罪を犯す事になるかもしれない。→「わしは解ったんや!」ではない。
我が身に響いて来た事をそのまま語るしかない。でもそれが仏法を窃む外れた事になるかもしれない。→凡夫の自覚・念仏者の姿勢】
と、あります。あくまでも私のノートですが。
※その他
【ここに、先師とあるのは、唯円房にとっての先師であります。一般には、先師は、親鸞聖人を指すものと受け取られがちですけれども、「口伝の真信」とありますから、その真信を口伝した人こそ先師でありましょう。いろいろ説はありますけれど、『歎異抄』の著者が唯円であるかぎり、ここで先師といわれているのは如信上人のことであろうと思います。】
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』雲集冬の聞法会事務局 6頁より)
※参考文献
@安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版
@和田稠『歎異抄講義録』片州濁世の会
@高原覚正『歎異抄集記 上巻』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/Jikki/index.html)
@藤内和光『歎異抄に聞く』(http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou-mokuji.html)
@細川巌『歎異抄講読』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/index.html)
歎異抄 序
※表題『愚どんの身になして』
※本文
竊かに愚案を回らして、ほぼ古今を勘うるに、先師の口伝の真信に異なることを歎き、後学相続の疑惑あることを思うに、幸いに有縁の知識によらずは、いかでか易行の一門に入ることを得んや。全く自見の覚悟をもって、他力の宗旨を乱ること莫れ。よって、故親鸞聖人御物語の趣、耳底に留まるところ、いささかこれをしるす。ひとえに同心行者の不審を散ぜんがためなりと云々
※語意・語注
(伊東慧明『歎異抄の世界』http://homepage3.nifty.com/Tannisho/sekai/1_1.htmlより)
(一) 廻愚案。 ひそかにぐあんをめぐらして。竊(ひそかに)は「公然と」にたいする「私に」の意味で、愚案とか粗(ほぼ)とともに謙遜のこころをあらわします。 『教行信証』の総序が「竊以」(ひそかにおもんみれば)という言葉ではじまっていることが連想されますが、これらは、信の純粋な敬虔感情(けいけんかんじょう)を表白する言葉です。
(二) 粗勘古今。 ほぼここんをかんがうるに。古今とは、親鸞密人在世の昔と、聖人なき今、つまり唯円が筆をとっている今のことです。
(三) 歎異。 ことなることをなげき。この書物が、タンニ抄と名づけられるのは、親鸞聖人の口伝(くでん)の真信に異る現実を歎いて書いたものであるということです。
(四) 先師口伝之真信。 せんしくでんのしんしん。先師とは、師なきあと、弟子から師をよぶ言葉。ここでは親鸞聖人のこと。口伝は、秘密の伝授ということではなく、口から耳へと直接語り伝えられること。真信は、真実の信心。 歎異抄は、細川行信先生の説によれば、親鸞没後二十年乃至二十五年頃に書かれたと思われます。その頃になると、信者の数は多いが、親鸞に面接した人は少くなり、また、たとい親鸞を知っていても、教えを正しく伝える人は多くはない。とすると、ここに、先師口伝といい、真信に異ることを歎くという言葉の重さが知られます。
(五) 有。 あらんことを。これを蓮如(れんにょ)親筆本、永正(えいしょう)本などでは「あることを」と読み、慧空(えくう)自筆本は「ありと」と読んでいますが、多屋頼俊先生は、ここは将来のことを推量するのだから「あらんことを」と読むのが正しいといっておられます。
(六) 後学相続之疑惑。 こうがくそうぞくのぎわく。あとから学ぶ人、後進のものが、教えを聞き、真信をうけついでいこうとするにあたっての疑い、まどい。
(七) 有縁知識。 うえんのちしき。有縁は、縁がある、関係があるということ。知識は、善知識(ぜんぢしぎ)の略。善知識は、梵語カルヤーナミトラ kalygamitraの訳語で、善友、勝友、親友などとも訳されます。これは、自分の内外をよく知っているもののことで、仏道の友は、みな善知識ですが、後には、特に師のことをさすようになります。また、広い意味で道に進むたすけとなるものを外護善知識(げごぜんぢしき)、同じ道を行く友を同行善知識(どうぎょうぜんぢしき)、道の行く手を明らかにするものを教授善知識(きょうじゅぜんぢしき)といいます。
(八) 易行一門。 いぎょうのいちもん。他力念仏の道。易行は、難行(なんぎょう)にたいする言葉ですが、これは「安易な」道ということではなく、自力にたいする過信をすてて、自力を完全に発揮しつくさせる道のことです。
(九) 自見の覚悟。 じけんのかくご。自分のひとりよがりな理解、勝手な了解。
(十) 乱。 みだる。患いあやまる、とりちがえるという意味で、素乱するという意味の「みだす」ではありません。
(十一) 他力の宗旨。 たりきのしゅうし。他力とは、他人の力をあてにするような消極的、退嬰的な他力ではなくここでは、アミダの本願の力のこと。宗旨は、ともに「むね」ということで、根本のこころ、根本義という意味。したがって、他力の宗旨をとりちがえるなというのは、人生には他力と自力が相対してあるのではないということ。つまり自力を完全燃焼させる力が他力である、アミダの本願力に支えられて人間生活が成立っている、この事実に気づけということです。
(十二) 所留耳底。 みみのそこにとどまるところ。いつも耳底になりひびいていて、忘れることのできない言葉。いわゆる耳で聞くのではなくて、耳識(にしき)の底の深い意識に、刻みつけられている言葉。
(十三) 同心行者。 どうしんのぎょうじゃ。心を同じくして同じ道を行く人。道友、同朋、同行、同法などといいます。
(十四) 為散不審。 ふしんをさんぜんがため。疑惑を解消するため。疑いをなくするため。
(十五) 云々。 うんぬん。まだ、いうべきことがあるけれども、それを省略するということ。
※現代語訳
(親鸞仏教センター http://shinran-bc.higashihonganji.or.jp/report/report03_bn01.htmlより)
私が思うに、親鸞聖人がいらっしゃったころと今とをくらべてみると、聖人が直接教えてくださった信心と異なることがあるのは、まことに悲しいことである。それによって、教えを学び受け継ぐ者たちに、疑いや惑いが起こりつつある。よき師に出遇(であ)うことがなければ、本願念仏の教えには入ることができないであろう。自分の勝手な考えで、他力の教えをけっして乱してはならない。そこで、亡き聖人からお聞きして忘れられないお話の要点を書き記しておこう。これは、ひとえに同じ志の求道者が陥りやすい不明な点を除くためである。
※関連語句
【『歎異抄』は申すまでもなく、「先師口伝の真信に異なることを歎き」とある。その「先師口伝の真信」とは、この『抄』いたるところにあるところの善導大師いらい伝承の二種深信であります。】
(曽我量深『歎異抄聴記』真宗文庫 5頁より)
【仏教の歴史というのは、一面から言うと、釈尊にそむいてきた歴史です。あるいは、親鸞聖人にそむいてきた歴史だと言っていいと思うのです。そむいたものが、そむいたという懺悔を通して、本来の命を回復する。それを歎異精神といいます。本来の仏教の精神によってそむいた歴史を、もう一度もとの命に回復する、そういうのが大乗運動といわれています。だから歎異というのは、釈尊や親鸞聖人にそむいた安心になっていることを歎くことによって、ほんとうの精神を回復するということです。そのような歎異精神によって、釈尊や親鸞にそむいた現在の仏法を回復していくという、歴史的に重大な働きを担っているのが同朋会運動です。そういう仏教復興の願いから出ているのが同朋会運動ですから、東本願寺というような、そんな一宗派の小さい問題ではないのです。】
(訓覇信雄『死して生きる』法蔵館 12頁より)
【如来より私どもに賜る信心とは、それがもはや人間の心を信ぜず、ただ、如来の御心をのみ深く信じる我であることにより、もはや私ども各自の差別の相に囚われることなく、ただ、自己自身の善し悪しにのみ心を奪われ、真実に生きることを忘れ果てた私ども人間そのものを、実に一文不知の愚鈍の身として自覚するという、そんな私どもにとっての全く新しい我になるものであり、傍若無人に独り我一人のみ善しとして生きようとするその私ども人間をして、「尼入道の無智のともがらに同ぜ」しめ、いかなる無智のともがらとも一つに手をつなぎ合わせ、共に如来を仰がせるという、そんな我ともなるべきものなのです。】
(信国淳『歎異抄講話』柏樹社 信国淳選集第一巻36頁より)
【世尊がさとった者の眼で世間を観察されると、生けるものたちにして、汚れの少ない者たち、汚れの多い者たち、資質のすぐれた者たち、資質の劣った者たち、善い性質の者たち、悪い性質の者たち、教えやすい者たち、教えにくい者たち、また来世に苦しみを受けなければならないと自分が行った罪業に怖れを見つつ暮らしている一部の者たちなどがいるのを世尊は見られた。】
(律蔵・大品より。但し講談社『原始仏典 ブッタの生涯』62頁より)
【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。それであるから、阿弥陀如来が法蔵比丘であられたはるか昔に、あらゆる人々に平等に慈悲をおこして、あまねく一切を摂め入れるために、仏像を造り、堂塔を建立するなどの多くの行為をもって往生の本願とはされなかった。ただ称名念仏の一行のみをもって本願とされたのである。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』129頁より)
【私の専修学院での学びは、凡夫という言葉を中心に始まりました。しかし学院は生活学習の場ですから、そこで繰り広げられる私の意識生活は、その凡夫の身を裏切る自尊心との格闘でもありました。それは今日も、今も、続いています。そうした事実と思いのぶつかる日々の生活の中で、それでもここに身を置いていることの支えとしている言葉があります。それは信國先生が大病を患われた晩年のころだったのではないかと思いますが、授業で法然上人の『一枚起請文』(真宗聖典九六二頁)を取り上げられて
「ここに『一文不知の愚どんの身になして』とあるでしょう。この『なして』という日本語は、意思をあらわす言葉です。意思して、愚鈍の身になるのです。」
と、強い口調でおっしゃいました。「意思して、なる」。いつのまにか、如来回向とか、本願他力という教学用語を自分勝手にとりこんで、仏法を自動起床装置であるかのように錯覚する腑抜けた信仰理解にまどろんでいる私どもに、「目覚めよ」と命じる一言でした。
凡夫とは、意思して凡夫にならなければ、自分が凡夫の身を生きていることに気付けないものです。その凡夫への意思を私どもに喚び起こす強い力が、如来の本願です。】
(狐野秀存『共に是れ凡夫ならくのみ』願生第145号より)
※所感
【利害の異なる門徒集団は各自に三代伝持を主張したと考えられます。それは唯円も同様であったでしょう。『歎異抄』本文に何度も法然と親鸞の名が出てきます。そして「序」に、
故親鸞聖人の御物語の趣、耳の底に留まるところ、いささかこれをしるす。
とあって、唯円が正しく親鸞の教えを受け継いでいるのだ、と主張しているのです。これは唯円の門弟向けの発言であるということも考えられます。】
(今井雅晴『わが心の歎異抄』東本願寺 198頁より)
竊は窃盗の『窃』の旧字体。
2011年5月12日難波別院での狐野先生の歎異抄講座での講義ノートに
【気持ち的には窃む。何を窃むのか?仏法。人間のなす事、愚かな自分のする事。だから仏法を窃む事になるかもしれない。私は仏法を窃む罪を犯す事になるかもしれない。→「わしは解ったんや!」ではない。
我が身に響いて来た事をそのまま語るしかない。でもそれが仏法を窃む外れた事になるかもしれない。→凡夫の自覚・念仏者の姿勢】
と、あります。あくまでも私のノートですが。
※その他
【ここに、先師とあるのは、唯円房にとっての先師であります。一般には、先師は、親鸞聖人を指すものと受け取られがちですけれども、「口伝の真信」とありますから、その真信を口伝した人こそ先師でありましょう。いろいろ説はありますけれど、『歎異抄』の著者が唯円であるかぎり、ここで先師といわれているのは如信上人のことであろうと思います。】
(藤元正樹『ただ念仏のみぞ』雲集冬の聞法会事務局 6頁より)
※参考文献
@安良岡康作『歎異抄全講読』大蔵出版
@和田稠『歎異抄講義録』片州濁世の会
@高原覚正『歎異抄集記 上巻』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/Jikki/index.html)
@藤内和光『歎異抄に聞く』(http://park3.wakwak.com/~myokenji/tannisyou-mokuji.html)
@細川巌『歎異抄講読』(http://homepage3.nifty.com/Tannisho/index.html)