坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

末代無知

2009年11月08日 | 坊主の家計簿
 レジメ完成。
 来年からは講師の先生に来て頂くとして、「ほな、今年はうちの永代経の説明しとかな」っちゅう感じ。
 っちゅうても、うちの永代経では改悔文を読むし、正信偈の導師は門徒さんである。「報恩講やんけ!」(笑)まあ、あくまでも、念仏相続の仏事としての永代経にしたかったんだろうと勝手に思う。っちゅうか、多分、そうだ。
 何やら「永代経は門徒のもんや」っちゅう事だったらしい。よって、さっきレジメを作った後に進行表を作ってたんだが、司会から何から何までほぼ、担当は門徒さんである。喚鐘を打つのも門徒さんである。その辺の歴史が何時始まったのか知らんが、「エエ感じやんけ~」である。

 っちゅう事で、レジメはA4で6枚。引用文、引用文。
 まあ、せっかく説明するねんやったら、読経や御文の説明もしたい。「ほな、現代語で読もか」っちゅう事で、『法話』の時間にプチ・現代語での法要。よって、現代語での法要部分だけ紹介、紹介。ちなみに御文は「練習全くしてまへん!」っちゅうのと、『蓮如の現代語』を説明したいし、『末代無知』っちゅう短いやつ。

 
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  一、法要

 (1) 世間に生きる我々に対する仏の御教え
 
 【人は世間の情にとらわれて生活しているが、結局独りで生れて独りで死に、独りで来て独りで去るのである。すなわち、それぞれの行いによって苦しい世界や楽しい世界に生まれていく。すべては自分自身がそれにあたるのであって、だれも代ってくれるものはない。善い行いをしたものは楽しい世界に生れ、悪い行いをしたものは苦しい世界に生れるというように、おのおのその行く先が異なっており、厳然とした因果の道理によって、あらかじめ定められているところにただひとり生れて行くのである。そして遠く別の世界に行ってしまえば、もうめぐりあうことはできない。それぞれ善悪の行いにしたがって生れて行くのである。行く先は遠くてよく見えず、永久に別れ別れとなり、行く道が同じでじゃないからまず出会うことはない。ふたたび会うことなど、まことに難しい限りである。
 それなのにどうして人々は世間の雑事をふり捨てないのか。各自が元気なうちにつとめて善い行いをし、ただひたすら迷いの世界を捨てて無量寿仏の国に生れたいと願うなら、限りない命が得られるのである。どうしてさとりを求めないのだろうか。何を期待しているのだろうか。いったいどういう楽しみを望んでいるのだろうか。
 このような世間の人々は、善い行いをして善い結果を得ることや、仏道を修めてさとりを得ることを信じない。人が死ねば次の世に生まれ変わることや、人に恵みを施せば福が得られることを信じない。善悪因果の道理をまったく信じないで、そのようなことはないと思い、あくまでも認めようとしない。このように因果の道理を信じないから、自分の誤った見方にとらわれ、またそれをかわるがわる見習って、先のものも後のものも同じように誤る。そして、子は親の教えた誤った考えを次々に受け継いでいくのである。もともと親もまたその親も、善い行いをせず、さとりの徳も知らず、身も心も愚かであり、かたくなであって、自分でこの生死・善悪の道理を知ることができず、またそれを語り聞かせるものもない。善いことが起きるのも悪いことが起きるのも、すべて次々に自分が招いているのに、だれひとりそれはなぜかと考えるものもない。
 生れ変り死に変りして絶えることのないのが世の常である。あるいは親が子を亡くして泣き、あるいは子が親を失って泣き、兄弟夫婦も互いに死に別れて泣きあう。老いたものから死ぬこともあれば、逆に若いものから死ぬこともある。これが無常の道理である。すべてははかなく過ぎ去るのであって、いつまでもそのままでいることはできない。この道理を説いて導いても、信じるものは少ない。そのためいつまでも生れ変り死に変りして、とどまるときがないのである。
 こういう人々は、心が愚かでありかたくなであって、仏の教えを信じず、後の世のことを考えず、各自がただ目先の快楽を追うばかりである。欲望にとらわれてさとりの道に入ろうとせず、怒りにくるい、財欲と色欲をむさぶることは、まるで飢えた狼のようである。そのためにさとりが得られず、ふたたび迷いの世界に生れて苦しみ、いつまでも生れ変り死に変りし続ける。何という哀れな痛ましいことであろうか。】(仏説無量寿経下巻より。ただし現代語は本願寺出版社『浄土真宗聖典・浄土三部経』P99~102より)


 (2) 末代無知

 【み仏の教えがしだいにわからなくなった末法という時代に生きる私たちは、お釈迦様のように家をすてて道を求めることのできない、毎日の生活にあけくれる男や女なのです。私もその一人として生きることの道標をたずねております。
 そういう私どものために阿弥陀仏は願いをかけていてくださるのです。だから、あれやこれやと、さまざまな仏・菩薩や神々をあてにするのではなく、心を一つにして、阿弥陀仏の真実を唯一のよりどころとしていきていこうとするならば、かならず救ってくださるのです。どんなに罪深く悪重い者であっても決して見すてないといわれるのです。
 これこそが、阿弥陀仏の第十八番目の願いとしてかかげられた「私の国・浄土へ生まれたいとおもって、念仏する者を必ず救う」という誓いの心なのです。
 このように、み仏の教えによって生きる方向が定まったならば、どんな時でも生きている限りは、み仏のみ名を称えて、いのちの尊さを思いつづけていきたいものであります。あなたに敬いをこめて。】(蓮如上人・御文5帖目第一通。ただし現代意訳は戸次公正氏)


 
 (3) お浄土の世界(蓮の花を自分に置き換えてみる)

 【またいろいろな宝でできた蓮の花がいたるところに咲いており、それぞれの花には百千億の花びらがある。その花の放つ光には無数の色がある。青い色、白い色とそれぞれに光り輝き、同じように黒・黄・赤・紫の色に光り輝くのである。それらは鮮やかに輝いて、太陽や月よりもなお明るい。そのそれぞれの光の中から三十六百千億の光が放たれ、そのそれぞれの光の中から三十六百千億の仏がたが現れる。そのお体は金色に輝いて、そのお姿はことのほかすぐれておいでになる。この仏がたがまたそれぞれ百千の光を放ち、ひろくすべてのもののためにすぐれた教えをお説きになり、数限りない人々に仏のさとりの道を歩ませてくださるのである】(仏説無量寿経上巻より。ただし現代語は本願寺出版社『浄土真宗聖典・浄土三部経』P69~70より)


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 しゃて、明日、法要が終わったら、私は明後日休みである♪
 現状、小遣いゼロであり、その為にチョコマカ、チョコマカと他所で小遣い稼ぎをしたり、貯金を切り崩したりしてる中で、ほぼ外食生活だったしして、結構金銭苦なんだが、明日は『法要終わったら次の日休み』という奇跡的な日である。しかも先日ママから「なんや、明日休みやから朝まで飲んで来るのかと思てた」と云われたし、やはりここは朝まで飲むべきか。。。っちゅうか、今日、娘を抱っこしてないから、娘と一緒の時間も欲しい。。。そうか、法要後に仮眠して、娘と一緒の時間を過ごして深夜から出かけりゃエエねんや。