坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

黄梔子

2009年11月05日 | 坊主の家計簿
 仕事が終わって「寒い、寒い」と布団に潜り込む。まだ寒い。「なんでや、窓もちゃんと閉めてるし、長袖下着シャツにフリース着て布団に包まってるのに、なんでや!」と、ブツクサ言いたれつつそのまま寝る。
 起きても寒い。ママに雑炊を作って貰って、食べる。お腹と体、温まる。そして寝る。今度は起きても温か。まあ、気温も上がって来たみたいやし。

 今日は、ほぼ、寝て→本を読む→寝るの繰り返し。蓮如関係の本を読む。っちゅうても、そんなにないのだが。
 蓮如とは

 1 「親鸞へ帰れ!」の人
 2 現代語で布教しまくった人
 3 平座の人

 しっかし、当時の現代語も今では古語。当時は解った言葉も、今は解らん。御文って現代語で読むべきやねんやろな、本来は。もしくは、古語で読んで、現代語で意訳したやつを渡すとか。
 なんぞと書きつつ、面倒なので『古語』そのままで引用したりするが

【仰せに、「身をすてて、平坐にて、みな同坐するは、聖人のおおせに、「四海の信心のひとは、みな兄弟」と、仰せられたれば、われも、その御ことばのごとくなり。また、同座をもしてあらば、不審なることをもとえかし、信をよくとれかしと、ねがうばかりなり」と、おおせられそうろうなり。】(蓮如上人御一代記聞書・39)

 『身をすてて』やな。狭い意味になってまうけど、『身分をすてて』でもエエやろ。『プライドをすてて』でもエエやろうし。『平座』の反対は『上座・下座』。
 釈尊は死の間際に

【またアーナンダよ。いま修行僧たちは、互いに『友よ!』と呼びかけて、つき合っている。しかし私が亡くなったのちには、お前たちはこのようにいってつき合ってはならない。アーナンダよ。年長である修行僧は、新参の修行僧を、名を呼んで、また姓を呼んで、または『友よ!』と呼びかけてつき合うべきである。新参の修行僧は、年長の修行僧を『尊い方よ!』とか『尊者よ!』と呼んでつきあうべきである。 】(岩波『ブッダ最後の旅』大パリニッバーナ経P155~156より)と説かれているが、続いての言葉は
【アーナンダよ。修行僧の集いは、わたしが亡くなったのちには、もしも欲するならば、瑣細な、小さな戒律箇条はこれを廃止してもよい。】(岩波『ブッダ最後の旅』大パリニッバーナ経P156より)
 だったりする。
 っちゅうか、『共に佛弟子』の『御同朋』『御同行』やし、お互いに「友よ!」なんだろう。

 また、

【念仏は容易であるから、どんな人にでもできるが、ほかの行為は行なうのに困難であるから、あらゆる人の能力に応ずることができない。
 それであるから、一切の生きとし生けるものを平等に往生させようとするためには、困難なものを捨て、容易な行為を取って、仏の本願とされたのであろうか。
 もしも、堂塔を建立し、仏像を造ることによって本願とされると、貧しく賤しい者たちは往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも裕福な者は少ないのに、貧しく賤しい人は非常に多い。
 もしも、智慧や才覚のすぐれた者をもって、本願の対象とされるならば、愚かな智慧のない者は往生する望みを完全に絶たれたことになる。しかも、智慧ある者は少なく、愚かな者は非常に多い。
 もしも、よく見、聞いて学問をしている者をもって、本願の対象とされるならば、わずかしか見聞きしないで、学問をあまりしていない者たちは、往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、よく聞いて学問している人は少なく、学問のない者は非常に多い。
 もしも、戒律を堅持している者をもって本願の対象とされるならば、破壊や無戒の人は往生する望みが完全に絶たれたことになる。しかも、持戒の者は少なく、破戒の者は非常に多い。
 それ以外の行為をする者もこれに準じて理解することができよう。当然これで理解できたのであるが、以上の多くの行為をもって、本願とされるならば、往生できる者は少なく、往生しない者は多いであろう。】(法然『選択本願念仏集』より。但し現代語訳は、中公バックス『日本の名著 法然』より)

 やし

【聖人 親鸞 のたまわく、いにしえ我が本師聖人の御前に、聖信房、勢観房、念仏房已下の人々おおかりし時、はかりなき諍論をし侍る事ありき。そのゆえは「聖人 源空 の御信心と、善信が信心といささかもかわるところあるべからず、ただ一なり」と申したりしに、このひとびととがめていわく、「善信房の、聖人の御信心とわが信心とひとしと申さるる事いわれなし。いかでかひとしかるべき」と。善信申して云わく、「などかひとしと申さざるべきや。そのゆえは、深智博覧にひとしからんとも申さばこそ、まことにおおけなくもあらめ、往生の信心にいたりては、一たび他力信心のことわりをうけ給わりしよりこのかた、まったくわたくしなし。しかれば、聖人の御信心も、他力よりたまわらせたまう、善信が信心も他力なり。かるがゆえにひとしくしてかわるところなし、と申すなり」と、申し侍りしところに、大師聖人まさしく仰せられてのたまわく、「信心のかわると申すは、自力の信にとりての事なり。すなわち、智恵各別なるがゆえに、信また各別なり。他力の信心は、善悪の凡夫、ともに仏のかたよりたまわる信心なれば、源空が信心も、善信房の信心も、更にかわるべからず、ただひとつなり。わがかしこくて信ずるにあらず。信心のかわりおうておわしまさん人々は、わがまいらん浄土へはよもまいらせたまわじ。よくよくこころえらるべき事なり」と云々 ここに、めんめんしたをまき、くちをとじてやみにけり。】(御伝鈔『信心諍論』より)

 やし。
 共に

【煩悩具足のわれらは、いずれの行にても、生死をはなるることあるべからざるをあわれみたまいて、願をおこしたまう本意】(歎異抄より)

 やし、それが『われら』やし。仏の御前だから、『平座』に成らざるを得ない。

 っちゅう事で、永代経法要は黄梔子で出よ。ふっふっふっふ。。。「誰でも着れる。」っちゅうのが、いっちゃん尊いやんけ。って、坊さんしか着られへんけどやなぁ。。。