坊主の家計簿

♪こらえちゃいけないんだ You
 思いを伝えてよ 何も始まらないからね

家計簿ではありません。。。しかも書いたのは12月7日です。。。

2005年11月09日 | 坊主の家計簿
 この間、お参り先のオバちゃんからレトルトカレーを貰った。これは彼岸法要の時に私が感話で「自炊してます」と言ったからであるのだが、あのレトルトカレーは「兄ちゃん。自炊なんかせんと、その分勉強してや!」っちゅう意味なんだろうか?まあ、オバちゃんお勧めのレトルトカレーであって、結構美味かったのだが。。。
 とはいえ、私ら在家真宗坊主は別に学者ではないので学問だけをしても仕方がないと感じる。読書したり学習会に行く事は当然大事な事だけど、それ以前に生活者として生きて行く上での問いがなければ、聞く事もどこか机上の論理になってしまうと感じる。
 とはいえ、全員が全員家事をする必要もなく、役割分担なんだから、専業主婦と同じく専業僧侶が居てもいいわけであって、互いがそれぞれの仕事を尊敬しあえばエエわけであってやな。
 家事をしてても、漁に行くわけでも、布を織るわけでもない。家事をする事を「大変だ」と誇る事によって、その実、「自分が一番大変」と言いたいだけであって、そういう御苦労がみえなかったりする。気づこうとしなかったりする。家事を誇る事によって自分のプライドを保とうとする事には懸命になり、その家事を支えてくれている漁師さんだったり、布を織ったりする人の事は見ようとしなかったりする、気づこうとしなかったりする。
 結局は何をやっても、プライドの高い自分の誇る為の道具にしてしまう。
 だからといって、何もやらないわけにはいかず、なにもやらないのなら間違いなく今度は「なにもやらない事」を誇る。「なんの、なんの、皆様方とは違って私には誇るものなど何もありませんよ」と自他を斬り裁き誇るわけだし。そんなもんだ。
 そんな中で唯一出来る事といえば、誇って周囲、っちゅうか自他を自分のプライドを保つ為の道具にしかしていないという自分を問われていく事だと感じる。

 【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)

 そんな『時』以外は自他を斬り裁いているわけであって、自分のプライドを保とうと自他を踏みにじっているわけであって、それを特に誤摩化してしまうのが『解放』だったり、『正義』だったり、甘い言葉である。


 【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)

 そんな『時』以外は常に自他を斬り裁いている。が、そういう『時』がある事によって、そういう『時』以外を批判出来る。そういう『時』を基準にして批判出来る。
 よって、さも自分がそういう『時』に常にあるような顔をして振る舞う必要もなければ、逆に「このような罪深きわたくしが人様の批判なんぞ恐れ多くて。。。」などと卑下し慢心する必要もない。
 そういう『時』以外は必ず自他を斬り裁いているわけであって、その証拠に批判されでもしようものなら全力をあげて批判から逃れようと屁理屈をこねたりする。
 

 【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)
 の、これ。
 んで、「そんな時以外は自他を斬り裁いている」と云う事。
 まあ、歎異抄第一章を改めて読んで、今回非常に大事にしたい事であるのだが、当然これにも元ネタがある。
 恐らく関西限定のコマーシャルで『551の豚まん』のコマーシャル。

 551の豚まんがある時→笑う
 551の豚まんが無い時→泣く

 の、これである。
 
 と、色気ずく。カッコ付ける。お笑いにもって行きたい。と、煩悩バリバリでもって「私らしく受けようとする」。
 当然この場合の「私らしく」とは、「私がどのように周りから観られて居て」という幻想の元に私が売りたい、その部分で評価されたい、自信があったり、少し自慢出来たりする部分である。そういう部分で発表しようとしている私が居る。


 「そういう存在なんだ」と、また酔う。間違ってしか生きていけないのだ、と聞く事によっても酔う。

 「そういう存在なのだ」と云う事が、酔いを醒す事ならば、「私は酔いを醒した」と酔って居る。宗教の一番危険な部分。

 【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)

 当然、私はいつでも、どんな時でも、酔って居る。気分屋で、その場しのぎでしか生きていない。
 『真宗』と云うブランドが好きなだけで、ブランド好き、日の丸好きと云う人達と、認めたくはないが認めざるをおえない。それが事実である。

 異なる事を歎く→歎異抄。
 同じと云えない、「俺はお前等と違うんや!」と云う私。
 異なる事を歎かれている。歎かれる事により、「みんなと一緒に生きたい!」と少しでも思ったりする事が出来る。


  【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)

 そんな時以外は自他を斬り裁いている。

  一日のケジメ。自己納得。
 これが休日ならもっと大変。
 「せっかくの休みだし。。。」と。この間の休日なんぞ、「明日は休みだし、二日酔いオッケー!!!」とハイペースでウイスキーを煽る。
 自分自身が思い画く「休日」。「休日らしく」。休日らしく過ごせた事に納得する。
 納得出来ない時は、「せっかくの休日なのに。。。」と、その日一日、いかなる形であっても休日を過ごせた事実を裁いてしまう。自分の大切な人生の中の一日を斬り裁いてしまう。

 自分で納得しようとする。納得出来ない事はイヤなのだ。
 それは単なるエゴである。いかなる形であっても過ごした一日がある。

 いかなる形の人生であっても、どういう生き方をしようとも、自分で納得出来ない生き方はイヤなのだ。
 『夢』
 「ああいう風になりたかった。。。」「ああいう風に生きたかった。。。」
 それは妄想である。妄想でもって現実の自分を斬り裁き、故に「おもしろくない」と。他人を斬り裁き「おもしろくない」と。

 「おもしろい自分」「おもしろい他人」それは自我意識の奴隷である。エゴにとって都合の良い人、悪い人。自他をエゴの奴隷にする。世界を小さくしてしまう。

 そうやって、作られるよゐこ。

 『よゐこ』と云っても、どういう共同体(人間関係)で生きるかによって違う。大まかな社会、例えばマスコミ、PTAのオバちゃんからして『悪い子』であっても、違う環境によってはよゐこである。人殺しが出来ない兵隊は『悪い子』である。

 孤独を怖れる。対立を怖れる。故にその場に合わせたよゐこに成ろうとする。
 「差別しない私がよゐこの条件」であれば、差別しない私を演じる。差別意識を見ようとしない。
 「差別心を見つめる事がよゐこの条件」であれば、差別心を見つめる。
 その場、その場の『よゐこ』の条件に合わそうとする。相手(私の価値を認めてもらいたい人)に合わせて、条件に合ったよゐこに成ろうとする。

 そういう私を発露する事によって、仏教徒としての居場所を確保しようとする。その事は同時に、発露出来ない自他を斬り裁いている。
 仏教徒である私と云うエゴ存在からの視点でもって、自他を斬り裁いている。
 「何故出来ないのか!」と、出来る出来ないの問題にしてしまう。

 それは帰依の問題である。私は僧侶である。僧侶と云うある種「帰依しなくても仏教徒気分を満喫出来る立場」にある。衣も着ている、経も読む。世間からも、自分でも「僧侶である」と。帰依しなくても仏教徒気分が満喫出来る危険な存在である。
 特に寺に産まれなかったのが私的にはデカイ。「俺は寺を継ぐ為に僧侶になったわけではない!」と慢心してしまう。その事によって帰依しなければならない事を忘却してしまう事の理由の一つにしてしまう。そうやって、自分の産まれを誇ってしまう。
 ちなみに寺産まれでない事は、この教団ではマイナスな事が多い。まあ、ハッキリと差別された事もある。
 が故に、差別された事を逆手にとって、自分の慢心の道具に使ってしまっている。
 「俺は寺を継ぐ為に僧侶になったわけではない!」と。
 そうやって自分がさも「多くの僧侶と違った存在である」と、自分で納得する。その事によって、その事を立てる事によって、他を斬り裁く事によって自分を納得させようとする。

 あるいは「私は職業坊主だ!」と。生活者としての僧侶としての一面をクローズアップさせる事によって自分を納得させようとする。『僧と俗』の垣根を越えようとする事によって自分を納得させようとする。

 どこまで行っても、私は自他を斬り裁いている。

 と、云う事でよゐこになり、批判をかわそうとする。

 自己批判と云う甘っちょろいものでもって、批判をかわそうとする。

 「個人になっとらんか?」
 とは、私が道場時代によく云われた言葉である。
 その通り、私は個人に成って居る。
 故に、よゐこの私は出来るだけ多くのグループ学習に参加したい。


 「我々が仏法に救われるというのは、個人の自由から救われることである。仏法に遭わなければ、我々が求めるのは個人の自由でしかない。個人であれば、何をしてもよい、自分の自由だということになる。個人に自由を与えると、かえってその自由に苦しめられるという結果になってくる。」(安田理深『親鸞の宗教改革』85ページより)


 【弥陀の誓願不思議に助けられまゐらせて、往生をば遂ぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、即ち、摂取不捨の利益に預けしめ給ふなり。】(歎異抄第一章より)

 そんな時以外は自他を斬り裁いている。

 今の私に出来る事は、そういう私を見つめる事。
 当然、それもよゐこである。

 【しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず。】(歎異抄第一章より)
 と、云う『善』にかなったよゐこに成って行こうとする事だけである。

 

 レポートを書く。書く時は一人だ。一人で書いて居る。

 「レポートを書く時は、出来るだけ昼間に、人の声の聞こえる所で書きなさい」と、ある先生は云った。そういう環境に今はない。

 故に、懺悔する。あるいは「悲しきかな」と云っても『気分』である。単なる気分でもって懺悔、悲嘆する。
 自己満足である。


 「念仏申せる生活を選びなさい」
 とは、法然上人の言葉であり、学院別科班担ハニーから送られた言葉である。

 「罪悪深重、煩悩具足の凡夫の自覚を持てる生活」

 やはり、『個人』では無理である。

 泉恵機先生が、大阪教務所での人権学習(?)での講義の際、「基本的に私の現場は寺だとおります」(大阪教区通信106号より)と、語られていた。

 私も寺で働いて居る。毎日の生活の現場は寺で働いて居る事である。

 お参り先のオバちゃん達と、タマに話す。毎日、どこの家庭でもではない。結構忙しい(と、逃げ、言い訳しつつ)のだ。
 「その場が、サンガに成って居るのか?」と聞かれたら、「いいえ」と答えざるを得ない。

 月参りの事を「御経の宅配」だと云う人が居る。それに対してある先生は「宅配と云うが、ちゃんと御経を届けているのか?」と指摘されていた。

 私は学習会に逃げているのかも知れない。が、「逃げている」と云う自覚を呼び起こしてくれるのも、「そういう場」があるからだ。

 生活の現場。と、何か『仏教的』な現場。
 学習会に参加する事によって、『気分』が満足して、自分で納得してしまうだけなら、その学習会に意味が無くなる。

 「問われる現場」
 私は、『いつのどこの誰に対して』も問われる事など出来ていない。

 本尊
 お参り先には必ず本尊がある。が、その本尊を本尊として観ようとしていない、問われる事がなく、「忙しい」と、誤摩化す。自他を斬り裁いている事に無自覚になる。

 『出来る事。やりたい事。やらなければ成らない事』だったと思うのだが、今の私には、グループ学習に参加して、そこから問われた事を、現場である寺に持ち帰り、お参り先の人達と、『門徒』として、その場をサンガにして行きたい。
 それが出来れば、わざわざこんな遠くまで出向く事なく、また、何か学習会等の『問われる現場』以外で自己を斬り裁いている事に対して無自覚に成らなくてすむはずだ。
 お参り先での本尊に対する合掌礼拝=『問われる現場』に成りさえすれば、同じ『門徒』として、その場をサンガに出来ればいいだけの話だ。

 「保ちやすく、称えやすい」念仏。持ち運び自由な念仏。
 保ちやすく、称えやすく、持ち運び出来るが故に、何時でも、何処でも、誰とでも、自他を斬り裁いている事に対して無自覚だった事に気づく事が出来るはずだ。

 私はそれをやっていないだけの話である。

 「出来る出来ない」は能力である。
 その『能力』は他人と比べる事は出来ない。する必要もない。する必要もないが故に「やろうとすればいい」だけの話である。
 

 「在家のクセに」と、ある『寺族』人から罵られた事があった。その悔しさは生涯忘れる事が出来ない。


 教団問題当時に、ある『御門徒さん(あえて)』が、こんな事を云われたそうな。
 【この(大谷派宗憲)9章の問題は、『僧侶』と『門徒』と規定されていますね。僕は『門徒』と云う言葉には、いわゆる広義な意味で(広い意味で)『僧侶』も含んだ内容に置いて全部が『門徒』である、という考えと、それから『在家門徒』だけが『門徒』である、という表現があると思うんです。それは二つあってもいいんですけども、今度の宗憲の中に「門徒とは」「僧侶とは」と云う事を明確に分けてしまっていいのかどうか?やはり今までの『法主』を『門首』と改めている以上、基本的には『門首』『門徒』そういうのを含めて門徒、という形が望ましいのではないのかと?しかるに宗憲の中に「僧侶は僧侶」「門徒は門徒」と、いう別な規定というか制約が書いてあります。そうすると広い意味での『門徒』と云う意味があったのに、いわゆる宗憲の中で定義付けてしまって、それが大変な権威に成ってしまって、将来『僧侶』『門徒』とはこういうものだ、という方向に行ってしまうのではないかと。それが本当に同朋教団としての真宗なのか。だからこういう言葉を使っていいのか知れないけども、宗祖の精神に帰るという事であるならば『門徒』というのは、『僧侶』も『在家門徒』も含めて『門徒』であるという言葉の方がいいのではないかと申しあげて来たのです。】(某学習会で、ある先生よりの聞き書き)

 私は、昨年の発表のテーマは『僧』と『俗』、まあ『聖と俗』でもあるのだが、そういう問題であった。そしてそれは生涯のテーマでもある。
 私は『僧侶』である。故に、僧侶として、お参り先の『門徒』さんと、同じに成っていない。私にとっての『真宗門徒』とは、同じ僧侶仲間であったり、こういう学習会であったりする『門徒さん』でしかない。

 それはお参り先の門徒さんを差別している事である。「問われない」とさっき書いたが、問われないのは明確に『同じ真宗門徒』としての自覚が無いからだ。
 自分が差別された時は、怒ったくせに、平気で毎日差別し続けている。『同じ真宗門徒』になっていない。


 しかし、『門徒さん』達も、要するにお参り先のオバちゃん達も念仏申す。私のお勤めに合わして、一緒に念仏申している。
 私は『念仏』を斬り裁いている。
 「僧侶が称える念仏。」
 「学習会等に参加する門徒さんが称える念仏。」
 だけを、念仏として、同じ念仏であるにも関わらず、同じ真宗門徒として観ていない。明確に差別している。

 私は『在家』として差別された事があったと、先に書いたが、なら、その差別、『僧と俗』の差別を今度は私がやっている側に立っている。故に、それは私から解決出来る問題である。私が解決しなければならない問題である。

 お参り先、寺、私の現場でもって、出来る出来ないでなく、やらなければならない課題である。

 だらだらと、生活発表のレポートを書きなぐっている間に、課題がはっきりしてきた。
 まずは、カレーを貰ったオバちゃんに対して私は、「やっぱり、『カレーなんか作ってる暇があるんやったら、その分勉強してや!』と云う意味なんですか?
 と聞くべきなのだ。そこから会話すべきなのだ。
 
 『個人』と『気分』で生きている。