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エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

城址を歩く・・・1

2013年01月26日 | ポエム
城址・・・城跡である。
俳句結社「からまつ」の東京新年句会で、ぼくは城跡を詠った主宰の句に感銘したと述べた。

主宰が歩かれた城跡が、何処かは知らない。
けれど、ぼくも城跡の大気を吸ってみたいと思ったのである。

  松風騒ぐ・・・とはいかない。

昨日は、とても寒かった。
ましてや、吹き晒しの城跡である。



この城跡は、総曲輪の造りである。



おそらく、この道は空堀であったのだろうか。
小高い丘になっていて、今は笹が群生している。

空気が濾過されて、寒いし軽やかである。

主宰が感じた大気の軽やかさは、これであったのだろうか。
時間が限りなく流れ、その結果大気は濾過され、人の世を透過して軽くなっていく。
歴史の必然でもあるのだろう。

主宰は、その大気を捉えられ俳句を詠まれた。







「笹鳴きの丘の連なる城の跡」







ぼくは、そこまで見つめられなかった。
従って、上記のような句となったのである。

根走りに苔が絡みついている。
時間の流れは充分に感じられたのであった。

ここは「岩槻城址」である。




               荒 野人

侘助の花

2013年01月25日 | ポエム
侘助・・・椿の種である。
椿は春の季語だけれど、侘助は三冬の季語となっている。
厳しい冬から春にかけて花開くのである。

名前が、優れて結構である。
結構と表現する場合、建物がその適用範囲だけれど、この花には結構を与えたいのである。
一重で、半開きの花であり、そのイマージュは堅牢であるからだ。



誠に結構である。
その赤さが際立つのである。



この赤さは、紅とは言えず赤色である。
そもそも紅は、赤の1範疇でしかない。



このピンクは「数寄屋侘助」である。
淡いピンクが優しさを演出してくれる。

そもそも侘助は茶花として珍重されている。
ツバキ(侘助)の木炭は品質が高く、昔は大名の手焙りに使われたという。

仄かに高貴な熱源が感じられるではないか。







「侘助の咲けとばかりのおちょぼ口」







侘助・・・茶花の女王である。
この日、鮮やかに月が輝いた。



高貴に輝いたのである。




あと何日かで満月になる。
朔太郎が眺めた満月である。

満月になったら、ぼくは月に吠えよう。



      荒 野人

蝋梅に寄する淡き・・・

2013年01月24日 | ポエム
蝋梅は寒さの中で咲き募っている。
愛おしい花である。



冷蔵庫の中の空気にも似て、寒さは厳しい。
けれども、その木の傍に近づくと芳香に満ちている大気であることが分かる。
それは例えようも無くワクワクさせてくれるのである。

昨日、山頭火を感じほろほろ泣けたという事実を述べた。



荒涼とした景色があった。
寂寥感を描いたような「裸木」が聳えていたのである。



食べるだけはいただいた雨となり
             山頭火



これも山頭火の心象風景である。



さて、今日は再び蝋梅である。



まるでマンサクのような花弁をひらひらさせて咲く蝋梅。
この花も香りを放っている。

例え一輪二輪でも香りは、同じである。
自己主張する蝋梅であるけれど、その主張は控えめであるのだ。







「蝋梅や重なる山の谷の底」



「蝋梅の忽ち開く君の家」







今日だけは少し暖かいらしいのだ。
明日からはまた冷え込むと言う。

冬はまだまだ深い。



       荒 野人

ほろほろ泣いたよ

2013年01月23日 | ポエム
ほろほろ泣いてしまった。
山頭火の句集を読んでいた時、それは不意にぼくを襲った。



雪に埋もれつつ、乞食のように彷徨った山頭火である。







「ほろほろ泣いたよ山頭火の冬の旅」



「乞食の流浪の後の冬安居」







荒涼とした彷徨える魂は、ぼくの琴線を激しく揺らしたのである。
ぼくが山頭火の句を模倣したって、所詮駄句に貶ちるというものだ。

だがしかし、山頭火の内面を身体の何処かで感じる事は出来る。
その感じた何処かが、ほろほろと落涙させたのだろうと思う。





しぐるるや死なないでゐる
          山頭火




この句にであった刹那、ほろほろ泣いていたのである。

乞食のような放浪は、赤貧でありその日暮らしの連続であったのだろうと思う。
その中から、あのような八方に破れた句が産まれたのだ。
だがしかし、その刻まれるリズムはぐいぐいとぼくに迫ってくる。
悲しさにぼくは同化してしまっているのであった。

山頭火の句を読み進む楽しさは、同時に自らを哀しみの淵へと導く事である。
そうだとしても、山頭火の句は明日へと導いてくれる。
示唆に富んでいると言えるだろう。



一瞬の煌めきを感じ取れる。



空の生々流転が迫ってくる。





旅のかきおき書きかへておく
           山頭火





なんという心境であろうか。
鏡のように磨かれた、それでいて鋭い深い心境である。
それはまた、句を詠むことへの迸るパトスなのだ。



荒涼とした景色の中にこそ、山頭火の神髄が滴っているのである。
繰り返して言う、ぼくには山頭火の句を読む事しか出来ない。

そして、そのあまたの句から山頭火の本質を見抜く事に努める。
山頭火の詩情や原風景、否否「心象風景」を旅していくのである。
その旅は、自らの句作を通して人間に迫る事なのだと思うのである。

山頭火・・・寂寥を抱えながら旅を続けた俳人であった。
その寂寥という感覚は、おそらく萩原朔太郎という詩人と同根であるのかもしれない。
ぼくの句作は、その事をも探るものであるのだろうと思うのである。

ほろほろ泣いたのである。



      荒 野人

早梅咲いた

2013年01月22日 | ポエム
早梅・・・冬の終わりの季語である。
春に先駆けて咲く梅を総称して言うのであるけれど・・・。



何だか、早梅という言葉の響きは宜しくないのである。
「早梅」そうばいと読む。
ぼくは「梅早し」の響きの方が好きだ。
もちろん「冬の梅」「寒梅」「冬至梅」なども冬の季語ではある。

そんなに急いで梅を詠まなくたって良いではないか。
梅はどんどん咲いて来る。
詠むスピードが覚束ないほどに・・・。







「街の角曲がれば咲ける梅早し」



「寒梅の可笑しきほどに咲きにけり」







止むを得ない、ぼくも詠んでしまおう!
梅をである。



急ぐなと言いつつ、詠んでしまう。
きの節操の無さよ。
だがしかし、梅の仄かな、それでいて甘やかな薫風の身を洗われてしまえば仕方が無いのである。



節操の無き「おのこ」よと、笑わば笑え。



      荒 野人