エピローグ

終楽日に向かう日々を、新鮮な感動と限りない憧憬をもって綴る
四季それぞれの徒然の記。

ほろほろ泣いたよ

2013年01月23日 | ポエム
ほろほろ泣いてしまった。
山頭火の句集を読んでいた時、それは不意にぼくを襲った。



雪に埋もれつつ、乞食のように彷徨った山頭火である。







「ほろほろ泣いたよ山頭火の冬の旅」



「乞食の流浪の後の冬安居」







荒涼とした彷徨える魂は、ぼくの琴線を激しく揺らしたのである。
ぼくが山頭火の句を模倣したって、所詮駄句に貶ちるというものだ。

だがしかし、山頭火の内面を身体の何処かで感じる事は出来る。
その感じた何処かが、ほろほろと落涙させたのだろうと思う。





しぐるるや死なないでゐる
          山頭火




この句にであった刹那、ほろほろ泣いていたのである。

乞食のような放浪は、赤貧でありその日暮らしの連続であったのだろうと思う。
その中から、あのような八方に破れた句が産まれたのだ。
だがしかし、その刻まれるリズムはぐいぐいとぼくに迫ってくる。
悲しさにぼくは同化してしまっているのであった。

山頭火の句を読み進む楽しさは、同時に自らを哀しみの淵へと導く事である。
そうだとしても、山頭火の句は明日へと導いてくれる。
示唆に富んでいると言えるだろう。



一瞬の煌めきを感じ取れる。



空の生々流転が迫ってくる。





旅のかきおき書きかへておく
           山頭火





なんという心境であろうか。
鏡のように磨かれた、それでいて鋭い深い心境である。
それはまた、句を詠むことへの迸るパトスなのだ。



荒涼とした景色の中にこそ、山頭火の神髄が滴っているのである。
繰り返して言う、ぼくには山頭火の句を読む事しか出来ない。

そして、そのあまたの句から山頭火の本質を見抜く事に努める。
山頭火の詩情や原風景、否否「心象風景」を旅していくのである。
その旅は、自らの句作を通して人間に迫る事なのだと思うのである。

山頭火・・・寂寥を抱えながら旅を続けた俳人であった。
その寂寥という感覚は、おそらく萩原朔太郎という詩人と同根であるのかもしれない。
ぼくの句作は、その事をも探るものであるのだろうと思うのである。

ほろほろ泣いたのである。



      荒 野人