有斐閣から出てる「大学生向けの教科書」なんてもんが面白いわけあるか、と長らく思い込んでいて、たしかにまあ、じっさいその通りなのだが、中にはとんでもない例外がある、ということを最近知った。西澤晃彦・渋谷望『社会学をつかむ』。2008年刊。
ぜんぶで34のユニット(章)に分かれているのだが、のっけから「言葉」である。「私」「身体」「無意識」「意識」なんてのもある。
いやもうこれは社会学ってより例のほれアレ、いやそう現代思想じゃないですか。
さらには「旅」、はては「物語」なんてのまである。もはや完全に文学。それもワタシの管轄ではないか。
むろん「社会」「社会学」「集団・組織」「ネットワーク」「学校」「工場・企業」「地域」「都市」といった真っ当(?)な項目がほとんどなのだが、その中にあって、「物語」の項目の記述が浮いてない。馴染んでいる。溶け込んでいる。すなわち、「物語」が「地域」やら「都市」と同じ水準のコトバで語られてるということだ。
これはすなわち、「文学」と「社会学」とが同じ水準のコトバで語られているってことではないか。
なめらかに。しなやかに。軽やかに。
いや近頃の社会学はこんなレベルに達してるのか、侮れんな、と思って他の本に手を伸ばしたら、なんかぜんぜん旧態依然で、文章カチコチで、やっぱりそんなに面白くなくて、ああこれは、たんに西澤晃彦と渋谷望って人が凄いんだな、と気がついた。
はしがき(前書き)に、「大学のテキストについては老舗の有斐閣が、入門教科書を西澤と渋谷に任せることは、10年前にはありえない人選だろう。」と書いてある。
また、「この本を書くのに4年もかかってしまった。」「言いたいこと、伝えたいことは変わっていない。だが、ある言葉をどう語ればどう伝わるか、その文脈が激変したのだ。」とも書かれている。
いずれも、本編を読めば得心のゆく揚言である。学者くさい文体を捨てて、あれこれと試行錯誤したあげく、この柔らかくも強靭な文体へと逢着した、ということだろう。
ここ数年に読んだ中でも、「触発される」ってことにかけては一、二を争う本であり、ページを繰るごとに色々とアイデアがわいてくる。しばらくは座右から手放せない。
ぼくが当ブログにてやってることも、どっちかというと文学ってよりむしろ社会学じゃないの?って気持は以前からあって、何冊か入門書・啓蒙書の類いを手に取ったこともあるんだけど、たいていは、コントがどうの、スペンサーがどうのといった「学史」にはじまり、あとは「たんなる印象に留まらず、学問と称するからにはきちんとデータを取らないと」みたいな話になって、あげくは「アルコールを大量に摂取する人はアルコール中毒になりやすい」だの、「社会に出て成功するひとの両親は高学歴で高収入である率が高い」だの、「わかっとるわいそんなこと!」と言い返したくなるような、アホみたいなことが(それもやたらと勿体ぶった口調で)述べられたものばっかりで、うんざりしたものだ。
いやまあ、これはあえてふざけて書いたので、いくらなんでもそこまでひどくはないにせよ、とにかく、「学問としては立派なのかもしれないが、自分にはぜんぜん役に立たない」ってことは事実なのだった。
ただ、アカデミックな専門分野はさておいて、いわゆる「ジャーナリズムに片足をかけた」著作家たちでいうならば、社会学者の活躍は今に始まったことではない。ひところ一世を風靡した宮台真司。その弟子筋にあたる鈴木健介。北田暁大。いずれも売れっ子である。
たしかに、院に行って社会学の基礎を固めて、あとサブカルとネットにそれなりに通暁していれば、けっこう一般ウケする論考が書けてしまう気がする。宇野常寛なんてそんな感じだ。それくらい、いま社会学が手にしている用語(概念)は強力だ。よーく分かった。現代をてきぱきと解析する道具。むしろ武器か。
それにしても、いまの時代に純粋な「文芸批評」なんてほんとに成立するんだろうか。結局それは「社会批評」の一種として綴られるしかないんじゃないか、もはや。
まえに取り上げた斎藤美奈子の『日本の同時代小説』(岩波新書)にしても、「文学」に対する教養も敬意もまったく無しに書いてるんだから、あれは社会学の書というべきだろう。
又吉直樹の芥川賞にしても、すでにもう文学がどうのといった話ではなく、社会学的な現象とみるのが正しいのだろう。そういえば「お笑いの社会学」といった研究をやってる人はいるんだろうか。吉本興業にしても、たけしにしてもタモリにしても、「お笑い」の影響ははなはだ大きく、とうてい「サブカル」の域に留まるものではない。いまの日本は「お笑い」というファクターを抜きには読み解けない。社会学としてぜひ取り組むべき課題である。
もとよりアニメもしかり。
というわけで、令和の「ダウンワード・パラダイス」は、けっこう「社会学」寄りになる気がしています。