ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

どろろとプリキュア。あるいはサブカルの教育効果について。

2019-05-25 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽
 平成の30年間は、この国が直接「戦争」に巻き込まれることこそなかったものの、必ずしも平穏無事な歳月だったとはいえない。もっとも、ニッポンの歴史において、任意の30年間を切り取ってみたらまるっきり平穏無事でした、なんて時期が在ったはずもないが。
 ぼくの記憶にあるうちで、かろうじて「無憂の時代」と呼べるのは、のちにバブルと呼ばれる1986(昭和61)~1992(平成4)年のあいだとその前夜……まあ70年代の終わりごろからだろうか。だからせいぜい10年ちょっとだ。しかもそんな時期には人の心が奢侈(しゃし)に傾き、後でろくでもないことになると決まっている。借金して遊びまくったツケを請求されるようなものだ。
 平成の初頭ってのはその「取り立て」の時期という感じで、いわゆる「失われた10年」のなかで、大震災もあればオウム事件もあった。さらにそれから平成の半ばにかけては、少年(および少女)による、思わず絶句させられるような凶悪かつ短絡的な事件が続発した。
 10代による犯罪発生率は全体として下がっているにもかかわらず、少年法の改正(厳罰化)が取りざたされたのも、そういった事件のもたらすショックゆえに違いない。
 昔であれば未成年による凶悪犯罪というと「金品欲しさの物取り強盗」が主であり、だから経済的格差(貧困)の是正が有効であったわけだが、あのころに起こった事件はそれとはまるで別のものだった。物質的な豊かさは十分に達成されているはずなのに、それでも起こってしまうのだ。これはもう、「心」の問題としか言いようがない。
 飢えに苦しんでるわけでもないのに、心だけが荒廃している。考えてみると怖いことではある。
 子どもの心を養うのは、まずは家族や近親者、それに学校や近隣などの地域社会とのつながり。むろん教育も大きくかかわってくる。
 教育もまた「文化」の一環だけれど、文化には、そういった正規のものとは別に、副次的なものもある。親や教師から強いられるのでなく、自分で選んで読む本なんかがそうなんだけど、もっと刺激が強くて惹きつけられるのは、テレビやマンガ、今日であれば加えてゲームにネット。これらのものは、「否応なく押し寄せてくる」といっていいくらいだ。
 ぼくは人並み以上に小説に親しんできたほうだと思うけど、それでも今になって振り返ると、心身の発達期において、ドラマやマンガやアニメなどのサブカルチャーから受けた影響は思った以上に大きかったようだ。70年代でさえそうだったんだから、今ならば尚のことだろう。
 ぼくがついついサブカルにこだわり、もともとは本の書評やなんかをやるつもりで始めたブログでサブカルの話ばっかやってるのも、たんに好きってこともあるが、「マンガやアニメの教育効果」ってものにつき、けっこうマジメに考えてるからでもある。
 それを称して「物語」とか「神話」とか、我流の用語で呼んじゃうもんで、いまひとつ論旨がわかりにくいな……と読み返してみて自分でも思うが、より一般的な物言いに直せば、だいたいそんな感じになる。
 本音をいえば、ぼくなんかが子供のころ毎週楽しみにしていた「世界名作劇場」(海外の良質な児童文学のアニメ化)を今の技術で復活させてほしいんだけど、これは諸般の事情でムリであろうと承知している。それで代替としてプリキュアにずっと注目している次第だが、これも本音をいうならば、変身したりバトルしたりがほんとに必要かなあとは思っている。つまり、あれをファンタジーじゃなくリアリズムでやれんもんかな……と考えてるわけだが、いや、結局これは同じことを言ってるだけか。

 プリキュアはなにぶん対象年齢層が低いので、基本、「お花畑」の世界である。ひとの心や社会の闇はもっぱら「敵」に投影されて造形される。プリキュアさんたちはそれを武力で「殲滅」するのではなく「浄化」する。浄化したあとは元の平穏な日常が戻る。
 ただ、ぼくが歴代の最高作と位置づける『GO!プリンセスプリキュア』では、ヒロインの春野はるかが、一年間の闘いの果てに、「夢(希望)は絶望があってこそ生まれる。つまり両者は表裏一体」という認識に到達し、ラスボスである「絶望の権化」を浄化するのでも追い払うのでもなく、未来の再会を約して淑やかに別れる……という結末を迎えた。その爽やかな苦みは、「お花畑」を超えて、ぼくたちの生きるシビアな「現実」につながっていくものであったと思う。





「またな」
「ごきげんよう……」




 『どろろ』のばあい、対象とする視聴者層がまるで違うので比べること自体おかしいのだが、およそ「お花畑」の対極に……すなわち作品の「世界観」においてプリキュアの対極に位置するものだ。
 戦乱の世の苛烈さなんて、暖衣飽食に慣れ親しんだぼくたちには想像さえつかないが、おおよそ1970年代から、網野善彦さんはじめ優秀な中世史家が台頭してきて、ふくざつで多層的な「中世像」が提示されてきた。
 ちなみにいうと、宮崎駿監督の『もののけ姫』は網野史学から多大な影響を受けており、「もののけ姫の原作者は網野善彦。」とまで言っている学者さんもいる。
 2019年MAPPA版リメイク『どろろ』にも、そういった勉強のあとは見えるが、そのような歴史学的というか、リアリスティックな面とは別に、何よりもこの作品は、まずはダークファンタジーとして在る。
 ファンタジーってのは、ぼくの用語だとすぐ「神話」だの「物語」だのと一緒くたにしてしまってよくないのだが、たんなる絵空事でも、消費されるだけのコンテンツでもなくて、やはり「そのときどきの現実社会の写し絵」であろうとぼくなんかは思っている。
 「心」を持たず、剥き出しの暴力装置として荒ぶる初期の百鬼丸は、冒頭でふれた「平成の御代の恐るべき子供たち」の姿にどうしても重なる。そんな彼が、どろろとの交流によって少しずつ心を育てていくさまが、平成を終え、令和を迎えるにあたっての、サブカル側からのひとつのメッセージのようにも視えてくるわけだ。