いま中国のことをちゃんと知っておかなきゃいけないのは、それが「改憲」の話に直結するからだ。
よく「反中」「嫌韓」などと一緒くたにするが、日本にとっての「中国」と「韓国」とではぜんぜんハナシが違う。
日本に対しての韓国は、それこそ社会学でいう「オレたち」と「アイツら」の関係性で、いろいろと因縁のある、隣接した二つの共同体が軋轢を生じてるだけのことだけど、いっぽう、中国の台頭ってものは、まさに「世界史レベル」の現象なのだ。
「中国はアメリカに代わって世界の覇権を握ろうとしている可能性が高い。少なくとも、そう観測するに足る資料は十分ある。」というのがナヴァロ氏の現状分析だが、本来ならばあの大国は、もっと早くそんなポジションに付いててもおかしくなかった。
遅らせたのは毛沢東による文革(文化大革命)で、あれがなかったらたぶん30年早く時計の針は進んでいた。そうなれば日本は80年代にバブルで浮かれてられたかどうかわからない。その点においては、毛沢東さんに感謝すべきかもしれない。
ともあれ、中国が(歴史の必然として)ここまで巨大になってきたことは、あるいは日本にとって「戦後最大」のファクターかもしれず、戦後75年近く持ちこたえてきた「日本国憲法」、とりわけその中の三本柱のひとつ「平和主義」がぐらぐら揺らぎつつあるかに見えるのも、今回ばかりは仕方がないかもしれないと、これまでずっと護憲派だったぼくでさえ思ってるわけだ。
日本国憲法が見直しを迫られてる(かに見える)ということは、「戦後民主主義」もまたその理念を厳しく問い直されてるってことだけど、じつはこれに関しては、そもそも「戦後民主主義」がこの国にどこまで根付いてるんだろうというギモンが、今回の「令和の改元」に際してぼくのなかには改めて生じた。
むろん、改元そのものは寿ぐべきだけど、そこに一抹の屈折というか、アイロニーというか、その手の心情が窺えないのが物足らない。シンプルであり浅薄すぎた。ぼくにはそう見えたのだ。「象徴天皇制」と「国民主権」というあからさまな二重性を抱えた憲法をもつ国民性は、本来ならばもう少し複雑であって然るべきではないか。
まあ、こういうのは昭和が平成になった時には気にならなかったので、それだけこちらが齢をくったってだけのことではあるのだが。
ともあれ、これまで漠然と感じていたことが、はっきりと輪郭をもって浮かび上がってくるのは悪い感じではなく、齢をくうのもまんざらマイナスばかりではないと思う。やはり「戦後民主主義」の理念は、どうしたって「近代的主体」ないしは「確固たる自我」と切り離せない。そのことを今回つくづく再認したのだ。
「近代的主体」ないしは「確固たる自我」をもちあわせない国民性に、ほんとの意味で「戦後民主主義」が根付くわきゃない。
こんなのはほんと、それこそ丸山眞男さんとか、昔からたくさんな人がいろいろな形でいっていることで、「何をいまさら」ってことなんだけど、しかし、この件がこれほどしつこく言い尽くされ、言い古されてきたってことは、「耳タコ」になるほどさんざ注意喚起してもなお、ほとんどの人が聞いてなかったってことでもある。
今まではべつにそれでもよかった。でもこれからはどうかな、中国もなんか凄いことになったきたし……ということで、この話は冒頭からずっと繋がっている。
それで、急に脇道にそれるようだけど、最後にはやっぱり繋がる話として、「純文学」と「サブカル」ってことがある。
「純文学とサブカル」は当ブログのテーマのひとつで、2014年にこのgooブログに越してきた当初、もっぱらそのことばかりやっていた。いま読み返すとさほど面白くないが、あの頃のぼくは、今よりずっと唯美主義者で、芸術至上主義的で、「純文学」に対して信仰に近い思いを抱いていた。
近ごろはすっかり「憑き物が落ちた」感じになって、やっぱりそれは又吉直樹さんの芥川賞が大きかったと思うが、「なんだ、所詮はビジネスだったんだネ」ってことが身に染みてわかったのである。
ぼくも2度にわたって当ブログで論じた龍さんの『限りなく透明に近いブルー』と、今のところまだ本格的には論じてない村上春樹さんの登場以降、ニッポンの文学は、ざっくりいえば、純文学も含めてほぼ「ビジネス」だけの問題となった。
しかしそれまでは、きちんというなら70年代前半まで(昭和でいうとちょうど40年代まで)は、必ずしもそうではなかったのである。
「近代的主体」ないしは「確固たる自我」を涵養(かんよう)するための有力なる手立てとして、「純文学」が機能してたのだ。
芸術作品であると共に、あるいは、芸術作品である以上に、ひとつの制度として、教育機関として「純文学」が機能していた。いわば社会的なシステムであった。
「世間知を積み上げるため」のものだったといってもいいか。まあ教養ということですね。
明治期いこう、長らく日本の純文学は、読者が「教養」を身につけるための手際よいマニュアルとしての役割を果たしてたのである。
gooブログに越してきた当初、「純文学」と「サブカル」(当時は総称して「物語」と呼んでいたが)の違いについて、なんだかあれこれうだうだ書いてたけども、ようするにもう、「純文学」を読めば教養が身につくが、サブカルってのはそうじゃなく、ただたんに娯楽として、暇つぶしとして消費されるだけだよネ、と言っときゃそれでよかったんである。
むろん、サブカル(物語)の側も市場原理のもと日夜キビしい競争にさらされ、ハイテク化の恩恵もあって高度に洗練されていき、「純文学」に勝るとも劣らぬ水準のものを生み出してもいる。そういった作品に関しては、『宇宙よりも遠い場所』のように、ぼくも最大限の敬意を払ってブログのなかで取り上げてきた。
しかしそれでも、「物語」は「物語」である。宮崎駿さんの作品にしても、どこまでいっても物語であり、「純文学」としては機能しない。もちろんそれは、アニメだから、文字媒体だから、といったことではない。
「純文学って何?」というQに対する回答は、「文学」の中では見いだせなかった。社会学の見地が必要だったのだ。