ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

2019年版アニメ『どろろ』再説。

2019-05-24 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽



 このあいだ、押し入れの奥から秋田書店版の『どろろ』全四巻を引っ張り出して、ほぼ20年ぶりに読み直したんだけど、記憶に残ってた以上にひどくて、びっくりした。ここまで粗悪だったかなと。
 粗っぽいし、荒っぽい。ぶった切られたみたいに終わっちまうしさ。
 いくら60年代の作品とはいえ……。これ、ちゃんと構想練ったのか。「作品」と呼べるかどうかも怪しい。ほとんど習作か、「ラフスケッチ」といいたいレベルである。
 まあ、そもそも「未完」だという話もあるが、いずれにしても、このころの作品としては、例えば『バンパイア』とか『W3(ワンダースリー)』のほうがずっとよく仕上がっている。
 思えば鉄腕アトムの中の「地上最大のロボット」もそうだった。粗っぽいし、荒っぽい。ラストシーンでお茶の水博士が、「なんだか夢のように終わってしまったのう。」などと述懐するほどである。手塚さん自身が呆れて自嘲しているようにもみえる。
 あれを元にして『PLUTO』(小学館)を描き上げた浦沢直樹ってひとはつくづく凄い。
 それというのも、初期の『メトロポリス』や代表作の『ジャングル大帝』、さらには『ATOM』など、手塚作品のリメイク企画はいろいろあるが、「傑作」と呼べるほどのものは見当たらないからだ。
 (テレビアニメ『アトム・ザ・ビギニング』は最新のロボット工学の知見を取り入れた秀作だったが、あれはリメイクというよりスピンオフだろう。)
 大方の評価は知らないけれど、ぼくにとっては、手塚作品の優れたリメイクといったら『PLUTO』しか思い浮かばない。イラク戦争という今世紀初頭の大きな愚行を題材に、「地上最大のロボット」という長編の、さらには『鉄腕アトム』全体の抱えるテーマを現代に蘇らせた。
 まさに手塚治虫×浦沢直樹の時代を超えたコラボレーション。才能と才能とがぶつかり合って火花を散らす。リメイクとはかくあるべきだ。
 「神話」とは、繰り返し、巻き返し、さまざまな語り手のことばに乗せて語りなおされ、時代とともにどこまでも熟していくものなのである。
 ぼくはこの、「神話が語り継がれる営為」がむちゃくちゃ好きで、「なにを大仰なことを」と笑われるかもしれないが、『宇宙よりも遠い場所』の第12話を『古事記』のなかの「根の国下り」と重ね合わせて、やたらとコーフンしたりする。
 『どろろ』も「地上最大のロボット」も、ひとつの作品としては呆気にとられるほど粗っぽいし荒っぽいのだが、「物語の祖型」としては端倪すべからざるもので、いくつもの連載を抱えて描きとばしつつも、こういうものを生み出してしまうところが、手塚治虫の天才たる所以(のひとつ)だといえる。
 ことに『どろろ』である。
 時は室町末期。野心のために魔物と契約した領主の父親のため、生まれながらに身体の48ヶ所を奪われた少年(設定では14歳だからまだ少年だろう)が、拾い親の養父から武器を仕込んだ「義体」を授けられ、戦乱の世を流離いながら、死闘の末にひとつひとつ取り戻していく……。
 その名も百鬼丸。
 要約するだけで胸が痛く、また熱くもなるストーリーではないか。
 作品そのものの粗っぽさ、荒っぽさにもかかわらず、発表後すぐにアニメ化され、そのあともなお多くの読者を魅力してきたのも頷ける。
 かくいうぼくも、およそ文化とは縁遠い家庭に生まれ、近所の図書館に通ってひとつずつ「基礎的教養」を身に着けていくたびに、僭越ながら心のどこかで自らを百鬼丸になぞらえていた。
 『どろろ』は、上でもふれたアニメ版(白黒)のほか、柴咲コウ・妻夫木聡による映画版もあり、ノベライズされたり、ゲームになったりもしているが、そういった直截なリメイクではなく、「影響を受けた」「触発された」作品であれば、それこそ枚挙に暇がない。むしろそっちのほうが重要だろう。
 『鋼の錬金術師』も『犬夜叉』も、もとよりそれぞれ毛色は違うが、ずうっと系譜を遡っていけば、どこかで『どろろ』に行き着くんじゃないか。
 手塚の後継者のひとり石ノ森章太郎の『サイボーグ009』までをも併せるならば、このあいだハリウッド映画になった『銃夢』も、さらにはあの『攻殻機動隊』までも、射程に入ってくるかもしれない。
 それほどの作品なのである。あんなに完成度低いのに。粗っぽくて荒っぽいのに。
 つまりまあ、作品そのものよりも、そこで提示されたコンセプトが凄かったってことだろう。
 いうまでもなく「貴種流離譚」である。ほぼ全人類に共通の「英雄物語」の原型といえる。しかも、彼が「蛭子(ヒルコ)」であるということで、生々しく日本の神話につながってくる。
 その『どろろ』が、2019年、MAPPAによってリメイクされた(放映中)。これがほんとに素晴らしくて、往年のヅカファン(宝塚ではない。手塚ファンのこと)たるぼくにとっては『PLUTO』以来の胸アツ物件なのだった。
 MAPPAといえば、あの劇場映画『この世界の片隅に』をつくった制作会社だ。高い志と技術を備えた集団なのである。
 MAPPA版リメイク『どろろ』の、どこがそれほど素晴らしいのか。
 タイトルロールの少年(と見せかけてじつは少女。年齢は推定5~6歳)どろろと、百鬼丸とが出会うところからストーリーは始まるのだが、原作だと、百鬼丸は声帯もなければ耳の機能もないのに、当たり前のように喋っているし、周りの音も聴こえている。
 作中では「テレパシー」「腹話術」といった説明がなされる。そもそも義体の手足を動かすことも「念動力」でなければ不可能なので、一種の超能力者といえる。
 年齢相応の自我を備えてふつうに生活し、旅をしているという設定は、最初のアニメ版や実写映画版をふくむすべてのリメイクで踏襲されてきた。いま、士貴智志(しきさとし)さん(べらぼうに画力の高い人だ)による最新のマンガ版リメイク『どろろと百鬼丸伝』が連載中だけど、ここでもその初期設定はそのままである。
 MAPPA版リメイクはそこが違う。大きく違う。決定的に違う。
 どろろと出会ったとき、百鬼丸には周りの音が聞こえていない。喋ることもできない。だからとうぜん会話もできず、そもそも意思の疎通ができない。
 視界は、暗がりの中にぼんやりと事物の輪郭が浮かび上がる感じである。生き物かどうかは、「動くか否か」で本能的に判断してるだけだ。そのなかで、彼を襲ってくる魔物など、害意をもつものは赤く染まって映り、そうでないものは穏やかに白い。
 禍々しく赤く染まったものが、ふいに飛び掛かってきたりすれば、両腕に仕込んだ刀を抜いて容赦なく切り捨てる。剣の業前(わざまえ)は達人なのである。
 そうやってこれまで生き延びてきた。
 第1話をみて、この新しい設定にぼくはシビれた。「これだこれだまさしくこれだ。」と思った。そうなのだ。このお話は本来このように語られるべきものだったのだ。それでこそタイトルが『百鬼丸』じゃなく『どろろ』なのだ。
 運命的な邂逅のあと、どろろは百鬼丸にしつっこく付いていく。原作だと「腕に仕込んだ名刀が欲しいから」などとこじつけた理由になってるが、戦乱の世で親を失い保護者もなく、その日いちにちを生き延びられる保証とてない幼児が、おっそろしく腕の立つ兄貴分を見つけてくっ付いていくのは当然だろう。たとえ相手が言葉の通じぬ、得体の知れない不気味な妖気をたたえた存在だとしても、どろろが彼のそばを離れないのは生存本能のなせるわざである。
 心を持たない少年戦士と、心根の底に優しさをひめた、無力だが逞しい幼児。このふたりが相棒(バディ)になるからこそ、この物語は生きる。
 くどいようだが、この設定にはつくづく感心、というかはっきりいって嫉妬して、「なんでオレはこのコンセプトを換骨奪胎して自己流のストーリーを創らなかったんだろう。」とまで思った。アタマのどこかで、『どろろ』という作品はもともとそのように語られるべきだと思っていたのに、それをきちんと見据えて創作に結びつけなかった己の菲才が腹立たしい。
 百鬼丸が鬼神(このアニメ版では「魔物」は「鬼神」に変更され、奪われたのも48から12箇所になっている)のひとりを倒して「耳」を取り戻した後、ろくに返事もできない彼にどろろはひっきりなしに話しかける。そうやって百鬼丸も少しずつ「心」を育てていくわけだけど、じつはそのまえ、まだ彼が耳を取り戻す以前から、どろろは絶えず彼に話しかけているのだ。
 それはおそらく自らの寂しさや不安、人恋しさを紛らわせるためなんだろうけど、見ようによっては、あたかも乳飲み子に絶えず語り掛けている母親のようだ。
 耳を取り戻したのち、ある事件がきっかけで百鬼丸は「魔物」や「鬼神」ではない生身の人間たちを斬殺する。その相手は確かに許しがたい残虐行為を働いた荒くれ侍どもだったのだが、怒りに任せて彼らを次々と薙ぎ払っていく百鬼丸は、ある意味では彼ら以上のおぞましき怪物でもある。
 そのままであれば一個の「殺戮機械(キリング・マシン)」に堕しかねなかった彼を、必死になって「こちら側」へと引き寄せ、けんめいに繋ぎとめてくれたのもまた、どろろなのだった。
 まことに素晴らしい。何度でもいうが、『どろろ』とは本来、このように語られるべき作品であった。
 『PLUTO』を読んだ際にも思ったが、「本来この作品はこのように語られるべきだった」と痛感させられるほどのものこそが、本当の意味での「リメイク」であり、原作に対する最大級のリスペクトだろう。
 MAPPA版アニメ『どろろ』については、とにもかくにもこれだけは言っておきたかった。しかし、本作の凄いところは勿論そこだけではない。



追記 19.12.20) この記事がなんだか尻切れトンボで終わってるのは、ここから何本かまとめて集中的に「どろろ」のことを書くつもりだったからだ。いわばこれは前置きだったのである。ところが、6月26日の記事「2019年アニメ版『どろろ』完結。」でも述べたとおり、このあと「イマワノキワ」というアニメ専門の感想ブログを見つけて、そこの「どろろ」評が見事だったため、自分として書くべきことがなくなった。それでこんな半端なことになってしもうたのじゃった。2019年アニメ版『どろろ』についての論考としては、出色のものだと今でも思う。

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