『スター☆トゥインクルプリキュア』は、前回(5月19日)放送の『目指せ優勝☆まどかの一矢!』にて16話まで消化。ついこのあいだ始まったばかりと思ってたら、早いもんである。思えば開始から4ヶ月ほどは平成だったのだ。
第16話といえば、前年度(2018)の『HUGっと!プリキュア』だと、ルールーが破壊されたうえ回収、という大変なイベントのあった回になる。ニチアサの児童向けアニメの規範(コード)を踏み越えかねないぎりぎりの描写で、なかば衝動的にブログで取り上げてしまった。その時はまだ、あんなにいっぱい記事を書くとは思わなかったが。
それくらい「HUGプリ」には感銘を受けたわけだけど、それもおおよそ夏ごろまでで、9月の声を聴く時分には、かなり気持が冷めていた。
いま思い返すと、結局のところ、ほまれが最初の変身に失敗する第4話と、当の第16話だけが強く印象に刻まれて、あとの記憶は正直いってオボロである。あの2本にかんしては、内容・作画ともに「現代アニメの最高レベル」という評価は変わらぬし、よもや全編あそこまでとは望まぬが、あれに準ずる品質で統一されていたらなあと、残念にも思う次第だ。
「スタプリ」の第16話は、メインキャラ4人のひとり「香久矢まどか」の成長をひとつ積み上げる堅実なエピソードで、この時期としてしぜんな流れだと思う。歴代のシリーズでもそんな調子であったろう。
とにかく「HUGプリ」は、①展開が速すぎ、②イベント(登場人物の数も)を詰め込み過ぎ、③インパクト(話題性)を重視し過ぎていた。
「スタプリ」と比べると、改めてそのことが際立つ。
ただぼくは、夏ごろまでは、そこを「凄い」と感じていたのだ。
しかしそれは、①ひとつひとつの過程(プロセス)の積み上げを省き、②肝心のメインキャラ同士の繋がりを希薄に見せ、③キャラの抱える過去(因縁)の説明をおろそかにする……ことと表裏一体でもあった。
その弊害がだんだんとあらわになり、ついには全体の調和を乱すまでになったのが9月以降ではないか、と思うわけである。
いちばんの問題は、どうやら野乃はなの未来の伴侶であり、「はぐたん」の実父でもあったらしきジョージ・クライ氏と、はなさんとの因縁が明確に描かれなかったことだろう。
むろん、思わせぶりな示唆ならばたくさんあった。しかしそれは、本当にもう「思わせぶりな示唆」としか言いようのないもので、視聴年齢対象層の児童ならずとも、あれではさっぱりわからない。
結果として、当初はそれなりに陰影を湛えた魅力的なキャラだった(ニチアサにあるまじき色魔ではあったが)クライ氏が、ラスト間際では完全にもう訳のわからんアブないオヤジになってしまった。
ダンナがなんであそこまでこじらせた、というか、捩じくれ曲がってしまったのか。その主因は起業家となった野乃はなが「民衆に裏切られた」ことにあったようだが、はな社長はこの現代社会において一体どんな活動をしていたのか、やっぱりそこははっきりくっきりと、説得力をもって作中で提示しなけりゃあだめだろう。
はな役の引坂理絵さんは実力派だと思うのだが、ラストのほうでは、演技に迷いがあったようにぼくの耳には聞こえた。はなとクライとの関係性が不明瞭だから、芝居もやりづらい道理である。だとしたら、気の毒なことだった。
同じことは、ルールー・アムールと、その「父親」(製作者)たるドクター・トラウムにもいえる。
それにしてもトラウム博士、声がスネイプ先生だからってわけでもないが、科学者というより魔法使いのようだったなあ。「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」(A・C・クラーク)というやつか……。
ともあれ、仮にもしトラウムさんが愛娘を亡くして、アトムを造った天馬博士のごとく、その「代替」としてルールーを造ったのであれば、そこはやっぱり作中で、きちんと語っておかねばなるまい。
「黙説(あえて語らないこと)」によって「行間を読ませる」ことと、たんなる「説明不足」とは違う。申し訳ないが、HUGプリにおけるシリーズ構成・坪田文さんのばあいは後者であったといわざるをえない。
本年1月29日の記事でぼくは、「タイム・パラドックスが生じていてわかりづらかった」と書いたが、そんなテクニカルな話ではなくて、よりシンプルで、本質的な問題だったのだ。はなとクライ、ルールーとトラウム、重要な二組のキャラ相互の因縁が、ていねいに描かれないのがまずかった。
そこに尽きる。
ただ、本来ならばそういったエピソードに費やすべき時期に、第36・37話と二話数も使って秋映画のための「過去プリ・オールスターズ大集合」なんて販促イベントを打った、てぇ事情はある。全49話とはいえ、実質は47話だった。
それで計算が狂ったか……とも思ったが、しかしああいうことはシリーズ構成者だけの裁量ではできない。制作サイドの上のほうからの差配だろう。それも、まさかシナリオを書き始めてから話が出たわけでもあるまい。当初からの予定であろう。
だからそこはやっぱりシリーズ構成者の責任で、ぼくは坪田さんのほかの作品を見たことがないから知らないけど、ひょっとしたら、たんに説明が下手というより、「そもそも設定をしっかり練ってなかった」可能性もある。
作品全体の完成度よりも、個別の話数、個別のエピソード、さらには個別のカットで視聴者を引っ張っていくタイプのライター。あるいはそういうことかもしれず、その意味ならば、たしかに個別の単位でみれば、鮮烈なものはいくつもあった。
LGBTを思わせるキャラから「男子初のプリキュア」誕生という時事性もあり、はては「人類みなプリキュア」まで行った。インフレもここに極まれり、といったところで、この先どれだけプリキュアシリーズが続いても、あれ以上のことは起こりえない。
ならば次作以降は原点に戻って、「大人のオトコとの恋愛沙汰」なんてどろどろは絡めず、明るく、かわいらしく、メインキャラたちの関係性を描いていく……という運びになると予想を立てたが、「スタプリ」の16話までをみるかぎり、それは外れてなかったようだ。
『スター☆トゥインクルプリキュア』は『HUGっと!プリキュア』よりも地味だが手堅い。児童向けアニメなんだから、そりゃこっちのほうが本筋だろう。
第16話といえば、前年度(2018)の『HUGっと!プリキュア』だと、ルールーが破壊されたうえ回収、という大変なイベントのあった回になる。ニチアサの児童向けアニメの規範(コード)を踏み越えかねないぎりぎりの描写で、なかば衝動的にブログで取り上げてしまった。その時はまだ、あんなにいっぱい記事を書くとは思わなかったが。
それくらい「HUGプリ」には感銘を受けたわけだけど、それもおおよそ夏ごろまでで、9月の声を聴く時分には、かなり気持が冷めていた。
いま思い返すと、結局のところ、ほまれが最初の変身に失敗する第4話と、当の第16話だけが強く印象に刻まれて、あとの記憶は正直いってオボロである。あの2本にかんしては、内容・作画ともに「現代アニメの最高レベル」という評価は変わらぬし、よもや全編あそこまでとは望まぬが、あれに準ずる品質で統一されていたらなあと、残念にも思う次第だ。
「スタプリ」の第16話は、メインキャラ4人のひとり「香久矢まどか」の成長をひとつ積み上げる堅実なエピソードで、この時期としてしぜんな流れだと思う。歴代のシリーズでもそんな調子であったろう。
とにかく「HUGプリ」は、①展開が速すぎ、②イベント(登場人物の数も)を詰め込み過ぎ、③インパクト(話題性)を重視し過ぎていた。
「スタプリ」と比べると、改めてそのことが際立つ。
ただぼくは、夏ごろまでは、そこを「凄い」と感じていたのだ。
しかしそれは、①ひとつひとつの過程(プロセス)の積み上げを省き、②肝心のメインキャラ同士の繋がりを希薄に見せ、③キャラの抱える過去(因縁)の説明をおろそかにする……ことと表裏一体でもあった。
その弊害がだんだんとあらわになり、ついには全体の調和を乱すまでになったのが9月以降ではないか、と思うわけである。
いちばんの問題は、どうやら野乃はなの未来の伴侶であり、「はぐたん」の実父でもあったらしきジョージ・クライ氏と、はなさんとの因縁が明確に描かれなかったことだろう。
むろん、思わせぶりな示唆ならばたくさんあった。しかしそれは、本当にもう「思わせぶりな示唆」としか言いようのないもので、視聴年齢対象層の児童ならずとも、あれではさっぱりわからない。
結果として、当初はそれなりに陰影を湛えた魅力的なキャラだった(ニチアサにあるまじき色魔ではあったが)クライ氏が、ラスト間際では完全にもう訳のわからんアブないオヤジになってしまった。
ダンナがなんであそこまでこじらせた、というか、捩じくれ曲がってしまったのか。その主因は起業家となった野乃はなが「民衆に裏切られた」ことにあったようだが、はな社長はこの現代社会において一体どんな活動をしていたのか、やっぱりそこははっきりくっきりと、説得力をもって作中で提示しなけりゃあだめだろう。
はな役の引坂理絵さんは実力派だと思うのだが、ラストのほうでは、演技に迷いがあったようにぼくの耳には聞こえた。はなとクライとの関係性が不明瞭だから、芝居もやりづらい道理である。だとしたら、気の毒なことだった。
同じことは、ルールー・アムールと、その「父親」(製作者)たるドクター・トラウムにもいえる。
それにしてもトラウム博士、声がスネイプ先生だからってわけでもないが、科学者というより魔法使いのようだったなあ。「十分に発達した科学技術は、魔法と見分けがつかない。」(A・C・クラーク)というやつか……。
ともあれ、仮にもしトラウムさんが愛娘を亡くして、アトムを造った天馬博士のごとく、その「代替」としてルールーを造ったのであれば、そこはやっぱり作中で、きちんと語っておかねばなるまい。
「黙説(あえて語らないこと)」によって「行間を読ませる」ことと、たんなる「説明不足」とは違う。申し訳ないが、HUGプリにおけるシリーズ構成・坪田文さんのばあいは後者であったといわざるをえない。
本年1月29日の記事でぼくは、「タイム・パラドックスが生じていてわかりづらかった」と書いたが、そんなテクニカルな話ではなくて、よりシンプルで、本質的な問題だったのだ。はなとクライ、ルールーとトラウム、重要な二組のキャラ相互の因縁が、ていねいに描かれないのがまずかった。
そこに尽きる。
ただ、本来ならばそういったエピソードに費やすべき時期に、第36・37話と二話数も使って秋映画のための「過去プリ・オールスターズ大集合」なんて販促イベントを打った、てぇ事情はある。全49話とはいえ、実質は47話だった。
それで計算が狂ったか……とも思ったが、しかしああいうことはシリーズ構成者だけの裁量ではできない。制作サイドの上のほうからの差配だろう。それも、まさかシナリオを書き始めてから話が出たわけでもあるまい。当初からの予定であろう。
だからそこはやっぱりシリーズ構成者の責任で、ぼくは坪田さんのほかの作品を見たことがないから知らないけど、ひょっとしたら、たんに説明が下手というより、「そもそも設定をしっかり練ってなかった」可能性もある。
作品全体の完成度よりも、個別の話数、個別のエピソード、さらには個別のカットで視聴者を引っ張っていくタイプのライター。あるいはそういうことかもしれず、その意味ならば、たしかに個別の単位でみれば、鮮烈なものはいくつもあった。
LGBTを思わせるキャラから「男子初のプリキュア」誕生という時事性もあり、はては「人類みなプリキュア」まで行った。インフレもここに極まれり、といったところで、この先どれだけプリキュアシリーズが続いても、あれ以上のことは起こりえない。
ならば次作以降は原点に戻って、「大人のオトコとの恋愛沙汰」なんてどろどろは絡めず、明るく、かわいらしく、メインキャラたちの関係性を描いていく……という運びになると予想を立てたが、「スタプリ」の16話までをみるかぎり、それは外れてなかったようだ。
『スター☆トゥインクルプリキュア』は『HUGっと!プリキュア』よりも地味だが手堅い。児童向けアニメなんだから、そりゃこっちのほうが本筋だろう。