旧ダウンワード・パラダイスからの転載記事、今回は高橋和巳について。初出は2011(平成23)年。
ぼくのばあい、「作家案内」めいた記事を書くときは、当の作家の訃報に接して、その追悼文のかたちで着想することが多かった。前の井上ひさし、立松和平がそうだし、ほかに丸谷才一、吉本隆明、安岡章太郎らの記事も書いた。でも高橋さんはすでに1971(昭和46)年、つまりあの三島由紀夫とほぼ同じ頃に亡くなっている。これは高橋さんの京大時代からの親友……いやむしろ盟友というべき小松左京の逝去に際してのものだ。
高橋和巳は抜群の構想力をもった作家で、その骨太さは小松左京の作品世界と通低している。とくに『邪宗門』はそうだ。片や生真面目な社会派リアリズム、片やSFという違いはあれ、虚心に読めばその共通性は明らかだろう。なのに、そのあたりのことをまともに論じた評論を見た覚えがなく、この国の文芸評論は底が浅いなあと思っていたら、1998年にハルキ文庫から復刊された『継ぐのは誰か?』の解説で金子邦彦(肩書きは理論物理学/理論生物学者)という人が同様のことを書いているのを見つけてようやく溜飲が下がった。「高橋和巳が全共闘の文脈で、小松左京が万博プロデューサーや地震災害の文脈でしか語られない社会は、やはり貧困としかいいようがない。」と金子氏は書いているのだが、残念ながらこれを読んだのはこの記事を書いたあとだった。
高橋和巳は、文中にも書いたとおり80年代初頭あたりにはもう読まれなくなりつつあったが、それでも新潮文庫でまだ作品の大半が入手できた。それが一掃されたのは86年以降、バブルが膨れあがった頃だった。バブルはこの国の精神風土を一変させた。いうならば、じっさいの土地だけでなく、精神までも地上げされたようなものだ。いまのぼくたちがその延長線上に……どころか「成れの果て」というべきところにいるのはいうまでもない。
「バブル時代とは何であったか?」という問いに対して、文学史の文脈から答えるならば、「高橋和巳的なるものを抹殺してしまった時代」と言えるかもしれない。具体的にいうならそれは、生真面目さ、内面性、社会(政治)意識、大東亜戦争の記憶、などといった事どもである。こういったことはすべて「根暗(ネクラ)」という笑っちゃうほど簡明な(しかしコピーとしては絶妙な)コトバに置換されて、「ダサイ」の同義語になってしまった。80年代の後半ってのはそういう時代だ。
だから今回は、高橋和巳についての記事に加えて、バブル時代の記憶をつづった短いエッセイと、アメリカの精神風土の変遷をたどった記事とを「旧ダウンワード・パラダイス」から引っ張ってきた。なぜアメリカなのかというと、わがニッポンは、巷間よく言われるとおり、アメリカという国の軌跡をおおむね一周半くらい遅れて追尾しているところがあるからだ。前置きはここまで。それではどうぞ。
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小松左京、ではなく高橋和巳のこと。
初出 2011年8月8日
先月の26日に逝去された小松左京さんのことを書こうとしていたら、なぜだか筆がどんどん滑っていって、どうしても高橋和巳の話になってしまう。小松さんその人に思い入れがないわけじゃない。何しろぼくは小6のときに初期の代表作「果しなき流れの果に」と「継ぐのは誰か?」を近所の図書館で借りて読み(この二本がセットで一冊になった本があったのだ)、ものの考え方に決定的な影響を受けたし、高校の時には『読む楽しみ 語る楽しみ』『机上の遭遇』(集英社)という書評集を買い、繰り返しこれに読みふけることで、自分でもノートに評論めいた文章を綴るようになった。だから当ブログの直接の淵源は小松さんだといっていいほどだ。だから小松左京に関しては、世間一般に流布する「日本SF界のゴッドファーザーにして、卓越した文明評論家」というような括りとはまた別の角度からアプローチできるとも思うんだけど、下書きをつくってるうちに、結局は高橋和巳の話になってしまう。
それでまあ、「誰よ、その高橋和巳って?」って話なんだけど、いま30代以下の人がこの名前を知らないのはむしろ当然で、ふつうに合コンとかやってふつうに就職して社会人をやってる20代~30代くらいの人がもし高橋和巳を知ってたら、「えっ、どこで聞いたんですかその名前? まさか作品は読んでないよね?」と逆に問い返したい気がしますね。ぼくが高校生をやってた80年代前半でさえ、クラスメートはほぼ「ああ、日本ハムの投手だろ?」みたいな反応だったですからね。いたんですよ当時ね。高橋一三ってピッチャーが。交流戦なんてなかったから、パリーグは今よりもっとマイナーだったし、日本ハムだって優勝争いに絡むようなチームじゃなかったんだけど、それでも高橋和巳よりは高橋一三のほうがまだ知名度が高かったというね……。べつにうちの高校がどうこうじゃなく、それが当時の社会の平均値であったと思われ……。
とりあえず、ウィキペディアのヘッド記事ではこうなってます。「高橋和巳(たかはしかずみ、1931年8月31日~1971年5月3日)は、日本の小説家で中国文学者。夫人は小説家の高橋たか子。中国文学者として、中国古典を現代人に語る事に努める傍ら、現代社会の様々な問題について発言し、全共闘世代の間で多くの読者を得た。左翼的な思想の持ち主ではあったが、三島由紀夫と交流するなどの人間的な幅の広さがあった。自然科学にも関心が深く、特に、相対性理論に関する造詣が深かった。癌で39歳の若さで他界した。」
「相対性理論に関する造詣が深かった。」というのはぼくは初耳だったけど、ほかはだいたいそんなところかな。でも、余計なことを書いたらたちまち「独自研究」のレッテルが貼られるとはいえ、これだけの記述では高橋和巳なる作家=思想家について十分なイメージが伝わるとは言いづらいでしょう。で、「新潮 日本文学辞典」(91年刊)の「高橋和巳」の項を開いてみると、こんな記述が散見されます。「昭和20年3月の大阪大空襲で焼け出された。この時に、人間はいざとなればどんなことでも平気でする恐ろしい存在だという考えに取り憑かれた。作品に魔に取り憑かれた人物が登場する遠因はここにある。」「…………時に悲憤慷慨し、時に短調の悲調に流れる独自な感性……。」「知識人の運命と責任を主題に……」などなど。
そう。高橋和巳は、暗い。そして、重い。さらに、真面目。真面目の上に、いささか字面のよくない文字が付くほどに。まあ、真摯、という表現を使ったほうが格調たかくていいんだろうけど、とにかく作品タイトルを列挙するだけで、その雰囲気は迫ってくると思います。いわく、『悲の器』『堕落』『散華』『我が心は石にあらず』『憂鬱なる党派』『捨子物語』……といった具合。「先生……大丈夫ですか?」と、つい言ってしまうかもしれない。もし本人が目の前にいたら。さらに付け加えるならば、作品はそのほとんどが、今日の感覚でいえば大長編と呼ぶべき長さです。
じっさいほんとに大丈夫じゃなくて、常人ではちょっと考えられない量の小説と評論と論文を書きつつ、京都大学の教授として全共闘運動に関わり、大学と学生たちとの板挟みとなって(その双方に対してひたすら誠実であろうとしたために)心身を擦り減らすこととなり、ウィキにもあるとおり、1971(昭和46)年に39歳の若さで亡くなりました。たぶん60年代には、学生ならば(高校生でも)高橋和巳を読んでいるのが当たり前、くらいの存在だったと思うし、77年には全集が出たほどだから、70年代にも読み継がれていたはずだし、さらに、さっきはあんなこと書いたけど、1982年の段階では、まだ主要な作品がぜんぶ新潮文庫に入ってたんですよね。だからぼくなんかでも入手できたわけで。それが一掃されたのが85年くらいからのバブル到来の余波で、バブルが抹殺してしまったものはたくさんあるけど、「高橋和巳」はまさにその代表、というか象徴でしょうね。
ただ、高橋和巳が「過去の人」になったのは、バブルの到来で日本の空気が「重厚長大」から「軽薄短小」になったせいだけではありません。高橋さんより10歳年下の柄谷行人が、評論家としてデビューした当時、さながら仮想敵のように高橋さんを攻撃したということがあった。ぼくはなにも柄谷さんを詰るつもりでこれを書くわけじゃなく、柄谷行人の大ファンで、著作は文庫になったのはほとんど持ってるくらいだけど、でも事実は事実として書かなきゃしょうがない。初期の柄谷行人は高橋和巳を攻撃した。高橋さんの作品のなかから、「青木は自動車の窓から、牢獄から牢獄へとたらい廻しされる囚人のように、もう同じ景色を二度と眺めることができないかのように、郊外の家々と樹々を見た。」とか、「最初の性交で梅毒にかかった青年のように、渇仰しながら嫌悪し、飢えながら恐怖し、路地から路地へ、人目につかぬ道をほっつき歩いただけだった。」といった叙述を引いて、そこはまあ柄谷さんだから高度な議論が展開されてはいるんだけれど、ぼくなりに約めて言っちゃうならば、ようするに「観念的」かつ上すべりで、とても小説の文章とはいえないし、そもそもこれを「文学」と呼ぶこと自体が間違ってるだろ、みたいなことをお書きになったわけです。法学者の手記という体裁を取っているために、この手の言い回しが徹底して排除されている『悲の器』だけは皮肉な調子で褒めていますが、ありようは全否定に近い。
この影響はけっこう大きかったと思う。いわゆる「文学のプロ」たちによるこういった冷ややかな見方はいまも根強く、最近では小谷野敦が、『現代文学論争』(筑摩書房 2010年刊)のなかで、「高橋和巳の小説が通俗であるのは明らか」と、あっさり切り捨てています。通俗といっても西村京太郎みたいなのとは違うんで、「ちょっとインテリっぽい読者向けの通俗」(なんか変ですが)といった感じでしょうが、たしかにそれはそうかもしれない。とぼく自身も思う。けどぼくみたいに、いったんポストモダンを通過した目でこの手の文飾を見直してみると、「なんかちょっと面白いんじゃね?」と思っちゃうところもあるんですよね。そりゃあこればっかりだとうんざりするけど、ところどころにパロディーとして使ってやれば、けっこういい味出すんじゃないの? っていうか、そういえば村上春樹が『スプートニクの恋人』なんかでやってませんでしたっけ? このような、確信犯的なあざとい比喩の使い方? むろん、高橋さんが大真面目なのに対し、春樹さんは半ば遊びでやってるって違いはありますが。
ともあれ、まあ、文体ってのは小説の命だから、柄谷さんの指摘はただの難癖ではなくて本質を突く批判なんだけど、じつはぼくがここでやりたかったのはそういう話でもないんですよね。じっさい高橋和巳の小説は観念的かつ上すべりで、登場人物の多くは血が通っていない操り人形にすぎず、彼の文学はせいぜいが「インテリ向けの通俗小説」で、バブルの到来とともに忘れ去られても仕方ないものだったのかもしれない。でも、『邪宗門』はどうですかってことなんですよ。『邪宗門』という大作だけは、どう見ても「観念的」とか「通俗」の一語で片づけられるものではない。柄谷さんも小谷野さんも、『邪宗門』に匹敵するほどの小説を、お書きになってご覧なさいとまでは言わないが、せめて3本、日本の今の文学シーンのなかで挙げてみていただきたい。中上健次以降に出てきた日本文学の中で、質量ともに『邪宗門』に比肩しうる作品といったら何ですか? まあ大江健三郎の『燃えあがる緑の木』は入るとしても、あとの2本は何ですかと。まさか『1Q84』じゃないよね? ……いやしかし、これはけっこう本気で訊いてみたいですね。
『邪宗門』は、1965年の1月から10月にかけて「朝日ジャーナル」に連載された作品で、太平洋戦争下の日本を舞台に、「ひのもと救霊会」という架空の教団(モデルがどこかは明らかですが)の誕生から壊滅に至るまでの経緯をつぶさに描いた壮大な叙事詩です。「政治」とは? 「宗教」とは? 「国家」とは? 「革命」とは? といったそれこそ「観念的」としかいいようのないテーマの数々を、小説という器の中で存分に描いた野心作といっていいでしょう。新潮文庫版が絶版となり、しばらく入手困難だったものを、朝日文芸文庫が1993年に出版し直し、たまたま1995年のオウム事件を受けてそこそこ版を重ねたようですが、今はまた入手困難となってます。同じく1990年代の半ばに河出文庫が「高橋和巳コレクション」という奇特な企画をやったんですが、どういうわけか『邪宗門』はその中に入ってなかったんですね(『悲の器』と『日本の悪霊』あたりはまだ在庫があるようですが)。
この『邪宗門』に関しては、福田和也が慶応大学での授業にテキストとして使っているらしく(ネット情報)、また宮台真司が「さいきん読み直してみたけど、やっぱりいい。」とツイッターにて述べたとか。政治的な立ち位置は真逆なのに、いずれも辛辣な物言いで知られる二人の論客が、これほど高く評価しているってのは、ちょっとただごとじゃないですね。ごく単純に、それこそ「通俗小説」として読んでも抜群に面白いし(「村上龍の何十倍も面白い」と言ってる方もネットの上で見かけました)、いまどきの若い人たちが手に取れば、ふだんほとんど考えたことのない(それでいて、じつは避けては通れない)さまざまな問題を考えるためのきっかけになるとも思うわけです。『邪宗門』がふつうに書店で手に入らないのは、日本社会の欠落というか、はっきりいって恥ではないか。だってほんとに、これほど重量感のある純文学ってなかなか見当たらないですからね、いま。
文学史的なパースペクティブにおいていうならば、早い話、高橋和巳はこのニッポンでドストエフスキーをやろうとしたわけですよ。もとよりそれは高橋さんが嚆矢じゃなくて、「第一次戦後派」と呼ばれた先達が何人もいたし、少し後の世代では初期の大江さんもそうなんだけど、大江さんは何しろ天才だから、「グロテスク・リアリズム」とか、そちらのほうに行ってしまった。そして文壇の主流はいわゆる「第三の新人」たち、すなわち安岡章太郎さんに代表されるような、日常を生きる猥雑な生活実感とか、卑小なる身体感覚のなかで小説の世界を作り上げていく人々の系譜へと移っていった。かくして、「政治」とは? 「宗教」とは? 「国家」とは? 「革命」とは? なんて大命題を高々と掲げて真っ向から文学を志すひとなんてのは、少なくとも「純文学」の範疇では、ほとんどいなくなりました(むしろ直木賞系にその理念を継ぐタイプがいたりして、じつは村上龍は、ぼくの基準ではそちらのほうに属します)。
小松左京さんは高橋和巳と京都大学で同期だったんですよ。あくまでも書かれたものから察するだけですが、「親友」なり「盟友」といっていい間柄だったと思います。あの頃の学生が、しかも京大で「一緒に活動していた。」といえば、それはとうぜん政治活動なわけで、その絆の強さは今の学生の感覚では想像を超えるほどでしょう。のみならずもちろん、文学においても二人は盟友であったわけです。影響を与え合っている。「第一次戦後派」が次々と一線から退いていくなかで、高橋和巳がひとり「純文学」の孤塁を守って奮戦し、あえなく力尽きていったのち、小松さんはSFというジャンルで彼のその「観念性」や「大きすぎた問題意識」や「志」を引き継ぎ、それを大衆レベルで存分に展開してみせた、という言い方もできるかもしれない。小松左京の死とともに、高橋和巳も、没後からきっかり40年を経て、もういちどここで死んだのかなあという気がしています。それはそれとして、『邪宗門』、どこかの出版社が復刊してくれないもんかなァしかし。
追記 2015年10月3日) 『邪宗門』(上下)は、河出文庫でめでたく復刊されました。いっぱい売れてりゃあいいんだけどなァ……。せめて火花の百分の一くらいなあ……。まあ無理だわなあ。無理だろうなあ。
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