ダウンワード・パラダイス

「ニッポンって何?」を隠しテーマに、純文学やら物語やら、色んな本をせっせと読む。

浦沢直樹の『20世紀少年』。

2015-10-21 | 映画・マンガ・アニメ・ドラマ・音楽









 浦沢直樹の『20世紀少年』は、トータルとしての完成度にはあきらかに難があり、その点においては「壮大なる失敗作」と呼ぶべきものだろう。しかし世の中には、「こじんまりまとまった成功作」より「壮大なる失敗作」こそが多くのひとに影響を与え、後世に残るということがある。
 ここに再掲する2本の記事は、テレビ放映された映画版に触発されて書いたものだ。本文でも強調しているとおり、あれは良い企画だった。ちゃんと原作の補完になっていた。
 『20世紀少年』のテーマは、
①1960年代から70年代初頭に澎湃(ほうはい)として湧き起こったヒッピー・ムーブメントやカウンター・カルチャーの精神(スピリット)。

 と、
②80年代以降の高度資本主義、もっとあっさりいうなら商業主義。

 とのあいだに横たわるあまりにも大きな断絶にある。この作品で浦沢さんは、その問題を「ロック」に集約して、正面きって取り上げた。それはあの時代に幼少年期を送った表現者としてとても真っ当な態度だと思う。作品としては遥かにきれいに纏まっている『PLUTO』(全8巻)よりも、ぼくが『20世紀少年』のほうに拘ってしまうのはそのせいだ。それでは本編、どうぞ。


☆☆☆☆☆☆☆☆

完成させたジグソーパズル・映画版「20世紀少年」
初出 2010年08月28日


 金曜ロードショーで三週にわたって放映された「20世紀少年」はよかった。最初の回こそ「ふーん、生身の俳優によるそっくりショーか。」みたいな気分で見ていたけれど、二週目の後半あたりからだんだん面白くなってきて、最終回のラストのエピソードでは、ちょっぴり感動に近いものすら覚えた。

 あれだけ大規模で悪逆非道な「人類滅亡計画」の発端が小学生のときの駄菓子屋での万引き騒ぎだったなんて、原作を知らない人が観たら、拍子抜けというより「ふざけんな」って気分になったろうと思うが、かつて原作の『20世紀少年』の単行本を発売日になるたび買って帰って、晩飯もそっちのけで一気読みしていたぼくにとっては、あの映画版(劇場公開とはまた別の編集らしいから、テレビ版というべきか)は原作の見事な要約であり補完であると思えたのだった。

 ただ、「晩飯もそっちのけで一気読みしていた」のはせいぜい16巻くらいまでで、そのあとは急速に熱が冷めていった。「ともだち」が再三にわたって死んだかと思うとまた生き返り、しかもそれらがぜんぶ筋書き通りで、そのたびに主要な登場人物たちが振り回される。思わせぶりな伏線はあれこれと張り巡らされるものの、一向に回収される気配はなく、いくつかの重大な疑問が解答を与えられぬまま置き去りにされ、挿話の一つ一つに矛盾や齟齬が生じてきて、それが作者の計算なのか、作品そのものの設計ミスなのかが判然としない。そんな感じになってきた。単純にいえば、「破綻を来たした」ってことだろう。

 いうまでもなく絵はうまい。テーマの重さ、世界設定の壮大さも群を抜いている。「MONSTER」で鍛えたストーリーテリングも円熟の境地といっていい。それなのに、いや、それゆえにこそいろいろな要素を詰め込みすぎて、作り手自身にも制御できなくなった。ぼくにはそう思えたし、世間の評価も概ねそんなところだと思う。強引ともいうべき展開のあげく、物語は唐突な大団円を迎え、あれこれ物議をかもしたのちに、「最終章」と銘打った『21世紀少年 上・下』が出たが、ぼくはもうこの二冊を買わなかった。それから長いあいだ、ぼくの中では『20世紀少年』は過去のものとなっていた。

 『20世紀少年』のテーマについては、この作品の後に描かれた浦沢さんのもう一つの代表作『PLUTO』第6巻の巻末にある山田五郎の文章が的確に語っている(ちなみに『PLUTO』は、「鉄腕アトム」の中のエピソード《地上最大のロボット》の素晴らしいリメイクであり、手塚マンガへの敬意あふれるオマージュである。この名作にハリウッドから映画化のオファーが来ないのはおかしい……といま書きかけて、いや、当たり前かと思い返した。『PLUTO』は、イラク戦争というアメリカの暴虐が生んだ悪夢をテーマにしているのだから……)。

 山田さんはこう書く。「物心がつくと同時にこの名作(鉄腕アトム)と出会い、アトムと超人、ゴジラとウルトラマン、新幹線やアポロ11号、王・長嶋に馬場・猪木、学生運動とウッドストックなどなどに胸ときめかせて育った私たちは、科学とヒーローと革命とロックを、最も無邪気に信じた世代といえる。だが、《銀色の未来 @岡田斗司夫・58年生まれ》の幕開けとなるはずだった70年の大阪万博と共に幸福な夢は終わりを告げ、思春期を迎えた私たちを待っていたのは、科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと堕して行く現実。…………そんな私たちが中年にさしかかり、このままでいいのかと悩みはじめたときに、《自分たちが信じた未来を取り戻そう》と訴えたのが、浦沢の『20世紀少年』だ。」


 2年前に初めて読んだ時にも深く感じるものがあったが、いま書き写していて、「科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと……」のくだりでまたジーンときた。ぼくはこの一文を草した山田氏や浦沢氏よりももうちょっと下の世代だが、いろんなものがきらきらと輝いていた時代のかすかな思い出は残っているし、それらがたちまち薄汚れた「リアル」にまみれていった光景というのも、ひょっとしたら後付けの記憶なのかも知れないが、覚えがあるような気がするのだ。

 夢や希望をどこかに忘れてこんな世界を創ってしまったのは「私たち」なのだから、ほんとうは、映画版でヨシツネが演説していたとおり、「《ともだち》とはぼくたちみんなのこと。」なんだろうけど、原作では、ミステリーの手法でその点に読者の興味を集めすぎたがゆえに、「ともだちとは誰か?」が、作品そっちのけで侃侃諤諤、ネット上などで論じられることにもなってしまった。しかし先にも記したとおり、ストーリー自体がすでに破綻を来たしていたために、論戦のほうもさほど実りあるものとはならなかったように思う。

 そんな「偉大なる失敗作」を、骨太のテーマに沿って抜き出し、余計な枝葉を削ぎ落として、ダイジェスト風に再構築したのが映画版(テレビ版)であり、その試みは十分に成功したとぼくは思う。エピソードの緻密さではむろん原作に及ばないにせよ、作品としてはこちらのほうが優れているのではないか。ことにラスト、ヴァーチャルマシンで過去に戻ったケンジが(何だかアレがタイムマシンみたいに扱われてるのは、元SFマニアとしては苦笑を禁じえないんだけど、それはそれとして)、学校の屋上で、中学時代のフクベエ(ではなくカツマタくんなんですね、じつは)にアドバイスをして、同じく中学生の自分自身と「ともだち」……じゃなくて、「友達」になる手助けをするところがとてもよかった。

 その直前にカツマタくんは、ケンジが放送室をジャックして、(ポール・モーリアの「エーゲ海の真珠」のかわりに)掛けたT・レックスの「トゥエンティー・センチュリー・ボーイ」を耳にすることで、飛び降り自殺を思い留まっている。この挿話があればこそ、覆面をした「ともだち」が、「僕こそが20世紀少年だ。」とうそぶくシーンが生きるわけだし、何よりも、作品の冒頭にわざわざ置かれたこのエピソードが、決定的な意味を持って浮かび上がってくるわけである。「ロックを通じてぼくたちは心の底から分かりあえる(ってことが真剣に信じられてた時代があって、それは青くさい夢想みたいに葬り去られてしまったけど、じつはほんとに今だって、きっとぼくたちはロックを通じて心の底から分かりあえるはずだぜ!)」ということこそが、この作品に秘められたメッセージなんだから。

 それでもやっぱり、この物語全体が荒唐無稽で空疎きわまると思う方がおられたならば、こんな解釈はどうだろう。実は「ともだち」ことカツマタくんは子供の頃のいじめ体験のせいでうまく大人になれぬまま、すっかり病んで壊れており、あの地獄絵図のような未来のすべてが、成長した彼の頭のなかの妄想だとしたら? そして、なにかのきっかけでそのことを知ったケンジが、過去の自分を反省し、どうにかして彼の憎悪や怨念を解いて、現実の世界と和解させようとする奮闘のプロセスが、真の「20世紀少年」だとしたら?

 つまりあの映画で描かれたのは、壊れたままで成長してしまったカツマタくんの脳内に渦巻く妄想を、ドラマチックにビジュアライズしたものだったということだ。これだと壮大なる夢オチみたいな話になっちゃうけど、そんな解釈の含みを持たせた点でも、かえって映画版のほうがよかったと思う。原作は妙に細部を作りこんでいる分、「夢でした。」のような逃げが許されない雰囲気がある。

 ともあれ、浦沢=長崎コンビが真摯な問題意識(と露骨な商業主義)にのっとって広げに広げた大風呂敷を、使えるピースだけうまくピックアップしてきれいに組み上げたジグソーパズル、それが映画版『20世紀少年』だといっていいんじゃなかろうか。


☆☆☆☆☆☆☆☆

『20世紀少年』の正しい読み方。
初出 2010年10月13日


 金曜ロードショーで三回にわたって放映された映画版が思いのほか面白かったので、押し入れの奥に詰め込んであった『20世紀少年』全22巻を読み直し、余勢を駆って完結編の『21世紀少年』上下も、3年遅れで買って読んだ。ただし正価ではなく、有名大手古書チェーン店にて、二冊あわせて七百円也。新刊で買う気はしなかった。それくらい、かつて味わった失望が大きかったのだ。四年前、巻を追うごとに展開が強引になっていくのを危ぶみながら読み継いできたのだが、果たして、22巻での大団円があまりに乱暴だったので、最後まで律儀に付き合ったのを後悔し、もうちょっとで売り払うところだった。『21世紀少年』上下を加えて「全24巻」を読了した今、早まらなくて良かったと思う。やっとこの作品の正しい読み方が分かったのである。

 えーと、このマンガに関してはいまさらネタバレ禁止でもないと思うが、もし未読の方がおられたら、ここから先はくれぐれもご注意のほど。

 ともだち①=フクベエが小学校の理科室でヤマネに撃たれて死んだあと、ともだち②=世界大統領に成りすましていたのはカツマタくんであったわけで、この二人は教団の結成当初から二人三脚で行動していたばかりか、随時入れ替わってもいたらしいのだが、肝心のカツマタくんに関する伏線がまったくといっていいほど張られていないため、ラストでいきなり「じつはカツマタだったんですよー」と言われても、唖然とするほうがふつうである。第一、どうして彼ら二人が完全に同じ顔をして、背格好や体型ばかりか、声までも瓜二つなのだろう。作中では何度か、登場人物の台詞を借りて「整形」の可能性が強く示唆されているが、ネット上では「双子」説も根強くある。

 仮にフクベエとカツマタくんとが医学的に一卵性双生児であった場合、成人した後の行状はどうにか辻褄が合うとして、小学生および中学生の時のことが説明できない。なぜ姓が違うのか。なぜカツマタくんは、サダキヨのように一学期だけで転校したわけでもなく、中学まで一緒だったにも関わらず、みんなから本当に「死んだ」と認識されていたのか。何よりも、フクベエとの関係はどうなっていたのか。理屈を付ければ付けられないことはないにせよ、どうしても牽強付会の感は拭えない。さりながら、ぼくは、やはりフクベエとカツマタくんとは「双子」であったと解釈している(さらにいえば、ユング派心理学でいうところの「影(シャドー)」としてのサダキヨをも含め、チョーさんメモにもあるとおり、彼らはいわば、三人で一人の「三つ子」だったと言ってもよい)。

 そもそもこの物語において、少年時代のケンヂたちにとっての「悪」の象徴がヤン坊マー坊という双子であったことを思い起こしていただきたい。ヤン坊マー坊は青年期においてスマートなIT企業の経営者として姿を見せるが、「血の大みそか」のあと、リバウンドで太って再登場してからはコメディーリリーフみたいな役どころとなって、一定の距離を置きながらも、ケンヂ側の仲間になってしまう。確かに彼らはガキ大将であり苛めっ子だったが、その悪童ぶりはむしろ陽性のもので、きわめて分かりやすかった。いっぽうフクベエは、友達(ヤマネとサダキヨ)を集めて首吊りの真似事をし、そこから復活する様を見せつけて自らを崇拝させようと試みるなど、やることが子供離れしていて末恐ろしい。その自己顕示欲と支配願望と知能の高さは尋常ではなく、ドンキーが「あいつは悪の帝王になる。」と予見するのも宣なる哉といえる。

 つまりこの作品のコードにおいては、「双子」が「悪」の役割を担うのだが、それが冒頭から表に出ていたヤン坊マー坊ではなくて、裏に潜んでいたフクベエ+カツマタくんであったというのがミソなのだ。そういった作品の構造からの読解として、彼らは「双子」と見なすべきなのである。大体これは「本格科学冒険漫画」であるからして、現実との照応を一つずつ生真面目に求めていっても仕方がない。それはケンヂが大爆発から生還した理由がまったく語られなかったり、カンナのもつ超能力の説明が、「秘薬を投与したからね。」というひとことであっさり片付けられていることからも分かる。リアリズムを棚上げにして、比喩ないし象徴として飲み込まなくてはならない部分がまことに多く、フクベエとカツマタくんとが「双子」であるということは、その中の最大の要素だといえる。

 『20世紀少年』の正しい読み方は、細部の整合性や現実との照応にこだわることなく、圧倒的な画力と構想力が織り成す大法螺に酔い痴れながら、浦沢=長崎コンビが打ち出した壮大なテーマを追認することだ。『20世紀少年』のテーマについては、この作品の後に描かれた『PLUTO』第6巻の巻末にある山田五郎さんの文章が的確に語っている。「……アトムと超人、ゴジラとウルトラマン、新幹線やアポロ11号、王・長嶋に馬場・猪木、学生運動とウッドストックなどなどに胸ときめかせて育った私たちは、科学とヒーローと革命とロックを、最も無邪気に信じた世代といえる。だが、《銀色の未来》の幕開けとなるはずだった70年の大阪万博と共に幸福な夢は終わりを告げ、思春期を迎えた私たちを待っていたのは、科学が公害、ヒーローが有名人、ロックがビジネス、革命がテロへと堕して行く現実。…………そんな私たちが中年にさしかかり、このままでいいのかと悩みはじめたときに、《自分たちが信じた未来を取り戻そう》と訴えたのが、浦沢の『20世紀少年』だ。」

 そう。つまり『20世紀少年』とは、「世を席捲しているニセモノを、不遇をかこつホンモノが打ち破る話」なのである。ニセモノは目立ちたがりで、扇情的で、エキセントリックで悪意に満ちているゆえに、大衆の俗情と結託して持て囃される(いまのテレビを賑わせている顔ぶれを思い浮かべて下さい)。いっぽうホンモノは、地味で、愚直で、ちっともカッコよくなくて、ちょっと小ずるいところはあっても根は善良で、しかも純情なうえに不器用だからまるで冴えない。しかしそれこそが、ただの「有名人」ではない真の「ヒーロー」なのであり、そんなヒーローの歌う曲こそが、ただの「ビジネス」ではない真の「ロック」なのである。しかし、そんな真実の歌が人々の胸に響きわたるためには(「ウッドストック」のあの昂揚が21世紀に甦るためには)、背景として、あれだけの地獄絵図が不可欠であったということなのだ。とはいえ、ふたりの「ともだち」が引き起こしたあの黙示録の世界も、比喩ないし象徴としては、ぼくたちの生きた20世紀そのものの荒涼たる精神風景を示していると言えなくもない。

 この作品の中で「正義」の側に立つのはホンモノ(=オリジナル=リアル=日常=科学)であり、「悪」の側に立つのはニセモノ(=コピー=インチキ=トリック=ウソ=ズル=ヴァーチャル=超能力)である。ヴァーチャルアトラクションの中でカツマタくんが常にのっぺらぼうとして表象されるのは、(サダキヨにはまだしも大人の顔があったけれども)カツマタくんは本当に「顔」を持たないからだ。彼は「ホンモノ」(ケンヂ)のコピーでありインチキな超能力者であるフクベエの、さらなる「コピー」としてしか生きられない。

 そのような彼が「僕こそが20世紀少年だ。」と名乗りを挙げるのであれば……20世紀がそのような時代であったというのであれば……『20世紀少年』の最終章が、わざわざ『21世紀少年』と改題されたのも頷ける。それはニセモノとしての20世紀少年が滅びたのちに、新しく再生してくる「ホンモノ」の称号でなければならないだろう。とはいえそれが、ケンヂを指すのかどうかは分からない。ケンヂは笑ってそんな美名を拒むだろうし、むしろ実際のこの時代に少年なり少女として生きている、文字どおりの「21世紀少年」たちのことなのかもしれない。そういえば、サナエとカツオという愛すべきキャラクターもいたわけだし、後世に希望をつなぐのは、けして悪いことじゃあないだろう。




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